ユングとスピリチュアル

ユング心理学について。

エドワード・エジンガー『永遠のドラマ』/カール・ケレニ『魂の指揮者ヘルメス』

2021-04-02 23:46:08 | 心理学

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"フロイトはアキレスの経験を例示した。彼は長男であり、崇拝する母親のお気に入りの息子であり、母親は彼の偉大さについて繰り返し予言していた。大人になってからフロイトは次のように書いています。「母親の寵愛を一身に受けた男は、生涯にわたって征服者であるという感覚を持ち続け、成功に対する自信を持ち続け、それがしばしば真の成功をもたらす。アキレスの弱点は、心理学的に言えば、彼の不機嫌な恨みにある。中略)アキレスの弱さは、他人の客観的な権威を受け入れられないことに起因する。中略)アガメムノンの権威を認めないことで、アキレスは権力の問題でバラバラになってしまった。彼は現実的にアガメムノンに対抗することができなかったので、アニマの気分と呼ばれるような、不機嫌で憤慨したような引きこもり状態でアガメムノンに対抗しました。アキレスの反応は、事実上、自分の個人的な目的のためにギリシャの企業全体を破壊することでした。(...)
トロイとの戦いのような男性的な事業のためには、精神的に若々しい女性的な要素が犠牲にならなければならない。これは、若い男性の心理的発達のある段階に対応するもので、男性的な原理が機能するためのエネルギーを得るためには、女性的な要素や女性的な価値観を軽蔑しなければなりません。(...)
イリアスの最後(...)は、和解で行われます。これが解決策であり、「coniunctio」、つまり相反するものの結合です。対立するもの同士の戦争で始まったが、悲しい和解が結論であった。"
エドワード・エジンガー『永遠のドラマ』)。
"ヘルメスは『イリアス』の中で、猛禽類や魂の指導者としては一度も登場していない。中略)『イリアス』の中で、ゼウスの使者はアイリスである。中略)『イリアス』の世界は、ヘルメスの世界ではない。その世界を支配し、その世界の特徴を獲得した人物がアキレスである。しかし、最後のほろ苦い歌(...)は、ヘルメスの印の下で完全に展開され、アキレスはゼウスに従い、あきらめます。しかし、門番たちを眠りにつかせた後、解決策をもたらしたのはエルメスだったのです。"
カール・ケレニ『魂の指揮者ヘルメス』)。
"テセウスの神話 "は、善良な父(エーゲウス)と怪物の父(ミノタウロス)との出会いの物語である。テーセウスは、ヒッポリュトスの神話の中で、別の役割で再び登場する。中略)海から出てきてヒッポリュトスを追いかけた怪物は、テセウスがミノタウロスに立ち向かったように、立ち向かえなかった彼自身の拒絶された男性的な本能と見ることができる。
ある患者さんが、このテーマを鮮明に語ってくれました。中略)分析を始めようと決めた夜、彼は迷宮を通らなければならず、その迷宮の先に分析者となる男がいるという夢を見た。中略)迷宮は無意識の表現である。あの日からちょうど1年後、彼はこの夢を見た。
"監獄の迷宮 "にいた。ふとした瞬間に隙間が見えた。境界線を越えてしまった。私は自分が自由になり、他の人も自由になれることを知ったのです。(...)              
ここでは、テセウスとミノタウロスの物語からのイメージが主となっており、これが今もなお作用している象徴であることを示しています - 私たちは単なる古い物語を扱っているのではありません。
エドワード・エジンガー『永遠のドラマ』)。
"ホメロス以前の時代には、冥界のイメージは螺旋状の迷宮であり、そこからの帰還は冥界の女王が与えてくれる恩寵であると考えられていました。そこから「迷宮の女」「アリアドネ」「最も純粋な者」として君臨していたのです。中略)ホメロス以来、彼女は王の死すべき娘、クレタ島の王ミノスの娘と考えられていた。(...)
一つの要素は迷宮であり、もう一つの要素はその所有者です。中略)ホメロスによれば、ダイダロスの作品(迷宮)は踊りの場であった。(...) 『イリアス』では、ダイダロスがアリアドネのために行った仕事は、ダンスの場であった。(...)
ジェンセンは、世界の他の地域でも同じような儀式が行われていることを指摘し、ジョン・レイヤードが調査したニューヘブリディーズ諸島の儀式を紹介しています。そこでは、ダンスによって特定の図形が作られ、その図形は、故人が死の領域へと向かう際に重要な意味を持つ迷宮の形にも対応しています。そこでも、迷宮を通過できた者だけが、死の女神にたどり着くことができる」。

