■人間の心は太古の昔と変わらず、自由意思は我欲と相克を繰り返している。
神は願う「善も悪も成し得る自由の中で、自らの意思で善を選べ。個々別々の命であるが、他者との心を結び合わせる愛を選べ。そこに生じる喜びはあなたたちのものである。そして創造主(力の本源)のものである。」
■自由意思を停止させ、何も成さざる自分に慣れ親しむ。自分が意思して動くことで、他人も自分も傷つけてきた過去に落胆し、心の扉を固く閉める。意思停止は他人も自分も傷つけないための防衛なのです。
■暴露
意思の停止理由は、傷つきやすい心を守るための防衛。それは自分のことばかり心配し、自分だけの損得感情でかけひきをしていたということ。
人は比較する生き物である。
比較には基準がある。
基準が自分の損得だと、嫉妬の深みにはまり、常に自分側の得になることを選ぶ。自分以外の他者を裁き、自分を犠牲者に、他者を加害者に仕立てあげる。すべてを自分の得になる出来事に脚本する。「不幸で可哀想な私。その原因は他者や環境」「私は廻りより優れていて特別」
そんな卑下慢、傲慢な自分が炙り出されていく。辛い。
■火種は自分自身。燃え盛る業火には必ず我欲という火種がある。そこを思い出すことは辛いのだけど、心の法則は自分の愚かな心の魔を暴露しては、浄化をはたす。自身の燃え盛る業火にて焼き付くす。
だけれども、自我の火種は残る。
心の魔を焼くためだ。
自我が悪なのではない。己心の魔が、自我を悪へと向かわす。
心の法則は、自我と合わせ鏡
自身の心を暴露しては、浄化をはたす。
■はじまり
本心を我欲に引きこもらせて、自我による自己完結世界を作った。
都合のいい世界だ。
自分の判断基準に、他者を無理矢理あてはめ、決めつけ、レッテルをはって、自身の優越感を満足させていた。
「他者の本心に、悪意あり」と決めつける自分の悪意の存在。
自分勝手な思惑の自覚。
そこから何かがはじまった。