帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔五〕大進生昌 その二

2011-02-22 06:02:08 | 古典

 

                    帯とけの枕草子
〔五〕大進生昌 その二



  言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、文の「清げな姿」。文の「心にをかしきところ」を紐解きましょう

 続いて 「男の言葉」が、聞き耳により意味の異なるものである例。


 枕草子〔五〕大進生昌 その二

 姫宮のお付きの童女の装束を調えるようにと仰せられたときに、生昌「このあこめのうはおそひは、何の色にかつかうまつらすべき(この袙の上の衣は、何色にいたさせましょうか…この吾こ女の上襲いは何色にいたさせましょうか)」と申すのを女たちが、また笑うのも道理である。
 「姫宮の御前のものは、例のようでは、よろしくないようです。ちうせいおしき(中くらいの折敷…中勢押し木)に、ちうせいたかつき(中くらいの高杯…中勢貴突き)などがよろしいかとぞんじます」というので、「それでこそ、うはおそひきたらむわらはもまゐりよからめ(それでこそ、上着を着る童女も給仕などしてさしあげよいでしょう…上おそいくるわらわめも山ばに参りよいでしょうよ)」と言うのを、「やはり、普通の男どもを相手にするように、そのように笑ってはいけません。生昌は、いときんこうなる物を(とても謹み深く情が厚いものを…とても慎み深いが情は浅いのに)」と、同情されるのもおかしい。
 
 ものの途中というときに、「大進が、真っ先に申したいと来ています」と取り次ぎが言うのを宮がお聞きになられて、「また、どのようなことを言って、そなたたちに笑われるのでしょう」と仰せになられるのも、またおかしい。「行って聞いてきなさい」と仰せられたので、わざわざ出てみると、「一夜の門のことを、中納言(兄の惟仲)に語りましたところ、たいそう感心されて、どうか適当な折りに気楽にお目にかかって、お話しを承りたいと申しておりました」と言うだけで、他のことは何もない。一夜のこと(双肢五寸開けたこと)を言うのかと、心ときめいたのに、「そのうち、落ち着いた折りに御局にまいります」とかえった。
 「さて、なにごとぞ」と仰せになられたので、生昌の言ったことを、そのとおり申し上げると、女房たちが「わざわざ申し入れてまで、呼び出すべきことではないのでは、なんとなく端に控えている時とか、局に居るような時に、言えばいいのにねえ」と、笑うと、「をのが心ちに、かしこしと思ふ人のほめたる、うれしとや思ふと(自分が心から立派だと思う兄の中納言が褒めたのを、少納言が嬉しいと思うかと…自分の心地に愚かだと思う少納言が貶したのを、自分は嬉しくないとか思うと)、告げ聞かせに来たのでしょうよ」とおっしゃられるご様子も、とっても愛でたい。

 「このあこめのうはをそひ…この衵の上襲…此の汗衫(かざみ)…子の君の吾こ女の上襲い…これを何色にていたさせましょうか、と聞かれては、好色でしょうよと笑いたくなるのが道理」「ちうせいおしき…中くらいの折敷…中くらいのおし木…ほどよいおとこ」「き…木…おとこ」「ちうせいたかつき…中くらいの高坏…中勢の貴い突き」「きんこうなるものを…謹厚なるものを…字義と反対の意味に戯れて、とっても謹み深く情は薄いものを…いと勤行なるものを…別の意味に戯れて、とっても勤勉に職務を行うのに」「いとめでたし…とっても愛でたい…宮はそのお立場上、人を貶すお言葉はお使いにならない。そんなわけで、かしこし、ほめたる、うれしは反語と聞き、それによる皮肉は、生昌をからかうわたしに向けられて、笑ってはいけません、生昌は、いときんこうなるものを、と仰せになられるご様子のこと」。

 生昌の発言では、袙、上襲、中勢、折敷、高坏などであった言葉が、女たちには別の意味にも聞こえている。生昌はそのことに気づいていない。

 平惟仲と生昌の兄弟は、道長に「いと勤行なる」人。とすると、宮の「いときんこうなるものを」というお言葉は、二重の皮肉となる。皮肉は骨身に達しない程度の軽く浅い非難のこと、風刺であり時には笑いを伴うもの。ついでながら、あの「紫式部の清少納言批判」は、大なたを弱所に的確に力にまかせて振り下ろした骨身に達する非難で、笑えないでしょう。


