はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●福島県立美術館のコレクション展 酒井三良、速水御舟、山口華陽他

2019-04-26 | Art

3月末のことになりますが、福島県立美術館の若冲展(5月6日まで)へ。

そのあとで、二階のコレクション展も見ましたので、先にその備忘録。

といっても、新幹線の時間があり、日本画の部屋の半分くらいしか見られなかったのだけど、心に残る作品ばかりでした。(画像は福島県立美術館のHPから)。

 

展示目録

なかなか見る機会のない酒井三良(1897(明治30)-1969(昭和44) )が二点。見るとひかれる三良の絵、今回もやっぱりよかった。

そういえば三良は会津の出身。2016年の藝大美術館の「いま、被災地からー岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」展のときに見入った三良の「雪に埋もれつつ正月はゆく 」は、こちらの美術館から来ていたのでしたか(日記)。

*今回は展示されていません

ふるさとの風土と当たり前の日々の暮らし。これはまだ22歳の時の作。

でも、並み居る有名な画家の作品のなかで、あの展覧会の冒頭に展示され、フライヤーにも使われていたのはこの絵だった。展覧会を企画したひとたちのいろいろな思いがこめられているのだと思う。

 

今回は、意外にも沖縄を描いた作品だった。

「沖縄風俗」1955 再興第40回院展 

三良は27歳のときに沖縄を訪れ、精力的に取材。30年後にこの作品を描いた、と解説に。

和紙に墨の風合いがいい感じ。母子?姉妹?の頬は赤く、頭上のかごには作物と鍬。しっかりとした生活感。

通りすがりの旅人ではあるけれども、光景としてだけではなく、二人の気持ちや性格に思いを巡らせてスケッチしたように思える。

 

もう一作の 「松籟 」は、どこを描いたのかはわからない。でもこちらも、その土地の風土、気象のなかに、ひとと暮らしが描かれている。風土とひとは切り離されるものではなく、一体となり三良の視線に入っている。地元は違えど、そこで生きるひとに、三良は共感を覚える。

 「松籟 」1964 再興第49回院展

英題は「Sound of Pinewood」。墨に松の緑が印象的。風が松にたてさせる音に白波の音が重なる感じ。1946~54年まで五浦の大観の別荘に住んでいたけれど、茨城の海べかな?

三良は奥村土牛とよく旅行に出かけ、小川芋銭(「雪に埋もれつつ正月はゆく 」は、たまたま会津に来ていた芋銭の一言で、院展に初めて出品したのだそう)と親しかったというから、なんだかわかるような気がする。

所蔵品検索してみると福島県立美術館には多くの所蔵品がある。もし三良展が開催されたらまた来なくては。

 

 

それから、遠目にも神秘的な精気を放つ、山口華楊(1899~1984)「畑」1925


26歳の作。
画像だとよく見えないけれど、マメ、とうもろこし、なす、西瓜、鶏頭、ペンペングサ。実ものの野菜はこんなに神秘的で魅力的。
マメの花やなすの花にはとくに見入ってしまった。凄みがあるほどの写実だけれど、輪郭はそっとぼかされている。


 速水御舟は、妻を描いた「女二題」の、”その壱”と”その弐”(1931)


以前に世田谷美術館の御舟展で見た記憶があるけれど、これもこちらの所蔵でしたか。
御舟が見つめ抜いた花や皿といったモチーフと同じ観察眼でもって、妻をモデルに画に挑んでいる。
少ししか見たことがないのだけど、御舟の人物は、いつも実験と模索の過程にあるように見える。(人物に限らないか。。)
身づくろいをする姿態、手の動き、なにより、床に座った腰から脚つきのラインと肉感に、御舟の興味は多く集中している気が。
このあと、「花の傍」1932では西洋の椅子に座った女性を描いているけれど、もはや御舟の意図は別のところに移っている。

御舟の「晩秋の桜」1928 は、小枝まですべて写し取ったのではと思うほど。地を活かした墨のみの作品。



中島清之(1899~1989)「胡瓜」1923 も印象的。葉の質感やしわ、立体感、手触りまで写実を極めて、一時の御舟かと思うような執拗さ。

他にも、山本丘人(1900~1986)「月夜の噴煙」1962、 池田遥邨「大漁」、 再会した安田靫彦「茶室」、 小茂田青樹「薫房」1927 も心に残る作。
 


 後ろ髪をひかれる思いで美術館を後にしましたが、西洋画の部屋にはワイエスが4点展示されていたのに‥。もっと時間をのこしておくべきだった涙。


福島駅の構内に桃の花が咲いていました。ほんものです。

帰りの新幹線のおやつは、福島駅で買った桜あんのゆべし。

これとってもおいしい!!。箱ごと買ってくればよかった。

 


●たばこと塩の博物館「江戸の園芸熱」

2019-03-10 | Art
    
 
 
 
 
 
 
 
たばこと塩の博物館へ。渋谷から移転してからはじめて。
 
 
植木選びにわくわくしているおかみさんたち、花見でうきうきしているファミリー。
今回の浮世絵はとにかくみんなニコニコしているので、見終わってほのぼのしました。
 
 
今でもガーデニングやフラワーアレンジメントやお花見は不動の人気だけれど、江戸の庶民はそれこそ園芸に「熱中」していたしい。
18世紀、徳川吉宗の植樹政策により、江戸のお花見名所が一気に増えた。
植木鉢が普及したのは18世紀半ばのことだそう。そうするとお庭が持てない庶民の間にも園芸が流行し、草花の鉢植が、浮世絵にも描かれるようになる。
 
歌麿、国貞、渓斎英泉、国芳、広重、豊国。。ほかその名前をしらない絵師のも、前後期合わせて200点余の浮世絵版画が並ぶ。
 
なかでも豊国は花がとても美しかった。豊国もそうとう花好きだったんじゃないかな。
 
 
 
一章は「身の回りの園芸」
植木鉢が庶民の暮らしの端々に溶け込んでいる。
 
個人的に惹かれるのが、天秤棒に鉢植えを乗せて売り歩く、植木の物売り。「振り売り」というのだそう。今とは比べ物にならないくらいたくさんの職業があった時代。。
たくさんの振り売りが描かれていたけれど、どの振り売りも多分、かっこいいおにいさんとして描かれている。人気歌舞伎役者が振り売りに扮して描いたものもある。
 
「夏の夕くれ」(歌川国芳)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
真剣に選ぶ奥さんと、キメポーズの振り売りさん‥
 
植木鉢が粋だった。19世紀には植木鉢の模様も細かいのが売られるようになったそう。
白地に青い染付の、丸型、角型さまざま。とくに青と白のストライプのものがかっこいい。
 
 
中国風の山水や花鳥の模様も。会場では、瀬戸や備前の実物も展示。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なでしこもかわいい。
 
 
それにしても、花もいろいろ。椿、万年青、梅、菊、朝顔などの他、さぼてんや蘇鉄など南方系のものも。寄せ植えもある。ふくじゅそうはお正月用のものらしい。
 
当時は、街やお寺の境内などあちこちで、植木の縁日が開催されていたのだそう。浅草の雷門わきでは常設の植木屋があったそうだし、茅場町では月に二回もあったとか。そういえば今でも浅草寺や靖国神社で植木市を見かけたような。
 
日常に花がとけこんでいる。
化粧をする美人の横には梅の鉢植え。歯磨きをする美人の目線の先には朝顔。テッセンもある。
二階の物干し台(ちょっと築年数たった昭和の家と全く変わらない造り(!))にも花菖蒲の鉢植え。
銭湯帰りにも、振り売りの植木を品定めする母親。
 
手入れの様子が描かれているのもある。
支柱をたてて、紙の花受けや、針金の輪台を入れたり。
 
おや、魚屋北渓の浮世絵には、植木屋さん二人が鉢に腐食止めを塗っている。美人でも役者絵でもヒーローでもない、ふつうのおじさんたちを描く浮世絵もあるのね。ひねりがきいた体勢が生き生きしてて、師の北斎を思い出した(この日は、六本木の北斎展からはしごしてきたからか)。
 
 
へんなところが気になるのだけど、はしばしに描かれている、じょうろがいろいろあって興味深い。
注ぎ口だけのものがあったけど、どうするのかな?
竹にくちをさしたものはうまく作ってあるなあ。(ヘタなメモ絵)
 
 
 
子供向けの「おもちゃ絵」も楽しい。
「新板植木のはんじもの」歌川芳藤 はとくにお気に入り。
絵で花の名前を当てるナゾナゾのようなもので、絵が脱力系
例えば、
鶴がほうきを持って掃きそうじをしている絵→つばき
顔が鯵になっているおかみさん→あじさい(鯵妻)
炎を背中にしょってるハト→ヒバ
絵ハガキがなかったのが残念!
 
 
 
2章は、見に行く花々
当時は花の名所と時期のガイドブックも出るほどで、百花園、亀戸天神、亀戸梅屋敷、などが人気。花のテーマパークだった浅草の花やしきができたのは、1853年。
 
感動的なのが、菊人形。今でもあるけど、象に仕立てるのはあっぱれ!
 
