花の形が、昔の糸を繰る道具に似ていることから、この名が付いたと云うことで、「繰り返す」という言葉の枕詞になっています。
源義経が愛した静御前が、「しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今になすよしもがな」 と詠んだ花です。
※この花に因んだ、こんな超純愛物語があります。※
白拍子(酒席にはべり、舞いを舞ったりする芸者の様なもので、身分は卑しいものとされた)の 静御前は、
飛び切りの美人で当世一流の売れっ子、これが奇襲戦の名手で連戦連勝の武将
義経と出会い恋に落ちました。
しかし、義経は兄と慕う源頼朝のために戦功を上げたにもかかわらず、うとまれ怒りを買い、冷たくあしらわれた挙句に都を追われてしまいます。 都落ちした際、多くの愛人の中で最後まで義経に従ったのは静御前ただ一人、そ
の後の義経と静御前一行の艱難辛苦の逃避行は、ついに吉野の山中を彷徨い生き別れてしまうことになります。
この時、静御前は義経の子を身ごもっていました。 その後、義経探索に血眼で当たっていた頼朝から、静御前は鎌倉の都に呼びつけられます。 頼朝の妻・政子が、「日本一の静御前の舞いが見たい」との名目で、静御前を呼びつけますが、頼朝には、この機会に腹の子(義経の)を裂き殺そうとの狙いがあったのです。
源氏の氏神・鶴岡八幡宮に「鎌倉万歳」を祝う奉納の日が決まり、静御前がその祝いの舞台で日本一の舞を舞うため、鶴岡八幡宮は大変な盛り上がりを見せていまし
た。 舞台に進み出ると「静という白拍子にございます」と名乗り、「吉野山 峰の白雪 踏
み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき」と、あろうことか義経恋唄を唄い上げ、続け
て「しず(賊・身分の低い者の服布)やしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよ
しもがな」と舞ったのです。
「白拍子として蔑まれながら、鎌倉にまで呼びつけられた私だけれど、義経を想う心
に嘘偽りはありません。 昔、華やかだったころの様に、義経とともに幸せに暮らした
い」と詠ったものでしす。
静御前は、義経を心から愛するが故に、絶体絶命のこの状況下で、「鎌倉万歳」どこ
ろか「義経恋しや」と唄い、古今集の「しずのおだまき」に掛けて、「貴方(頼朝)も昔は流
人、今は栄華を極めても、やがて衰しき身となるは、世の繰りごと」と、呪い、皮肉った
のです。
これに激怒した頼朝を、妻の政子が「女の気持とはそういうものです。」と諌め、結局、
頼朝は衆人の前で恥をさらしたのです。
静御前が見せた毅然とした態度と、これを受けとめた政子の心が、人々を感動させ後
世にまで語り継がれる事となったのです。
源義経も静御前も、今で言う世渡り下手で不器用な、純な人間だったんですね。
だから、この時代にこんな純愛が成立したのでしょう。
しかし良く考えて見て下さい、我々本当に命を懸けても成し遂げることがあるでしょうか?
何であれ「命を懸けても人を愛する勇気・物事を成し遂げる」のは、今も圧倒的な迫力があります。
ミヤコワスレ:都忘れ
~花名の由来~
和名の「都忘れ(ミヤコワスレ)」は、鎌倉時代の承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱)にて佐渡へ流された順徳天皇が、この花を見ると都への思いを忘れられると話されたことに由来するそうです。
(この記事:再掲)
タカちゃんとの出会いがオダマキからでした。
ネット検索でしたよ。
都忘れも大好き。
別れの曲は昔レコードで買いました♪
何だか懐かしい朝(^^♪