 伝授 清原のおうな
 
 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)






帯とけの枕草子〔五〕大進生昌 その一

2011-02-21 06:08:12 | 古典



                    帯
とけの枕草子
〔五〕大進生昌 その一  


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。

 大進(中宮職の三等官)生昌との会話を通して、言葉が聞き耳によって意味の異なるものであることが原因・理由で「をかし」が生ずるさまを示してある。


 枕草子〔五〕大進生昌 その一

 大進生昌の家に、宮がお出にならるので、東の門は四足門にして、そこより御輿はお入りになられる。北の門より、女房たちの車も、まだ詰め所に役人もいないので入ろうと思って、かしらつきわろき(頭髪の乱れている)人もそれほど繕わず、家屋に寄せて降りるべきものと思い気楽にかまえていたのに、びろうげの車など(高級な牛車)は、門が小さいのでとても入らないので、門から家屋まで例の筵を敷いて降りるので、まったく気に入らず腹立たしいけれども、どうしょうもない。殿上人、地下の男どもも詰所に立ち並んで見ているのも、ほんとうにいまいましい。
 宮の御前に参って、その有り様を申し上げると、「ここでも、男は見ないことがあろうか。どうして、そのようにうちとけてしまっているの(乱れ髪で)」と、お笑いになられる。「ですが、この姿は男が見なれていまして、良く仕立てますとかえって驚く人がいたりいたしましょう」。

 それにしても、これほどの家に車が入らない門があるかしら、見かければ笑ってやりましょうと女房たちと言っているところへ、ちょうど、これを宮に差し上げてくださいと、生昌が御硯などを差し入れる。
 「ちょっと、ひどいじゃありませんか。どうしてその門は、また狭く造って住んでいらっしゃるの」と言うと、笑って、「いへ(家…女…井へ)の程、身のほどに合せてございます」と応える。
 「だけど、門のかぎりをたかうつくる人もありけるは(門だけを高く造る人も昔いたでしょうが…門だけをりっぱに付けている女もいたでしょうが)」というと、生昌は、「あなおそろし(いやあ恐れ入ります…あな恐ろし)」と驚いておいて、「それは于定国(漢の国の人の名)のことでしょう。古い学生ぐらいでないと承知するべきことではございません。私はたまたまこの道に入ったので、このように弁えてはございますが」という。「その御みち(そのご学問の道…この家の路)もよろしくないようね。筵を敷いても、みな窪みに落ちて騒いだことよ」と言うと、「雨(お雨)が降りましたので、そのようなことになってしまったのです。まあいいです言いたいこともございますが、また、言いかけられることがございましょう、退散します」と言ってかえった。
 「何事ですか。生昌がたいそう恐れ入っていたようですね」と宮がお聞きになられる。「何でもございません。車が入らなかったことを言ったのでございます」と申し上げて、局に下がった。

  「車…しゃ…者…もの…おとこ」「門…身の門…女」「見…覯…まぐあい」「いへ…家…女…井辺」「身のほど…身分の程度…わが身のものの程度」「みち…路…道…堂…女」「雨…おとこ雨」。

 このように言葉が戯れているので、門が狭く車が入らないことが笑いの種になる。生昌はこのような言葉の戯れなど心得ていたことは会話に表われているけれども、大まじめなために、その戯れを御しての会話が円滑に続かないので、いささか腹立たしい。
 次はその夜の出来事。


