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帯とけの枕草子〔二〕比は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。
次に真名(漢字)を書き散らしてあるけれども、女の言葉として読みましょう。「月」は、決して「げつ」「がつ」「ぐわち」などと読まないように、艶消しだから。
枕草子〔二〕 比は
比は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべてをりにつけつゝ、一とせながら、をかし。
(頃は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべて季節や行事の折々に応じて、一年を通じて風物に趣がある。……親密な二人は、睦つき、や好い、うつき、さつき、なな!やあ! 此処のつき・ながつき、十ほほ、余りひとふたつき。すべて折りにつけつつ、ひとと背の柄おかしい)。
「比…二人並んだ姿…親しむ…くらぶ…親しい仲…頃」「月…暦の月…月人壮士…おとこ…突き…尽き」「正月…睦月…睦ましきつき」「三月…やよい…や好い」「や…感嘆詞」「四月…卯月…う、つき」「う…感嘆詞」「五月…さつき…さ、つき」「さ…美称」「おり…折…時…逝」「ひととせながら…一年ながら…人と背な柄…女と男の本性…古今集巻頭の一首でもひととせは人と背と戯れている」「な…の」。
言葉は字義などとはかけ離れた多様な意味に戯れる。そこに「心におかしきところ」が顕われ、大人の女たちの楽しめる文となる。それは、不定形ながら和歌の方法と同じ。
紫式部は、その日記で、「清少納言こそ」と名指し、強調して、その言動を批判した。上のように「枕草子」を読めば、紫式部の批判がよくかわかるでしょう。批判文は次の通り。
清少納言こそ、したり顔にいみいじう侍りける人。さばかりさかしだち、真字書きちらして侍るほども、よく見れば、またいとたらぬ(たへぬ)ことおほかり。かく、人にことならんと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすすろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしき事も見すぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。
ほぼ次のように読める。
清少納言こそは、得意顔でひどい侍りざまだった人。あれほど賢ぶって、漢字を書き散らしていらっしゃる程度も、よく見れば、また全く堪えられないこと(足らないこと)が多くあります。このように、他の人とは殊になろうと思い好むような人は、必ず見劣りし、行く末ますますそうなるだけですから、艶っぽくなってしまった人は、ひどくさみしくなりゆく時も、事に触れれば感嘆するようになり、おかしいことも見過ごさないとするうちに、おのずから、あのような浮ついたいいかげんな様になるのでしょう。その浮ついてしまった人の文芸や生き様の果て、どうして良いでありましょうか。
帯とけの「枕草子」を読み進むうちに、紫式部の読みと批評の的確さがわかるでしょう。また、定子中宮の女房の書いた楽しい「枕草子」に、道長のむすめの彰子に仕えた女房が、これほどの反応を示すのはなぜかも、おいおいわかってくるでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)
紫式部日記の原文は、岩波書店 新日本古典文学大系本による。