菊細工ブームは二回あり、19世紀初期と、その後後半には再びの大ブームに。巣鴨や駒込で人気を博したそう。
 
国芳「百種接分菊」はびっくり。一本の菊に百種類の菊を挿し木して咲かせている。見物人が珍しそうに釘付けになっている。
 
 
3章は、役者と園芸。
 
歌舞伎でも植木売りが登場したり、浮世絵にも描かれている。
 
 
三代目尾上菊五郎は、園芸愛が高じて、植木屋ごと買い取り別邸にしたとか。後年その別宅を担保に借りた550両の証文が展示されていた(笑)。使途は不明だそう。
この別宅に当時の名優7代目団十郎が訪れたことが、浮世絵に描かれている。雪の庭で、菊五郎は龍の模様の着物、団十郎はコート?のようなものを羽織り、どちらも相当おしゃれ。
 
 
変顔朝顔の流行についても、展示。これもブームは二回、文化文政のころと、嘉永安政のころ。
田崎早雲が描いた変顔朝顔の画が迫真。もはや朝顔とは思えない変顔ぶり。旗本たちの間でも研究会があったそう。
 
ケースを見下ろす展示が多かったので、すっかり首がこってしまったけれど、花を愛でて、楽しい時間でした。
 
 
煙草の階、塩の階も、とても充実していた。
 
移転前よりマニアック度は減ったような気もするけれど、メソアメリカの遺跡が迎えてくれたり、大航海時代の魔物が棲む世界地図がひそかに楽しかったりと、見どころたっぷり。
     
    
 
和田三造、堂本印象、杉浦非水のたばこのパッケージデザインも。
    
 
    
 
    
 
    
 
  
  
    
    
    
    
 

●野間記念館「四季の彩りと趣き 十二ヶ月図」

2019-03-03 | Art

野間記念館「四季の彩りと趣き 十二ヶ月図展」

2019年1月12日(土) ~ 3月3日(日)

    

野間記念館はいつも奥の部屋は色紙の部屋だけれど、今回は全ての部屋が十二か月セットの色紙で埋めつくされている。

小さな作品とはいえ、41名×12枚=492点。好きな作家を優先して見たけれど、それでも時間が足りなくなってしまった。

色紙の小さな画面でも、その画家の大きな絵で見る世界が凝縮されている。

日本画っていいなと改めて思う。花一輪でも気が漂い、枝一本で季節が広がる。描きこまない背景にもその空気感が漂う。

画家の目によって小さく切り取られたそれで、鈍感な自分だったら気付かないであろう季節の移り変わりを、まるで自分が気付いたかのように見て、喜ばしくなる。

むしろ、自分の中の季節感というのは、こうやって古今の誰かの描いた画を見て自分の中に浸透したイメージと、自分が実際に見た自然の記憶とが折り重なってできているのかも。

特に心に残ったものの備忘録。

一章:十二ヶ月図の佳作

~川合玉堂・上村松園・鏑木清方・伊東深水・小茂田青樹・山村耕花・堂本印象・福田平八郎・山口蓬春~

<上村松園>1927年、52歳頃の作。

美人画で張り詰めた究極の線を見ることが多いので、色紙の多少かすれた即興的な線が新鮮に見える。ちょっと洒脱な趣きの12ヶ月。

8月「月見」   美人も足を崩しくつろいだ様子。それでもやっぱり着物がセンスいい。

 

11月「砧」

                       ササっと描いても、はっとするほど美しい目元だった。


12月「降雪」

                  雪見る美人はちらりとお歯黒が見え、なまめかしい目をしている。


そんな美人のあいまに、6月「新竹蛍」ど花鳥だけの画が織り込まれているのも、肩の力の抜き具合がすてき。一枚一枚もいいのだけれど、12枚としても調和がとれているのだった。

   

 


<小茂田青樹>1928 37歳頃の作。

   

見過ごしそうな小さなもの。切り取ったものはシンプルに少しだけなのに、そこから広がる世界はとても広く趣深く。だから次に足が進まないのだった。小さな画面だからこそなのか、色と形と配置、流れ、とてもおもしろくて。

1月「若松」は、金地に、上へと伸びていく小枝の先端の新芽のところもポイント   。6月「梅雨」は、とくにお気に入り。葉の合間に青梅と、それよりもずいぶん小さいカタツムリがかわいいなあ。葉もとてもきれいで、その先端から雨が滴っている。緑と茶色っていいなあ。

7月「百合蝶」は、真っ白な百合に留まる蝶はとても細密に描かれている。8月「玉蜀黍」に巻き付く朝顔が夏の終わりの風情。葉の先端、つるの先端まで良くて、くまなく目が誘われてしまう。9月「葡萄」は豊潤に実った巨峰は、枝のつき方が実はひとひねりある。イメージだけで描いているのではないのだった。10月「稲穂」も、いいなあ。首を垂れた穂にはキリギリスが留まっている。稲の一粒一粒がきちんと描かれていて、これは感謝の念すら浮かんでくる。

小さな景色の中には、さらに小さな発見やできごとに満ちているのだった。

 

 

<堂本印象>1933

墨と着色の作品。墨の作品がとくに心に残る。

1月「老松に瀧」、2月「古松に白梅」、墨の色は大観が使っていたような漆黒の温かみのある黒色で、濃淡も表情豊か。光を印象的に描きだしている。

4月「柳につばめ」、5月「土筆に鳥」、鳥がどれもかわいくて。

   

   

12月「竹林に雪」は、奥行きのある墨の濃淡の背景の上に雪が舞っている。小さなササの葉がいいなあ。風の向きと逆に、低い位置を水平に鳥が飛んでいく。

   

 


<福田平八郎>描かれたものは極めてシンプル。でもいろんな会話が聞こえそう。

1月「ササの雪」は、雪の乗った細い枝がたった二本、9月「芋」はサトイモの葉が一枚だけ。4月「牡丹」はほんのりとてもきれいなピンクの牡丹が一輪だけ。なのになのに(!)。どれもこれだけで、何も描かれない背景の空間に空気まで見える気がするし、5月「金魚」は、二匹の金魚以外は何も描かれていないけれど、それは水中に見えるし、色紙を超えて水槽が広がっているし。二匹の金魚のそれぞれの向きによるのか、金魚の絶妙な大きさによるのか?。

モチーフと空間との遊びにも思えてくるけれど、なんなら8月「朝顔」は、ほんとの遊び心なんだろうか?。青、白、赤の朝顔の花だけが、重ねられ横一列に並んでいる。その色の美しいこと。朝顔の花はもう手折られているけれど、やわらかで瑞々しく、白いところは透けるよう。ガクの緑も楚々とさわやか。

平八郎の色がほんとうに美しかった。11月「柿紅葉」も、茶変した柿の葉を3枚、虫食いの穴まで正確に写し取っている。そのオレンジ色はとてもきれいで、「色」に抱く平八郎の愛情なんだろうか。色が喜んでいる、そんなことを思ったり。

 

2章:四季の彩り~花鳥画

徳岡神泉、上村松篁、山口華楊、石崎光瑶、山川秀峰、木村武山、橋本静水、郷倉千靭、田中青坪、榊原紫峰、木島桜谷、宇田荻邨、池上秀畝、荒木十畝、

 

<石崎光瑶>1928 ここで見られるとは(嬉)。金沢で屏風や掛け軸の大作に見た、琳派と写実を”熱く”融合したような感じが色紙にぎゅっと。

5月「芥子」は赤白の妖艶なケシの花。6月「つる花」は、ミクロ的にうすいレースのような珍しい花。インドで見たのかな?。葉は光瑶独特のたらしこみ。10月「粟」はよく実って首を垂れた穂に、これも葉が独創的。葉の表面に偶然の産物のように水の軌跡を見る。

写実的な花に、葉のたらしこみの偶然が混じりこんで、不思議な感じでもあり、一作一作が神秘的な一瞬の光景のようだった。

 

<郷倉千靫>1931 どことなく無常感の漂う12ヶ月。

8月「かひで」は青楓に赤い種がつき、輪廻の輪のように描かれている。蝉もいるからいっそうそう思うのかな。3月「豆花」は特にお気に入り。つるの先端が生気を吐き、カミキリムシがいる。背景の薄墨のせいか、やっぱりこれも輪廻の輪の中にいることを見ているような気がする。

 

<木島桜谷>動物たちが、桜谷の大きな作品と同じようにまるで生きているかのように、小さな色紙に再現されているのに感嘆。

トラは咆哮し、キツネの目は鋭くヒール感たっぷり。かすれた勢いある筆でさっとひいたわずかな枯れ草だけで、野の雰囲気そのものになっていた。一作一作の自然と動物の切り取り方が迫力で、抒情なんて甘いものではなく、ぐいぐい訴えてくる。

筆にも見惚れてしまう。「藤」の蜂は、羽ばたきが見えるほど。秋の「鶉」「百舌鳥」は、ざっと描いた枯葉がかっこよくて。

動物だけでなく植物を描いても、桜谷はドラマティック。「柘榴」のひび割れに妙に見惚れてしまう。「菖蒲」の下にはアメンボがいる。桜谷と自然との距離が近く、ほとんど鼻つきあわしている位置にいる。

圧巻だった。

 

<山口華楊>1928

院体画のような気が漂っている。動物を神秘的に描く華楊だけれど、花も神秘的なほどに美しかった。いや、葉まで美しい。一輪、一枝、一羽は華楊が描くと特別な命を吹き込まれたように表情豊か。なのに、たまに微妙にかわいかったり。語彙がなく苦しいけど、12枚すべてうっとり。

1月「稚松四十雀」、松葉数本を四十雀がつかんだ瞬間。

2月「八重椿」白い椿がはっとするほど美しい。葉は裏まで美しい。表は墨、裏側は白緑で、両方で作り出す光景。

3月「桃花燕」一つ一つのつぼみがかわいい。鳥も細密。

4月「青麦」数本描いていあるだけなのだけど、何とも言えずよくて。

 5月「さつき子雀」一枝のさつきを見上げて地面に立つ小さな雀。両者の間合いが絶妙で、間の空気感までうっとり。

6月「若鮎」鮎と青梅がひとつころんと。それで独特の間合い。

8月「瓜きりぎりす」キリギリスの目おちゃめ。足の出方が不思議なのはなぜ?

