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帯とけの枕草子〔三〕同じ言 ・ 〔四〕思はん子
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。
枕草子〔三〕同じ言
おなじことなれどもきゝみゝことなるもの、法師のことば、おとこのこと葉、女のことば。げすのこと葉にはかならず文字あまりたり。たらぬこそおかしけれ。
(同じ言葉だけれども、聞く耳によって異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。外衆の言葉には必ず文字が余っている。足りない方がおかしいことよ……同じ言葉だけれども、聞く耳によって意味の異なるもの、それがわれわれの言葉。圏外の衆の言葉には必ず文字の多義が余っている。言葉足らずに多様な意味を表わすことこそおかしい)。
「文字あまりたり…文字は多様な意味を孕んでいる、それを踏まえずに用いること」「言葉たらぬ…紀貫之の在原業平の歌の批評(古今集仮名序)の言葉で、そこでは複数の意味を一つの言葉で表現する才を愛でている。帯とけの伊勢物語の業平の歌を一読すればわかるでしょう」「たらぬこそをかしけれ…言葉少なに言葉の孕む多様な意味を生かして用いることはおかしいことよ」。
同じ言だけれども、受け手によって意味の異なるもの、それが言葉であるとは、今の人々にとっても驚くべき言語観でしょう。まして、過去の言葉の意味など、唯一つ正しい意味を理性が解明できるなどという素朴な言語観に留まっている人は、理解に苦しむでしょう。そして、この章も聞き違えて、男の言葉と女の言葉では、発声の抑揚などが異なることを述べたものと、君は読まされ、読んでいたでしょう。
次に、「言葉は聞く耳によって(意味の)異なるもの」という具体例を示してあるので、それを聞けば、この章の意味がよくわかるでしょう。
先ず、法師が日常に用いるような言葉も、聞く耳によって意味の異なるものである例。
枕草子{四〕思はん子
思はん子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。たゞ木のはしなどのやうにおもひたるこそ、いといとをしけれ。さうじ物のいとあしきをうちくひ、いぬるをも、わかきは物もゆかしからん、女などのある所をも、などか、いみたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをもやすからずいふ。まいて、げんじやなどはいとくるしげなめり。こうじてうちねぶれば、ねぶりをのみしてなど、とがむるも、いと所せく、いかに覚ゆらん。これは昔のことなめり。いまはいとやすげなり。
言の戯れを知らぬ聞き耳には、清げに、次のように聞こえるでしょう。
思いをかけている子どもを法師にしたら、親は心苦しいものだそうよ。小僧をただの木っ端なんぞのように、他人は・思っているのが、親としてはたいそうつらいという。子が精進食の粗末なのを食って寝る生活も。若者は好奇心もあるでしょうに、女などが居る所さえ、どうしてか忌みでもするように見もしないでしょう、そんなことも厳しくいう。まして、修験者などはたいそう苦しそうでしょう。疲れ果てて眠れば、眠ってばかりしてなどと非難がましい。たいそう窮屈で、どんな思いでしょうか。これは昔のことのようで、今はもっと易しいという。
聞き耳異なれば、次のように聞こえる。
もの思うであろう子の君を、ほ伏しにしたら、心苦しことよ。それを女がただの木っ端などのように思っているのは、ほんとうにつらいそうよ。生身食のいと悪しきを食って、子の君もその親も寝ているなんてのも。若いものならものに心が向くでしょうに、女などの或るところは、どうしてか忌むでもするように、さしのぞかずでしょう。それをも女は我慢できないように言う。まして、男君が見者ともなると、たいそう苦しいらしい。こうじて、ねぶりだせば、ねぶりをのみしてと、もどかしがる・とがめる。男はほんとうにいたたまれず、どんな思いがするかしら。これは誰かの以前のことようで、今はまったく安泰なようよ。
言の戯れ、言の心は、次のようなこと。
「子…こ…し…おとこ」「ほふし…法師…ほ伏し…男の身の一つのものが伏した状態、精神的原因か食物の偏りなどによる」「ほ…穂…秀…ぬきんでたもの…おとこ」「さうじ物…さうじ(ん)もの…精進食…さうし(ん)もの…生身食…生身の動物性食物」「ん…表記されないこともある」「さうじもののいと悪しき…精進食の粗末なの…精進食でないもの…なまぐさもの」「げんじや…験者…修験者…見者…まぐあう者」「見…覯…媾…まぐあい」「ねぶり…眠り…舐り」「とがむる…非難する…他の伝本は、もどかる」「もどく…非難する…もどかる…もどかしがる」。
枕草子は、心幼き者にはわからない。「言の心」を心得たおとなの女の読むもの。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)
枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。