斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

6 【Take my hand.take my whole life too.】

2016年10月28日 | 言葉
 魅力的な原詞の世界
 若い頃、神田の古本屋街に出掛けてはジャズやポップスの英語詞に関する本を探して歩いた。英語詞に興味を覚えた理由は、日本とアメリカとの歌詞の作り方の違いだった。アメリカの歌詞は具体的でシンプル。韻を踏むこともあるが、レトリック(修辞)といえばそれぐらいで、日本の歌詞のように言葉を飾ることがない。もともと英語はシンプルな言語で、1つの事象を幾通りにも言い分ける日本語のような繊細さには欠ける。それでいてジャズやポップスの英語詞は情感豊かに、かつ雄弁に語りかけて来るものが多い。なぜだろうかと考えた。

 テネシー・ワルツ
 日本人にもよく知られた曲に『テネシー・ワルツ』がある。<I was walzing(dancing) with my darling>から<My friend stole my sweet-heart from me>までの前半は、友人に恋人を奪われた経緯を物語ふうに簡潔に綴っている。後半の<I remember the night and the Tennessee Waltz>以下は、前半のダンスパーティーの夜を思い出しつつ悔いる場面。やはり飾り気のない素朴な言葉ばかりだが、恋人を友人に奪われた夜の出来事が映画のワンシーンのように生き生きと描かれ、聴く人の心に残るから不思議である。
 ちなみに江利チエミさんは後半から<去りにし夢 あのテネシー・ワルツ……>と、和訳した歌詞も歌っていた。アメリカなら幼児さえ理解できそうな<I remember the night and……>のフレーズと、文語調でいかにも日本語詞らしい<去りにし夢……>は対照的だ。著作権法の制限があるので長くは引用できないが、訳詞は原詞に比べると美文調で抽象的。どちらの良し悪し以前の問題として、日本語と英語は本質的に違う。大げさに言えば言語が文化や国民性に及ぼした好例であるようにも思える。
 ともかくもシンプルな表現に、かえって想像力は掻(か)き立てられるから楽しい。前半の出来事と後半の回顧場面との<I=わたし>の年齢に、想像をめぐらせてみた。前半は二十代、でなくとも若い頃だろう。問題はテネシー・ワルツの曲を懐かしむ後半である。恋人と別れて5年後のことか、10年後のことか。50年後、60年後を想像してみたら、どうだろう。70歳、80歳のご老人が「あの夜、恋人を友人に紹介しなければ、私の人生は違うものになっていたはず」と回顧する場面の方が、しみじみとした興趣がわく。

 Take my hand.take my whole life too.
 さて、この原詞を見て曲名を言い当てられる人は、結構多いかもしれない。それほど、よく知られたヒット曲だ。エルビス・プレスリーのほか多くの歌手が歌った『好きにならずにいられない(Can‘t Help Falling In Love)』。プレスリー主演の映画『ブルー・ハワイ』(1961年公開)の主題歌だった。そのうちの1フレーズが<Take my hand.take my whole life too.>である。
 プレスリーの歌らしく情熱的に、真摯に女性に迫る言葉が続くが、やはり英語詞らしく言葉はシンプルで具体的。ただ、積極的、能動的な全体のトーンに反して、このフレーズだけが消極的、受動的なので違和感を抱いた。直訳すれば<わたしの手を取って 私の人生も全部そっくり掴(つか)み取って>。激しく迫っていた男が、一転して受け身になる印象だ。「私の手を取って」では母親にすがる幼児のイメージに重なる。
 最初は<take>に「取る」や「獲得する」「受け容れる」以外の意味があるのかと考えて辞書を調べたが、他に意味はない。「take one‘s hand」も、特別の意味を持つ熟語ではないようだ。そんな時、パティ・ペイジが歌う『好きにならずにいられない』を聴いて、妙に納得した気持になった。

 女性の側からの<take my whole life too.>?
 今の時代、いや昔だって同じだろうが女性の側から男性に迫っても不自然ではない。ただ、それなりに頑張らないと、なかなか女性では強く迫れないかもしれない。いちばん大切な部分で語調が少しだけ弱まる瞬間があっても不思議ではあるまい。プロポーズの瞬間や言葉などは、そんなケースだろう。男性なら「ここぞ」とばかりに力を入れるべき部分でも、女性では少しだけ声が小さくなりそうだ。パティ・ペイジが<Take my hand.take my whole life too.>と歌うハスキーボイスを聴いて、妙に納得した気分になったのは、そのような理由からだった。
 それにしても、と思う。シンプルで飾りのない言葉だが、表現しているものは豊かで深い。最初の<Take my hand.>なら男性も気軽に応じてくれるだろう。しかし次の<take my whole life too.>となると「気軽に」というわけには行かない。ところが歌い手は<my hand>も<my whole life>も、まるで「同じ次元のこと」と言わんばかりに、するりと続けるのである。
 曲を知っているなら、このフレーズの部分を軽く口ずさんでみて欲しい。<Take>、<my>、<hand.>とゆっくり歯切れよく歌った直後に、間髪を入れず<take my whole life too.>と畳み掛ける。このスピード感について行けず、言われた側は考える暇もなく<Yes OK!>と返答してしまうことだろう。この点は男性歌手が歌っても女性歌手が歌っても同じだ。言葉で飾らず、平易な言葉だけでも、よく出来た英語詞は実に表現力豊かなのである。

 良い詞は日本の歌にも
 こう書いてくると、筆者がいかにも洋モノかぶれという印象を抱かれるかもしれない。そんなことはない。英語詞に関して論じた文にあまりお目にかかった記憶がないので、コトノハ欄で取り上げてみただけだ。阿久悠氏や、さだまさし氏ら、飾らない言葉で情景や心象を生き生きと伝える作詞作品は国内にも多い。
<ソーダ水の中を 貨物船が通る……>
 なかでもこのフレーズを耳にした時には驚嘆した。ユーミンこと荒井由実(松任谷由実)氏の『海を見ていた午後』。海を見下ろす高台のレストラン。まるでソーダ水の中を横切るように貨物船が沖を行く――。情景を拾い上げる感覚の素晴らしさも、このような情景を失恋歌に織り込む感性も、従来の歌にはなかった。言葉は飾らず、やはりシンプルである。

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