(Karl Kerényi, In the Labyrinth)
"実際、典型的な神話性は、そのような知識を持っていたはずもなく、間接的に身につけたとさえ言えない人にこそ観察された。このような結果から、私たちは伝統を超えた「自生的な復活」を扱っているのではないか、したがって無意識の精神に構造的な「神話形成」の要素が存在しているのではないかと考えざるを得ませんでした。(...)
宗教とは、意識に依存せず、意識を超えて、魂の背景の暗闇の中で発生する魂のプロセスとの生きた関係である」。
C.G.ユング「子供のアーキタイプの心理について」(C.G.ユングとカール・ケレニイ『神話の本質への序説』所収)。
“Freud fue un ejemplo de la experiencia de Aquiles: fue el primogénito y el hijo favorito de su adorada madre, que reiteradamente le hacía predicciones acerca de su grandeza. En su vida adulta Freud escribió: «un hombre que ha sido el indisputable favorito de su madre mantiene a lo largo de su vida el sentimiento de ser un conquistador, esa confianza en el éxito que a menudo ocasiona el éxito real». (…) La vulnerabilidad de Aquiles, psicológicamente hablando, consiste en sus rencores malhumorados. (…) La vulnerabilidad de Aquiles viene de su incapacidad de aceptar la autoridad objetiva de los otros. (…) En su rechazo a reconocer la autoridad de Agamenón, Aquiles se fue al traste por un problema con el poder. Ya que no podía oponerse a Agamenón sobre una base realista, se opuso a él mediante lo que podríamos llamar humores del ánima, un retraimiento malhumorado y resentido. (…) La respuesta de Aquiles, en efecto, fue subvertir toda la empresa griega a causa de sus propósitos personales. (…)
Para una empresa masculina de la magnitud de la guerra contra Troya, el juvenil elemento femenino de la psique debe ser sacrificado. Esto corresponde a cierta etapa de desarrollo psicológico de los hombres jóvenes en la que el componente femenino, y los valores femeninos, deben ser despreciados si el principio masculino tiene que encontrar la energía para funcionar. (…)
El final de la Ilíada (…) [tiene lugar] la reconciliación. (…) Esta es la resolución, (…) una `coniunctio´, una unión de los opuestos. Habiendo empezado con una guerra entre los opuestos, la triste reconciliación fue la conclusión.”
(Edward Edinger, The eternal drama)
“Hermes no aparece en la Ilíada ni una sola vez como raptor o mentor de almas. (…) En toda la Ilíada, la mensajera de Zeus es Iris. (…) El mundo de la Ilíada no es el mundo de Hermes. La figura que domina aquel mundo, y a través de él adquiere sus rasgos característicos, es la figura de Aquiles. (…) [Sin embargo] el último y agridulce Canto (…) se desenvuelve por entero bajo el signo de Hermes, (…) Aquiles obedece a Zeus y claudica. Pero fue Hermes el que, tras adormecer a los guardianes de la puerta, propició la solución.”
(Karl Kerényi, Hermes, el conductor de almas)
“El mito de Teseo es la historia del encuentro con el buen padre [Egeo] y con el padre monstruo [el Minotauro]. (…) Teseo aparece de nuevo con un rol diferente en el mito de Hipólito. (…) El monstruo que salió del mar y persiguió a Hipólito puede verse como sus propios instintos masculinos rechazados que no han sido encarados como Teseo se encaró con el Minotauro. 
Un paciente me proporcionó una vez un vívido ejemplo de este tema. (…) La noche en que se decidió a comenzar el análisis soñó que había tenido que recorrer un laberinto, y que al final del laberinto había un hombre que se convirtió en su analista. (…) El laberinto es una representación del inconsciente. (…) Exactamente un año después de aquel día tuvo este sueño:
«Estaba en una prisión-laberinto. De repente vi una abertura, un camino a través. (…) Crucé el límite. Supe que era libre y que ahora otros podían serlo también.» (…)              
Aquí las imágenes surgen en su gran mayoría de la historia de Teseo y el Minotauro, demostrándose así que se trata de un simbolismo todavía operativo – no estamos tratando únicamente con una vieja historia.”
(Edward Edinger, The eternal drama)
“En la época prehomérica la imagen del inframundo fue pensada como un laberinto en espiral, y el retorno desde allí, como una gracia concedida por la reina del inframundo. Desde allá abajo ella reinaba como “Señora del laberinto”, como `Ariadne´, como “la purísima”: esto es lo que significa el nombre. (…) Desde Homero se la consideraba una hija mortal del rey, hija del rey cretense Minos. (…)
Un elemento es el laberinto, y el otro es su dueña. (…) La obra de Dédalo [, el laberinto,] según Homero era un lugar para la danza. (…) En la Ilíada, la obra de Dédalo para Ariadna era un lugar para la danza. (…)
El mismo Jensen advierte que también se celebran ceremonias semejantes en otras partes del mundo, y menciona aquellas de las Nuevas Hébridas, investigadas por John Layard. También allí con el baile se crean figuras determinadas, y esas figuras corresponden asimismo a formas laberínticas que adquieren gran importancia para el difunto en su viaje al reino de la muerte. También allí sólo consigue llegar hasta la diosa de la muerte el que es capaz de atravesar el laberinto.”

