昔は反覇権主義の国
ひと昔前、いや、ふた昔前の話になるだろうか。かつての中国は「反覇権主義」を標榜する国だった。若い人にはなじみの薄い語かもしれないが、中国の唱えていた「反覇権」とは、アメリカなどの大国が軍事力を背景に世界秩序を決めてしまうことに反対する、というもの。米ソ2大勢力圏に属さないアジア・アフリカ諸国は第三世界と呼ばれ、そのリーダーシップを発揮しようと中国が「反覇権」を唱えたのである。
そして現在、中国指導部が、この言葉を口にすることはない。「太平洋は広い。貴国と(太平洋の権益を)二分しようではないか」とアメリカに持ち掛ける一方、東・南沙諸島ではベトナムやフィリピンの領海を軍事力で侵している。覇権主義そのものへと豹変した中国を、当時、誰が予想し得ただろうか。
中国の辞典にない「中華思想」の項目
中華思想とは、東西南北の四囲に東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)といった「化外(けがい)の民」がいて、世界の中心は漢民族が暮らす中原(ちゅうげん)の地とする捉え方だ。「化外の民」たる日本人の1人としては、この4文字に傲岸不遜な大国主義を感じざるを得ない。
ところが意外なことに、元来中国ではなじみの薄い言葉だという。中国文学者の竹内実氏によれば、中国の簡便な百科事典である『辞海』(上海辞書出版社刊)には「中華思想」の項目がない(『新版中国の思想』、NHKブックス)。そのかわり「中華思想」に相当するものとして「華夏(かか)」の項目がある。竹内氏が論じているのは1989年版の『辞海』だが、資料としての古さや編集ミスが理由ではなく、もともと中国人は「中華思想」より「華夏」の語に親しみを覚えるためらしい。現に国名に使われている「中華」より身近に思うというのは理解しにくいが、孫文が当時聞き慣れない「中華」の語を使って「中華民国」としたのは1912年のことだから、4千年の歴史の方が中国国民にとって重みも親しみもある、ということかもしれない。
もともとは故郷賛美
「華夏」の「夏」は中国最初の漢民族王朝の名。紀元前2070年頃から約470年にわたり黄河中下流域の、中原と呼ばれる穀倉地帯に栄えた。長く伝説上の国家とされてきたが、近年、河南省二里頭村で二里頭遺跡が発掘調査され、王朝の実在が確認された。
中華思想の語には「華夷思想」の同義語もある。字面(じずら)からも中華思想に近い言葉であることは分かる。一方、「華夏」は文字通り「華やかな夏王朝」を意味するが、「夏」自体にも「大きい、盛ん」「中国で自国を称する語、中華」の意味がある(『新漢語林』、大修館書店刊)。つまり「華」と「夏」は同義。注意すべきは、自分たち漢民族の国や都を称賛する語であって、「夷」を蔑(さげす)む意味がない、あるいは希薄である点だ。しかし蔑まずとも漢民族の称賛は「何か」と比較するからであり、結果的に「何か」を低く見ることになる。それでも「華夏」は、その範囲にとどまる中華思想であった。
たとえば「日本は美しい」と言う。他国と比較するつもりはなくても、他の国は日本ほど美しくない、いう意味を言外に含んでしまう。日本武尊の「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし」という望郷の思いからは、東征の困難さと東国の地に懐(いだ)いた違和感が感じ取れる。苦しい経験のぶんだけ「倭しうるわし」という望郷の念は強くなったはずだ。夏王朝の兵士たちにしても、寒冷の荒野で精強な北方匈奴と戦い、疲れ果てて緑濃い中原の地へ戻れば、「華夏」は美しいと思うに違いない。「華夏」の言葉それ自体は誰もが心に懐(いだ)くはずの、自国や古里へ寄せる感情の発露であった。
時代で変わる言葉の意味合い
このような思いも平和の時代には穏やかな感情のうちに治まる。ところが軋轢(あつれき)の時代には、他国を比べ謗(そし)る要素が強くなる。言葉が変容するのである。匈奴防衛策として万里の長城を築いた秦王朝の時代、当然ながら北方民族への憎しみは強くなった。漢王朝を経て、いわゆる五胡十六国(4―5世紀前半)の時代には、侵入して国をうち立てた北方民族との間に混血が進み、漢民族と夷狄を平等とみる「夷華同一思想」が生まれた。唐の太宗は北方民族の突厥(とっけつ)を破ると、みずからハーンの地位に就いて北方の王を兼ねた。征服してしまえば、その地の民を侮蔑し続けることに意味はなくなる。