 同じ局に住む若い女房たちと、前後不覚に、眠くなって皆寝てしまった。ここ東の対屋の西の廂の間は、生昌らの居る北の対屋に通じているが、その北側の障子に掛け金がなかったのを、それも詮索しなかった。生昌は家の主人なので、勝手知ったところで開けたのだった。変にしわがれうわずった声で、「おそばに参りたいのですがいかがですか、いかがでしょうか」と何度も言う声に、目覚めて見ると、几帳の後ろに立ててある燈台の光ははっきり見せている。さうじ(障子…双肢)を五寸ばかり開いて言っていることよ。とってもおかしい。さらさら生昌はそのような好き好きしいことは夢にもしないのに、我が家に宮がおわたりになられたというので浮かれて、むやみやたら心のままにするのかしら、と思うのも、とってもおかしい。
 傍らの女房をつつき起こして、「あれをごらん、かゝる見えぬ物のあめるは(あのようにお見えになれない者がいるようよ)」と言うと頭をもたげて見て、ひどく笑う。「あれはたそ、けそうに(そちらは誰よ、懸想人? 怪相人?)」と言うと、「そうではありません。家の主としてあなたと取り決めておくべきことがございます」と言うので、「門のことはですね(狭いと)言いました。さうし(障子…双肢)を開けてくださいと言いましたかしら!」というと、「それに、その門のことも申したいのです。そこに寄せていただきたいのですが如何でしょう、如何でしょうか」というので、「とっても、みぐるしき(見苦しい…身苦しい)こと、それ以上いらっしゃれないのね」といって女たちが、笑ったようで、「若い人がいらっしゃったのですねえ」と言って、生昌はあたふたとかえって行った。
 後に、大笑いする。「(障子…双肢)開けたら、ただ入ってくれば! ここに参っていますと消息を言ったって、よかなり(いいわよどうぞ)と、だれが言えるか」と、ほんとにおかしい。明くる朝、御前に参って、宮に申し上げると、「そのようなことなど、生昌は言いに行ったのではないでしょうに、昨日の門の話に感心して言いに行ったのです。あわれ、彼をはしたなく言ったなんて、かわいそうなことよ」と、お笑いになられる。

 「見えぬ…見えない…まぐあえない」「けそうに…けそうにん…懸想人…恋人…怪相人…おばけ」「見…身」「さうじ…障子…さうし…双肢…両脚」。
 

 見、門、車(者)、家、道(堂)、障子、懸想人(怪相人)などが、字義以外の意味にも戯れる聞き耳異なる「男の言葉」。このような言葉の戯れを知れば、共に笑えなくとも、なぜ笑っているかがわかるでしょう。それがわからなければ、この章を読んだことにならない。


 伝授 清原のおうな
 

 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)




帯とけの枕草子〔三〕同じ言・〔四〕思はん子

2011-02-20 06:07:02 | 古典



                  帯とけの枕草子
〔三〕同じ言 ・ 〔四〕思はん子



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔三〕同じ言

 おなじことなれどもきゝみゝことなるもの、法師のことば、おとこのこと葉、女のことば。げすのこと葉にはかならず文字あまりたり。たらぬこそおかしけれ。
 (同じ言葉だけれども、聞く耳によって異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。外衆の言葉には必ず文字が余っている。足りない方がおかしいことよ……同じ言葉だけれども、聞く耳によって意味の異なるもの、それがわれわれの言葉。圏外の衆の言葉には必ず文字の多義が余っている。言葉足らずに多様な意味を表わすことこそおかしい)。

  「文字あまりたり…文字は多様な意味を孕んでいる、それを踏まえずに用いること」「言葉たらぬ…紀貫之の在原業平の歌の批評(古今集仮名序)の言葉で、そこでは複数の意味を一つの言葉で表現する才を愛でている。帯とけの伊勢物語の業平の歌を一読すればわかるでしょう」「たらぬこそをかしけれ…言葉少なに言葉の孕む多様な意味を生かして用いることはおかしいことよ」。

 同じ言だけれども、受け手によって意味の異なるもの、それが言葉であるとは、今の人々にとっても驚くべき言語観でしょう。まして、過去の言葉の意味など、唯一つ正しい意味を理性が解明できるなどという素朴な言語観に留まっている人は、理解に苦しむでしょう。そして、この章も聞き違えて、男の言葉と女の言葉では、発声の抑揚などが異なることを述べたものと、君は読まされ、読んでいたでしょう。

 次に、「言葉は聞く耳によって(意味の)異なるもの」という具体例を示してあるので、それを聞けば、この章の意味がよくわかるでしょう。
 先ず、法師が日常に用いるような言葉も、聞く耳によって意味の異なるものである例。


 枕草子{四〕思はん子

 思はん子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。たゞ木のはしなどのやうにおもひたるこそ、いといとをしけれ。さうじ物のいとあしきをうちくひ、いぬるをも、わかきは物もゆかしからん、女などのある所をも、などか、いみたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをもやすからずいふ。まいて、げんじやなどはいとくるしげなめり。こうじてうちねぶれば、ねぶりをのみしてなど、とがむるも、いと所せく、いかに覚ゆらん。これは昔のことなめり。いまはいとやすげなり。

