3104丁目の哀愁と感傷の記録

日々生きてます。自分なりに。感じた事を徒然に書きます。素直に。そんな人間の記録。
since 2008.4.4

自分との約束くらい守る

2008-07-24 03:17:16 | 徒然
約束は守ろうと思う。

何の話かというと、
あの書くと言った一週間の日記をまとめてここに記そうと思うのだ。
あれほどまでに書くといっていっていたのに、
書かないと流石に俺の中のプライドが許さないのだ。
俺以外に読者には何ら興味のないことかもしれないが、
俺にとっては必要なことだと思うので、一週間をここに記しておく。

って言っても現場が主だけどね。

では7日(月)から

7日(月)
この日の現場は品川。

品川をなめてた。
予想より遥かに遠かったよ、品川は。
湘南新宿ラインが上手く接続されてなかったら遅刻してたな。

朝の9時から18時までが定時だったが、
残業が2時間半ほど。
お陰で稼げたのはいいが、
帰ったら11時だった。

この日の作業は自分にとって非常に興味のあるものでった。
力仕事ではなく、
アンプや照明のLEDを作るものであった。

どでかい照明の蓋を開け、
電動ドライバーでネジを打ち込んでいった。
その作業が非常におもしろく、
時間が短く感じられた。
電動ドライバーの扱いも旨くなった。

帰りはなんと会社の送迎バスで駅まで帰ることが出来た。

品川駅ってこんなにでかかったっけ。
イメージより遥かに高層的であった。
なんかキラキラしてたし。
そして駅近くのモニュメント。
これは一体なんですか。

次の日も朝から現場のため即寝た。


8日(火)

この日のことを忘れるわけにはいかない。

史上最高に辛かった現場だからだ。

場所はたまプラーザ。
横浜にあるこの癖になる名前。

午前の作業からもう死んだ。

エレベーターが無いんだよ。
階段だよ。
しかも3階から1階まで。
什器とか、
机とか、
キャビネットとか、
コピー機とか、
レンガでも入ってるんじゃねえかって位重いダンボール(200個くらい)
とか持ちながら階段を何往復も。

しかもこの日は午前中大雨。

足場は滑って最悪だった。

昼飯に現場の先輩とラーメン食ったんだけど、
箸が旨く持てなかった。
既に腕の筋肉は限界を通り越し、痙攣していた。今日のお仕事は死を感じた。

もう動けません。
冗談じゃなく死を感じた。
ぶっ倒れる直前だった。




珍しく定時に上がれたので、
ふらふらしながらも、
東急田園都市線で中央林間まで列車のたび。
田園都市線素敵ですね。
あの田園調布あたりの河川敷が素敵。
あと終点間際の高台に上って丘になってるととこもいい。

何より駅名がいちいちイイセンスしてる。

高校三年のときは田園都市線沿いで一人暮らしするのが夢でした。
なぜかと言うと、
俺は浪人してるのだが、現役のときの第一志望は、
國學院大學であった。
で国学院のたまぷらーザキャンパスが、
いいトコ過ぎて、(国学院自体も好きだった)
ここに通いてぇって思ったのだ。
広々してて、まさにキャンパスって感じだった。
講堂に向かう長い道は今でも目に浮かぶ。
まあ、落ちたけどな。

だから、たまプラーザ駅には人生で三度目の上陸になるのだ。

一回目…下見
二回目…入試
三回目…現場

二回目と三回目の間には5年以上の年月が流れている。

ショックだったのは駅がすっかり変わってしまったと言うことであった。

何キロ先まで見渡せるようなあの5年前のたまプラーザ駅はもう既に無く、
白い歩道の鉄板だらけであった。

考えてみたら不思議なことではない。
俺の記憶の中の景色は5年前で止まっているが、
確かに5年と言う年月が流れたのだ。
5年と言う年月は決して短いものではないだろう。

そんなことを思いながら、
中央林間まで行ってみたら小田急線が通ってる事が判明。

しかも300円くらいで鵠沼海岸、片瀬江ノ島
まで行ける事がさらに判明。


江ノ島は前に行って、一日中散策したので、
今回は鵠沼行ってきた。

駅を降りたらすぐ潮の香り。

10分くらい歩けば海。

湘南の夕景。

帰りは小田急で。
藤沢から新宿まで記憶が無い。



9日(水)

