なぜ、詩を書くのか
なぜ、言葉を求めるのか
自分のいる場所を問いたいから
自分が今、どこへ向かおうとしているのか確かめたいから
詩作とは無への志向だから
有として在る対象と自分との距離を知るための日常語
作為に満ちた日常語の言葉を解放させること
言葉の自立性に自分をゆだねてみよう
有として在る対象と自分との新しい関係性が必要なのだ
でなければ何も生まれない。
似て非なる詩ばかり氾濫している
『歴程』593号「那珂太郎追悼特集」にぼくは
・・・那珂太郎の「自己放下」と大岡信の「精神の誤謬」とが、どのように向き合うのか、
詩作が「無」への志向を意味していると仮定するなら・・・・
という一文を載せさせていただいたが、日常における自己肯定と否定の意識操作は究極、無へ
導くためのレジスタンスではないかと思う。
自分を無に向かわしめるために言葉を置いていく
それが道標になるように
かすかに感じる無のにおいを消さないために詩を書く
それ以外に、詩を書く理由はない
なぜ、言葉を求めるのか
自分のいる場所を問いたいから
自分が今、どこへ向かおうとしているのか確かめたいから
詩作とは無への志向だから
有として在る対象と自分との距離を知るための日常語
作為に満ちた日常語の言葉を解放させること
言葉の自立性に自分をゆだねてみよう
有として在る対象と自分との新しい関係性が必要なのだ
でなければ何も生まれない。
似て非なる詩ばかり氾濫している
『歴程』593号「那珂太郎追悼特集」にぼくは
・・・那珂太郎の「自己放下」と大岡信の「精神の誤謬」とが、どのように向き合うのか、
詩作が「無」への志向を意味していると仮定するなら・・・・
という一文を載せさせていただいたが、日常における自己肯定と否定の意識操作は究極、無へ
導くためのレジスタンスではないかと思う。
自分を無に向かわしめるために言葉を置いていく
それが道標になるように
かすかに感じる無のにおいを消さないために詩を書く
それ以外に、詩を書く理由はない
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます