帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (七十九) 左京大夫顕輔 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-21 19:31:36 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 『百人一首』の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の表現様式を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、歌の「心におかしきところ」を享受してみれば、国文学の解釈とは大きく隔たり、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なる驚くべき文芸であった。
このように言いきれるのは、すでに数多くの和歌の「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が、心に伝わったからである。それは、ものに「包む」ように表現されて有り、まさに「煩悩」であったからである。今のところ、これ以上に、わが和歌解釈の正当性を論理的に説明し証明する方法はない。

今の人々は、上の歌論と言語観を無視した国文学的解釈に否応なく絡められ慣らされているため、歌言葉の戯れの意味に違和感を覚え、まして、歌の奥に顕れる深くも妖艶なエロスに心を背けるだろう。しかしやがて、和歌の真髄に気付いてもらえるだろう、人の心の本音だから。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十九) 左京大夫顕輔


   (七十九)  
秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ

(秋風にたなびく雲の絶え間より、こぼれ出る月の光の清らかなことよ……飽き足りた心風に、たなびく心雲の・保つ色欲の、絶え間より、もれでた月人壮士の陰の、すっきりと澄んださまよ)

 

言の戯れと言の心

 「秋風…飽き風…厭き風」「かぜ…心に吹く風」「たなびく…棚引く…横に長く連なる…ある高みを保っている」「雲…空の雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲・色欲など…煩悩…仏教以前はこれを、八雲といった」「月…月人壮士…男…おとこ」「かげ…影…光…陰…かげり…おとこ」「さやけさ…爽快さ…澄んださま…すっきりしたさま…色欲など尽きたさま…体言止めで余情がある」。

 

歌の清げな姿は、秋の名月、雲絶えて、月の光の清らかなさま。

心におかしきところは、思いし萎えて、涸れ尽き空しき筒となると、古来より、ものの果てのおとこは表現されてきたが、「さやけさ」は新境地を拓いたかな。

 

新古今和歌集 秋歌上、詞書「崇徳院に百首歌奉りけるに」。藤原顕輔(10901155)は、『詞花和歌集』の撰者。崇徳院別当。正三位左京大夫。


 

歌言葉の「言の心」と戯れの意味について


 今の人々は、唐突に「月の言の心は男である」など言われれば、拒絶反応を起こすだろう。月人壮士・月人壮子・月よみをとこ・ささらえをとこ、これらは、万葉集においての月の別名で、この時代、月は男又はおとこであった。平安時代にはこれらの言葉は消えたけれども、月の「言の心」として残っていたのである。月がなぜ男なのかという問いは背理である。言葉の意味に理由などなくて、その文脈で通用していれば、その意味は在るのである。男は夕方、気まぐれにやって来て、朝方帰って行く通い婚の時代には、月が男と言う「言の心」があっても何の違和感もないだろう。「月」を詠んだ多くの和歌を、男又はおとことして聞き、歌の意味が通じたならば、月は男またはおとこだったのである。更に、厄介な事に、「つき」には、付き、突き、尽きなど多様な意味がある。この歌で言えば、「あき」「かぜ」「くも」「ま」「かげ」にも同じように、言の心や戯れの複数意味がある。「女の言葉(和歌の言葉)は聞き耳異なるもの」という清少納言や、「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似た戯れ」という俊成の言語観の正当な事を知るだろう。

 
 奇妙な「国文学的解釈」について


 歌言葉の意味の重要な部分が、鎌倉時代より歌の家の秘伝となり始め、やがて伝授も秘伝も江戸時代には埋もれ木となった。江戸時代の国学とその後の国文学は、「秘伝」など解明すべくもないので無視したのはいいが、平安時代の歌論や言語観を曲解し無視して、自らの文脈に「和歌の解釈」を構築した。「序詞」「掛詞」「縁語」などを和歌の修辞法とするものであるが、砂上の楼閣である。今や、国文学そのものが衰退して終焉を迎えそうである。このままでは、和歌は、国文学に曲解されたまま、埋もれ木は朽ち果ててしまうのである。


「小倉百人一首」 (七十八) 源兼昌 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-20 19:27:41 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 『百人一首』の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の表現様式を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、歌の「心におかしきところ」を享受してみれば、国文学の解釈とは大きく隔たり、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なる驚くべき文芸であった。
このように言いきれるのは、すでに数多くの和歌の「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が、心に伝わったからである。それは、ものに「包む」ように表現されて有り、まさに「煩悩」であったからである。今のところ、これ以上に、わが和歌解釈の正当性を論理的に説明する方法はない。

今の人々は、上の歌論と言語観を無視した国文学的解釈に否応なく絡められ慣らされているため、歌言葉の戯れの意味に違和感を覚え、まして、歌の奥に顕れる深くも妖艶なエロスに心を背けるだろう。しかしやがて、和歌の真髄に気付いてもらえるだろう、人の心の本音だから。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十八) 源兼昌


  (七十八)
 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ須摩の関守

(淡路島、行き通う千鳥の鳴く声に、幾夜、寝覚めたことか、須摩の関守よ……淡路し間・合わじ肢ま、情け通わす、女の泣く声に、逝く夜・起されたか、洲間の・巣魔の、門盛る男よ)


