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帯とけの枕草子
〔一〕 春は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、文の「清げな姿」。文の「心にをかしきところ」を紐解きましょう。
枕草子〔一〕春は
はるは曙、やうやうしろくなり行、やまぎはすこしあかりて、むらさきだちたるくもの、ほそくたなびきたる。
(春は明け方、しだいに白らみゆく山際すこし明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいている……春の情はあけ方、しだいに白じらしくなり逝く、山ばの果てさみしくはなれて、澄み初めた心雲が細くたなびいている)。
このように、余情とともに読むには、貫之のいう「言の心」即ち言葉の多様な意味を心得ればいい。
「春…季節の春…情の春…春情」「白…空の色…白々しい気色」「山際…山ばの果て」「すこし…少し…すごし…寂しいさま」「あかりて…明るくなって…別れて…離れて」「紫…澄んだ色」「くも…空の雲…心雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など、ひろくは煩悩」。
それぞれの言葉が、このように多様な意味を孕んでいるので、和歌は多重の意味を楽しむことができる。文もまた同じ。
藤原公任は、道長も紫式部も一目置いた詩歌の達人、和歌の様を捉え、優れた歌の定義として、「新撰髄脳」に次のように記している。
およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、すぐれたりといふべし。
和歌は、深い心、清げな姿、心におかしきところ、の三つの意味を同時に味わう。文もまた同じ。
和歌に依って育まれ、大人の宮廷女房たちを楽しませ、時には「をかし」と笑わせるには、多様な意味が同時に聞こえ、加えてその意味が「心にをかし」と感じる事柄でなければならない。単なる春の景色の描写など、誰も「をかし」とはいわない。それは、文の清げな姿である。
この春の文の「心におかしきところ」は、次のような歌の余情がわかる大人であれば、わかるでしょう。
ほのぼのと明かしのうらの朝霧に 嶋かくれゆく舟をしぞ思ふ
(ほのぼのと明くる、明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟を、なごり惜しいと思う……ほのぼのと明かす女心が、浅限りのために、しま隠れ逝くふ根を、惜しとぞ思う)
「あかし…明石…所の名、名は戯れる。夜を明かし、ものの果てを迎え」「うら…浦…女…裏…心」「朝霧…浅限り…浅いままの果て」「嶋…しま…肢間…女」「ゆく…行く…逝く」「舟…ふね…夫根…おとこ」「惜し…見捨て難い…愛し…愛しい」。
古今和歌集 巻第九、よみ人しらず。柿本人麻呂作かもしれない優れた歌。公任は「上品上の歌」として、「これは言葉妙にして余りの心さえあるなり(和歌九品)」と評している。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)
枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。