ところが宋王朝(南北で10―13世紀)の時代、北方異民族の勢いが再び盛り返す。北方民族を統制できなくなるばかりか、毎年のように多額の贈与金を支払う立場に追い込まれた。過去は漢人王朝の側が四夷の民に朝貢させていたのだから、立場の逆転である。屈辱であり、腹立たしい事態。このため宋代には「華夷思想」が再燃した。司馬光が宋代に編纂した歴史書『資治通鑑(しじつがん)』の内容に、その影響を指摘する研究者もいる。
ちなみに、これら「北狄」に対する変化と、日本など「東夷」へのまなざしとは異なる。
<個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らない。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた……>(『史記列伝』のうち「匈奴列伝」、筑摩書房)。敬老の念が薄い「北狄」には手厳しい。
<『礼記』王制篇に「東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえ言われる。(中略)そこで孔子は居住しようと望んだ>(『東アジア民族史1正史東夷伝』から「後漢書東夷伝」、平凡社東洋文庫)。「東夷」は道理と君子の国、孔子さえも「住みたい」と願った国だと手放しの褒(ほ)め方だ。
これからの「中華思想」
どの国、どの時代でも民族意識は、危機に直面した民族がみずからを鼓舞しようとして高め、また高まるものだ。孫文が清朝を打倒して中華民国を建国する際に「中華」の2字を使った理由は、危機に際して民族意識を国民に覚醒させ、高揚させる意図からであった。そこには宋の漢人たちに通じる、孫文の思いが感じ取れる。
このように歴史を振り返りつつ、現在の中国を歴史という鏡に映せば、どんな姿が見えてくるか。かつて排した「覇権主義」に乗り換え、宋王朝時代のような「中華思想」が加われば、とんでもない危険国家になるだろう。成長著しい現在の中国は、世界の列強の一員に加わらんと力んだ、かつての日本の姿に似ている。
ひと昔前、いや、ふた昔前の話になるだろうか。かつての中国は「反覇権主義」を標榜する国だった。若い人にはなじみの薄い語かもしれないが、中国の唱えていた「反覇権」とは、アメリカなどの大国が軍事力を背景に世界秩序を決めてしまうことに反対する、というもの。米ソ2大勢力圏に属さないアジア・アフリカ諸国は第三世界と呼ばれ、そのリーダーシップを発揮しようと中国が「反覇権」を唱えたのである。
そして現在、中国指導部が、この言葉を口にすることはない。「太平洋は広い。貴国と(太平洋の権益を)二分しようではないか」とアメリカに持ち掛ける一方、東・南沙諸島ではベトナムやフィリピンの領海を軍事力で侵している。覇権主義そのものへと豹変した中国を、当時、誰が予想し得ただろうか。
中国の辞典にない「中華思想」の項目
中華思想とは、東西南北の四囲に東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)といった「化外(けがい)の民」がいて、世界の中心は漢民族が暮らす中原(ちゅうげん)の地とする捉え方だ。「化外の民」たる日本人の1人としては、この4文字に傲岸不遜な大国主義を感じざるを得ない。
ところが意外なことに、元来中国ではなじみの薄い言葉だという。中国文学者の竹内実氏によれば、中国の簡便な百科事典である『辞海』(上海辞書出版社刊)には「中華思想」の項目がない(『新版中国の思想』、NHKブックス)。そのかわり「中華思想」に相当するものとして「華夏(かか)」の項目がある。竹内氏が論じているのは1989年版の『辞海』だが、資料としての古さや編集ミスが理由ではなく、もともと中国人は「中華思想」より「華夏」の語に親しみを覚えるためらしい。現に国名に使われている「中華」より身近に思うというのは理解しにくいが、孫文が当時聞き慣れない「中華」の語を使って「中華民国」としたのは1912年のことだから、4千年の歴史の方が中国国民にとって重みも親しみもある、ということかもしれない。
もともとは故郷賛美