(Karl Kerényi, En el laberinto)
“De hecho se observaron mitologemas típicos precisamente en individuos que en modo alguno podían tener conocimientos de esa índole y que ni siquiera podían haberlos adquirido de modo indirecto. (…) Tales resultados obligaron a suponer que se trataba de “resurgimientos autóctonos” más allá de cualquier tradición, y por consiguiente, de la existencia de elementos estructurales, “formadores de mitos”, de la psique inconsciente. (…)
La religión es una relación viva con los procesos anímicos que no dependen de la consciencia sino que se originan más allá de ella, en la oscuridad del transfondo anímico.”
(C. G. Jung, Acerca de la psicología del arquetipo del niño; en C. G. Jung y Karl Kerényi, Introducción a la esencia de la mitología)


汚れなき悪戯 [DVD] 罪、犠牲、贖い、アナムネーシス(ヌミノース)

2021-04-02 23:29:53 | 心理学

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罪とは何か、死とは何かを考えさせられる作品と思います。言葉では表現できない心の内なる思いを表していると思います。私が初めに視聴したのが13歳で感動を覚えました、60代になっても今だにその感動は変わらず、生命力を保ち続ける数少ない映画の一つ。性別、年齢層問わず人間の本質に触れているのだと思います。エロスp24、ロゴスp176 ,ヌミノースp127,(ユング心理学辞典、創元社)。(聖なるもの、岩波文庫、オットー著)参照
311以来2015年日本の現状と共通するもの(罪、カルマ)の問題について考えさせられます。
聖書
1:マルコによる福音書/ 14章 50節
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

2:マルコによる福音書/ 15章 34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とい意味である。

「サムエル記下第1章26節」
我汝のために悲しむ、我が兄弟よ........

犠牲(いけにえ)
聖書【新共同訳】マタイ 10:39
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

犠牲という語は二つの意味に用いられる。一つは捨て去ること、もう一つは断念することである。心理学的に考えると、いずれも犠牲に適切な意味であるが、神聖化する、聖別化するというこの言葉の元来の意味がそこに十分汲み取られていない。断念という行為は、その人の現在の意識より高次にあり、なんらかの秩序を導きうる原理を承認することに等しい。

われわれは人生のいずれかの時点で犠牲を要する場面に召喚される、とユングは認識した。すなわち、神経症的であろうとなかろうと、それまで暖めてきた心理的態度を断念する場面である。そのとき、その場その場の適応にたいする要求のたかさを、断念への要請が必ず上回る。より大きな意味や意義をもつと思われることのために、自我の立場を意識的に諦める。

この事態をめぐる選択は困難であり、また、ある一つの視点から別の視点に移行することも難しい。この事態は、無意識内容が現れ、対立するものが葛藤を生じるときいつも、暗黙のうちに現れるパターンである、とユングは考えた(イニシエーション、変容)。

犠牲は、われわれが意識をもつことにたいして払う代償である。  犠牲に捧げる供え物はその人の人格や自尊心の一部を象徴する。しかし、人が犠牲を供するそのときに、犠牲の意味に十分気づいていることはあり得ない。神話や宗教の伝統的観点に立つと、供えものはすべて、あたかも壊されるためのものとして供えねばならない。

したがって、犠牲についての考察を進めると、神イメージとの関わりにおいても犠牲が意味を持つことに、直接的、間接的に必ずたどり着く。 ユングは、太古の迷信の名残ではなく、我々が人間であるために支払わねばならない代価の本質として、犠牲の必要性をとりあげた。 自己が私に犠牲を求めている(自己の促し)とするのが論理的な説明であるが、それでもなお、関与するこの二つの関係は明らかにならない。  分析の中でそのような交換関係に気づくと、こころの宗教的機能に目を向けざるをえなくなる。しかし、多くの分析家は、おそらく宗教的機能の分析と宗教の分析を同じとみなす誤りのため、そこに目を向けることに尻込みをする。しかしながら、犠牲について理解をもつことで、 失われていた意味の現存が確かめられ、しかも、崩壊の勢いを逆転させることも多い。