10月「柿に栗」大きな柿の実ひとつに、イガイガの栗が一個、栗の実が一個。イガイガの細い線がファンタジー。栗の実もころんとかわいい。目が遊ぶ。

11月「山茶花」花が1輪とつぼみが、下から。ため息がでるような神秘的な美しさ

12月「寒雀」目がかわいい。ちょっとキョエちゃんみたい😊

 

 

3章:美人画、歴史画

窯本一洋、山川秀峰、生田花朝女、北野恒富、木谷千種、鴨下晁湖、中村大三郎、伊藤小坡、吉村忠夫、 勝田哲

<伊藤小坡>は楚々とした女性たち。しぐさの細やかさが印象的。

<木谷千種>の美人画は妖艶。この妖しげな目線が12ヶ月。。

<中村大三郎>美人の着物の柄に題の花があしらわれている。洒脱な美人たちの目線が魅力的。色もきれいだった。6月「星」は星の模様の着物。11月「菊桐」は菊児童、12月「雪玉」は雪女?赤い唇が印象的。

 

ゆっくり見られなかったけれど、他にも初めて知る画家が印象的だった。

<松本一洋>古い絵巻を見ているよう。

<生田花朝女>おおらかでどこか童心を保ったような。祭りや踊りの作品は、古い風俗絵巻のよう。何月だったか、空を仰いで手を伸ばす子供たちが印象的。

 *

いつのまにか逆回りで見ていて、大大好きな二人、<上村松篁><徳岡神泉>が最後になってしまい、閉館間際になってしまった(泣)。しかもどちらも永遠に見ていたいほど、美しく神秘的だったのだ。

松篁は、多くはたった一輪。画面の上下左右斜め、いろいろなところから顔を出してくる。3月「菜の花」、9月「つゆ草」(虫もいる)、10月「菊」(ごく薄い墨)、12月「白山茶花」などとくにお気に入り。神秘的でもあり、ほっこりもする。

 

徳岡神泉は、私の雑多な言葉じゃ表せない世界。霊的なほど美しい。

10月「菊花」

   

 

8月「睡蓮に糸蜻蛉」

   

   

 

この二人だけでも、もう一度ゆっくり見に行きたい。。。

 


●ぎゃらりい秋華洞「トリを描く トリを愛でる」

2019-02-06 | Art

しばらく日記の投稿ができないでいた間に、スマホ版のレイアウトが変わっていたのですね。

例によって会期も終わってしまったのだけれど、銀座のギャラリーの備忘録です。

ぎゃらりい秋華洞「トリを描く トリを愛でる」

2019125日(金)~23日(日)

伊藤若冲、歌川広重、竹内栖鳳、川村清雄、川合玉堂、小原古邨(祥邨)、榊原紫峰、宋紫石、石崎光搖らの鳥画題。

おめでたい吉祥画題の鳥たち、ほっこり平和な気持ちになってきました。

一部(若冲、栖鳳)を除いて、写真を撮らせていただけました。購入もできます。

若冲は水墨が二点。彩色の画ももちろんだけど、若冲の水墨の作品がとくに好きなので、嬉しい。

若冲は日本でも稀代の水墨画家じゃないかと見るたび思う。

掛け軸の鶴と鶏。身体はまるや三角に昇華されちゃって、顔は、「!」なびっくり目。ユーモアとシンプルを極め、一気呵成に描き上げたように見えて、実はとても丁寧。いく段階かの濃淡の墨を重ね、私が気付く限りでも繊細な技のオンパレード。

俵に乗っている鶏(上の画像、部分))も、樽の木組みは見事な筋目描き。鶏の首まわり?の輪郭は、薄墨の上に短いはらいを続けて形取っていて。今まさに樽に飛び乗った鶏の羽毛の揺れが見える。尾の濃墨の強く太いかすれも、勢いよい動きを。若冲、どれだけ動体視力いいんだろう。

コンマ数秒の瞬時の動きを、二次元の絵に動画のように再現している。200年前という気がしなくて、いつでも先端を走っているような鳥たちだった。

 

その若冲の鶏の向かいに、石崎光搖(18841947)の「双鶏」というステキな配置

 

琳派を学び、19歳で竹内栖鳳に入門。動植綵絵を見て若冲に私淑。教え子の知らせで清福寺の「仙人掌群鶏図」を発見した。

 光搖のこの鶏の目も、仙人掌群鶏図鶏のごとき鋭い気迫。 極彩色だけど、彩色は独特。富山で見た、インド帰国後の「熱国妍春」や「燦雨」のなかにあったような朱や白は、若冲とは違う光搖の独特な鮮烈さ。若冲も光搖も、無防備なほどに自然に感応して、激しい絵を描く。

 

そのお隣には、若冲も影響を受けた南蘋派が並ぶ。宋紫石(右)の鶏と、田能村直入(左)のウズラ。この鳥たちも目が鋭い。

田能村直入、どこを重箱の隅をつつくように見ても気をぬくとこなく、彩色も線描きも、きっちりと細密。おもわず気持ちが張り詰めてしまう。うずらはなにかをついばもうとし、樹の上の鳥も実を食べるために枝を移ろうとしている。

お、鳳仙花だ。薄く木漏れ日の届く地面まできちんと点描で表現している。

解説では、ウズラは「ごきっちょう(御吉兆)」と鳴くので縁起がいいとされたのだそう。

直入は、酒もたばこもせず、規則を重んじ、一度に五百羅漢を描き上げたこともある、質実剛健、根気の画家、とのこと。この絵からも、深く納得。。

 

直入に学んだのが川村清雄。石崎光瑶に続いて、またまた嬉しい。

日本画のギャラリーで油彩の清雄。でも清雄の画題は、日本のものが多く、この絵も「洋画」とも思えない。油彩だけれど、日本の気骨、サムライスピリット。

しゅっと勢いある筆は、水墨のよう。木目が水面の波紋となっている。真っ黒な水面とは。木目がよく見えるけれど、それだけではない、なんだかかっこいい。

この人の油彩は、見るたび魅力的(中村屋サロン美術館の日記、三の丸尚蔵館の日記、東博の日記)。旗本の家に生まれ、8歳で奥絵師の住吉派に学び、10歳で大阪奉行に任じられた祖父とともに大阪に移り、田能村直入に学ぶ。江戸に戻り春木南溟に、さらに川上冬崖に油彩をまなび、アメリカ、ヨーロッパを経て、6年間ヴェネツィアの美学校で過ごした。

日本の美術史の本流では語られない人に魅力的な人が多いこと。

 

竹内栖鳳の二点では、「早鶯」(上の画像の若冲の鶏のお隣にいる)がとくに好きな作品。墨でさっとかいたからだに、脚とくちばしだけにわずかに色を使っている。ささっと描かれて生まれた鶯がなんともかわいくて。

最後は、小原古邨、広重などの版画、榊原紫峰なども拝見して、楽しい時間でした。


●2018年を振り返り

2018-12-30 | Art

あまり書き残せなかったけれど、
今年は美術展については自分史上まれに見る幸運な一年。

池大雅展、高山辰雄展、小倉遊亀展、田中一村展、横山崋山展、加藤晋展、石井林響展と、

ずっと個展があるといいないいなと思っていた展覧会が、一挙に実現してしまったのだから。

これでもう思い残すこともなくなってしまった。

いやいや
思いは叶うのかもということで調子にのって、つぶやいておこう。
長谷川等伯展、小林永濯展、エミール・ノルデ展、ガブリエレ・ミュンター展、ほかドイツ絵画展、渡辺華山展、アイヌ文化展、小林古径展、前田青邨展、もう一度バーネット・ニューマン展、、、
いつか開催されますように。

アイヌの文化については、北海道では展示があちこちであるようなのだけど、東京で大きく開催されることが大事だと思うのだけど。

部外者の勝手な思いなのだけど、前の二風谷資料館で見た、生活用品や衣服類に亡き萱野茂さんがひとつひとつつけた、「これを使っていた○○さんは、漁の時に、、」というたくさんの解説カードが忘れられない。アイヌの世界観、縄文時代からの変遷や北方地域のつながりも興味あるし、現在も生活の端々にまだ失われてしまってはいない文化だと思うし、博物としてではなく生きた説明をつけられるひとがまだまだいるうちに、ぜひ。


それから、ムンク展やフェルメール展、ブリューゲル展、フィリップスコレクション展、縄文展なども心に残っているけれど、
それとはまた別に、 今年意義深い展覧会だったと思うのは、板橋区立美術館の「池袋モンパルナスとニシムイ文化村」展、サントリー美術館「琉球展」、足立区郷土博物館「大千住展」の、地域特化?型展覧会。


「池袋モンパルナスとニシムイ文化村」展では、会場の半分ほどを使って、池袋界隈で暮らした沖縄の画家たちの、戦前と戦後の沖縄での画をすくい上げていた。

琉球展では、変幻する螺鈿の輝きに息をのんだ。螺鈿の調度品を見る機会は時折あるけれど、あれほどの輝きのものはなかった。さすが琉球王。 そして、南の海洋交易があんなに豊かに広がっていたとは。

さらに今年は、沖縄の書道会の方々の書を見る機会に恵まれた。これはすばらしかった。実は拝見するまで、トロピカルな沖縄と書道が結びつかなかったのだけど、無知っておそろしい。中国文化の影響も受けてきたせいなのか、沖縄の書道文化の厚さ深さ。圧倒される迫真の書だった。

地方に栄える文化を感じた年だった。
その意味では、全国を網羅した千葉市美術館「百花繚乱」も貴重だったのだ。 江戸時代の絵師たちのゆるやかなつながりが興味深かった。

そうすると、東京の街もいち地域としては、同じなのかもしれない。
「大千住展」は、足立区の千住の商家や豪農たちが日頃のつきあいから育んだ地元文化を感じられる企画だった。昔からご近所の絵師にお仕事を頼む機会がなにかとあるのだなあ。

そういえば、今年一度、北朝鮮の現代の絵を数枚見る機会もあった。中国風の、墨に着色した山水画のような絵だった。中国人のかたの所蔵品だそうだけど、北朝鮮には仕事として描く部署があるのだそうな。拝見した絵も、輸出用として描かれたのだろうか。

来年は「東博で初詣」で、イノシシ画を見るのが最初になりそう。

皆さま一年ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。


●山種美術館「皇室ゆかりの美術―宮殿を彩った日本画家」

2018-12-28 | Art

山種美術館「皇室ゆかりの美術―宮殿を彩った日本画家」

201811.1720191.20

 

陛下のご退位をまえに、今年は皇室関係の展覧会が続く。皇室所蔵の絵や工芸品は、その作家の熱の入れようが素人目にもわかるほどなので、拝見できる機会があるとうれしい。

大嘗祭のために使われる「悠紀・主基地方風俗図屏風」は、平成天皇の即位の折は、東山魁夷と高山辰雄が手掛けた。三の丸尚蔵館で見たとき、大分の風景や工場を織り込んで描いた高山辰雄の「主基地方風俗図屏風」が特に印象に残っている。

