おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

ローカル私鉄の旅。その26。上毛電鉄。その3。

2023-08-24 18:44:18 | ローカル鉄道

雲に覆われて、残念ながら赤城山の裾野のみしか見えません。

「上泉駅」を過ぎると、「桃ノ木川」を渡ります。

※「桃ノ木川」

群馬県前橋市、その中央部に桃ノ木川が流れている。一見、赤城山を源流とする自然河川と錯覚するが、実は利根川を分流する農業用水路である。その水源は昭和村の綾戸ダムであり、渋川市の佐久発電所に導水して電気を起し、その放流水を桃ノ木川と広瀬川に取り入れている。

 したがって広瀬川も桃ノ木川と同じ兄弟川である。この二つの川は、前橋市の北部で「広桃用水制水門」のゲートで分流されて、それぞれの役目を果たす旅に出る。それぞれの特徴を考えてみよう。まず桃ノ木川は最初から農業用水として前橋市東部の広大な田園を潤し、両毛線の駒形駅近くで広瀬川に合流する。川の長 さはたったの15kmにもかかわらず、その間、幾筋もの分水・合流を繰り返し、赤城山からの自然河川をもあわせて、その存在感は侮れない。一方の広瀬川は、前橋市街地にある4箇所の発電所で電力を生み出し、市街地を離れて前橋市南西部の田園を潤す。桃ノ木川と合流してから尚、下流域を網の目のように分流合流を繰り返して農業用水の使命を果たし、最終的には伊勢崎市境平塚で利根川に帰還する。(「群馬風便り」HPより)

「赤坂」。

「上武道路(国道17号線)」。

「上武道路(じょうぶどうろ)」

埼玉県熊谷市西別府上武インターチェンジ深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである。上武国道(じょうぶこくどう)や上武バイパスとも呼称される

国道17号 現道は中山道で、埼玉県熊谷市深谷市本庄市・群馬県藤岡市高崎市等を経由して前橋市へ向かう。しかし渋滞が多く、そのバイパスである深谷バイパスも渋滞するため、それらの根本的解決を目的として計画されたのが当バイパスである。地域高規格道路熊谷渋川連絡道路」の一部として整備されるため、熊谷市 - 前橋市間をなるべく短距離で結んでおり、本庄市や、藤岡市、高崎市を通らずに群馬県太田市伊勢崎市等を経由する。

「心臓血管センター」。   

  • 昭和40年9月8日 前橋病院前信号所として開設。
    平成6年4月10日 循環器病センター駅として旅客営業開始
    平成13年6月1日 病院の改名により、現駅名に変更。

         奥には「群馬県立心臓血管センター」。

          ぐんまリハビリ パーク「猿橋」。

      

          南方向。

             関東平野が広く大きく広がっています。

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ローカル私鉄の旅。その25。上毛電鉄。その2。

2023-08-24 18:31:46 | ローカル鉄道

ホームのようす。

夏休み・平日のせいか、乗客は少ない。

車内には魚がいっぱい描かれています。

「走る水族館」。

               海なし県なりの工夫。子供たちが描いた絵が一面に。暑い夏にはふさわしい企画。

しばらく市街地を走る。

「城東(じょうとう)」。

  • 開業時は「一毛町」駅で、平成6年4月10日に駅名変更。

車内のようす。経営的に厳しい印象。

「三俣(みつまた)」。     

  • 開業時は停留所で昭和31年8月25日、自動信号化に伴い、300m西桐生方面に移設し、停車場に改良。

※「停留所」と「停車場」の違い

「停留所」とは、乗客の乗降りの為に路面電車が停車する、鉄道で言う「駅」に相当する場所、またはバスが同様にその為に停車する場所を指して使う言葉。

「停車場」とは、鉄道が停車することができる場所の総称。

旅客鉄道において、乗客が乗降りできる各駅や、単線の路線で上下の列車がすれ違う為に停車する場所、または点検などの為にそこに留めると決まっている場所など、停車が可能な場所。

ということは、この駅はかつて「路面電車」扱いで簡易な駅舎のみ?  

 

「片貝(かたかい)」。

                   群馬県立前橋高校の最寄り駅。

※群馬県立前橋高等学校

1877年(明治10年)9月、東群馬郡曲輪町(現・前橋市大手町)の旧前橋城内に設立された公立の第17番中学利根川学校をルーツとする。その後、1879年(明治12年)6月に利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。その後さらに名称、設置場所などの幾多の変遷を経て、1901年(明治34年)4月に群馬県立前橋中学校となる。1948年(昭和23年)、学制改革によって、群馬県立前橋中学校は群馬県立前橋高等学校と改称、改編。4年後の1952年(昭和27年)、失火により、校内建築物は講堂と体育館を除いて全焼したが、まもなく再建された。当時の校舎復興に尽力した生徒の母親達の組織が「前橋高校母の会」として残り、PTAとは別に現在も活動中である。1979年(昭和54年)、天川地区の区画整理事業によって校地南側の道路が拡幅されることに伴い、校庭が道路用地として大きく削られることになったため、前橋市下沖町に新築移転した。なお、移転の際、生徒達が前橋高校の校旗を先頭として、自分の使う机を担ぎながら、文京町から下沖町まで移動した。

卒業生に多くの有名人を輩出している。

(この項、「Wikipedia」より)

    <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/8f/f41070322cf2f70598cb329f81f17f37.jpg">老人の利用者が目立つ。

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