ポピュリズムの危うさ
ポピュリズムの日本語訳は大衆迎合主義。衆愚政治と同じ意味で使われている。用語の起源は古代ローマ時代にさかのぼり、元老院中心の「エリート主義」に対して、シーザーやアウグストスら民衆の直接行動を重視する「大衆派」「人民派」を指した。
「大衆迎合」は新鮮味に欠けるが、和訳した「ポヒュリズム」には人を振り向かせる力がある。最近この語がしばしばマスメディアに登場するようになった。多くの場合、一定の政治的な動きを「ポピュリズムの危うさ」として退(しりぞ)ける文脈で使われている。
ポピュリズムを指摘する危うさ
ヨーロッパ各国での移民受け入れ反対の動き、イギリスのEU離脱、トランプ米大統領候補の孤立主義的発言など、国外ではナショナリズムを背景にした右派的な動きを指すことが多い。移民優遇政策の陰で、雇用の機会を奪われる層の「不満」が典型的な例だ。この場合、雇用の確保が第一で「移民反対」は二次的な主張、つまり雇用が確保されれば即座に解消する主張である。「ナチス・ドイツを連想させるナショナリズムの右派的な動き」は付随的であって本質ではない。雇用の確保は労働組合の最優先課題だから、むしろ左派的な動きという側面もある。国の雇用政策の不十分さを棚上げして「ポピュリズム」の言葉で事態を否定するのなら問題のすり替えだ。
国外のケースとは逆に、日本では右派的な主張の中で使われやすい。最近は特定の政治党派や政策を「ポピュリズム的」と謗(そし)る際に頻用される。いわゆるレッテル貼りだ。多数意見を「ポピュリズムの危うさ」として退けるのだから多数決原理に反する。意見の異なる政敵や大衆は、とかく蒙昧な存在に見えるもの。ポピュリズムを嗤(わら)うポピュリスト、とは笑えぬ事態である。つまりは「ポピュリズムの危うさ」を指摘すること自体が「危うい」こともある。
「ポピュリズム」の日本での使われ方
今年9月の某全国紙に、ある大学教授の寄稿原稿が載った。イギリスのEC離脱やアメリカ大統領選でのトランプ候補の言動を軸に、まず米欧での「ポピュリズム」台頭を論じたうえで、日本の「ポピュリズム」の現状に言及した。
国内の「ポピュリズム」のくだりでは「日本は移民が少ないから、反グローバリズムを掲げたポピュリズムは広がらない。だが、別のポピュリズムなら、ありうる」として「ポピュリズムの支持基盤が高齢者になるだろう」と予測している。「なるだろう」だから将来の話だ。現実には起きていない「ポピュリズム」を先んじて論じることに、今後の高齢者の動きを封じる意図が感じ取れなくもない。
焦点は「給付額引き下げの年金改革に対する反対」だという。年金制度改革に対する高齢者の動向は「シルバー民主主義」の語とともに、たびたび俎(そ)上に載るテーマなので、回を改めて触れたい。要は「ポピュリズム」という言葉は、少なくとも日本では好例が見当たらない、あるいは見つけにくい、ということのようだ。
むしろ「反ポピュリズム」的だった民主党
年金改革のくだりの後では「日本の民主党政権は、自民党への不満がテコとなった一種のポピュリスト政権だった。(自民党への政権移行は)国民がポピュリズムに懲(こ)りたからである」とも分析する。ここで首をかしげた。
2009年の第45回総選挙で単独過半数の308議席を獲得した民主党は、2012年12月の46回総選挙で57議席にまで減らして惨敗した。民主党の敗因は、野田佳彦内閣が主導した「税と社会保障の一体改革」(12年6月、民主、自民、公明などの賛成多数で法案可決)に有権者が反発したため。とりわけ「一体改革」の柱となった8%への消費増税に有権者は反発した。それまでの民主党が消費増税反対を唱えてきたから、有権者は裏切られた気持になったのだ。選挙前から民主党内は分裂状態で、統一感のない党体質が嫌気された面も大きかった。
今にして思えば、党内外の反対を押し切って「8%消費増税」を主導したことは「反ポピュリズム」的行動である。つまり民主党政権の敗因は「ポピュリズム」に抗したため、だと言える。「ポピュリズム」を語るのであれば、この点を取り違えてはいけない。