「華夏」の「夏」は中国最初の漢民族王朝の名。紀元前2070年頃から約470年にわたり黄河中下流域の、中原と呼ばれる穀倉地帯に栄えた。長く伝説上の国家とされてきたが、近年、河南省二里頭村で二里頭遺跡が発掘調査され、王朝の実在が確認された。
中華思想の語には「華夷思想」の同義語もある。字面(じずら)からも中華思想に近い言葉であることは分かる。一方、「華夏」は文字通り「華やかな夏王朝」を意味するが、「夏」自体にも「大きい、盛ん」「中国で自国を称する語、中華」の意味がある(『新漢語林』、大修館書店刊)。つまり「華」と「夏」は同義。注意すべきは、自分たち漢民族の国や都を称賛する語であって、「夷」を蔑(さげす)む意味がない、あるいは希薄である点だ。しかし蔑まずとも漢民族の称賛は「何か」と比較するからであり、結果的に「何か」を低く見ることになる。それでも「華夏」は、その範囲にとどまる中華思想であった。
たとえば「日本は美しい」と言う。他国と比較するつもりはなくても、他の国は日本ほど美しくない、いう意味を言外に含んでしまう。日本武尊の「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし」という望郷の思いからは、東征の困難さと東国の地に懐(いだ)いた違和感が感じ取れる。苦しい経験のぶんだけ「倭しうるわし」という望郷の念は強くなったはずだ。夏王朝の兵士たちにしても、寒冷の荒野で精強な北方匈奴と戦い、疲れ果てて緑濃い中原の地へ戻れば、「華夏」は美しいと思うに違いない。「華夏」の言葉それ自体は誰もが心に懐(いだ)くはずの、自国や古里へ寄せる感情の発露であった。
時代で変わる言葉の意味合い
このような思いも平和の時代には穏やかな感情のうちに治まる。ところが軋轢(あつれき)の時代には、他国を比べ謗(そし)る要素が強くなる。言葉が変容するのである。匈奴防衛策として万里の長城を築いた秦王朝の時代、当然ながら北方民族への憎しみは強くなった。漢王朝を経て、いわゆる五胡十六国(4―5世紀前半)の時代には、侵入して国をうち立てた北方民族との間に混血が進み、漢民族と夷狄を平等とみる「夷華同一思想」が生まれた。唐の太宗は北方民族の突厥(とっけつ)を破ると、みずからハーンの地位に就いて北方の王を兼ねた。征服してしまえば、その地の民を侮蔑し続けることに意味はなくなる。
ところが宋王朝(南北で10―13世紀)の時代、北方異民族の勢いが再び盛り返す。北方民族を統制できなくなるばかりか、毎年のように多額の贈与金を支払う立場に追い込まれた。過去は漢人王朝の側が四夷の民に朝貢させていたのだから、立場の逆転である。屈辱であり、腹立たしい事態。このため宋代には「華夷思想」が再燃した。司馬光が宋代に編纂した歴史書『資治通鑑(しじつがん)』の内容に、その影響を指摘する研究者もいる。
ちなみに、これら「北狄」に対する変化と、日本など「東夷」へのまなざしとは異なる。
<個人的利益だけに関心をもち、礼儀とか道義とかを知らない。若者たちがうまいものを食べ、老人たちはその残り物を食べた……>(『史記列伝』のうち「匈奴列伝」、筑摩書房)。敬老の念が薄い「北狄」には手厳しい。
<『礼記』王制篇に「東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえ言われる。(中略)そこで孔子は居住しようと望んだ>(『東アジア民族史1正史東夷伝』から「後漢書東夷伝」、平凡社東洋文庫)。「東夷」は道理と君子の国、孔子さえも「住みたい」と願った国だと手放しの褒(ほ)め方だ。
これからの「中華思想」
どの国、どの時代でも民族意識は、危機に直面した民族がみずからを鼓舞しようとして高め、また高まるものだ。孫文が清朝を打倒して中華民国を建国する際に「中華」の2字を使った理由は、危機に際して民族意識を国民に覚醒させ、高揚させる意図からであった。そこには宋の漢人たちに通じる、孫文の思いが感じ取れる。
このように歴史を振り返りつつ、現在の中国を歴史という鏡に映せば、どんな姿が見えてくるか。かつて排した「覇権主義」に乗り換え、宋王朝時代のような「中華思想」が加われば、とんでもない危険国家になるだろう。成長著しい現在の中国は、世界の列強の一員に加わらんと力んだ、かつての日本の姿に似ている。
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