帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (209)いとはやもなきぬるかりか白露の

2017-04-24 19:12:03 | 古典

            

 

                        帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 209

 

(題しらず)                  (よみ人しらず)

いとはやもなきぬるかりか白露の いろどる木ゞももみぢあへなくに

(詠み人知らず、男の詠んだ歌として聞く)

(とっても早く鳴きだした雁だなあ、白露が彩るという木々の紅葉も もみじしきれないのに……とっても早く泣きだしたかりする女だなあ、おとこ白つゆが、色取るという、おとこ木の気も、も見じ、しきれないのに)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「いと…たいそう…非常に…とっても」「かり…雁…鳥…言の心は女…刈・狩・めとり…まぐあい」「白露…秋の露…おとこ白つゆ…飽きのつゆ」「の…が…主語を示す」「いろどる…彩る…彩色する…紅葉色にする…色取る…色情を取り去る」「木ゞ…木々…木の気…木の言の心は男…梅桜柳藤こき混ぜて男、ただし松は例外で女」「もみぢ…紅葉…あきの色…も見じ…妹・女見じ…もうみまいだろう」「見…覯…媾…まぐあい」「じ…打消しの意志を表す…しないつもり」「あへなくに…しきれていないのに…し尽くしていないのに」。

 

早くも来て鳴く雁よ、白露が彩る木々の紅葉も、未だ・色彩付き終えていないのに。――歌の清げな姿。

早くも泣いた、かりする女よ、おとこ白つゆが色情取る男木の気も、いまだ色尽きていないのに。――心におかしきところ。

 

「いと早く、かりする女が泣いた、我が白つゆが、身の枝の色情を取って、も見じ、と思っていなうのに」は、和合なったさまで、おとこ自慢だろうか。

 

よみ人しらずの、前の女歌と、この男歌は、珍しくも愛でたき和合なった情況を詠んだ歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)




帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (208)わが門にいなおほせ鳥のなくなへに

2017-04-22 19:14:17 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 208

 

題しらず                よみ人しらず

わが門にいなおほせ鳥のなくなへに けさ吹風にかりはきにけり
                             
(詠み人知らず、女の詠んだ歌として聞く)

(わが門に、いなおほせ鳥が鳴くとともに、今朝吹く風にのって、雁は飛来したことよ……わたしの門にて、否、嫌、離れるのは・いやよと、仰せの鳥・言うわたし、泣くとすぐに、朝、吹く色情の心風に、かりは再来したことよ)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「かど…門…と…身の門…おんな」「いなおほせ鳥…(国文学は、稲負鳥として、実体は不明とする。たぶん古今伝授などでその秘密の意味は伝えられたが、無常にも消えたのだろう。歌も意味不明となる)…稲穂背負った小鳥、秋の収穫時期の雀と思われる…(浮言綺語の如き戯れの意味は)否仰せ女…いやよいやよと泣く女」「鳥…言の心は神代から女」。「なく…鳴く…泣く」「なへに…とともに…とたちまち…とすぐに」「けさ…今朝…通い婚の夫が帰る時…夜のつとめ終えた後…朝あらためて」「風…季節風…心に吹く風・ここでは色情の心風」「かり…雁…狩・刈…めとり…まぐあい」「けり…感嘆・詠嘆を表す」。


  今の人々も、「古事記」などを読み直せば、草や鳥が女であることは心得られる。

八千矛の神が、賢く麗しい沼河姫を娶ろうと、その家の門前に立って、板戸を押したり引いたり乱暴なので、青山の「ぬえは鳴き、さぬつ鳥、きぎしはとよむ、庭つ鳥、かけは鳴く(要するに、女官、女房たちが泣き叫ぶので)、打ち止めさせろ」という。沼河姫は戸を開かず内よりお応えになられた、われらは「ぬえ草の女にしあれば、我が心浦洲の鳥ぞ、今こそは我鳥にあらめ、後は汝鳥にあらむを、命は、な死せたまひそ」。この神世、既に、草や鳥の「言の心」は女であった。

 