昭和天皇の時は川合玉堂、山本春挙

大正天皇の時は、野口小蘋、竹内栖鳳

来たる大嘗祭のための屏風は誰が描いているのだろう?。

 

今回の山種美術館の展示品のいくつかは、創立者・山崎種二が、1968年に造営された皇居宮殿のための絵画を見て感銘を受け、手掛けた画家たちに同様の作を依頼したもの。皇居の為に制作した作品をもう一度描くモチベーションがわくのだろうかと思うけれど、そこは種ニさんの頼みということかな。

 

そして、帝室技芸員を仰せつかった34名の作品が並ぶ。

日本画や工芸だけでなく、洋画家も帝室技芸員に任じられていたことを初めて知った。黒田清輝、和田英作、梅原龍三郎、安井曾太郎の作品が展示されており、ちらっと検索すると他にも、藤島武二、岡田三郎助、金山平三(ほお)、中沢弘光、南薫造がいる。

一番のお目当ては、前田青邨

報道で陛下の後ろに青邨の獅子を拝見するけれど、今回の「唐獅子」1935の大屏風も三の丸尚蔵館から。

昭和天皇の即位の際に、岩崎家が5人の画家(鏑木清方、橋本関雪、前田青邨、川端龍子、堂本印象)に依頼して献上した5双のうちのひとつ。

青邨は古今の彫刻や絵を研究し、動物園のライオンを観察して、獅子の構想を練ったと解説にある。

子獅子は、岩崎家所蔵の「三彩獅子」(静嘉堂文庫)に倣ったと思われるらしい。

宗達のようなたらしこみの入った線は、幅2センチくらいもある。線自体が普遍的。線の中にさらに世界が広がっている。

ユーモアと神秘が一体になったおおらかさに、ただただうっとり。

 

もう一点は、うって変わって張り詰めた空気。武将姿の秀吉。

前田青邨「豊公」昭和14

 たらしこみに宗達のような幅のある線。蛇のようなするどい眼と鎧の墨の黒さに、この男の 

底知れぬ恐ろしさを感じてしまった。目線の先の余白に刺すような緊張が張っている。

 

 *

さてこの日、入ってすぐの壁で迎えてくれたのは、西村五雲「松鶴」1933 京都市大礼奉祝会より久爾宮家に献上された作品。大型鳥類の肉感と重量感にほれぼれ。表情もこんな顔をしているのかと、まじまじ見てしまった。二羽+一羽の織り成すラインの豊かなこと。そしてトータルとしてたいへん優美な作品だった。

 第一章:皇室と美術ー近世から現代まで

宮家に伝わる品々と、慶事の折に、官公庁や財閥から献上された作品。

今なら官公庁から献上されるなんてないだろうけれど、三の丸尚蔵館でも、地方の県庁から献上されたものを何回か拝見したことがある。集まりすぎて大変ではなかったのかな。

「高松宮家伝来禁裏本」のガラスケースが興味深かった。土佐光信「うたたね草子絵巻」16世紀と、海北友松の息子・友雪と伝えられる「太平記絵巻」17世紀

「太平記絵巻」は、葉室麟「墨龍賦」の冒頭に、春日局に取り立てられて、友雪がようやく日の目を見るというシーンがあったけれど、そのあとの作品だろうか。友雪は後水尾天皇はじめ宮中の御用をすることがしばしばあったとのこと。人物が細やかに動きに満ちていて、大道具小道具もぬかりのないドラマをみているようだった。

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女官に抱かれた義満は活発そうで、犬に手を伸ばしている。食事を運ぶ者受け取る者、トラネコを

追い払う者と、なにげない暮らしのひとこま。襖絵の芭蕉や、お庭で飼われている鶴もいいなあ。

 

 

まずは野口小蘋「箱根真景図」1907。今年は野口小蘋を見る機会に多く恵まれた。澄んだ空気と、奥ゆかしい佇まいにほっとする。湖も、右隻ではかすむ春の水面、左隻は澄んだ秋の青だった。

春の右隻は、ゆうゆうとした山々が穏やかな緑の空気を広げている。浮かぶ小舟を見れば、

今度はそこからの景色に視点が移り、急に山々が立ち上ってくる感じ。

左隻の秋景の中の洋館は、明治19年築の箱根離宮。

 

 下村観山「老松白藤」1921明治神宮造営局により、総裁であった伏見宮家に献上されたもの。

これを見るたびに、官能的とまではいかないのだけれど、なんというか恋愛のみたてのように感じてしまう。光琳の紅白梅図を男女の絵と見るむきもあるようようなので、琳派を学んだ観山も、そんな意図を隠し込めてはいなかったんだろうか。

豪胆に力強く腕を広げる松、そこへ細く白い腕をそっと絡ませるような白い藤。藤の花は囁きか吐息のよう。

 

それから、慶事の際に下賜されるボンボニエールはやっぱり興味津々。思いのほか小さくて、とてもかわいい。犬張り子型、ウサギ型もかわいいけど、貰えるなら、水玉の「丸型草花文ボンボニエール」1910がいいなあ(もらえないから)。

 

 

 

第二章:宮殿と日本画

1881年完成の明治宮殿では、狩野派や四条円山派といった伝統的な流派の画家たちが襖や杉戸をて掛けた。

次の大規模な宮殿建設は、1909年の東宮御所。ネオバロック様式の現迎賓館。(昨年は迎賓館の見学に行ってきて、いやもう恐れ入りました。壁も床も天井も、カーテンのドレープまでも、見逃すことができないほどデコレイトされている。なんだか自分がお城の舞踏会に迷い込んだ灰かぶり姫になったような、夢心地でしたよ。)

その次は、昭和。1968年の現在の皇居。山口蓬春、上村松篁、東山魁夷などの日本画が架けられているそう。

 

三の丸尚蔵館や東博から、実際の造営の際に使用された下絵類が展示されている。

赤坂離宮では、「赤坂離宮下絵 花鳥図画帳」渡辺省亭の下絵(七宝、並河靖之)が数点。数年前に東博で見て感動し、初めて渡辺省亭という人を知ったのだけれど、花鳥の間の壁に実物を見た時も、衝撃だった。花鳥の間で、本当に窓から、外に広がる景色を見ているようだったのだから。手を伸ばしたら、楕円の枠の向こうにすっと抜けて行ってしまいそう。植物と取り合わせて組んだ構図のせいか、色のせいか、それとも鳥の目線や飛ぶ方向のせいか。小さな楕円の枠の奥には、深く広く自然の空間が広がっているような。

 

 

「皇居造営下絵」(明治~大正)の数点は、青山御所の御寝殿の襖や杉戸江の下絵。建物は消失したらしい。竹内栖鳳「柳に燕」と川合玉堂「紅葉に啄木鳥」、大家ふたりが、よくこんなに息の合う作品が手掛けられるもの。

風がやさしい。燕の向きといいかわいいなあ。

柔らかな午後の陽ざし。

栖鳳では、のんびりしたウサギ「薄に兎」や、ころんころんの犬の「土筆に犬」の襖絵も。玉堂も栖鳳も寝殿のための心安らぐ画。心ほぐしてしまうプロの仕事に感嘆。

 

 

 

現在の皇居を飾る画では、上村松篁の「日本の花・日本の鳥」1970、山口蓬春「新宮殿杉戸楓杉板習作」、安田靫彦の「万葉の和歌」と、改めて、日本の四季や色彩がこんなに美しかったことを認識。大家の苦労ぶりも紹介されている。

上村松篁「日本の花・日本の鳥」1970


縦の構図、横や斜めの構図。赤い菊の扇がお気に入り。牡丹の白の美しかったこと。雉と黄色い葉の織り成す会話も楽しい。

 

山口蓬春 

橋本明治の桜と対の、正殿松の間の障壁画の1/4下絵。

大形の楓の葉を探して各地を遍歴し、福島の吾妻で発見したそう。

 

安田靫彦の「千草の間 万葉集歌額」は10枚の紙だけれど、展示は5枚にしたもの。書体もそれぞれ違う。

漢字は王義之、欧陽詢など、仮名は定家臨模の土佐日記、道長の日記、高野切乙種の

源兼務行の筆跡を参考にしたとのこと。

 

第3章:帝室技芸員ー日本美術の奨励

帝室技芸員の手掛けた作品が並ぶ中で、山種美術館の所蔵品で好きなものに再会できてうれしい。

ひとつめは、柴田是真のかえる。漆絵の「墨林筆哥」18903つのうちの一つで、他に馬と瓢箪、雁の画もあった。漆の粘性のつやと濃淡が印象的。

杉の木のギザギザ、交錯する山と雁の軌跡のラインがおもしろく。

 

2つ目は、小林古径の鶴。座った姿がやさしい。仏像ならば、座像にはなんともいえないゆったりとした癒しがあるのと重なる。と勝手に思っている。いつまでも一緒に座っていたくなる。

 すーっとした枝も匂いたつような気。二本の方向は、それぞれ鶴の身体と首のラインと呼応しているような。

 

3つ目は、下村観山「寿老」1920鹿の表情がなんとも。ご主人様に対する絶対的な情と信頼。もはや愛では。そこは上記の「老松白藤」に通じるかもしれない。

 

4つ目は、山元春挙「火口の水」大正14下から見上げると、そびえる高さにときめきすら覚えてしまう。洋画のようでありつつ、岩肌は伝統的な水墨のよう。山水画によくあるように、白い月も見える。澄んだ水べに、小さく描かれた鹿が水を飲みに来ている。

 

他に印象的だったもの

小蘋「芙蓉夏鴨」1900  上記の屏風とはまた違って、線のはりと勢い、淡彩といい、渡辺崋山を思い出すような作品。

 

 

 荒木寛畝「雉竹長春」1885  洋画家でもある寛畝らしい羽根の着色。洋画で皇太后を描く名誉に預かったそう。ばら、竹、水、葉なども細部まで迫力。

 

 小堀鞆音「伊勢観龍門滝図」大正~昭和 

 

松林桂月「春雪」 墨に胡粉、色を少し。微かな光が透過している。

 

眼福眼福の展覧会でした

 


●東博常設2:久隅守景、住吉広尚、春木南溟

2018-12-15 | Art

1の続きです

8室:暮らしの調度―安土桃山・江戸 

湯島聖堂の釈奠器の一式にため息。上杉齊憲献納 1844

幕府により孔子を祭るために設けらた湯島聖堂の、釈奠(せきてん)の儀式に用いられたもの。釈奠器には中国様式が多いが、文具や飲食器には日本式のものもあるとのこと。

 

 


 

 

火事と喧嘩は江戸の華といいますが、火事場装束の美にため息。

火消しの陣羽織の裏側。木綿に刺し子は、水分をよく吸収するため。ど派手な模様は、消火のあとに裏返して活躍を誇示するためとか。

火事羽織 紺木綿地雷神模様刺子 19世紀

 

大奥の女性たちの火事装束は、非常時に必要ある?ってくらいに豪華。

火事装束 紅繻子地波模様

アンリ―夫人の寄贈。他にも歌舞伎の衣装など何点も寄贈している。どのような人なのかな?明治に夫と共に来た女性だろうか?

