斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

79 【楽しみは体に毒なことばかり】

2021年02月06日 | 言葉
 究極のヒートショック浴
 記者だった頃、夕刊旅行欄の取材で、長野県最北東部の栄(さかえ)村を訪れた。新潟県に接する日本有数の豪雪地帯で、新潟県津南(つなん)町とともに秋山郷(あきやまごう)と呼ばれる。山好きなら新潟県最高峰、苗場(なえば)山の西麓と言えば、およその見当はつくかもしれない。読書好きであれば『北越雪譜』で知られる江戸期の文人、鈴木牧之(ぼくし)の、もう一つの名著『秋山紀行』の舞台として、ご存じの方も多いだろう。目当ては切明(きりあけ)温泉だった。
 記憶の糸をたどりながら古いスクラップブックから掲載記事を探す。あった。日付けは「1996年11月28日」。メーン写真は、雪景色の中津川の河原に寝そべる男性2人(筆者にあらず)。主見出しに「野天風呂 四方に広がる銀世界」、脇見出しに「対岸で猿が枝揺らし」。記事の一部を抜粋する--。

<天を仰いだ顔に冷たい雪が降り掛かる。何匹かの猿が対岸で雪の枝を揺らしている。「ツツーィ」と、小鳥が澄んだ声で啼いて飛び去る。
 余(われ)に問う何の意(こころ)にてか碧山(へきざん)に住むと 笑いて答えず心は自(おの)ずと閑(しず)かなり
 李白の七言絶句を思い出した。湯は熱い。ゴクラク、だった>

 宿で浴衣1枚に着替え、腰まで雪にもぐる小道を20分ほど歩いて、この野天風呂へたどり着いた。脱衣場など人工物は一切なく、河原にシャベル数本が置いてあるだけ。「各自で河原に湯船のスペースを掘ってください」ということだろう。当然ながら入湯料も無し。さっそく冷え切った体を熱い湯に横たえ、手足を思い切り伸ばした。野趣満点。冷えた体が芯から温まり、熱湯(あつゆ)好きには堪(たま)らない。頭のてっぺんから足先までしびれ、そのまま昇天してしまいそう(?)なほどのカイカンだった。
 しかし、である。記事にしなかった部分もあった。ご賢察の通り、問題は、野天風呂からの帰り20分の雪道だ。濡れた体に浴衣1枚だから、来た時以上に体は冷えて、心臓までが凍えて止まりそう。やっとの思いで宿へ駆け込み、今度は内湯でゴクラクを味わう。テンゴクとヂゴクは真に紙一重だった。
 体に毒と分かってはいるが、今もって熱湯(あつゆ)好きの性癖は直らない。喉が渇いた時の、最初のビール一口にも似たカイカンながら、度合いで言えば熱湯の方が格段に勝る。まッ、ビール好きの方も直らない。というか直すつもりもない。

 昼寝とフレイル
 「うつらうつら」の漢字表記は「虚(うつ)ら虚ら」だろうかと、昼寝しながら考えた。それとも空虚の「空」の方を採って「空(うつ)ら空ら」か。「うつけ」は「空け」とも「虚け」とも書き、「気がぬけてぼんやりしていること」(『広辞苑』7版)だから、当たらずと言えど遠からず、だろう。マテマテ、夢現(ゆめうつつ)というコトバもある。ならば「現(うつ)ら現ら」が適切だろうか。「ら」は「等」で「おおよその状態を指し示す接尾語」(『広辞苑』7版)。これはこれで良いかもしれない。
 では「うとうと」には、どんな漢字を当てるべきか。筆者の乏しい知識では「疎(うと)疎」くらいしか思い浮かばない。「疎い」については「頭の働きが鈍い‥‥ぼうっとする」「目・耳などの機能が十分に働かない」(『広辞苑』7版)と説明されている。まあ、こちらも、当たらずとも正解に近いコトバではあるだろう。

 この1年は昼寝ばかりしていた。春はコロナ禍のため「不要不急の外出」を避けた。ウオ―キングをやめ、仕方なく(?)昼寝。春が過ぎると、うっとおしい梅雨空を恨めしく仰いで外出は中止。夏は夏で天気予報に「脱水症状の危険を避けてください」の一言が加わり、迷ったものの、やはり昼寝を決め込んだ。外出がダメなら家で昼寝でもするしかない。秋になり天候が安定するとウオーキングを再開したが、買い物に出ることにさえ、心のどこかでブレーキを掛けていた。

 一方で昼寝の楽しさも味わった。トロトロ目蕩(まどろ)む心地よさに勝るカイカンはあるまい。武士道の書『葉隠』で山本常朝は切腹の大義を熱弁しつつ、「人間一生まことにわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり(中略)我は寝ることが好きなり。寝てくらすべしと思うなり」と書いた。昼寝のたびに、この一節が頭をかすめた。
 フレイル。1年間の運動不足は筋肉を弱らせる。かくて気づけば歩くことさえフラフラと覚束ない。いかん、いかん、こんなことでは!

 花林糖と胡麻塩
 あれほど熱中していたゴルフ(といっても所属クラブの公式ハンデは16どまり)や山歩き、バイクツーリング、モーターパラグライダー等々から遠ざかり、現在の趣味といえば上述のウオーキングと孫の世話ぐらい。いやいや、美味しいものの食べ歩きにも目がない。地方色の濃い伝統的な食べ物が好きで、遠近を問わず食べに出掛ける。反面この頃は身近で安価な食べ物にも惹かれるようになった。
 たとえばコロッケ。たまらず食べたくなる時がある。総菜コーナーで買い求めるのでなく、冷凍食品でも良いから自分で揚げて、ホクホクを食べる。菓子なら、しゃれたカタカナ名の洋風菓子でなく、カリントウ。白いごはんなら、ゴマ塩を振り掛ければ他におかずは要らないくらいだ。
 実はどれも幼い頃に馴染んだ味。食に恵まれなかった団塊世代の小学生時代には、カロリー・ファースト主義(?)なものばかり食べていた。要は体に悪い糖と塩そのもの。粗食のうちに育った世代は、どんな食べ物でも空腹でさえあれば美味に感じられる。齢(よわい)を重ねてからこんな粗食に回帰していては、もちろん体に良いはずもない。 
 

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