自民党への政権移行の背景に民主党への「不満」があったことは確かだが、政権移行は常に前政権への「不満」の結果である。かつて自民党が政権の座から追われた理由も、国民の多数が自民党に「不満」を感じたためだ。一方を「ポピュリズム」と謗(そし)り、他方に「ポ」の字も出さないのは、言葉の政治的な利用、つまりコトノハのトリックである。
ポスト・トルース
10月初めの同じ全国紙に、さきの教授とは別の教授が、英国のEU離脱を理解するキーワードとしての「ポスト・トルース(真実後)」を論じていた。離脱派の政治宣伝は巧みで、さらに多くの虚偽情報があったという。「今や政治の世界では、虚偽を語っても検証されず、批判もされない。真実を語ることは、もはや重要ではなくなってきている」と。こちらの論考も国内の安保法制論議に及ぶと途端にナマ臭くなる。民主党(現・民進党)が「いつか徴兵制? 募る不安」という趣旨の政治パンフレットを配布しようとした(実際は党内の反対で未配布だったようだ)として「国民の恐怖を煽(あお)る戦略を選んだ」と論難した。
これには驚く。いささかの不安や疑問を残さぬように論戦することこそ、国会の存在価値であり原理原則だ。まして重要な安保法制である。「恐怖を煽る」からと「臭いものにフタ」では、不安を不安のまま封じられる国民は、子供扱いされた気分だ。
政治宣伝に誇張や虚偽は付きもの。「デマゴーグ」とは政治家のために存在する言葉で、政治家が嘘を言わない人種だとは誰も思っていない。せめて学者だけは政治の利害関係から離れて、党派に偏した政治宣伝に加担しないようにと願わずにはいられない。
古代ギリシャの時代ではない
古代ギリシャ時代と異なり、現代は活字メディアに電波メディア、インターネットなど自説を伝える手段が豊富だ。とりわけジャーナリストや学者は好環境下にある。少なくとも国内を論じる時は「ポピュリズムだ」とレッテルを貼る前に、なぜ煽っていると言えるのか、なぜ虚偽かについて、丁寧な説明で根拠を示してみてはどうか。説明を尽くせば安易なレッテル貼りは不要になる。
ポピュリズムの日本語訳は大衆迎合主義。衆愚政治と同じ意味で使われている。用語の起源は古代ローマ時代にさかのぼり、元老院中心の「エリート主義」に対して、シーザーやアウグストスら民衆の直接行動を重視する「大衆派」「人民派」を指した。
「大衆迎合」は新鮮味に欠けるが、和訳した「ポヒュリズム」には人を振り向かせる力がある。最近この語がしばしばマスメディアに登場するようになった。多くの場合、一定の政治的な動きを「ポピュリズムの危うさ」として退(しりぞ)ける文脈で使われている。
ポピュリズムを指摘する危うさ
ヨーロッパ各国での移民受け入れ反対の動き、イギリスのEU離脱、トランプ米大統領候補の孤立主義的発言など、国外ではナショナリズムを背景にした右派的な動きを指すことが多い。移民優遇政策の陰で、雇用の機会を奪われる層の「不満」が典型的な例だ。この場合、雇用の確保が第一で「移民反対」は二次的な主張、つまり雇用が確保されれば即座に解消する主張である。「ナチス・ドイツを連想させるナショナリズムの右派的な動き」は付随的であって本質ではない。雇用の確保は労働組合の最優先課題だから、むしろ左派的な動きという側面もある。国の雇用政策の不十分さを棚上げして「ポピュリズム」の言葉で事態を否定するのなら問題のすり替えだ。
国外のケースとは逆に、日本では右派的な主張の中で使われやすい。最近は特定の政治党派や政策を「ポピュリズム的」と謗(そし)る際に頻用される。いわゆるレッテル貼りだ。多数意見を「ポピュリズムの危うさ」として退けるのだから多数決原理に反する。意見の異なる政敵や大衆は、とかく蒙昧な存在に見えるもの。ポピュリズムを嗤(わら)うポピュリスト、とは笑えぬ事態である。つまりは「ポピュリズムの危うさ」を指摘すること自体が「危うい」こともある。
「ポピュリズム」の日本での使われ方
今年9月の某全国紙に、ある大学教授の寄稿原稿が載った。イギリスのEC離脱やアメリカ大統領選でのトランプ候補の言動を軸に、まず米欧での「ポピュリズム」台頭を論じたうえで、日本の「ポピュリズム」の現状に言及した。