8室:書画の展開 安土桃山~江戸

お目当ての久隅守景。8曲一双の大屏風。これを横に広げられる部屋があるって、大名家旧蔵?。

鷹狩図屏風 17世紀 東京・日東紡績株式会社蔵

悠々と広がる山野に田畑。権威の象徴・鷹狩りの光景だけれど、そこは守景、庶民も子供たちもしっかりと描いている。家来たちも右往左往する動きと表情がとても人間臭い。その細やかさ。守景の動物も見もの。設定が細かくて見どころ満載。

吉祥の象徴の鶴も、白鳥までも狩りの対象とは。。(合掌)。タンチョウヅル、マナヅルもしっかり描き分け。

守景の人物は印象が力強い。

家来たちはたいへん…

ちょっとさぼったり

なにしているのかな?

この人の描く人物は、どうしてか腕や脚の力強さに目がいってしまう。

皆も動物もとにかく動き回っているので、一通り見るだけでエア運動した感。豪華で雄大な屏風だった。

発注主は誰なんだろう?。探幽門下にいた時か、それとも金沢に行ってからなのか?。

この人物などは、ちょっと探幽の画(いつか見た大工さん)を思い出したけれども。

 


鷹狩りのもう一作は、住吉派の緻密で雅びな画。住吉派に比べるにつけ、守景はやっぱり土のにおいがする。

住吉広尚筆「鷹狩図」 19世紀

着色がきれいで緻密。飛び立った雉すら美しかった。

雪の積もる木々、墨のにじむ雲もきれい。

右幅は静だけれど、左幅は荒々しい風雨。

顔を覆う人物の周りには、風で散った雪の粒も描かれていた。


これは板谷家伝来資料の下絵と同じ構図とのこと。板谷家の初代・板谷桂舟(~1797)は、住吉門下で学び、奥絵師に任じられた。子孫は桂舟、桂意を交互に受け継いだ。

板谷桂舟弘延(1820~59)はその5代目。39歳で亡くなっている。

板谷桂舟弘延「草花図」

青い背景に、レンゲやすみれの小さな草花たち。

最近は奇想系を見ることが多かったので、こういった楚々としたやまと絵系の作品が新鮮に感じられたりする。春になったら、「土佐、住吉、板谷の系譜」展なんてあったら和みそう。

 

今回のもうひとつの興味深かったグループは、伊勢長島藩主・増山雪斎とその周辺

増山雪斎は千葉市美術館「百花繚乱」で恐れ入りましたが、その子、雪園も、さすが親子。そして雪斎に仕えた春木南湖とその子南溟

お殿様親子の博物と写生への熱意の敬服‥

増山雪斎「虫豸帖 」秋

 

雪園の画帖も、父に負けじ。南蘋風で細密。

増山雪園「四季花鳥画帖 梅花雪 」1840

南蘋派の鳥は鋭い

鹿は抒情的

なのに、南蘋ネコはどうしてこうなっちゃうんだろう??でもかわいい

 

こういう絵を見ると、御用絵師の南湖が、雪斎の命で長崎に勉強に出されたというのも納得。南湖の交流も興味深い。木村蒹葭堂浦上玉堂司馬江漢とも交流を持ち、4歳下の谷文晁にも学んだ

春木南湖「秋涛奇観図」1826  

銭とう江で旧暦8月15日に起こる逆潮現象を描いている。見物人のびっくりぶりがおもしろい。

 

その子、春木南溟(1795~1878)の南画は、特にお気に入り。どこかで聞いたようなそうでもないようなと思っていたら、川村清雄の師であったのだった。山内容堂にも愛されたとのこと。

春木南溟「前後赤壁図 」1868

 

よくある山水だけれど、心に残った二幅。悠々とした遊覧に、鶴も飛んでいた。二幅とも、岸辺の佇まいが特に心に残ったところ。やわらかく光が当たり、墨の濃淡が繊細。

 

南溟は、少し検索すると他の絵もひかれるものが。特に「虫合戦」はおもしろそう。増山家に仕えただけのことはある(wikipedia)。他のも、古典的な画題でも、なんというか古臭くなく、清新な感じ。着色の画は丁寧で色鮮やか。そういえば上の水墨の画も、まるで色を感じるような。

幕末狩野の当主たちが自ら改革していたように、多くの大名や旗本に愛された春木親子も、あぐらを描かず新取の風を取り込んでいたんだろうか?。他の絵も見てみないことにはなにもわからないけれど、当面個展はなさそうかな‥

 

 


●東博の常設1:下村観山「白狐」、荒井寛方、与謝蕪村など

2018-12-14 | Art

カレーの市民たちの周りもイチョウが色づく、12月のある日。

 

18室の近代絵画:

観山の白狐に再会。

下村観山「白狐」1914 41歳

ボストン美術館にいた天心が執筆したオペラ「The White fox」と関連付けられるかもしれない、と解説に。天心はこのオペラをインドの女性詩人プリアンバダ・デヴィ・パネルジーに献じた。インドのタゴール邸に滞在中に出会った、タゴールの親戚の女性。天心とプリアンバダが海を超えてやり取りしたラブレターは、五浦美術館で見たことがある。天心がもう少し長生きしていたら、もう一度会えることがあったのかな。

森の様子は亡き春草を思い出す。

薄墨に金が入れられた目。観山は人間だけでなく、動物の顔も含蓄が深い。

ふわふわの純白の狐の視線の先に大きな余白。だからよけいにもの寂しくなってしまう。

琳派風の金があちこちに。秋の森、葉も金、ススキの線も金。秋の色を金で現している。もし民家のほの暗い灯りやろうそくの灯りのなかで見たら、さらに幻想的に見えるかもしれない。

 

観山は「修羅道絵巻」1900 も展示。旅姿の僧から始まるところが、無常感。以前にも見たことがあるせいか、この日はあいだのよはくの幅、つなぎのところ、背景に目がいく。

不穏で物寂し気な風を感じつつ、進行方向の左へといざなう萩。

不穏な墨。兵士の目線の先の、樹から飛ばされる枯葉の先に・・・。劇的な戦いの場面へと展開する。

 

 

その観山の「弱法師」の複製を、来日中のタゴールの求めに応じて、制作したのが、荒井寛方(1878~1945)

寛方は水野年方、瀧和亭に師事、紅児会にも参加、原三渓の支援を受ける。タゴールが滞在していた原三渓邸で、1ヶ月かけて弱法師を模写し、インドに送った。タゴールは原邸でその様子を見まもり、寛方をインドに美術教師として招待。

荒井寛方(1878~1945)「乳糜供養屏風 」1915 

しかしこれは、まだインドに行く前の作品。大観や春草は1903年にインドのタゴール邸に滞在し、インドの女性を描いている。

スジャータが釈迦におかゆをささげる。皆右を向いて、そこに描かれない釈迦がいる。大正時代らしいパステル系の色彩だけれど、インドの熱い空気のなかにあるように、牛も女性もなまめかしい。

他の作品をおそらく見たことがないと思うのだけれど、インド滞在後は劇的に画風が変わるらしい。アジャンタの石窟寺院の模写はたいへんな苦労だったそう。震災で焼けてしまったのが残念。(「タゴール、ノンドラル・ボ、シュと荒井寛方」稲賀繁美 2011 から。とても興味深い論文。)

 

狩野芳崖(1828~88)「山水」1887 目の粗い麻布に描かれている。

今年は「芳崖と四天王展」など、芳崖を見る機会に恵まれた。これは亡くなる前年の作、「年六十 芳崖」と落款。60歳を迎え、気持ちを新たにした決意の作だろうか。

これが芳崖そのひとなんだと、心打たれる作だった。雪舟のような筆致で、激しく強い。とがった岩に切られそう。ここまでくると頭でどうこうより、体が自然に描いている。悲母観音など彩色の絵も描きつつも、つねに原点とともにある。画家として激しいものを内在させ、激しいまま死んでいった人なんだろうか。

 

熊谷直彦(1828~1913)「雨中雨山図」1912

馬に目がいく。先日のぶら美で、五郎さんが上手い画家は馬が上手いと言っていたので。これは黒目のかわいい顔をした馬だった。澄んだ山のぼかしもきれい。

これも亡くなる前年の作。なにか意図があるのかな?。芳崖と熊谷直彦、同世代の、江戸と京の絵師。狩野と四条派。二人ととも原点に返った感じ。

 

土田麦僊「明粧」、鶴沢探真「王昭君」は、装う女性を描いている。

なかでも鶴沢探真の「王昭君」がちょっと気になる。美しいけれど、菱田春風の「王昭君」のはかなげなイメージと違い、鏡の前でどっしりと立っている。指のごつさも気になる。年齢は、顔はお化粧で隠せても、手はごまかせないといいますが、まさかそれを意識したってことはないでしょうけれど。それとも、王昭君の覚悟の絵なのかな?。

 

しばらく展示してあった、川村清雄「虫干し」も この日でとうぶん見納めかも。何度見てもつかまる絵。

現在と過去、現実と非現実、和と洋が入り混じる。この日はとくに、直垂の純白とその後ろの赤、絨毯に散った野菊が目に入る。清雄の、水墨のような筆致が、潔くてかっこいい。