 言の戯れを知らぬ聞き耳には、清げに、次のように聞こえるでしょう。
 思いをかけている子どもを法師にしたら、親は心苦しいものだそうよ。小僧をただの木っ端なんぞのように、他人は・思っているのが、親としてはたいそうつらいという。子が精進食の粗末なのを食って寝る生活も。若者は好奇心もあるでしょうに、女などが居る所さえ、どうしてか忌みでもするように見もしないでしょう、そんなことも厳しくいう。まして、修験者などはたいそう苦しそうでしょう。疲れ果てて眠れば、眠ってばかりしてなどと非難がましい。たいそう窮屈で、どんな思いでしょうか。これは昔のことのようで、今はもっと易しいという。

 聞き耳異なれば、次のように聞こえる。
 もの思うであろう子の君を、ほ伏しにしたら、心苦しことよ。それを女がただの木っ端などのように思っているのは、ほんとうにつらいそうよ。生身食のいと悪しきを食って、子の君もその親も寝ているなんてのも。若いものならものに心が向くでしょうに、女などの或るところは、どうしてか忌むでもするように、さしのぞかずでしょう。それをも女は我慢できないように言う。まして、男君が見者ともなると、たいそう苦しいらしい。こうじて、ねぶりだせば、ねぶりをのみしてと、もどかしがる・とがめる。男はほんとうにいたたまれず、どんな思いがするかしら。これは誰かの以前のことようで、今はまったく安泰なようよ。

 言の戯れ、言の心は、次のようなこと。
 「子…こ…し…おとこ」「ほふし…法師…ほ伏し…男の身の一つのものが伏した状態、精神的原因か食物の偏りなどによる」「ほ…穂…秀…ぬきんでたもの…おとこ」「さうじ物…さうじ(ん)もの…精進食…さうし(ん)もの…生身食…生身の動物性食物」「ん…表記されないこともある」「さうじもののいと悪しき…精進食の粗末なの…精進食でないもの…なまぐさもの」「げんじや…験者…修験者…見者…まぐあう者」「見…覯…媾…まぐあい」「ねぶり…眠り…舐り」「とがむる…非難する…他の伝本は、もどかる」「もどく…非難する…もどかる…もどかしがる」。


 枕草子は、心幼き者にはわからない。「言の心」を心得たおとなの女の読むもの。


 伝授 清原のおうな

 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。


帯とけの枕草子〔二〕三月・四月

2011-02-19 06:53:18 | 古典

 

                   帯とけの枕草子
〔二〕三月・四月 



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔二〕三月・四月  

 三月、三日(節句)は、うららかでのどかに日が照っていた。桃の花(百の花)が今咲き始める。柳(し垂れ木)など、趣があるのはなおさらでのこと、それもまだ葉がまゆにこもっているのはいい、広がっているのは気にいらない。花も散った後は、気にいらない感じに見える。
 
 立派に咲いた桜(男花)を長く折って、大きな瓶(うつわもの)に挿したのは趣があることよ。桜(表白裏赤)の直衣に、いだし衣(内衣の色を見せる着こなし)して、客人であれ、ご兄弟の君たちでも、そこ近くに居て、ものなど言っていたこと、とっても趣がある。

   「花…木の花…男花」「柳…男木…しだれ木…し垂れ木」「桜…木の花…男花」「木…男」「かめ…瓶…うつわもの…女」。
  言葉は、このように字義を大きくはみ出て多様に戯れる、そこに艶なる余情が顕われる。


 四月、祭りの頃、とっても風情がある。上達部、殿上人も、袍(正装の上着)、濃いか薄いかだけの違いで白の内衣など同じ様で涼しげでいい。
 
 木々の木の葉、まだひどく茂ってはいないで、若やいで青みがかっているので、霞みも霧も同じく白くて、空の景色(女の気色)、なんとなく心ひかれておかしいときに、夜など、忍んでいる郭公(忍びたる且つ乞う女)の、遠くそら耳かと思えるばかりにたどたどしいのを聞きつけたならば、なに心地がするだろうか。
 