 言の戯れと言の心

「淡路島…島の名…名は戯れる。淡い通い路の肢間…淡いおんな…合はじ肢間…和合ならぬおんな」「かよふ…通う…往来する…交遊する…ものが行き来する」「千鳥…水辺に群れる小鳥の名…しば鳴く鳥…泣く女…言の心は女(あふみのみ夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのに いにしへ思ほゆ・と人麻呂が詠んだのは、恐らく壬申の乱で逃げ惑い、泣く女たちのイメージ)」「声…鳴く声…泣く声」「ねざめぬ…寝覚めた…眠りを覚まされた…起された」「須摩…すま…地名…名は戯れる。洲間、巣間、巣魔、おんな」「関…せき…関所…関門…門…と…身の門…おんな」「門…と…言の心は女…おんな」「もり…守る人…見守るべき男…門を盛り上げるべきおとこ」。

 

歌の清げな姿は、淡路島の千鳥、須摩の関所あたりに飛来して、しば鳴く冬の夜の風情。

心におかしきところは、しきりに乞いして泣く女に、す間の盛りを見守るべきおとこの悲哀。

 

金葉和歌集 冬部 源兼昌、「関路千鳥といへることをよめる」。



 源兼昌は、堀河院百首歌や法性寺入道前関白太政大臣忠頼の歌合などに出品していた人。勅撰集に入る歌は計七首ばかりで少ないが、この歌は、定家の歌論にも適って秀逸の歌である。


 定家は「毎月抄」で、次のように述べていることは(一)の冒頭に示した。今なら曲がりなりにも読みとけそうである。

秀逸の歌は「先ず、心深く、たけ高く巧みに言葉の外まで余れる様にて、姿けだかく、詞なべて続け難きが、しかも安らかに聞こゆるやうにて、おもしろく、幽かなる景趣たち添ひて、面影ただならず、気色は然るから、心も、そぞろかぬ歌にて侍り」

 

この優れた歌は、先ず、女と男の性(さが)の性格の永遠の違いを表して深い心がある。

空高く飛来して来た千鳥の群れが、ぬばたまの夜、何かを求めて鳴く風情は巧みで、言葉以上に余情を感じさせる。この「清げな姿」は気高く、普通の言葉が並んで続け難いものなのに妙に安らかな調べがあるように感じ快い。

幽かなる玄之又玄なるところに、性愛の趣きが添えられてあって、そのさま、ただならぬ気色であるが、心も、ただ漫然と浮つかない歌である。


「小倉百人一首」 (七十七) 崇徳院  平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-19 19:31:32 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十七) 崇徳院


  (七十七) 
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

(瀬の流れが早いために、岩に堰かれる滝川のように、分かれても末には、必ず合流・きっと逢う、だろうと思う……浅背が流れ早すぎるために井端にせかれる、多気女のように、もの・砕けさけても、末に・す江に、合おうと思うぞ)


 言の戯れと言の心

「瀬をはやみ…浅瀬の流れ早いので…背のおとこ早いので」「岩…言の心は女…井端…おんな」「せかるる…堰かるる…堰き止められる…せかれる…あせらされる…せっつかれる」「るる…受身の意を表す」「滝…言の心は女…多気…多情」「川…言の心は女」「の…のように…比喩を表す」「われ…分れ…割れ…砕け」「すえに…末に…あの世で…す江で」「す・江…言の心はおんな」「あはむ…合流するだろう…逢おう…合おう」「む…推量を表す…意志を表す」。

 

歌の清げな姿は、たき川のような或る女と離れ難い青年男子の恋心。

心におかしきところは、わかれても末に、逝ってもあの世で合おうと、おとこの堅い意志を井端に伝えた。

 

詞花和歌集 恋上、題不知、新院御製。

二十数歳の時に譲位して新院となられた。内裏を離れゆく女人への恋歌と思っていいだろう。

 

後の世の人は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となった崇徳院の、京を離れる際の、最愛の女人へ再会を期した、御歌と聞いてもいい。その心根に変わりはない。歌の言葉(女の言葉)は「聞き耳異なるもの」であると清少納言は言った。また、古今集真名序に、和歌は「其の根を心地に託し 其の華を詞林に発するもの也」とあるが、言わば、和歌は心底に根を這わせ、生々しい心を、清げな言の葉にして花と咲かせたものである。歌の生の心は、たとえ時を隔てても、人の心に直に伝わるものである。


「小倉百人一首」 (七十六) 法性寺入道前関白太政大臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-18 19:29:10 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義


 
 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十六) 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通・出家してこう呼ばれたのは六十五歳以降。院政のもと、二十五歳で関白となり失脚・復活を経験して六十二歳で引退した)


  (七十六)
 わたの原こぎいでて見れば久方の 雲ゐにまがふ沖つ白浪

(大海原、漕ぎ出でて見れば、久方の雲居にまちがえそうな、沖の白浪……綿の腹・をうな腹、こき出でて見れば、久しき方の雲井に、いりみだれる奥つ白汝身)