この日は本当にベットの上から動けなかった。
筋肉痛なんてレベルじゃない。

体が動かなかった。

一日中寝て過ごす。


10日(木)

筋肉痛は全然治まってないが、
根性振り絞って、
大学の授業に潜りに行った。

そう、木曜は前に通っていた大学の授業に潜っている曜日である。

しかも最後の授業だったので、
行かなければなるまい。

この教授の授業を受けると必ずモチベーションが上がる。
この教授に会えて良かった。
大学の授業がおもしろいって思えるんだから、
俺にとったら貴重な出会いだ。
欲を言うならもう3年早く会いたかったよ。


その後事務所に言って、
現場3回分のお給料を受け取りに行く。

26000円入手。
3回にしては良く頑張ったかな。
たまプラーザは死んだけど。

その後、大学の後輩と地元で語る。
このことについては別の日記に書きます。


てな感じで金曜の日記に続く訳です。

どうだ、書いたぞ。


バンドの話とか

2008-07-24 02:25:32 | 徒然
また二日間も開いてしまった。
これは二日間とも家にいなかったからだ。

本日は大泉学園や石神井公園を散歩した。
暑かった。


前にも書いたかもしれないが、
俺は下北沢の屋根裏や、
高円寺のGEARなどでオリジナルバンドをやっていた。

しかし、メンバーは皆大学を卒業し、
今年度に入って一回もライブはおろかスタジオさえ入っていない。

全盛期の頃は月に4,5本ライブをこなし、
自主制作のCDなども販売していた。

実際音楽が楽しくて仕方がなかった。

しかし、今メンバーはバラバラになり、
合う時間もない状態。
事実上の活動休止だ。
解散はしていないし、
そんな厳密にとらえないで、またやりたくなったらやればいい位の
感じだったのが、
実際にイザ新しい生活が始まってみるとこんな感じだ。

ついちょっと前までは最低でも、
週2日は(火、金)スタジオに入っていた。
深夜練と言って夜の12時から翌日の朝8時ごろまで
スタジオにこもったり、
レコーディングしたりした。

日常が非日常になった。

もし俺がやりたくなったら後の二人に声をかければいいだけの話だ。
今回書きたいことは、
そんな失ったものを惜しむようなことではない。

一年前くらい、
下北沢の屋根裏で対バンしたバンドに、
太平洋不知火楽団というバンドがいる。

なんとこのバンドが今年のフジロックに出場するのだ。

まず驚いた。
一緒にライブをやっていた奴らが、
日本でも有名な夏フェスに出演するのだ。
そりゃ驚くって。

次に感じたのはやはり羨望だ。
うらやましい。
フジロックに出たいか出たくないかと言われたら、
間違いなく出たい。

奴らは一つ目標をクリアしたのだ。

これは一生自慢できることだと思う。
バンドやってる奴らの中では。

そのメンバーのブログに書いてあったのだが、
「フジロックに出るからと言って、
俺の生活になんら変化は起こらない。
だが、フジロックに出たことがありますと言う
形に残せてうれしいのだ。
俺はバンドやってました。
フジロックにも出ました。
と言えるのがうれしいのだ。」

その通りだ。

いまの俺の立場は観客として、
彼らの努力を羨ましがるのが関の山である。

一年前は立場が同じだったはずだが。

別に今からどうしてもフジロックに出たい。
バンドをはじめようなどと言ってる訳ではない。
そんな気持ちは微塵もない。
今、俺には他にやるべきことがあるはずだし。

言いたいのは、
他人が成功したときに、
非常に悔しいと感じるものは、
自分にとっても非常に大事なものなんじゃないのか。

バンドをがむしゃらにやっていたとき、
フジロックに出れるなんて事があったら狂喜乱舞したはずだ。
今更ながら俺に悔しがる資格すらないのかもしれないが、
やはり悔しいと言う感情を持つのは、
それだけ自分の中でバンドが大切なものだったのだろう。


久しぶりにメンバーにメールしてみよう。

スタジオの2時間くらいだったら、
何とかやりくりできる時間だ。

ドラムに触っていない。
自分でも情けなくなるほど鈍ってるんだろうな。

全盛期の頃のような
感性も出てこないんだろうな。

けど、久しぶりにメンバーに会って、
スタジオで爆音の中、
音合わせてみたいな。

俺にとってバンドは大学生活でホントに大事なものであった。
それを改めて感じた。