 祭り近くなって、青朽葉、二藍の布をしっかり巻いて、紙などにほんの少し押し包んで持って行き交っているのは、風情があることよ。すそ濃染め、むら濃染め、巻染めなども、常よりは趣があるように見える。
 子供たちが、頭ばかりを洗い繕って、身なりはみなほころび絶え、乱れかかったのもあるが、高げた、くつなどに、「緒をすげてよ、裏を付けてよ」などと騒ぎまわって、いつしかその日になるのだろうと祭りの用意するのも、とってもかわいいことよ。 
 あやしく踊りまわる者たちが、装束を新しく仕立てて、たいそうに定者とか言う先導の法師のように練り歩きさまよう。子供たちがどれほど心配なことか、ことあるごとに、親、叔母の女、姉などが供について、衣や髪の乱れを繕いながら連れて歩くのも趣きがある。
 蔵人になりたいと思い込んでいる人が、たやすくはなれないで、この祭りの日に青色(蔵人の衣色)着たのは、やがて脱がないでいられないものかなあと思える。綾織物でないのはわるい。  

  「そら…空…天…あめ…女」「気色…景色…気分」「郭公…ほととぎす…鳥…女…カッコウ…且つ乞う」。


 言の戯れを知り言の心を心得た大人であれば、文の清げな姿と共に艶なるところを感じることが出来るでしょう。
 
 大内裏のうららかな風物の記録も、四月で敢えて終わっている。実は、宮の内のうららかだったのは、長徳元年(995年)四月に、殿(藤原道隆)が亡くなられるまでのこと。殿亡き後は、中宮におかれては、つらい月日となった。中宮の兄弟は道長によって京を追い払われ、里の家は焼け落ち、中宮の立場にもひしひしと道長の圧力がかかってきた。 

 宮の内に、華やぎや大人の女たちの笑い声が、消える状況となった。誰の所為か。この章には言外にこのような心が表されてある。それは、そのように「聞く耳」のある者にだけ聞こえるでしょう。
 枕草子の「清げな姿」や「心におかしきところ」はともかく、「深い心」は何かと、もしも聞く人があれば、道長とその周辺に対する秘かな諷刺の心であると答え給え。


 伝授 清原のおうな

 聞書   かき人しらず



帯とけの枕草子〔二〕正月

2011-02-18 06:09:57 | 古典

 

                     帯とけの枕草子
〔二〕正月
 


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔二〕正月

  正月一日は、まいて、空のけしきもうらうらと、めづらしうかすみこめたるに、世にありとある人はみな、すがたかたち心ことにつくろひ、君をも我をもいはひなどしたるさま、ことにをかし。

  清げな読み
  正月一日は、まして、空の景色もうららかで、愛でたいほど霞みがこもって、世の中の人はみな容姿と心をいつもとは異に取り繕って、君をも我をも祝ったりしている様子、殊に趣がある。

  艶なるところ
  睦月つい立ちは、まして、女の気色もうららかで、愛でたいほど霞こもって真っ白、男女の仲にある女はみな容姿と心をいつもとは異に取り繕って、男君をも我をも祝ったりしている様子、とりわけおかしい。

  心得るべき言の戯れ
  「空…天…あま…女」「けしき…景色…気色…気分」「かすみ…霞…春霞…白」「世…男女の仲…夜」。

 
 以下、原文は省略する。清げな読みを示した。艶なる情は、同時に、「言の心」を心得た大人であれば、感じることができるでしょう。

  七日、雪間の若菜(白ゆきにまみれた若い女)摘み、青いまま、常にはそのようなものに、お目にかからない所で、もてはやし騒いでいるのが、おかしいことよ。
  白馬(あをむま)を見るとて、里の女たちは車を清げに仕立てて見に行く。中御門の下の横木をひき過ぎるとき、頭が一所に揺れあって、挿し櫛(差し具肢)も落ち、用心していないので、折れ(逝き)て笑うのも、またおかしい。
  左衛門の陣のもとに殿上人などあまた立っていて、舎人が弓などとって、馬どもを驚かし笑っているので、そっと見ていれば、立蔀などが見えているところに、主殿寮の官人、女官などが行き交っているが趣あることよ。どれほどの人が、九重を、慣れ親しむのだろうなどと思いやられるうちに、内裏も見ると、とっても狭い様子で、舎人の顔の地肌が表れて、ほんとに黒くて、白化粧のいきつかない所は、雪(白ゆき)がむらむらと消え残った心地してとっても見苦しく、馬が立ち上がって騒ぐのなどもとっても恐ろしく見えるので、引き下がってよくは見ない。