国内の「ポピュリズム」のくだりでは「日本は移民が少ないから、反グローバリズムを掲げたポピュリズムは広がらない。だが、別のポピュリズムなら、ありうる」として「ポピュリズムの支持基盤が高齢者になるだろう」と予測している。「なるだろう」だから将来の話だ。現実には起きていない「ポピュリズム」を先んじて論じることに、今後の高齢者の動きを封じる意図が感じ取れなくもない。
焦点は「給付額引き下げの年金改革に対する反対」だという。年金制度改革に対する高齢者の動向は「シルバー民主主義」の語とともに、たびたび俎(そ)上に載るテーマなので、回を改めて触れたい。要は「ポピュリズム」という言葉は、少なくとも日本では好例が見当たらない、あるいは見つけにくい、ということのようだ。
むしろ「反ポピュリズム」的だった民主党
年金改革のくだりの後では「日本の民主党政権は、自民党への不満がテコとなった一種のポピュリスト政権だった。(自民党への政権移行は)国民がポピュリズムに懲(こ)りたからである」とも分析する。ここで首をかしげた。
2009年の第45回総選挙で単独過半数の308議席を獲得した民主党は、2012年12月の46回総選挙で57議席にまで減らして惨敗した。民主党の敗因は、野田佳彦内閣が主導した「税と社会保障の一体改革」(12年6月、民主、自民、公明などの賛成多数で法案可決)に有権者が反発したため。とりわけ「一体改革」の柱となった8%への消費増税に有権者は反発した。それまでの民主党が消費増税反対を唱えてきたから、有権者は裏切られた気持になったのだ。選挙前から民主党内は分裂状態で、統一感のない党体質が嫌気された面も大きかった。
今にして思えば、党内外の反対を押し切って「8%消費増税」を主導したことは「反ポピュリズム」的行動である。つまり民主党政権の敗因は「ポピュリズム」に抗したため、だと言える。「ポピュリズム」を語るのであれば、この点を取り違えてはいけない。
自民党への政権移行の背景に民主党への「不満」があったことは確かだが、政権移行は常に前政権への「不満」の結果である。かつて自民党が政権の座から追われた理由も、国民の多数が自民党に「不満」を感じたためだ。一方を「ポピュリズム」と謗(そし)り、他方に「ポ」の字も出さないのは、言葉の政治的な利用、つまりコトノハのトリックである。
ポスト・トルース
10月初めの同じ全国紙に、さきの教授とは別の教授が、英国のEU離脱を理解するキーワードとしての「ポスト・トルース(真実後)」を論じていた。離脱派の政治宣伝は巧みで、さらに多くの虚偽情報があったという。「今や政治の世界では、虚偽を語っても検証されず、批判もされない。真実を語ることは、もはや重要ではなくなってきている」と。こちらの論考も国内の安保法制論議に及ぶと途端にナマ臭くなる。民主党(現・民進党)が「いつか徴兵制? 募る不安」という趣旨の政治パンフレットを配布しようとした(実際は党内の反対で未配布だったようだ)として「国民の恐怖を煽(あお)る戦略を選んだ」と論難した。
これには驚く。いささかの不安や疑問を残さぬように論戦することこそ、国会の存在価値であり原理原則だ。まして重要な安保法制である。「恐怖を煽る」からと「臭いものにフタ」では、不安を不安のまま封じられる国民は、子供扱いされた気分だ。
政治宣伝に誇張や虚偽は付きもの。「デマゴーグ」とは政治家のために存在する言葉で、政治家が嘘を言わない人種だとは誰も思っていない。せめて学者だけは政治の利害関係から離れて、党派に偏した政治宣伝に加担しないようにと願わずにはいられない。
古代ギリシャの時代ではない
古代ギリシャ時代と異なり、現代は活字メディアに電波メディア、インターネットなど自説を伝える手段が豊富だ。とりわけジャーナリストや学者は好環境下にある。少なくとも国内を論じる時は「ポピュリズムだ」とレッテルを貼る前に、なぜ煽っていると言えるのか、なぜ虚偽かについて、丁寧な説明で根拠を示してみてはどうか。説明を尽くせば安易なレッテル貼りは不要になる。
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