 

ほかには橋本静水「一休」など。

 

途中で地下に降りて行ったら、暗い部屋からトーハク君が叫んでいましたよ。

 *

3室:

「真言八祖像 恵果 」・「真言八祖像 空海」1314 真言密教をインド中国日本に伝えた、八祖を描いたうちの二幅

この絵仏師の描く目に引き込まれる。空海は全身から強さ、激しさが伝わる。恵果の後ろの童子には、安田靫彦を思い出した。

 

「東北院職人歌合絵巻 」14世紀 10名の職人を左右に置き、月と恋の歌を詠み競わせた職人歌合絵巻の現存最古のもの。

職人がいろいろ当時らしくてツボ。脇の道具類も興味深い。医師、陰陽師、鍛冶(服が火の色っぽい)、番匠(Carpenter)、刀磨(わきに砥石が)、鋳物師、巫女(なんかちょっとイメージが・・)、博打(職業なのか?)、海女、買人、経師(中国語:写経師。英語:Sutra maker)。

 

狩野元信の墨だけの四季花鳥図(個人蔵、撮影不可)は、やはり惚れ惚れ。まさに鳥の楽園。木からひょいと顔を出す鳥、動きがシンクロする二羽、寒さに膨らんだ雀たちなど、どの鳥もしぐさがかわいい。母の後ろをついて歩くひな鶴を振り返る母鶴は、まるで人間の親子のよう。母鶴は目がパッチリの美人さんだった。叭々鳥はキッとしたつり目で好きなタイプ。両隻の間の空間のふわりとした薄墨の美しいこと。

 *

7室

呉春「山水図屏風」

樹々はさまざまなバリエーションの点や線で、リズミカルに反復していて、心地よい。奥行きある山は応挙風。

右隻のなだらかで量感ある山に対し、左隻では、急峻にそびえる。その山並みは、しつこいくらいに奥行きを強調している。

雄大な屏風だった。

 

そして楽しみにしていた 与謝蕪村「蘭亭曲水図屏風 」1766 

木陰がここちよい。岩の線もやわらかく、ほろ酔いのおじさんたちもゆるくいいモード。

蕪村の人物は顔がかわいいの

樹がとてもよくて、さまざまな葉は全体を通して飽きない。自然の気を満喫できる屏風。

点描はもはや印象派。木漏れ日がなんてきれいなんだろう。

最後の扇の青い茶碗が余剰をのこして流れていく。

光がやわらかい。さほど多くの色を使っているわけではないのに、全体を通して、やさしい色彩が流れていた。

いいもの見たなあ。

 

続きはまた次回に。 

 

 


●野間記念館「近代日本の花鳥画」

2018-12-14 | Art

野間記念館「近代日本の花鳥画

2018.10.27 ~12.16

好きな作品の備忘録

安田靫彦の花鳥が、どれも心に残った。歴史画とはまた違う繊細さ。花を愛でる目に、なにも修正することない素の靫彦が表れているよう。

「春雨」1923 39歳

靫彦の他の大正時代の作品のような色の付け方だけど、この暗さはどうしたんだろう。首ごと落ちた椿。しんしんと落ちる雨。靫彦の花の絵といえば、意外にも色が明るく美しくまさに「馥郁たる香り」の印象だったのだけど、それは戦後のことらしい。解説には、大正時代に花の絵を描いた作品は大変珍しいとのこと。盟友今村紫紅を亡くし、日本美術院の中枢として歴史画を描き続けることで、院の社会的地位の上昇を勝ち取らねばならなかった時期とある。

プレッシャーの中でじっとゼンマイの根元を見つけていた靫彦。でも暗いと一言で片付く心情でもなさそう。影をまといつつも、色は冴え冴えと、ゼンマイの先端はくるんと水分を受けている。花の前では、幾重にもおりかさなる様様な気持ちがそのまま吐露されてしまうのかも。戦後に靫彦の花の絵が心に残るのも、同じ事なのかも。

そのとなりに展示されている靫彦の「水仙」1932 は、それから9年後。昭和らしくずいぶんすっきり。掛け軸の下半分のみに描かれた水仙はあまりに美しくて、水仙の葉の流れに入ってしまう。冬のひだまり、まさに馥郁たる香り。小さく添えられたたらしこみの南天は、「黄瀬川陣」で義経のわきに添えられていたものを思い出した。

靫彦では別室の「新樹」1933 もとても好きな作品。靫彦に、こんなにほんわかとした柔らかい部分があるのかと思った。ごく薄い墨で、さらさらと描いている。鳥は薄く乾いた墨で描いて少し黄色を乗せ、さっと尾羽をはらっている。

 

速水御舟の二点も、凄みがあった。

速水御舟「朱華琉璃鳥」1933 この緊張感。葉の一枚、枝の一本に至るまで、深淵。

 

速水御舟「梅花馥郁」1932 どこにもゆるみがない。この厳しさ。突き詰めた先の、ぎりぎりの近郊の中にある紅白の枝。

常に斬新な御舟。

 

一方、ともに研鑽した小茂田青樹は、ポエティック。「四季花鳥」の4幅はどれもすてきだった。

春の紅白のシロツメクサ、へびイチゴの点々がかわいいなあ。夏の芭蕉の葉に、かえる。さわやかな緑の雨を満喫して吸い込んでいる姿がとにかくかわいい。笹の葉の先の小さなひとしずくには、やられてしまった。

秋のイチョウにはまだ緑色の葉も残っている。冬に舞う雪と鳥はうっとり。

一時は似た絵を描いていた御舟と青樹だけれど、全く違う空気感を持っている

 

今尾景年「花鳥図」もすばらしかった。

柔らかな色彩の岩と薔薇。と思ったら、にらみをきかす挑戦的な雄鶏。おもわずすいませんっと謝ってしまう感じ。

左幅の鳥も、輪郭もなく、よくこんなにふわっとリアルに描けるもの。

薄墨、たらしこみと薄い着色でささっと描いている風。渡辺省亭に通じるかもしれない。花も葉もささっと、その筆の素早さ、勢い。さらに繊細で緻密な視線。小さな菊3輪のそれぞれちがう開き具合など、まるでひらいてゆくさまと精気を動画で見ているようだった。景年、すごい。伝統的な画題なのに、現代的な感じすらする。

 

徳岡神泉「鶉図」 雪に光がふりそそいでいる。トクサの色も映えている。なにかにハッとするウズラ。単純な背景に、ウズラの羽の宇宙的な美しさ。多くの画家がこの羽を細密に描くのもわかる気がする。

 

西山翠璋「金波玉兎」1926 は英語題はRabbit in the moon。でも月は描かれず、波を照らす光で気が付く。それとも丸いフォルムのウサギ自体が月なんだろうか。

 

堂本印象「清泉」、福田平八郎「双鶴」、富田渓仙「牡丹」も印象的。

 *

野間記念館でいつも見ものなのは、十二ケ月シリーズ。

山口蓬春の「十二ヶ月図」が、12枚どれもがぱっと印象に焼きつく作。きれいだった。鳥では、1月は鶴、2月は鵜。墨の濃淡がきれい。5月は山並みと葦の淡い緑、墨でちょいちょいと描かれた鵜。夕暮れの光に浮かぶようで情感そそられる。 6月は、薄黒雲に夕立、空の半分はうっすら青空。赤い鳥居、点のような黒い鳥、白い帆と、点のように小さなパーツが絶妙な間合い。(例によって変なメモ。)

花は、一本をシンプルに大胆に。置く位置がかっこいい。7月の紫陽花は右半分に一本、左半分は余白。少し寂し気な淡い水色の紫陽花。8月の芥子は、下半分。その上にちょんと虫を。「極小」と「中」のバランスが楽しい。色も冴えてて、白い花びらにふちが赤、葉は墨、そこへ虫の緑の点。9月の茄子は好きな画題。墨とうす紫だけで。茄子って神秘的・・。12月はほっこり。墨だけで、月に吠えるイヌ。

12枚どれも、色がキレイ。余白と構成が明確で、シンプル。だけどポップではない。抒情ポケットにすとんと落とされてしまう。

 

木島桜谷の十二ヶ月図は、動物シリーズ。馬、犬、牛、ウサギ、キツネ、ヤギ、ネコ、虎、狸、猿、鹿、猪。小さな色紙でも動物の世界観がすごい。特にキツネ、狸は、夜に行動する、その気配にぞくっとするほど。猪の体躯のリアリティ。そんななか、葡萄棚の下の囲いの中のヤギのおとぼけ感ときたら。動物も家畜になると、すっかり野生を忘れている。気になるのは、玉蜀黍ごしに見えるやせたネコ。ちょっとシュールで不思議な感じ。

 

森百甫は、ほっこり系。10月の地面に落ちている栗だけでも、しみじみと物語が膨らみ、情感わかされてしまう。鳥好きにもたまらない12ヶ月でしょう。6月のかわせみと水草、7月のカエルと白い蓮、8月の夕顔、12月の烏瓜を見るウソなどがとくに好きな作。線もとてもきれいだった。同じく葉を一枚描いても、会話が聞こえたり、こんなに物語になってしまうのは、他の画家とどこが違うんだろう?