  八日(叙位の翌日)、人が喜んで走らせる車の音、常とは異なって聞こえておかしい。

  「雪まのわかな…雪の間の若菜…白ゆきにまみれた若い女」「雪…白ゆき…おとこの情念…おとこの魂」「菜…草…女」「つみ…摘み…採り…引き…めとり」「白馬…あをむま…吾をうま」「白…おとこの色」「むま…うま…こま…おとこ」 「さしぐし…挿し櫛…さし具肢…おとこ」。 

  このような言の戯れを心得て、読めば清げな読みとともに「艶なる情」が聞きとれて、青い若菜をもて騒ぐことや、櫛が折れて女たちが笑うのも納得できるでしょう。また、紫式部が清少納言を「艶になりぬる人」というわけもわかるでしょう。

 十五日、節供(粥の御膳)などを据え、粥を炊いた木を隠し持って、家の上の女房たちが窺うのを、打たれないようにと用心して、家の女たちが常に後ろを気にしている様子もおかしいのに、どうしたことか、打ち当てたところが、たいそうにおもしろがって笑いだすのも、とっても華やいでいる。打たれた女がくやしいと思うのが道理である。
  新しく通う婿の君などが女と共に、大内裏へ参るときも、じれったく所につけても我はと思って妬む女房が、様子を窺い気色ばみ奥の方にたたずんでいるので、前に居る人たちが事情を心得ていて笑うのを、待ち受ける女房が「しずかに」と手で合図して制止しているけれども、女は知らぬ顔でおっとりとしていらっしゃる。女房が「此処なる物取り侍らん(こ子成るものおりするわよ)」などと言い、走り寄って、女のうしろ打ち逃げれば、居あわす人みな笑う。男君も憎からずほほ笑んで居るが、とくに驚かず、顔がすこし赤らんでいるのがおかしいことよ。また、女どうしお互いに打って、男をさえ打つようである。どうした心だろうか、泣き腹立てて人を呪い、いまいましく言う者もいるのがおかしいことよ。内裏辺りの格別な人も、今日はみな乱れて畏まり無し。 
  除目(任官の儀)の頃など、内裏の辺りとってもおかしい。雪が降りひどく凍っているのに申し文もってまわる。四位、五位の者が若やかに心地よい様子なのは、とっても頼もしげである。老いて頭の白い者が人に、事情を言い、女房のつぼねなどに寄って、己が身の賢き由(おのが身の立派なわけ)など、一心に心をわって説き聞かせるのを、若い女房たちは真似して笑うけれど、どうして知るのでしょう(如何にしてそれ感知するのかしら)、「よろしく奏上してください、申し上げてください」なんて言っても。(官位)得たのはいい、得られなかったのは、とってもあわれである。

 「ここなる物とり侍らん…此処なる物お取りするわ…子子生るもの取り侍らん」 「木…男」「うしろを打つ…粥の木で若妻のお尻を打てば子が授かるという俗信」「おのがみ…己が身…おとこ…おのが見…おのがまぐあい」「かしこき…賢き…優れている…立派な…樫子木」「いかでかしらむ…如何にして知るのだろう…井かでか知らむ」「井…女」。

  言の戯れを知り、上のような連想が働けば、共に笑えないにしても、女たちの笑いは理解できるでしょう。 正月の楽しく華やいだ様や、女たちの笑いを、あえて記してある。

 このような笑い声の消える時が、まもなくやってきた。
 殿(道隆)亡き後、宮(定子中宮)の兄弟は、道隆の弟の道長に都を追い払われ、中宮の立場も道長に追い詰められて、つらい状況となった。それでも、泣き言は書かない。枕草子は、「おかしきことを見過ごさぬよう」勤め、その大人の女の笑いを記し、また、以前の華やいでいた事を記し、宮(定子中宮)に差し上げた女房の記録である。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人しらず      (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、岩波書店 新 日本文学大系 枕草子による。