今日も夏目漱石の文章をさらっと書いてみました。
この文章が書かれた時代を参照しなければ、誤解を招くかもしれませんね。
日本人としてのアイデンティティを持った者を『田舎者』として表現しているように思えます。
現代の日本人は、欧米文化なしでは生きられませんが、果たして日本人としてのアイデンティティを持っているのでしょうか。
日本語を話し、読み書きでき、日本の国土に住んでいれば日本人なのでしょうか?
それは日本国が生命と財産を保障する対象としての条件であって、日本のアイデンティティをもった日本人とは言えないのではないでしょうか。
では日本人としてのアイデンティティとはなんでしょうか?
それは『他者を敬い思いやる心』だと思います。
時に自分が犠牲になっても他者や集団を助けることも、ごく自然な流れなのです。
良い悪いは別として、それを武士は武士道と言い、仏教では仏の道と言い、一般的には『できた人物』と呼ばれるのかもしれません。
欧米の思想では個の集まりが集団であって、集団の中の個という考え方は薄いように思います。
日本人はまず集団があって、個はその中に存在する思想だとおもいます。
会社や学校、家庭や地域というほぼ固定された集団だけでなく、水道が断水し給水車に空のポリタンクを持って並んだ列も日本人にとっては大切な集団なのです。
ですからそんな急ごしらえの見知らぬ人々が集まった集団でも、他者を敬い思いやるという『集団のルール』は瞬時にそこに並ぶ全員の脳を変え適用されるのです。
ルールを知らない子供達や外国人に優しく諭しし、集団の中に受け入れようとします。
集団から自ら外れた者で に対する処遇が厳しすぎるのは問題点かもしれませんが。
熊本地震で被災した家から金品を盗むような輩は、日本人のアイデンティティを持たない者であって、捕縛され隔離されるのは当然だと考えます。
火事場泥棒は昔からいますが、人の弱みに付け込むという日本人が一番嫌う存在でしょう。
『貧すれば鈍する』典型例です。
日本の教育の基本は、貧しくても清くいなければいけない『清貧』です。
武士道て言えば『武士は食わねど高楊枝』でしょうか。
ま、見栄っ張りな側面も大きい感じがしますが、、、
『清貧であれ』と言う教育は、国家の無能さを表してもいるわけですが、そのような教育を学校では教えていないようにおもいます。
良いことなのか悪いことなのかはわかりません。
書道教室では、もし貧しくなったとしても清く正しく美しく生きねばならないと教えています。
その姿を集団は放っておかず、手を差し伸べてくれる人や集団がでてきますからね。
究極のサバイバル術なのかもしれません。
『縦画が曲がっているのは、精神が曲がっているからだ!』と何度言われてきたことか(笑)
さすがに今の子供達にそんな言葉は通用しませんが(笑)、相手を敬い尊重する行為でもある挨拶や礼儀を重んじ、見てくれだけを整えるための嘘は許されません。
書道でも日本人としての生き方でも、嘘は一番いけない行為なのです。
『嘘も方便』は嘘をついた者の見苦しい言い訳なのです。