帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔六〕上に侍う御猫

2011-02-24 06:05:19 | 古典

 

                    帯とけの枕草子
〔六〕上に侍う御猫



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。

 次は翁丸という犬の話を通して女の言葉が聞き耳によって意味の異なる例。


 枕草子〔六〕上に侍う御猫 

 主上のもとにいらっしゃる御猫は、冠を賜り「命婦のおとど」といって、とっても可愛かったので飼育させておられたが、階段に出て寝ていたので、御猫の乳母の馬の命婦が「あら、いけない。お入りなさい」と呼ぶのに、日がさし入り、眠っていたので、脅そうとして、「翁丸! どこだ、命婦のおとどを喰え! 」と言うと、真かと(聞いて)、愚か者は走りかかったので、御猫は脅え惑うて御簾の内に入った。 
 朝餉の御間に主上がおられて、ご覧になられ、たいそう驚かれる。御猫を御懐にお入れになられ、男どもを召されると、蔵人忠隆、なりなかが、参上したので、「あの翁丸を打ち懲らしめて犬島へ遣れ、ただ今だ」と仰せになられたので、集まり犬狩りして慌ただしい。馬の命婦をも責めて、「乳母を替えよう。たいそう気掛かりだ」と仰せになられれば、畏まって御前には出ない。犬は狩り出して、滝口(警護の武士)によって追放してしまわれた。
 「あわれ、大いに身を揺るがして歩き回っていたものを。三月三日(節句)には、頭の弁(藤原行成)が柳の頭飾りを付けさせ、桃の花をかざしに挿させ、桜を腰に差しておられた折りは、このようなめに遭うとは思わなかったでしょう」などと哀れがる。 
 「お食事のときは、必ず向かいに居たので、ものさびしいですね」などと言って、三、四日経った昼ごろ、犬のひどく啼く声がするので、どこの犬がこのように長啼きするのかしらと聞くと、あちこちの犬を尋ね見にゆく、御厠人の者が走って来て、「ああひどい、犬を蔵人が二人して打っておられる、死ぬでしょう。犬を流罪になさいましたが、帰って来たと打ち懲らしめておられるのです」と言う。心憂きことよ、翁丸である。「忠隆、実房などが打っている」というので、制止に遣るうちに、どうやら啼き止む。
 死んだので陣屋の外に捨てたというので、哀れがっていた夕方、ひどく腫れ、あきれるほどの犬の、みすぼらしいのが、震えながら歩きまわるので、「翁まろか、このごろこんな犬がいたかしら」と言って、「翁丸」と言っても聞き入れもしない。「翁丸よ」と言い、「ではないわ」とも言っていると、「右近(内侍)が見知っている。呼びなさい」と宮が召されると参上した。「これは翁まろか」とお見せになられる。「似てはございますが、これはとんでもないようです。それに、翁丸かとさえ言えば、喜んで参りますものを、呼べども来ず。そうではないようです。あれは打ち殺して棄てましたと申していました。二人で打ったのならば、生きているでしょうか」と申せば、宮は不快がられる。暗くなって、ものを食べさせたが食べないので、翁まろではないということで終わった。 

 明くる朝、宮の御髪づくりし、御手水などしてさしあげていて、御鏡を持たせになられご覧になられるので、ご奉仕していたときに、犬が柱のもとに居たのを見やりながら、「あわれ、昨日、翁丸をひどく打ったらしいのよねえ。死んだのでしょう哀れなこと。何の身にこの度は生まれ変わったのでしょうね。どんなに辛い思いをしたのかしらね」と言ったので、そこに居た犬が震え、咽び啼いて涙をただ落としに落とすので、驚きあきれる。さては翁丸だったのだ。昨夜はひた隠しに忍んでいたのだなと、哀れに添えておかしいこと限りない。御鏡うちおきて(御鏡をさっと置いて…御鏡を犬に向けさっと置いて)、「さはおきな丸か(さては翁まろか…映っているのは翁まろか!)」と言うと、ひれ伏してひどく啼く。宮も、たいそうお笑いになられる。右近の内侍を召して、これこれよと仰せになられると、右近の内侍が・笑い騒ぐのを主上もお聞きなられて、渡っていらっしゃった。「意外にも、犬などもそのような心があったのだなあ」と、お笑いになられる。
 上の女房たちも聞いて集まって来て、翁丸と呼ぶのにも、今はもう、たちうごく(立って動いている…立ちうごめいている)。「猶このかほなどのはれたる、物のてをせさせばや(やはりこの顔などが腫れている怪我の手当をさせようね……汝お、子の彼おなどが張れている、ものが手をお使いになるのかな)」と言うと、「ついにこれを(とうとう翁丸だということを…ついに皆が見ぬふりしていたことを)言い表してしまったことよ」などと、笑うので、忠隆が聞いていて台盤所の方より、「まことでしょうか。それを見てみましょう」と言ったので、「あらいやだ。さらさら、そのようなものは無いわ」と言わせると、「それでも見つけるおりはございましょう。さのみも(そうとばかりは…そのような身も)、隠しておられることはできません」という。 さて、正式に許されて、元のようになった。やはり哀れがられて震え啼きしたのは、世に例がなくおかしくて哀れなことよ。人などは人に言われて泣いたりはするが。

 「お…おとこ」「こ…おとこ」「はれる…腫れる…張れる…弓張りになっている」「手…手当(治療)…犬の手…子の君にとっての親?の手」「せさせ…使役」「ばや…意向・願望または疑いを表す」。

 「翁まろか」と呼んでも寄り付かなかったのは、翁まろと呼んでも寄り付かないように、忠隆らが調教したためで、「ながなき」はそのときのこと。後に死んだと言うことにして密かに放生する為。 宮はこのような蔵人らの解決方法を察知されて不快に思っておられる。それに、女房たちにとっても、犬ではあっても、目の前で起こった流罪、解任、刑死は重苦しい事態。それらを笑いによって解消した。我褒めかな。
 
 犬に鏡を見せたのは、犬に人間的な振る舞いをさせて人の笑いを誘うため、御鏡を犬に見せることなど決してありえないと思い込んでいる人の耳には、永遠に、そうは聞えないでしょう。言葉は聞き耳よって意味が決定的に異なるものでしょう。

 「もののてをせさせばや」に女たちが笑ったのは、「もの」を主語にして主客転倒した表現と、何よりも日頃は秘められている性に関わる事柄が適度に露になったことによるでしょう。


 伝授 清原のおうな
 
 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子によった。