 

望月春江は、にぎやかな十二ヶ月。さわがしい二羽のスズメは、口やかましい奥さんと、ん?と聞いているかいないかわからない旦那さんのよう。8月の川エビ、11月のどんぐりがいいなあ。

 

 

山口華楊は、とてもシンプル。構図は、縦、横、斜めと狙って、一枚一枚が印象的。4月の4本だけの青麦、7月のカワセミと3本だけの葦など、どれも無駄なものがなにもなく、しかもかわいらしい。そして厳選して描いたそれはとても緻密。鳥の毛、紫陽花の葉の葉脈など見入ってしまった。このシンプルな美しさ・かわいさを支えているのは、この緻密さなのかと。

 

堂本印象は、墨で現した光に驚き。一枚一枚の印象が強い。

 

福田平八郎は、色がぱっと印象に飛び込んでくる。トリミングされていて、ますます間近に感じてしまう。単純化された形も明度のある色もたのしい。

矢車草がきれいだなあ

茄子と玉蜀黍がすき・・

 

それにしても来るたびに違う十二ヶ月図が展示されている。約500タイトル、計6000枚の12ヶ月色紙が所蔵されているとか。

来年、1月12日からは「十二ヶ月図展」が始まる。


●浅見貴子作品展〈日々の樹―生々を描く庭〉

2018-12-07 | Art

浅見貴子作品展〈日々の樹―生々を描く庭〉
会期:10月27日(土)~12月9日(日)
会場:川口市立アートギャラリー・アトリア 

 

初めて降りる川口駅。そごうが健在なのと、よくわからないけど大きなライオンが屋根にのっているのが印象的。

浅見さんの作品は、日経日本画大賞展(日記)と、代官山アートフロントギャラリー(日記)で拝見して以来。

今回は外に向かって開かれた空間にゆったりと展示されており、すばらしかった。

作品を見ながら、外の木や陽の翳り、通行人や公園で遊ぶ子供たちの動きが視界に入る。でもそれが邪魔ではない。外の空気もふわりと抱擁するような絵だったせいかもしれない。

 

墨が美しい樹々は、似ているけれど一本一本違う。

もしかしたら同じ樹を描いている絵もあるのだけれど、時間、その季節の葉の茂り方、風の強さなどが少しづつ違う。

点や線は確かに樹と連絡していて、風の揺らぎ、木漏れ日、樹の中の巡り、樹の動きといったものが広がっている。

前も思ったのだけど、今回も、見ているとだんだん心地よく整っていくような作品だった。

10点ほどの展示だしと思っていたら結局3時間。帰りに寄ろうと思っていた隣駅の河鍋暁斎記念美術館はいけなくなってしまった。

再会した《桜木影向図》

余白のところがとても好き。樹の枝の先端から感じられるものが、ひろい余白にかすかにささやくように広がっていく。

近づくと木の幹の線が見える。裏から墨を含んだ筆を押し当ててひいた墨跡が、もう美しすぎる。枝の先の動き、風の痕跡、光のゆらぎに見える。

 

この部屋には2015年と2018年の桜の木の作品。同じ樹なんだろうか。

 

「桜の木1501」(2015年)

これはなにか強い動きの印象。枝葉がからみ、踊り、光が交錯し。葉の多い季節なのかもしれない。

 

浅見さんにとって、スケッチというのは、そのまま、その樹を自分の体内に入れる、ともに巡る、時に身をまかせる、長い時間を過ごす、そういうことなのだろうか。

揺れ動く枝。以前に(シムラブロスのインスタレーションで見た)森山未來さん(日記)が思い出されて、この樹のままに踊ってほしいと思う。

きっと作品ごとに全く違った踊りになるのだろう。森山未来さんはあのしなやかな体のなかに、それぞれの作品をどう入れるんだろうと、脱線して妄想する。

 

「桜木 2018」 

枝がかなりはっきり見える。スケッチの線も見え、この樹の全体像が感じられるけれども、たぶん多くを勝手に想像で補っている。

胸の中に樹を思い描くことは、かなり心地よい。浅見さんの絵をみていると帰りによい気持になってるのは、このせいかも知れない。

短い間隔の点々は、どくんどくんとした心流のよう。枝の先端に芽がでている。かわいいなあ。

細い枝の先端まで、生きているのを見つめている。

 

もうひとつの屏風?「桜の木1801」

 点々がより明確になっているかも。刻まれるリズミカルな振動が入ってくる。こちらの心臓も同じく波打ちそう。

それにしても、裏から押し当てた墨がきれい。ほとんど夢幻。

水分のしたたりを感じるような潤い。水を紙に落とし込んでいく。しみわたる。乾いた紙の地にひとつひとつと樹が落とし込まれていく、長い時間の軌跡。こちらもしっとりした気持ちになる。

点々は、枝の流れと繊細に連絡している。樹の精は、木の中だけに閉じ込められず外へとつながり、樹とその周囲の空気や風、光のなかに伝わっていき、そこでなにかこちらにも喜ばしいような感情が満ちてくるのだった。

滞留していたものが、再び流れ出すような感じでもある。

 

「蘇芳 2018」は小さめの作品。青色がきれい。作品もすばらしいのだけれど、この作品のかかった壁面まで一体にきれいに見えてきて。

 

廊下にはスケッチが展示されている。こんなに綿密にスケッチをされていたとは。

青い線、赤い線でさらに描き加えられ、それはスケッチした時間の違いであったり、または奥の線手前の線と分けられていたり、なんとなくルールがあるのだそう。

秩父のご自宅のお庭にある木々を、長い時間、日々折々につれ見ていたとある。展覧会のタイトルの「日々の樹―生々を描く庭」の意味がちょっとわかる。描く対象というよりは、もっと近しい、暮らしの中にともにある存在なんだろうか。

それでもスケッチはとてもストイックに対峙し、厳しい。不思議な感じがする。

 

気が付けば、最近の作品の部屋から見始めてしまい、過去の作品の部屋へと逆まわりで見てしまった。

でも良かったかもしれない。 ああ20年前のここからもう萌芽があったのかと思う。

1998年から2018年まで、描き方は変わってきているのだけど、変わらないものがある。

「精Ⅳ 1998」、「脈2002.1 2002」、「柿の木、夜 2012」は、3作品とも柿の木を描いている。「精Ⅳ」が点からひいた線とで初めて樹を描いた作品だそう。

「精」と「脈」、桜の木の絵にも感じたふたつが、すでにあった。

 

10年たった「柿の木、夜 2012」は本当に夜の色だった。

しんとした暗さの中で、浅見さんが柿の木を見ている。木が生きているのを感じている。闇の中でもこんなに圧倒的な精気にどきどきしてしまった。これだけの樹を感じ取り描くのは、描くほうも相当なエネルギーがいりそう。

 

「Matsu7 2003」は、硬くてうねるような大木を想像。幹の線は見えないけれど、離れるとなんとなく木の動きが見える。

20年でずいぶん描き方が変わってきたんだと思う。

初期の柿や松の木は、木の脈や精気、木そのもののエネルギーをストレートに受けるような感じだった。

それから最近の桜の木の作品では、それらをなにか昇華しているような。直接的だった木のエネルギーは、神的な気配をまとうようなやわらかさへと。

あらためて桜木影向図は、来迎図のようだなと思う。

「変容 2017」は、影向図と重なるようななにか。

樹の実感はあるのに、そこを超えたなにか。

枝の先端の先に、さらさらと指の間からすりおちていくようないちまつの寂しさ、でもそれが輪廻の輪の中にあるのだと、がらにもなく仏教的なことが浮かんだり。

 

浅見さんが小学校で指導された子供たちの作品も展示されていた。それもすばらしかった。

パネルと映像でその授業の様子が紹介されている。夢中で、自由に、紙に墨で描きつける子供たちの姿には、心動かされてしまった。

そうやってできた作品は、これにはなにも勝てないと思うほど、心を動かす作品だった。

浅見さんが授業で繰り返しおっしゃられたのは、「失敗なんてない」と。

しみた。。。

それがどんなに難しいか。

大人向けのワークショップこそあったらと思う。

  


●永青文庫 江戸絵画の美ー白隠、仙崖から狩野派まで

2018-12-02 | Art

永青文庫 江戸絵画の美ー白隠、仙崖から狩野派まで

2018.10.13~12.5(11月13日から一部展示替え有り)

会期ぎりぎりに行ってきました。

別館に、昨年同様、この時期に熊本から送られてくるという《肥後菊》がありました。

肥後菊は、花単体としてだけでなく、花壇全体としても鑑賞するのだと、スタッフさんが教えてくれました。武士の園芸として、いろいろ決まった形式があり、大輪の菊は一本に7輪と決められているとか。

華美ではなく、ほっそり楚々とした感じ。↑は、「初雪」。↓は、「千代の寿」

「旭光」

熊本名菓「加勢以多」。かりんのジャムが楚々とおいしい♪。(別館は茶菓つきで200円)

こんなことをしているあいだに、展示が16時半閉館ということを忘れて、あまり時間がなくなってしまった。

肥後54万石、700年続く細川家に伝わる文物の中から、今回は江戸絵画の展示。

狩野派、森派、谷文晁などのほか、初めて名前を知る肥後藩の御用絵師がみもの。

また、細川家の歴代お殿様が自ら描いた絵も、ちゃんと?上手い。そもそも自ら絵を描きたがるところがアート好きな一族。

大観はじめ数多くの画家のパトロンであった細川護立(1883~1970)の収集品から、白隠や仙厓が多く展示されている。

博物図譜系の展示も多く、江戸のマニア趣味をけん引したのは、一番は大名たちであったかもしれない。その熱中ぶりがほうふつとされました。

 

◆狩野派の絵画 

細川家所蔵の狩野派絵画。

桃山時代の西王母・琴高仙人図屏風(狩野派)6曲一双は、奇抜でなく格式あるな描きぶり。人物の目が大きめで、この絵師の描く顔、いいなあ。

右隻の西王母の上品でふっくらとしたほほが印象的。

左隻の琴高仙人は好きな画題。下界の高士たちのびっくりした顔が(笑)。鯉の周りの雲の墨がいい感じ。

しかし、別にいいのだけど人物が10等身、いや12等身くらいあるのに目がいってしまう。教会の受胎告知は見上げる視線を計算しているのの逆で屏風の見下ろす分を計算しているわけではないと思うのだけれど??

 

今回のお目当ては、狩野常信。常信は、1692年頃に細川家から俸禄をもらっていた記録が残っているとのこと安信叔父に冷遇されていた感じがするけれど、細川家は彼の画を認めていたのだろうか。

常信「寿老人・山水図」は三幅対。図柄も探幽様式とのこと。でも探幽よりも丁寧で端正な感じ。山水のしっとりしたにじみが美しかった。中幅の寿老人の足元には蓑亀が。

常信「七十二候図」は、5日を1クールとして、1年365日を72枚、気候を描いたもの。そんなに描き分けられるとは(!)。《地始凍》、《水始氷》などのタイトルになるほど。枯れた柳、氷のひび割れなど、日本の季節を細やかにとりだしていた。

常信「八景図」はとてもきれいだった。水面に降りたもやがいいなあ。

 

先日静岡県立美術館でたっぷり見た狩野栄信、養信親子も。

狩野栄信「百鳥図」。70種101羽いるとのこと(!)

