東京日記
静岡県焼津市、藤枝市、北海道の札幌市にあるIT企業グループの経営者 松田敏孝の日記です。




今年の1月に父親が亡くなり、はやいものでもうじき1年になる。来年の1月10日には一周忌を行う。それまでは喪中だから、つまり今度のお正月は「あけましておめでとう」とか言っていけないんだよね。ま、Blogの中ではそんなに気にしたことではないかもしれないけど、一応ひかえておこう。毎年元旦にはお客様のお宅へ挨拶まわりにでかけるんだけど、今度のお正月はそれも自粛。ま、だんだんにお客さんも世代交代してきているし 古い慣習は徐々にやめていってもいいかもしれない。

今日は父親の眠る林そう院(←「そう」という漢字はJISにないみたい)へ母親と自分の家族とヨメさんのお母さんと妹夫婦という大人数で行ってきた。にぎやかでおごそかな年末の休日。

もともと自分が社長をしている今の会社は父親の会社の「コンピューター事業部」という一部門だった。それを1992年に分社化。もちろん100%出資子会社だったから自分は社長と言っても事実上は事業部長みたいな感じだった。さして社長としての自覚もないまま、業績も振るわず、普通だったら社長降板もやむを得なかったはずだ。その頃を支えてくれた父親と社員と家族には本当に感謝している。

父親はコンピュータのことはわからなかったが、事業センスはピカ一で、ついてくる質問もするどかった。ずいぶん鍛えていただいた。仕事がおもしろくなりだして、自分の会社にしたい言う気持ちが強くなったのは1998年頃だったかな。ちょうどネットバブルが華やかな頃で、翌99年にはマザースが開設されている。今の会社の株式の過半数を個人でもたせてもらったのは2000年の秋。自分にとってはずいぶん大きな決断だった。そのための支出は大きかったし、通常の判断では考えられない決断だったかもしれないけど、今でも本当によかったと思っている。それを認めてくれた父親にも感謝している。
そんな経緯で手に入れた焼津の小さなIT企業は自分の生きがいそのものだ。社員にも恵まれて、これまで確実に成長してきた。

今年の4月には東京 日本橋に小さなオフィスを借りて東京勤務を始めたところからは また新しい段階に入ったと思っている。ぼくが父親の会社から独立を志したネットバブルの頃と違って、東京のベンチャー企業も様変わりしている。マスコミが「ネットバブル崩壊」とか言っている間にもずっとベンチャーたちのチャレンジは続いていたのだ。斬新なアイデアとベンチャーならではのスピードで、次々と新しい企業が立ち上がってきている。

ウチの会社は、本拠地がこの焼津の地にあって、はたしてそのベンチャーたちのスピードについていけるのか。またネットバブルを経験して、今なお生き残っている会社は巨大な企業グループに成長しており、さらにM&Aを繰り返している。そんな中で、生き残っていけるのか。いろいろな思惑が入り乱れるなか、でも「チャレンジしてみたい」という気持ちは変わらない。

ITテクノロジーとパートナーシップは東京で。
リアル企業の運営は地域密着型で。
そんな風に思っている。

来年からはより具体的に動き出すつもりでいる。迷ったときは「父親ならこんなときどう決断するのだろうか」とか「父親ならこんなときどんな発言をするのだろうか」と自問自答することはよくある。そんなとき今でも父親は自分の中に生きていると思う。

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