(犠牲は、文字通りであれ象徴的であれ、癒しに必要なものである。何ごとかをあきらめなければ、何も得られない。)
ユング心理学辞典 創元社p35

意識の変容(個人)集合的には文化の変容が滞っているとき行き場を失ったエネルギーが無秩序な破壊現象として起こっている。「意識の変容(エネルギー)は人間に定められた宿命。」

この映画はカトリックのミサを理解する意味(言語化できないもの。)で助けになります。
「アナムネーシス」Anamnesisアナムネーシス (哲学)
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9_(%E5%93%B2%E5%AD%A6)

人類の罪のあがないとして死んだイエスの血と体の「新しい契約」を記念し「最後の晩餐」 を想起(アナムネーシス)したミサがカトリック信仰生活の霊的中心です。
(なお私自身はカトリックではありません。)

(本映画は意味は理解できなくても直接的な身体感覚として意志は伝わります。) (ロゴスに対してのエロス。ロゴスに偏ると関係が切れたり、身体感覚としての実態からかけ離れてしまい話を聞いていてきつくなる時があります。) そういう意味でカトリックのミサは言語化しない(関係を切らないイメージ言語)でキリスト(宗教的には、人であり神でもある。心理学的には自我であり自己でもある。)を表現する意味においてより身体感覚に近いのではと思います。
説教をロゴス原理としたら、ミサ、賛美の音楽は(言語化できないもの)ヌミノース
そしてどちらもバランスを保ちつつ極めていく(境界領域)ことができるのではと思います。
どちらかではなくどちらも必要で両方のバランスが保たれていることが大切ではと思います。

内なる思いをイメージや概念に変換していくのは難しい、そのため、ミサ(儀礼→身体感覚、イメージ言語)(キリストの体(パン)、血(ワイン)へと聖変化)、告解制度、瞑想、黙想、観想を重視しているのは意味が大きい。

パンとワインを受け入れる意味は、集団内部で自浄作用を保つためでもあります。引き受ける人が神との関係で正しければ、祝福となり、正しくない時は、災いとなり、心の在り方に対しての判定(審判)が行われています。
自浄作用(罪、穢れがをそのまま温存すると連帯責任によって集団全体に災いもたらすためです。)
聖書
【新共同訳】
コリント第一の手紙
◆主の晩餐にあずかるには
11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。

集団、大きな意味で、国、また、地球規模の災い(事件、事故、病、天変地異、戦争)なども自浄作用を失っている結果かもしれません。
どのような形で自浄作用を保ったらよいでしょうか?
自らの、罪、穢れを他の人に負わせてよいのであろうか?(集スト問題の本質)

ユング「心理学と宗教」より
「あの宗教改革以来、プロテスタンティズムは各種の分派の温床となるとともに、学問と技術のすみやかな発達を促し、これに目を奪われた人間の意識は、予測しがたいもろもろの力をそなえた無意識というものの存在を忘れてしまいました。・・・
 事態のこのような推移は運命的なものですから、私としては、その責任をプロテスタンティズムやルネサンスに帰することは致しますまい。けれども、ただ一つ動かしがたいことがあります。それはつまり、プロテスタントであると否との別なく、あらゆる現代人が、ローマ時代以来慎重に築き上げられ補強されてきた教会という防禦壁を広範囲にわたって失っており、この喪失の結果として、世界の破壊と創造との根源である灼熱地帯へ一歩ちかづいているということです。」
ユングのこの見方が正しければ、破壊と創造との根源である灼熱地帯へちかづいている世界に光があるとすれば、それは教会という防御壁を再建する以外にないのです。
引用

ミサ(儀礼)による、Anamnesisアナムネーシスが重視される点は、 心理学では自我に対して自己の立場(意識と無意識の中心)自我中心の日常に対しての補償としての自己であり、自我の立場を相対化していく上で大変重要と思う。
更に自己の立場を自我の分析によって相対化していくことでインフレーションを避ける、心のバランス保つため、相互関係にある。
分裂や対立の統合と関わる。自我によって細切れ、断片化した概念を人格の全体性のつながりの中に統合していく。
また別の表現では自己は自我に対して犠牲(聖化、神聖化)を求めている。自我の立場の絶対化に対しての補償と相対化。聖霊の持つ意味、役割でもある。
カウンセラーが資格を得るための教育分析は必須で、その後も継続的な教育分析を必要とする理由でもあります。