 

言の戯れと言の心

「わたの原…わたつみ…海原…大海原…それぞれが戯れの意味を孕む。わたるうみ、産み腹、をうなはら・女腹、綿のように柔らかい腹」「海…産み…言の心は女」「原…腹」「こぎ…漕ぎ…扱ぎ…こき…体外に出し」「見…目で見る…めとり…覯…媾…まぐあい」「久方の…枕詞…久しき方…女」「雲ゐ…雲居…天…有頂天…雲井…女の情欲の頂点」「雲…心に煩わしくもわき立つもの…情欲・色情など…煩悩」「井…言の心は女」「まがふ…紛れる…間違う…入り乱れる」「沖つ…奥の」「白浪…白汝身…白妙の身…白絶えの身」「白…おとこのものの色…白つゆ」「なみ…浪…波…汝身…親しきもの…身の一つのもの…おとこ・おんな」

 

歌の清げな姿は、海上の遠くに見える白雲と白波の景色。

心におかしきところは、久しき性愛の果て心雲残る井の奥のありさま。

 

詞花和歌集 雑下、詞書「新院位におはしましし時、『海上遠望』といふことをよませ給けるによめる」。(新しく院になられた崇徳上皇が天皇の位に在られたときの題詠の歌)。保元の乱の二十一年前ののどかだった内裏歌合の歌。


 

古今集仮名序の貫之の主張「今の世の中、色好みに堕した歌となった。人麻呂、赤人の歌に帰れ」に、百年ぶりに倣った歌のようである。


 人麻呂の歌、
ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく船をしぞ思ふ

(清げな姿は海上遠望)……ほのぼのと夜を明かしの、心の浅切りに、肢間隠れ、逝く夫根を惜しいと思う……(心におかしきところは、ものの果てのありさま)。

「うら…浦…心…裏…陰」「あさ…朝…浅」「きり…霧…限…切り…限度」「しま…島…肢間…おんな」「ふね…船…夫根…おとこ」。

 

赤人の歌、田子の浦ゆうちいでて見れば 白妙の富士の高嶺にゆきはふりつつ

 (清げな姿は海上遠望)……多情のをんなごの裏にうち出でて見れば、白絶えの不二の高嶺に、白ゆきふり筒……(心におかしきところは、ものの果てのありさま)。

 「たご…所の名…名は戯れる。田子、多子、女子」「田…言の心は女…多…多情」「見…覯…媾…まぐあい」「白妙…白絶え」「富士…不二…二つとない…二度とない」「ゆき…白ゆき…おとこの情念…白つゆ」「つつ…継続を表す…筒…中空…むなしい」。


「小倉百人一首」 (七十五) 藤原基俊  平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-17 19:37:09 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。

 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十五) 藤原基俊


  (七十五)
 ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり

千切り置いたさせも草の、はかなく消える・露を命の証しとして、あはれ今年の秋も去ってしまったようだ……情けを交わし贈り置いた、させもが草の・くすぶりつづく女の、白つゆを、はかない我がものの・命として、あはれ、こ疾しの飽きも、逝ってしまったようだ)


 言の戯れと言の心

「ちぎり…千切り…契り…約束…女と男の交情」「おきし…置いた…(露が)降りた…送り降りた…贈り置いた」「させも…草の名…名は戯れる。もぐさの原料、くすぶるもの、燃え上がらぬもの」「草…言の心は女…若草の妻などと用いられた」「露…秋の露…白露…おとこ白つゆ」「あはれ…愛しい…感嘆…哀れ…悲嘆」「今年…本年…こ疾し…これ急速…これ一瞬…おとこのさが」「秋…季節の秋…飽き…厭き」「いぬ…往ぬ…去る…死ぬ…逝く」「ぬ…完了を表す」「めり…推量を表す」。

 

歌の清げな姿は、年毎に老境に入る男の歌。

心におかしきところは、消えやすい白つゆの命のように、この夜でのわが汝おも、あはれ、飽き果てたようだ。

 

千載和歌集 雑歌上 詞書「律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたびもれにければ、法性寺入道前太政大臣にうらみ申しけるを、しめぢがはらと侍りけれども、又そのとしももれにければ、よみてつかはしける」。

 

光覚は基俊の子息で、入道前太政大臣忠通は維摩会の主催者という。

光覚が講師の役を申請していたのに度々もれたので、うらみ言を申したところ、
 
 なほ頼めしめぢが原のさせも草 われ世の中に在らん限りは
(それでも猶たのみ給え、しめぢが原のさせもくさ・効き目あるはず、われ世の中に在る限りは……猶も・汝おも、頼めよ、門・閉めない腹のうちの、させも女、おのれ、夜の中に健在である限りはね)

 このような古歌を引用しての返事だったが、今年も又漏れたので、詠んで遣った歌。


 藤原基俊は藤原俊成の歌の師であった。忠通より三十歳ばかり年長。忠通は三十数歳で関白太政大臣であったが、この時代は、天皇・太政大臣よりも、上皇が実権を握っておられた、院政の時代であった。