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帯とけの枕草子〔五〕大進生昌 その二
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、文の「清げな姿」。文の「心にをかしきところ」を紐解きましょう
続いて 「男の言葉」が、聞き耳により意味の異なるものである例。
枕草子〔五〕大進生昌 その二
姫宮のお付きの童女の装束を調えるようにと仰せられたときに、生昌「このあこめのうはおそひは、何の色にかつかうまつらすべき(この袙の上の衣は、何色にいたさせましょうか…この吾こ女の上襲いは何色にいたさせましょうか)」と申すのを女たちが、また笑うのも道理である。
「姫宮の御前のものは、例のようでは、よろしくないようです。ちうせいおしき(中くらいの折敷…中勢押し木)に、ちうせいたかつき(中くらいの高杯…中勢貴突き)などがよろしいかとぞんじます」というので、「それでこそ、うはおそひきたらむわらはもまゐりよからめ(それでこそ、上着を着る童女も給仕などしてさしあげよいでしょう…上おそいくるわらわめも山ばに参りよいでしょうよ)」と言うのを、「やはり、普通の男どもを相手にするように、そのように笑ってはいけません。生昌は、いときんこうなる物を(とても謹み深く情が厚いものを…とても慎み深いが情は浅いのに)」と、同情されるのもおかしい。
ものの途中というときに、「大進が、真っ先に申したいと来ています」と取り次ぎが言うのを宮がお聞きになられて、「また、どのようなことを言って、そなたたちに笑われるのでしょう」と仰せになられるのも、またおかしい。「行って聞いてきなさい」と仰せられたので、わざわざ出てみると、「一夜の門のことを、中納言(兄の惟仲)に語りましたところ、たいそう感心されて、どうか適当な折りに気楽にお目にかかって、お話しを承りたいと申しておりました」と言うだけで、他のことは何もない。一夜のこと(双肢五寸開けたこと)を言うのかと、心ときめいたのに、「そのうち、落ち着いた折りに御局にまいります」とかえった。
「さて、なにごとぞ」と仰せになられたので、生昌の言ったことを、そのとおり申し上げると、女房たちが「わざわざ申し入れてまで、呼び出すべきことではないのでは、なんとなく端に控えている時とか、局に居るような時に、言えばいいのにねえ」と、笑うと、「をのが心ちに、かしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふと(自分が心から立派だと思う兄の中納言が褒めたのを、少納言が嬉しいと思うかと…自分の心地に愚かだと思う少納言が貶したのを、自分は嬉しくないとか思うと)、告げ聞かせに来たのでしょうよ」とおっしゃられるご様子も、とっても愛でたい。
「このあこめのうはをそひ…この衵の上襲…此の汗衫(かざみ)…子の君の吾こ女の上襲い…これを何色にていたさせましょうか、と聞かれては、好色でしょうよと笑いたくなるのが道理」「ちうせいおしき…中くらいの折敷…中くらいのおし木…ほどよいおとこ」「き…木…おとこ」「ちうせいたかつき…中くらいの高坏…中勢の貴い突き」「きんこうなるものを…謹厚なるものを…字義と反対の意味に戯れて、とっても謹み深く情は薄いものを…いと勤行なるものを…別の意味に戯れて、とっても勤勉に職務を行うのに」「いとめでたし…とっても愛でたい…宮はそのお立場上、人を貶すお言葉はお使いにならない。そんなわけで、かしこし、ほめたる、うれしは反語と聞き、それによる皮肉は、生昌をからかうわたしに向けられて、笑ってはいけません、生昌は、いときんこうなるものを、と仰せになられるご様子のこと」。
生昌の発言では、袙、上襲、中勢、折敷、高坏などであった言葉が、女たちには別の意味にも聞こえている。生昌はそのことに気づいていない。
平惟仲と生昌の兄弟は、道長に「いと勤行なる」人。とすると、宮の「いときんこうなるものを」というお言葉は、二重の皮肉となる。皮肉は骨身に達しない程度の軽く浅い非難のこと、風刺であり時には笑いを伴うもの。ついでながら、あの「紫式部の清少納言批判」は、大なたを弱所に的確に力にまかせて振り下ろした骨身に達する非難で、笑えないでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改訂しました)