我が門口で、稲穂背負った小鳥が鳴くとともに、今朝吹く秋風にのって、雁は飛来したことよ。――歌の清げな姿。

わたしの門に、いやよ、離れるのはいやと仰せの小鳥が、泣くとたちまち、朝、吹く色情の風に、かりは再来した、あゝ。――心におかしきところ。

 

秋の朝の風情を清げな姿にして、朝、女の心に思う、珍しくも愛でたき情況を、言い出した歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (207)秋風に初雁が音ぞきこゆなる

2017-04-21 20:00:43 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 207

 

是貞親王家歌合の歌             友則

秋風にはつかりがねぞきこゆなる 誰が玉づさをかけて来つらむ

是貞親王家(寛平の御時、宇多天皇と御兄弟のお方の家)の歌合の歌。とものり(古今集撰者の一人)

(秋風にのって、初雁の声が、聞えている、誰の大切な便りを携えて来たのだろうか……心に吹く飽き風に、女の初かりの声が聞こえるようだ、誰が、玉づさぶらさげて、来たのだろうか)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋風…飽き風…飽き満ち足りた心に吹く風…厭き風…厭き厭きする心風」「に…によって…のために」「はつかり…初雁…この秋初めて飛来した雁…鳥の言の心は女…初狩り…初刈…初めとり…初体験」「かり…刈る・採る・娶る…まぐあう」「ね…音…声」「なる…なり…推定・断定の意を表す…成る…熟る…萎る…なえる」「たまづさ…玉章・玉梓…手紙…便り…消息」「玉…美称…大切なもの…二つ有る玉」「づさ…頭さ…ものの頭…さ…接尾語」「を…対象を示す…お…おとこ」「かけて…掛けて…携えて…懸けて…ぶらさげて」「らむ…推量する意を表す」。

 

秋風に、初雁の声が聞こえている、誰の大切な便りを携えて飛来したのだろう。――歌の清げな姿。

飽き満ち足りた風に、初かりの女の声が聞こえる、誰が貴重な玉、かしらを、ぶらさげて来たのだろうか。――心におかしきところ。

 

あえて第三者として、女と男のエロス(性愛・生の本能)を、声と玉づさで、表現した歌のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)




帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (206)待つ人にあらぬものからはつかりの

2017-04-20 20:19:37 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                             ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 206

 

はつかりをよめる            在原元方

待つ人にあらぬものからはつかりの 今朝なく声のめづらしき哉

初雁を詠んだと思われる・歌……初のかりを詠んだらしい・歌。  もとかた

(待つ人ではありはしないけれど、初雁の今朝鳴く声が、珍しくて嬉しいことよ……期待した女ではなのに、初かりの、今朝、泣く声の、新鮮で好ましいことよ)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「待つ…人やものの来るのを望み控えている…期待する」「人…女」「あらぬ…ありはしない…意外な…相応しくない」「ものから…ものだから…ものなのに」「はつかり…初雁…その年の秋に初めて飛来した渡り鳥…初狩り…初刈り…初めてのまぐあい」「雁…鳥…鳥の言の心は女…刈・採る、狩・獲る、めとり・まぐあい」「けさ…今朝…夜の果て方」「なく…鳴く…泣く…喜びに泣く」「めづらし…称賛すべきさま…新鮮で賞美すべきさま…好ましいさま」「哉…や…疑いを表す…かな…感動を表す」。

 

雁を擬人化して、待っていた人ではないが、この秋初めて聞く声は、新鮮で好ましいなあ。――歌の清げな姿。

少年のような発想を、そのまま言葉にしたとしか思えないが、歌の見かけの姿である。

初めてのかり、期待していなかった女が、飽き満ちた朝の浮天に泣く声、男の新鮮な感動の表出。――心におかしきところ。

 

この歌では「かり」と言う言葉の、この文脈では通用していた意味を心得るだけで、歌の多重の意味が顕れる。

男が体験したのか、夢想したのか、わからないけれど、性愛の果ての朝の、男が願望する理想的な情況に、新鮮な感動を覚えるさまを詠んだ歌のようである。

 