 宗教性(浄化、罪の購い)について抵抗のある一般の人々にとって、どのように浄化していったら良いであろうか?
行き場を失ったエネルギーがカオス化していくのだろうか?
 犠牲が形を変えて(罪)浄化できないエネルギーの代価としての、無秩序な破壊、全体の破壊を避けるための犠牲の制度(神話の歴史では、疫病、天変地異、戦争なども含む。)
ミサにおけるアナムネーシスはカオス化したエネルギーを秩序正しく水路ずける意味があります。(破壊的エネルギーを創造的エネルギーに変換)

「アナムネーシス」Anamnesisアナムネーシス (哲学)について
プラトンの用語。 手元に『メノン』があるので、 藤沢令夫先生の言葉を引用させてもらおう。 「人間の魂は不死であり、 われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、 すでにあらゆるものを学んで知ってしまっている。 だから、われわれは自分が全然知らないことを学ぶわけではなく、 じつは、「学ぶ」とか「探求する」とか呼ばれているのは、 すでに獲得しながら忘れていた知識を想い起すこと(アナムネーシス) にほかならないのである」 (プラトン、『メノン』、藤沢令夫訳、岩波文庫、1994年、145頁)

ウィキペディアの説明では想起を宗教的な意味で(ヌーメン性)を伴ったものとして捕らえてないように思います。

ユングの説明
『心理学と宗教』C・G・ユング著、村本詔司訳(人文書院)
「心理学と宗教」の一「無意志的な心の自律性」で、まず、ユングは宗教の定義に言及します。そこで彼は、 『聖なるもの』を書いたルドルフ・オットーの説を紹介します。

「宗教はそれを表わすラテン語から明らかなように、ルドルフ・オットーがいみじくもヌーメン性 Numinosum と呼んだものを注意深く良心的にみつめることです。

このヌーメン性とは力動的な存在もしくは作用で、意志の行為では惹き起こせません。反対に、その作用が人間という主体を捉え、支配するのです。

人間は、その作用の創造主であるよりはむしろ犠牲になっています。ヌーメン性は、その原因が何であれ、主体の条件であり、主体の意志から独立しています。(情動)

いずれにせよ、宗教の教え[と一般的合意]が常に、そして到る所で明らかにしているのは、この条件が個人の外にある原因に関係づけられなければならないということです。ヌーメン性は目に見える対象の属性か、(儀礼、元型的イメージ)それとも目に見えずに現存するものから(聖霊の臨在)の影響かのどちらかですが、それが意識にある特殊な変化を引き起こすのです」
ミサによるアナムネーシスとしての想起はヌーメン性の作用を意図的によびおこすことです。


カール・グスタフ・ユング@C_G_Jung_jp
意識以前の知についての神話の教えによれば、あらゆる知は(プラトン哲学の発想と同じ)「想起」であるという見解も説明できる。ツァディックについて以下のように言われているのはその意味である。「ツァディックは誕生以来失われていたものを見出し、それを再び人間のもとへもたらす。」(ノイマン)


ユングは、教義,信仰箇条と区別された宗教のメルクマールを、ヌミノース経験があるかないかにおいていた。   (ユング心理学辞典p72,天使と格闘するヤコブ)

砂漠の女王 The Story of Ruth (関連する共通のテーマでより意味は深まるかもしれません)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B005HGCQ0O/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1507994425&sr=1-1&keywords=%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B

どちらの宗教的な立場であれ現代は多様化しているため安易に信じるのはリスクを伴います。慎重に吟味していくことが大切と思います。しかし現代の問題を解決するためには避けて通ることのできない分野と思います。

大地の希望−26 「民族の壁を越えて」2019.03.03
http://kawasima520.blog.fc2.com/

Mass
https://www.youtube.com/watch?v=aqIl7IB3n4g
ミサの意味を映画パッションと関連付けて理解しやすくしています。
https://www.youtube.com/watch?v=n2ePwz7FZUg


