帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔五〕大進生昌 その一

2011-02-21 06:08:12 | 古典



                    帯
とけの枕草子
〔五〕大進生昌 その一  


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。

 大進(中宮職の三等官)生昌との会話を通して、言葉が聞き耳によって意味の異なるものであることが原因・理由で「をかし」が生ずるさまを示してある。


 枕草子〔五〕大進生昌 その一

 大進生昌の家に、宮がお出にならるので、東の門は四足門にして、そこより御輿はお入りになられる。北の門より、女房たちの車も、まだ詰め所に役人もいないので入ろうと思って、かしらつきわろき(頭髪の乱れている)人もそれほど繕わず、家屋に寄せて降りるべきものと思い気楽にかまえていたのに、びろうげの車など(高級な牛車)は、門が小さいのでとても入らないので、門から家屋まで例の筵を敷いて降りるので、まったく気に入らず腹立たしいけれども、どうしょうもない。殿上人、地下の男どもも詰所に立ち並んで見ているのも、ほんとうにいまいましい。
 宮の御前に参って、その有り様を申し上げると、「ここでも、男は見ないことがあろうか。どうして、そのようにうちとけてしまっているの(乱れ髪で)」と、お笑いになられる。「ですが、この姿は男が見なれていまして、良く仕立てますとかえって驚く人がいたりいたしましょう」。

 それにしても、これほどの家に車が入らない門があるかしら、見かければ笑ってやりましょうと女房たちと言っているところへ、ちょうど、これを宮に差し上げてくださいと、生昌が御硯などを差し入れる。
 「ちょっと、ひどいじゃありませんか。どうしてその門は、また狭く造って住んでいらっしゃるの」と言うと、笑って、「いへ(家…女…井へ)の程、身のほどに合せてございます」と応える。
 「だけど、門のかぎりをたかうつくる人もありけるは(門だけを高く造る人も昔いたでしょうが…門だけをりっぱに付けている女もいたでしょうが)」というと、生昌は、「あなおそろし(いやあ恐れ入ります…あな恐ろし)」と驚いておいて、「それは于定国(漢の国の人の名)のことでしょう。古い学生ぐらいでないと承知するべきことではございません。私はたまたまこの道に入ったので、このように弁えてはございますが」という。「その御みち(そのご学問の道…この家の路)もよろしくないようね。筵を敷いても、みな窪みに落ちて騒いだことよ」と言うと、「雨(お雨)が降りましたので、そのようなことになってしまったのです。まあいいです言いたいこともございますが、また、言いかけられることがございましょう、退散します」と言ってかえった。
 「何事ですか。生昌がたいそう恐れ入っていたようですね」と宮がお聞きになられる。「何でもございません。車が入らなかったことを言ったのでございます」と申し上げて、局に下がった。

  「車…しゃ…者…もの…おとこ」「門…身の門…女」「見…覯…まぐあい」「いへ…家…女…井辺」「身のほど…身分の程度…わが身のものの程度」「みち…路…道…堂…女」「雨…おとこ雨」。

 このように言葉が戯れているので、門が狭く車が入らないことが笑いの種になる。生昌はこのような言葉の戯れなど心得ていたことは会話に表われているけれども、大まじめなために、その戯れを御しての会話が円滑に続かないので、いささか腹立たしい。
 次はその夜の出来事。


 同じ局に住む若い女房たちと、前後不覚に、眠くなって皆寝てしまった。ここ東の対屋の西の廂の間は、生昌らの居る北の対屋に通じているが、その北側の障子に掛け金がなかったのを、それも詮索しなかった。生昌は家の主人なので、勝手知ったところで開けたのだった。変にしわがれうわずった声で、「おそばに参りたいのですがいかがですか、いかがでしょうか」と何度も言う声に、目覚めて見ると、几帳の後ろに立ててある燈台の光ははっきり見せている。さうじ(障子…双肢)を五寸ばかり開いて言っていることよ。とってもおかしい。さらさら生昌はそのような好き好きしいことは夢にもしないのに、我が家に宮がおわたりになられたというので浮かれて、むやみやたら心のままにするのかしら、と思うのも、とってもおかしい。
 傍らの女房をつつき起こして、「あれをごらん、かゝる見えぬ物のあめるは(あのようにお見えになれない者がいるようよ)」と言うと頭をもたげて見て、ひどく笑う。「あれはたそ、けそうに(そちらは誰よ、懸想人? 怪相人?)」と言うと、「そうではありません。家の主としてあなたと取り決めておくべきことがございます」と言うので、「門のことはですね(狭いと)言いました。さうし(障子…双肢)を開けてくださいと言いましたかしら!」というと、「それに、その門のことも申したいのです。そこに寄せていただきたいのですが如何でしょう、如何でしょうか」というので、「とっても、みぐるしき(見苦しい…身苦しい)こと、それ以上いらっしゃれないのね」といって女たちが、笑ったようで、「若い人がいらっしゃったのですねえ」と言って、生昌はあたふたとかえって行った。
 後に、大笑いする。「(障子…双肢)開けたら、ただ入ってくれば! ここに参っていますと消息を言ったって、よかなり(いいわよどうぞ)と、だれが言えるか」と、ほんとにおかしい。明くる朝、御前に参って、宮に申し上げると、「そのようなことなど、生昌は言いに行ったのではないでしょうに、昨日の門の話に感心して言いに行ったのです。あわれ、彼をはしたなく言ったなんて、かわいそうなことよ」と、お笑いになられる。

 「見えぬ…見えない…まぐあえない」「けそうに…けそうにん…懸想人…恋人…怪相人…おばけ」「見…身」「さうじ…障子…さうし…双肢…両脚」。
 

 見、門、車(者)、家、道(堂)、障子、懸想人(怪相人)などが、字義以外の意味にも戯れる聞き耳異なる「男の言葉」。このような言葉の戯れを知れば、共に笑えなくとも、なぜ笑っているかがわかるでしょう。それがわからなければ、この章を読んだことにならない。


 伝授 清原のおうな
 

 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)