和歌は、一つの言葉が多様な意味を孕んでいることを、全て引き受けた上で詠まれてある。同じ文脈に在る聞き手は、多様な言葉の意味候補の中から直感的に幾つか選び、歌の多重の意味を聞き取ることができる。この文脈にかぎり通用していた言葉の意味があった。これを、貫之は「言の心」と言ったのだろう。その上に、言葉の意味は多様に戯れる。これを俊成は「浮言綺語に似た戯れ」と言った。それによって、歌の多重の意味は聞き手の心に伝わっていたのである。言葉の意味も無常である。今ではほとんど消えている。

 

古今和歌集の歌を、品に上中下があっても、優れた歌として、公任の歌論で紐解き直し、歌の「心におかしきところ」を現代語で再構成して、今の人々の心に伝えることは出来るだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (205)ひぐらしのなく山さとの夕暮れは

2017-04-19 19:26:10 | 古典

            

 

                       帯とけの古今和歌集

                  ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 205

 

(題しらず)             (よみ人しらず)

ひぐらしのなく山さとの夕暮れは 風よりほかにとふ人もなし
                                 
(詠み人知らず、女の詠んだ歌として聞く)

(ひぐらし蝉の鳴く山里の夕暮れは、秋の風よりほかに、訪う人もいない……灯暗し背身の泣く、山ばのさ門のものの果て方は、厭きの心風より、ほかに、訪う男もなし)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひぐらし…蝉の名…名は戯れる、日暮らし、灯暗し」「くらし…暗し…心暗い…活気なし」「なく…鳴く…泣く…涙を流す…汝身唾を流す」「山…山ば…感情の山ば」「さと…里…里の言の心は女…さ門…おんな」「夕暮れ…日の暮れ…ものの果て」「風…秋風…涼風…厭き風…心に吹く寒風」「人も…男も…男もそのものも」「も…並列を表す…同類の事柄が他にもあることを暗示する…人も(その貴身も)」。

 

秋の夕暮れ、山里の人影のない、寂しい風情。――歌の清げな姿。

暗し背身の汝身唾流す山ばのさ門は、厭きの心風よりほかに、訪う人も、あの貴身もなし。――心におかしきところ。

 

山里の秋の夕暮れの風情を「清げな姿」にして、さ門の山ばで、あき風吹かせて活気失せた貴身を、嘆く女の思いを言い出した歌のようである。

 

女歌三首、男歌二首挟んで、女歌三首、計八首のよみ人しらずの歌が並べられてある。歌の出所は寛平の御時に行われた歌合の歌ではないかと思われる。合わされた歌との競艶となり、より露わとなる歌のエロス(性愛・生の本能)を、歌合に出席に人々は楽しんだのだろうと想像される。

 

これらの歌を、国文学的解釈がそうであるように「清げな姿」だけを見れば、秋のもの寂しい風情と、それらについての人の思いを詠んだ歌群である。このような解釈は、仮名序の「和歌は、世に在る人、こと(出来事)、わざ(人の業)が頻繁に起こるものなので、その心に思うことを、見る物や聞くものに付けて、言い出したのである」と読める歌の本質論から、かけ離れた、うわのそら読みである。

 

清少納言枕草子20に、定子中宮の語られた「村上の御時の宣耀殿の女御」の逸話がある。歌は自然の風物などに付けて(又は寄せて)、女と男が生の本心を表出するものであるとすれば、女御が未だ姫君であった時、父の藤原師尹が申されたことは、手習いの他に琴を誰よりも上手に弾けるようになりなさい、それに「古今の歌二十巻を、みな浮かべさせ給うを、御学問にせさせ給へ」であった。和歌には、男と女の性愛の機微にも触れる生の心が表出されてあることがわかれば、歌を女の学問にし給えと言う言葉に、深い意味がある。その姫君が女御となっての夜、内裏に向かって何かを祈念する父の藤原師尹を評して「好きずきしうあはれなることなり」という意味も、わかるだろう。

 

「古今和歌集」の歌のほんとうの意味を享受していたに違いない、藤原師尹、定子中宮、清少納言といった人々とほぼ同じ文脈に入って、ほぼ同じように古今集の歌を聞いていると思えた時、正当な歌の解釈に辿りついたのだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)