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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。ものに「包む」ように表現されて有り、それは、俊成の言う通り、まさに「煩悩」であった。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (八十三) 皇太后宮大夫俊成
(八十三) 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなり
(世の中よ、平穏な・道なんて無かったなあ、遁世しようと・思い入る山の奥にも、鹿さえ、鳴いているようだ……女と男の夜の仲よ、平坦な・道なんて無かったなあ、思い火に入る山ばの奥でも、肢下ぞ、泣くのである、求めて・尽きて)
言の戯れと言の心
「世の中…世間…俗世…男女の仲…おんなとおとこの夜の中」「道…人の生きて行くべき道…山ばへ上る路」「けれ…けり…過去・回想・気付き・詠嘆の意を表す」「思ひ…思い…憂い…願い…思い火…情熱の炎」「山…山寺…修行の地…山ば…有頂天…絶頂」「奥…深い…女…おんな」「鹿…生きとし生けるもの…肢下…おんな・おとこ」「鳴く…何かを乞う…泣く…何かを求める・願う…涙を流す…汝身唾をこぼす」「なり…推定…(聞こえるのでそう)らしい…断定…である」。
歌の清げな姿は、生きとし生けるもの、皆、歌謡を発す(古今集仮名と真名序)。生きる道のりは苦しく辛いのである。
心におかしきところは、肢下も、山ばに入るや有頂天への途上でなみだを流す、なお求めてまた尽きて泣くのである。
千載和歌集 雑歌中 詞書「述懐の百首の歌よみ侍りける時、しかの歌とてよめる」 皇太后宮大夫俊成。
藤原俊成は、定家の父、千載和歌集撰者、歌論書『古来風躰抄』の著者。六十三歳にて出家。和歌を解くなら、この人の歌論に学ぶべきである。貫之と公任の歌論を深く理解した上で歌に付いて述べている。
定家は貫之の歌よりも、より妖艶な余情の有る業平の歌の方がお好きだったようである。業平の「世の中」を詠んだ歌を聞きましょう。伊勢物語(84)。長岡京に住む母より、急な便りを受け取る。歌あり「老いぬればさらぬ別れの有りと言えばいよいよ見まくほし君かな(母は老い、いよいよ別れのよう、我が子に逢いたくなりました……感極まれば、ますます、見まく欲しの君の貴身かな・心配していますよ)」とある。業平、泣きながらこの歌を詠んで逢いに行く。
世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もといのる人の子のため
(世の中に、避けられない別れが無かったらいいのになあ、母の寿命・千代もと祈る人の子の為……女と男の夜の中に、避けられない、峰の別れが無くて欲しいな、千夜もと井のる人の子の貴身のために)
平安時代に一義な歌など一首も無い。和歌は、表と裏、字義と戯れの意味、清げな姿と人の生の性情、高音と低音の協和音である。