筒井清忠「戦前日本のポピュリズム、日米戦争への道」(中公新書)をKindleで読んでみた。失礼ながら、この著者のことについては何も知らなかった。帯には、戦争は避けられなかったのか、マスメディアが煽った政治不信と革新論、とある。
明治維新前後から昭和の敗戦に至る歴史には若いときから興味があり、それに関連する著作はなるべく読んで、何が本当に起こっていたのか知りたいと思っている。
まず最初に本書で取り上げているポピュリズムの意味について確認しておこう。著者は本書の中で「ポピュリズムの定義は色々あるが、要するに大衆の人気に基づく政治ということである、とし、それなら日本ではとうの昔、戦前にそれが行われていた」としている。
著者の認識では戦前に日米戦争に日本を進めていったのはポピュリズムである、「戦争への道の責任」と言うことはさかんに言われるが、ポピュリズムについては取り上げられることがないため、この本を書いたと述べている。
この著者の見解は一理ある。戦前ポピュリズムが現代においてメディアで取り上げられないのは、それがメディアにとって不都合な事実が多いからであり、その不都合な事実は現在においてもなんの反省もなく同じように行われているからである。以下、著者の主張と自分のコメントを書いてみよう。
- 政治において大衆が1つの勢力として台頭したのは1905年(明治38年)の日比谷焼討ち事件からだ。新聞は戦争中から戦争祝勝を煽り、戦後は講和条約を批判した
(コメント)煽り報道、国際情勢音痴は今も同じ
- 辛亥革命後、日本人を対象にした中国による殺傷事件が立て続けに起こった。これに対する新聞等の誇大な報道により世論は激高した。これを見て政府の対中交渉も強行外交を展開した
(コメント)対華21箇条交渉の時も新聞は「最後通牒の外なし」(東京日日)など強硬論だった
- 1924年、アメリカで排日土地法が可決され、日本の世論は激高した。東京・大阪の主要新聞社はアメリカの反省を求める共同宣言を出した
(コメント)感情的報道は今も同じ
- 若槻内閣では次々と疑惑事件が起こり、新聞報道により大衆の興味をひいた。若槻は朴列怪写真事件などスキャンダルめぐる大衆動員の動きを軽視した。その結果、スキャンダルで支持が下がり追い詰められ、そこに金融恐慌が発生して選挙もできずに退任に追い込まれた
(コメント)事の重要性を考えないスキャンダル誇大報道は今も同じ
- 1927年、田中義一内閣が発足し、6月には立憲民政党ができて政友会と二大政党制となった。新聞はこれに期待感を示しつつも、政権本意の現状を危惧するような報道に終始し、政党を批判ばかりした。せっかくの二大政党制成立の時期にその健全な育成に意を注がなかった。吉野作造などの知識人も同様。
(コメント)ここが新聞社の大きな限界であろう
(続く)
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