ルツ記 、犠牲の生贄としてささげられる真逆な2つの意味  砂漠の女王 [DVD] 「The Story Of Ruth」

2021-04-02 23:14:32 | 心理学

『落穂拾い』1857年にフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレー作

女性の社会的地位が認めらていなかった時代に異邦人ルツとその貧しい家族がイスラエルの歴史及び人類の救済史にお大きな影響を与えた物語。


【新共同訳】ヨハネによる福音書
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

聖書【新共同訳】 ルツ記
◆ルツの決意
1:7 故国ユダに帰る道すがら、
1:8 ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。
1:9 どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、
1:10 言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
1:11 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。
1:12 わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、
1:13 その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
1:14 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
1:15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
1:17 あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
1:18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
1:19 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
(引用ここまで。)

映画自体は、聖書ルツ記にはないその当時生贄(人身御供)として偶像ケモシュにささげられる幼子など予想される背景もあり、聖書の理解を助ける。一般的な見方として男女の恋愛が中心に描かれているように思いますが、聖書が伝えようとしている本質は男女の恋愛も含めてその発展形態を伝えようとしていると思います。
(ユング心理学では、アニマ、アニムスの統合とその発達過程)(英雄の誕生としての龍との戦い)

(※是非聖書を読んでみられることをお勧めします。なぜなら概念、文字に変換しての観念的な解説は物語の待っている生命力(ヌーメン性、身体感覚、言語化できないもの、気配)が失われるときがあります。しかも物語理解の本質でもあります。

(ユング心理学辞典、英雄p21、聖ゲルゲオスの竜からの王女の救出p23、アニマ、アニムスp4)

旧約聖書のルツ記は短い物語で読みやすいです。しかしその内容は、当時の偏った意識(ベツレヘムの飢饉→文化の病)に対しての(父性原理に対しての母性原理、ロゴス原理に対してのエロス原理、自我に対しての自己)補償の様に思います。そこからやがて国を統一するダビデが生まれ、その系図にキリストがあります。現在ユダヤ教の3大祭り、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りがあり七週の祭り(ペンテコステ)でルツ記が朗読されます。(それだけにルツ記は国、民族、時代を超えて普遍的な意味をもっていると思います。).........やがて七週祭はシナイにおける律法授与を記念する祭りに発展した。) ↓

故郷ベツレヘムの飢饉(偏った意識の結果)によって異教の地に出ていかざる得なかったこと(共通の集合意識の場では変容が困難)、父性原理の象徴としての夫と2人の息子(キルヨン、マフロン)の死(異教の地→(異なる文化に適応するため自我の死)→(偏った硬直化した父性原理の死(奉献)(贖罪?)と母性原理の解放、特にルツにあっては異教から嫁いだ女性、より一層犠牲が求められる。)→その後変容(バランスの回復)が果たされてベツレヘムの祝福。 夫と2人の息子の死の意味について→ユング心理学辞典p61大穴牟知命、ヨブとその妻

ルツの夫人マフロン…病める者の意味、オルパの夫人キルヨン…消え失せる者の意味。当時の名は啓示(預言)によるもの?名は体を表す。すでに将来の苦難を暗示させる名前となっています。(陽極まって陰、陰極まって陽。エナンティオドロミア「逆転、反転」)

ルツの家族は集合意識の病を引き受ける(集団の罪を転嫁して荒野に解き放たれる贖罪のヤギを連想,旧約聖書レビ記16章)運命を背負っていたかもしれません?
アザゼルhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%82%BC%E3%83%AB

新共同訳】 コリントの信徒への手紙二 ◆新しい契約の奉仕者(3:1~18)

3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊(聖霊)によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

1:ヨハネによる福音書/ 03章 34節
神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
口語訳
2:ヨハネによる福音書/ 06章 63節
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。


引用(聖書 原文校訂による口語訳)解説より
「女性の個としての人格が全く認められなかった時代に、子供に恵まれず、やもめで、しかも異邦人という三重のハンディをおいながら、自己の良心の促しに従って、再婚の可能性を絶つような仕方で実家と故郷を捨て、モアブ民族の一員であることを捨て、民族の宗教を捨ててまでも、自分より不幸な条件にあるしゅうとめナオミの人生の道連れとなることを選ぶルツの決意(1:16-17)はルツとナオミ、その一族、ひいては全人類に神の救いが具現していく引き金となっている。」

ルツとボアズの結婚は、個を超えて→(無私、無欲)→(聖婚)={人間(自我)との結婚であると同時に神(自己)との結婚}。レビラート婚{モーセの律法の一つ『レビラート婚』です。申命記25:5~6。}と言う法的慣習にもとずいていて、人類救済にかかわる役割を負った民族の律法(自我)を貫きつつ、当時の律法(集合意識)を越えた{自己の促し(集合意識によらず個の自由な意思を貫いた。)}物語でもあると思います。(人間の思い計画を実現するためのものでなく、この地において神の思い、計画(人類救済)を実現していくための結婚であった。)

