悠翠徒然

画像中心

『メッセージ』を観る

2018-02-23 22:16:26 | Weblog
いい映画です。

ちょいと頭使うところも面白い。

でも、テレビだとスケール感がしょぼい(^○^)

結構でかめのプラズマなんだけれど、映画館のスクリーンには敵わないなぁ〰






半年かかって

2018-02-23 19:47:24 | Weblog
ようやく成就〜

いや〜長かった〜

久々に痺れた半年間でした。

結果が全てのビジネスですが、ここまで運気がジグザググラフのようなモードになったのは初めてだったかも、、、

成長させてもらいました、と言うか、しばらく防衛戦に徹していた間に、幾らか成長させてもらっていたんだなぁ〰

なんとか耐えきった事でしみじみと実感したのであります。

仕事も戦も
『攻めるより守る方が難しいでな』

『七人の侍』で最後まで生き残った、勘兵衛の言葉が心に染みる、、、

勘兵衛は一国一城の主人にはなれなかったけれど、彼はとても立派な侍でした。

勘兵衛に比べて私は、、、

まだまだ、弱い、、、、

とほほでございます( ; ; )

下駄を履くことはようやくできたけれど、歩き出すにはまだまだ時間がかかります。

ゆったりと、ゆったりと、、、

ほかの仕事もそこそこあるしね(^○^)










小学生のお稽古

2018-02-23 07:02:18 | Weblog
鉛筆の持ち方と姿勢を低学年では身につけて欲しいと考えます。

そのためには、なんどもなんども繰り返し繰り返し、優しく指摘をして修正することが肝要です。

身に付けることが早い児童もいれば、そうでない児童もいる。

身に付けることが早い児童は壁にぶちあたらずにどんどん進んで行くけれど、いざ壁にぶち当たった時、乗り越える術を知らないのでとても苦労した挙句、壁を乗り越えること自体やめてしまう事になりかねません。

それが小学三、四年生あたりでしょう。

身に付けることに時間がかかる児童は、オリジナルな壁の乗り越え方をいくつか身につけている分、壁から逃げない事が多いのです。

つまり、一進一退や、時に一歩進んで二歩下がったとしても、諦めないくじけない心が養われている事が多いのです。

かといって指導者が、児童各自の特性の上にあぐらをかいて
『伸びるものは伸びるし、そうでないものは伸びない』
などと、仕事を放棄するような事では困るわけです。

児童の書写能力が伸びないのは、指導者の指導方法に問題がある事が多いのです。

低学年は興味のある無しにかかわらず、一生懸命に文字を書きます。

それは人間が持っている、言語を話す能力が意思表示において必要不可欠である事と同様に、絵や文字を書くことが人間を人間たらしめる自己表現行動だからです。

だから紙と鉛筆を与えれば、低学年までは無心になって書き続けます。

ここは鉛筆の持ち方と姿勢を身につけさせる大切な期間なのです。

さて問題は三、四年生になり、自我が芽生え始めた頃の指導方法です。

このくらいになると、他人との比較、過去の自分との比較をすることができるようになります。

つまり、形を見て、同様に書き写せているかの判断ができるようになるのです。

鉛筆の持ち方と姿勢が身についているのなら、下地はできている状態です。

できていないなら、そこを作りながら、書写能力を高めていく必要があります。

まず、お手本を左側に置き(左利きの児童は右側に)ノートの上にのせてでも、書いている部分になるべく近づけるようにすること。

つまり目線の距離をなるべく短くして、目線が切れないようにすることです。

英文のように横書きする場合は、ノートを右上がりに置く事もありますが、縦書きの場合は机の縁と平行に置くようします。

もちろんこの時、姿勢も机に向かって正対していなければなりませんし、身体の軸が曲がっていてはいけません。

机と身体の間はげんこつ一個分ほどあけ、左手のひらでノートの左下を軽くて押さえれば、姿勢はただされます。

これは毛筆も同じです。

以上のことは低学年までに身につけておきたい姿勢です。

三、四年生に必要なのは、上達するための的確なアドバイスと、上達している実感を本人が持つことです。

そのために必要なのは、対象の的確で簡単な分析を示すことです。

横画の右肩あがりの角度を統一するとか、三角形や四角形などの形として見立てるとか、縦画を絶対に曲げないとか、中心をとるとか、対象文字によって変化する大切なポイントを指摘しながら、目の前で書いてあげることです。

実践なき書写指導は効果が期待できません。

高学年になると、文字の美しさの秘密に触れる事が必要になってきます。

それまでに触れてきたお手本が美しい文字である事が肝心ですが、そうでなかったとしても、反面教師的に美しい文字と比較する事で学べる事でもあります。

早熟な児童は三、四年生あたりから、美しい文字とそうでない文字の違いや、美しい文字の秘密に興味を示しますが、多くの児童は高学年になってからです。

ここで、文字の美しさの秘密の一端を教える事が、書写から書の美を知る流れをつくるために必要な指導だと私は考えます。

お絵かきや砂遊びは美術になっていきますが、書写を書道にするという考え方は少し危険だと私は考えています。

『書術』という言葉があれば便利なのですが(^○^)

つまり書道の『道』には必ず思想が必要であり、中には偏った思想であったり、流派の囲い込みのために利用されてた歴史が、私を懸念させているのです。

『礼に始まり礼に終わる』

禅の教えと言ってよいと思いますが、これが『道』の始まりであって終わりでもあると思うのです。

相手を敬う心と姿勢を常に持ち、日常から自らの行動で表現していくことだと思うのです。

その先は本人が学んで、それぞれの道を作っていけば良いのです。

経験主義ではありませんが、実践が伴わない学問などなんの役にも立たないのです。

書道は生きる姿勢であり、人はどこから来てどこへ行くのかを知る為の学問であります。



太平洋戦争中、書のお手本に『鬼畜米英』や『本土決戦』などの標語が用いられ、書道の授業は子供たちに政治思想を刷り込むための道具として利用された忌まわしい過去があるのです。

それは書く行為ではあっても、書道ではありません。

私には書道を政治利用させない決意があります。

それは、書道に関わる者として、最低限必要な姿勢なのかもしれませんね。

















なんだかうるさくて、、、

2018-02-23 06:50:37 | Weblog
FacebookとInstagramからの問いかけがなんだかうるさくて、数ヶ月投稿していません。

積極的な行動ではなくて、自然にそうなってしまいました。

両社のAIが考える積極的交際スタイルに、自分が振り回されている感が強くなっていたからかもしれません。

私も含めて、みんなSNSだとカッコつけちゃうしね(笑)

しばらくお休みは続きそうです。

その点Twitterはまだそこまでうるさくないから、時々呟いてます。

blogは放置しておいてくれるからもっと、楽(^○^)

時々変換間違えしたまま投稿しちゃうけど、文章能力も磨けるblogは、わたしに合っているのかもしれません。

放置したままにしてくれているなら、ですけどね。