アブラハムのイサクの奉献(創世記22章)「ユング心理学辞典 創元社」p37」

自我は自らの利己的な要求を意識し、自らの要求を断念しなければならない時(カイロス)がある。 しかし、自我の利己的な要求が、集合的意識(フロイトの超自我)に反している場合、その放棄は個的なものかどうかは判別しにくい。

それに対して、自我の立場は集合的な意識と一致していながら、内的な力〔自己(聖霊)の促し〕に従って、要求を放棄しなければならないことがある。これは、義務感の葛藤を生む、息子の犠牲を迫られたアブラハムや娼婦との婚姻を迫られたホセアの状況である。(ナオミの勧めで相嫁は「自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。」しかし故郷へ帰り新たな嫁ぎ先をナオミのために(その後ろ姿にヤハウェの神を観た)断念したルツ)

アブラハム(ホセア)(ルツ)は犠牲を捧げるものであると同時に、捧げられるものである。この場合犠牲の行為の決定要因は すぐれて個的なものとなり、自己は対立物の合一として働き、聖なるものの直接経験(ヌミノース)が成立する。

ユダヤ、キリスト教の神との契約
  【新共同訳】創22;15
  「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。(角を取られた子羊)
  創22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
  22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
  22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 そしてこの約束はキリストの十字架において成就する。
              
(聖書 ホセア1章2節~)
1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」・・・ 3:1 主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。 イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。 3:3 わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

聖書【新共同訳】 ルツ
1:15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。
1:17 あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

>主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。 →ヌミノース、集合意識、相対化(同一化に対しての異化)
 境界領域に足を踏み入れて(死と再生)地上での役目を終えるか、新生して継続するか? 

 (ヨナ書1章12節)「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は、、、、 
                                    
 (出エジプト記)→第一世代はカナンの 地を踏まず。 ヤーウエとの関係での役割(意味)の自覚(信仰)象徴的な死と再生。死の意味を象徴的に自覚できるか?                                            意味は再生に繋がる。
                                    
                                    
(ルツや義母のナオミ、遊女ラハブ、神殿娼婦になってユダの子宿すタマルも限界の向こう側に足を踏み入れた者、
ロトの娘達も近親婚禁止の法(集合意識)を破る。)(近親婚は神(ヤーウエの精神性を引き継ぐ者)との結婚を象徴)あるいは落ちるとこまで落ちて(死)神によって引き上げられた者(再生)、神に身を奉げた女性だったかもしれません。そういう人たちによって、後世代の人々に神の命が引き継がれていったのかも?。)
人間の計画ではなく、神の計画と導きに従って、そして人間の自由な意思の選択によって身を奉げることを通して、神の名が崇められるようになるためであった。

「ユング心理学辞典 創元社」 →イニシエーションp11 →ヌミノースp127→犠牲p35

聖なるもの (岩波文庫) →ヌミノースついて。 オットー (著), 久松 英二 (翻訳)

犠牲(いけにえ)
聖書【新共同訳】マタイ
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(創世記22章14節「主の山に備えあり」)

犠牲という語は二つの意味に用いられる。一つは捨て去ること、もう一つは断念することである。心理学的に考えると、いずれも犠牲に適切な意味であるが、神聖化する、聖別化するというこの言葉の元来の意味がそこに十分汲み取られていない。断念という行為は、その人の現在の意識より高次にあり、なんらかの秩序を導きうる原理を承認することに等しい。

われわれは人生のいずれかの時点で犠牲を要する場面に召喚される、とユングは認識した。すなわち、神経症的であろうとなかろうと、それまで暖めてきた心理的態度を断念する場面である。そのとき、その場その場の適応にたいする要求のたかさを、断念への要請が必ず上回る。より大きな意味や意義をもつと思われることのために、自我の立場を意識的に諦める。

この事態をめぐる選択は困難であり、また、ある一つの視点から別の視点に移行することも難しい。この事態は、無意識内容が現れ、対立するものが葛藤を生じるときいつも、暗黙のうちに現れるパターンである、とユングは考えた(イニシエーション、変容)。

犠牲は、われわれが意識をもつことにたいして払う代償である。(アダムとイブ、知恵の木の実)

犠牲に捧げる供え物はその人の人格や自尊心の一部を象徴する。しかし、人が犠牲を供するそのときに、犠牲の意味に十分気づいていることはあり得ない。神話や宗教の伝統的観点に立つと、供えものはすべて、あたかも壊されるためのものとして供えねばならない。

したがって、犠牲についての考察を進めると、神イメージとの関わりにおいても犠牲が意味を持つことに、直接的、間接的に必ずたどり着く。 ユングは、太古の迷信の名残ではなく、我々が人間であるために支払わねばならない代価の本質として、犠牲の必要性をとりあげた。

自己が私に犠牲を求めている(自己の促し)とするのが論理的な説明であるが、それでもなお、関与するこの二つの関係は明らかにならない。{キリスト教的には明らかである。内住の聖霊が促す。}

分析の中でそのような交換関係に気づくと、こころの宗教的機能に目を向けざるをえなくなる。しかし、多くの分析家は、おそらく宗教的機能の分析と宗教の分析を同じとみなす誤りのため、そこに目を向けることに尻込みをする。しかしながら、犠牲について理解をもつことで、失われていた意味の現存が確かめられ、しかも、崩壊の勢いを逆転させることも多い。

(犠牲は、文字通りであれ象徴的であれ、癒しに必要なものである。何ごとかをあきらめなければ、何も得られない。) ユング心理学辞典 創元社 p35

砂漠の女王 [DVD]  The Story of Ruth
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ハーモニー190「男を保護する女」
http://kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-1923.html
神の歴史−ルツ4 「望み見る喜び」
http://kawasima520.blog.fc2.com/blog-entry-2015.html


フェミニストが見直す ユング (日本語) 単行本 – 2021/3/11

2021-04-02 11:55:02 | 心理学

フェミニストが見直す ユング (日本語) 単行本 – 2021/3/11
スーザン・ローランド著 中村このゆ訳

―ユング心理学にフェミニストが鋭く切り込む―
ユングは西洋近代が、感情、身体、自然、関係性などの特質を女性と他者性とみなすことで脱価値化してきたことを喝破していた。それにも拘わらず男性性/女性性といった二元論によって長らくフェミニストから批判を受けてきた。英文学者である著者は「個人的神話」と「グランドセオリー」という二つのキーワードを中心に、ユング心理学の中のフェミニズムの要素を丹念掘り起こす。まず、初学者にも分かりやすくユング心理学理論を概観し、ユングの女性後継者による女神フェミニズムを紹介する。さらにフロイト派と比較しながら、啓蒙主義・構造主義・モダン主義・脱構築・ゴシックといった哲学的・文化的思潮を援用しながら、ユング心理学に潤沢に含まれる女性の成長への糧を明らかにする。

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ユングの「アイオーン」を読む オンライン講座

2021-04-02 07:36:47 | 心理学

https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/4c7a8e96-990e-21c7-0023-6037111ea284

  • 鏡 リュウジ(心理占星学研究家)
  • 岸本 寛史(内科医)
講師詳細

 ユング晩年の著作はいずれも非常に難解なことで知られています。特に壮大にして難解な著書『アイオーン』では、ユングは人間の知について新しく画期的な視点から洞察しています。しかし、グノーシス主義、錬金術、占星術などの原典が解説なしに引用されているため、読解は極めて困難な本となっていました。
 昨年、その『アイオーン』を卓越した分析家であったエディンジャーが自らの臨床経験も交えて読み解いた書籍の翻訳が出版され、鏡リュウジさんによるユングと占星術とのかかわりについての解説も収録されました。翻訳をてがけた岸本寛史さん、山愛美さんをゲストに迎え、鏡さんとともに『アイオーン』が扱う諸問題を語り合っていただきます。

〈参考図書〉
「ユングの『アイオーン』を読む」エドワード・エディンジャー 著,岸本寛史、山愛美 訳 青土社
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3501


https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-Edward-F-Edinger/dp/4791773284/ref=pd_sbs_1?pd_rd_w=dUQBo&pf_rd_p=79af72db-ddc4-4bac-b5f0-83b0cc0fefab&pf_rd_r=BXBR66Q55YFAF6SP340R&pd_rd_r=d3c967bd-7d1e-42df-992e-a6670d3d6dd1&pd_rd_wg=2BnkE&pd_rd_i=4791773284&psc=1


〈ご案内事項〉
・本講座はオンラインセミナーアプリ「Zoom」ウェビナーを使ったオンライン講座です。パソコンやタブレット、スマートフォンで配信を見ることができます。受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。
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アイオーン (ユング・コレクション) (日本語) 単行本 – 1990/11/15