明清絵画の接しゅに努めた栄信。百鳥図は明で流行しており、この画も中国絵画を踏襲したものとのこと。それにしても鳥密度Maxで、もはやシュールなほどだけど、鳥の顔がとてもかわいい。各鳥のしっぽも見どころポイントだったりもする。つがいだったり、父母+ヒナ二羽のファミリーだったりと、幸福感を押し出している。鳳凰など実際に見たわけでもないのに、よくこんなに動きがあって描けるもの。 

 

息子の養信の「胡蝶遊覧図」 も大名家の所蔵らしく、鮮やかな絵具をふんだんに使って描かれた、復古やまと絵。

画面に散る花びらが美しい。舟に遊ぶ貴族たちも、男性とは思えないふっくら雅びな顔立ち。梅を愛でていたり、しっかり気持ちの向きが読み取れる。鳥たちの隊列や、散り方さえきれいで、ぬかりがない。

 

◆細川家に仕えた絵師たち

まずは森徹山、奥文鳴と、応挙の弟子が並ぶ。奥文鳴「西王母・紅白桃図」の三幅対 は、とくに印象深く。右幅の下から上がってくる城桃、左幅の画面上から下りてくる紅桃との上下の力強いリズムが、目にぱっと飛び込んでくる。金も使って華やか、さすが細川家。

 

矢野派という初めて聞く流派は、細川家が熊本に転封されたときに付き従ってきて、熊本に根付いた。在家の武士や商家の注文もこなしながら、藩の御用も請け負った一派。「領内名勝図巻」18世紀 は、御用絵師の矢野派の嫡男良勝とその相弟子の衛藤良行が藩主の命で肥後領内を歩き、二年半かかって、名勝地を絵巻400メートル、14巻にわたって描いたもの。展示では滝のシーンだったのだけど、参考展示の現地写真とそっくり。雪舟の筆致を踏襲して描かれて、滝のしぶきなどたいへんな迫力だった。

これを描かせた藩主・10代目斉しげのもとで熊本では絵画文化が栄え、永青文庫に伝わる明清絵画はこの藩主のもとで集められたものだとか。

杉谷行直も矢野派。「富士登山図巻」はとても面白かった。参勤交代の途中で実際に富士山頂まで登山したもので、苦労した臨場感がある。一列に杖をついてジグザグ道を登っていく一行。茶屋も描かれている。3合目では花も咲いているけど、7合目8合目になると岩のみ。石を屋根に乗せた山小屋がいくつも連なっている。山頂は雲がかかっている。絵師もたいへん。。

その子、杉谷雪樵「小嵐山図」19世紀 嵐山に似せて造った、ここ目白の庭を描かせたもの。広っ。今も残る細川庭園の面影がある。

杉谷雪樵の時代で明治維新を迎える。維新後は上京し、宮内庁の御用や引き続き細川家の御用を受け、さほど困窮した様子もないらしい。芳崖のように御用絵師皆が困窮したわけではないようだ。

 

細川護立(1883~1970)が収集した白隠や仙厓では、人柄が偲ばれるようなほのぼの楽しい作ばかり。

特に白隠の「拝牛図」「鼠師槌子図」などがお気に入り。「拝牛図」は十牛図のひとつ。荒牛をようやく飼いならした場面。つい今まで荒れていた牛は、まだ少しファイティングモード。それをよしよしとなだめる男性がかわいい。

仙厓では「臨済図」。厳しいので有名な臨済だけど、今ならパワハラ。片手で弟子を殴り、もう片手は周囲に止められている。目の周りの薄墨が怖い。 

 

◆博物図譜

鳥、獣、虫、花などを細密に描写させ、お殿様(8代目細川重賢)自ら本に編纂している参勤交代の道中でいろいろ動植物を採集させたらしい。「珍禽図」では、むささび、モモンガがぺろんと大きく画面を占めたページが楽しい。「遊禽図」1755は、高松藩の松平家から借りたものの模写。この松平家も博物図譜系の展示のたびになにかと出てくる。以前静岡県立美術館で見た、松平家所蔵の魚や椿の図譜があまりにすばらしく(ついにはおもしろく)衝撃だった。細川のお殿様と松平のお殿様はプライベートでもなかよしだったのかな?。お殿様ネットワークに興味がわく。

 

◆お殿様の絵

細川忠興、絵も上手いのね。狩野派の手本によるものらしい。

 

斉しげのネコは、徽宗皇帝風の微妙さ。。ネコがペロリと手をなめている。毛描きに頑張った感があるけれど、ちょっと化け猫入っている感じ。

 

ひとつ気にかかっているのが、細川有孝(1676~1733)の「諸獣図」。ムササビといいジャコウネコといい、大好きな、でも不詳の狩野宗信(17世紀生没年不詳)の画に似ている(化物絵巻の日記)(根津美術館の日記)(!)。お殿様は狩野の粉本から描いたものらしいけれど、元絵はどのようになっているのだろう。

すっかり暗く。

 

坂を下りて、関口芭蕉庵の芭蕉を見て帰りました。もうしまっていたので、外から。

まだまだ青々した葉が健在。紅葉とふしぎな組み合わせにて。

 

 

 


日展 2018年

2018-11-27 | Art

改組新第五回 日展 

国立新美術館 平成30年11月2日~11月25日

もう会期が終わってしまったけど、今年も日展を拝見。

この日の新美術館は、東山魁夷展がとぐろを巻く大行列だった。ショップも大混雑らしい。ボナール展は並ぶ人もなくすんなり入場できそうなようす。

日展は、日本画しか見られなかったけれど、受賞作は昨年とはずいぶん違った印象だった。

昨年は日記に、社会の浮遊感、つかみにくい若者の間によぎる感覚、そういう現代社会の断片を切り取ったような日本画、というようなことを書き残していた。

今年は、上手く言えないけれど、現代どころか時間を超えた、普遍なものを描こうとした受賞作が多かった気がする。こういうことを描いているのねなんて簡単に言えない、深淵さというか大きさというか。画家の方も、昨日今日の発想で描いたのではなくて、その容易ではないテーマに何年も取り組んでいるのかなと想像した。描くことと精神的なものとを一緒に追っているような。

以下、心に残った作品の備忘録を見た順に。(今年から記名なしで撮影できるようになったそうです)

松永敏「顔」(特選)

 画家自身?。学生くらいなのか、坊主頭の男子?が顔を並べ替えている。手の届く範囲に放射状に顔。何枚も切り取られた顔のスケッチは無表情だけれど、目や口のパーツを切り取った仮面のような顔のほうが、逆に何かを叫んでいるように見える。

実際の顔はどんな表情をしているかはわからない。もしかしたらにやっと笑っていたら、けっこう微妙な。顔の用紙は少し厚みがあるのだけれど、いつのまにか手より上にきているのは故意なのか気になる。

カッターの刃にドキッとするけれど、危ないほうに偏るでもなく、まんじりと不思議なところで保っている。

 

新川美湖「予感」(特選)

画像だとよくわからなくなってしまったけれど、墨の画に見入ってしまう。二年続けての特選はめったにないことらしい。

破れた無数の蜘蛛の巣越しに見る水辺のその先。空。暗雲。そのむこうに広がる無限の空間。明るさと暗さ。黒い羽にどきっとする。

「予感」ってなんの予感なんだろう?。気象と自然がざわついている。移ろいの予感?終わりの予感?それとも。

降り出した雨はもっと激しくなって、きっと蜘蛛の巣は見る影もなくなる。しばらくの時間見ていると、次第にコスモスの色が濃さを増しはじめ、湖や空が輝きを増して見えてくる。少し神秘的な体験だった。雨がやんで再び静かになった水辺も頭によぎって、自然の理を思ったりする。それにしても墨ってきれいでうっとり。

 

大崎多実穂「画室の花」(特選)

グリーンの同系色だけなのに、花も椅子も存在感を持って感じられるなんて不思議。たったこれだけのものが特別なものに見えてくる。近づくと、花も椅子も、実はとても強いものを放っていて、声が聞こえそうなほど。

 

猪熊佳子「風の森」(特選)

幾重にも重なる森の木々、葉、草。奥へ奥へと入り込める。さらに、かすかな気配、些細な音、木漏れ日、森のにおい、耳や鼻も澄ませたくなる。

多様性の保たれた健やかな森。どこを見ても、そこに生き生きした生命体があって。写実的に描かれているわけではないのに、幹も葉の一枚一枚も生きているような。

 

行近壯之助「崖」(特選)

圧倒されてしまう。明確な形が認識できないまま、国造り神話を思い出したり。崖から向こうに続く道が見え、神話の世界に続いているんだろうか。その向こうは原始的な燃える地。そこを単眼鏡で見たら、それはもう神々しくて、のけぞりそうだった。少し離れて見ると、崖の入り口に守り神のような獣と、踊り祈る巫女のように見えてきたり。

 

山田まほ「山ノ図」(特選)

山に雲がおり、風が吹きすさび、草樹をふき飛ばす。山と、山を囲む気。すさまじいエネルギー。どこの山とわからないのだけれど、この方の内部のエネルギーと融合され、一体となって吹きあがるよう。古来の山水画のエネルギーもすごいのがあるけれど、超えているくらい。浦上玉堂の山はうごめく。この方の山の本体はどっしりと動かず。この山の中からと周囲にまとうパワーを、一身にうけて描くっていうのは、相当パワフルでなくてはいけないんだろうか?それともしなやかでなくてはいけないんだろうか?

 

今年の特選の作品は、大きくて深い世界を描いたものが多い。私が深いって言ったら逆に浅く聞こえてしまうのだけど。日展の大画面の作品は、離れて見ても圧倒されるのだけど、近寄ってみるとすさまじいエネルギーが込められていることを実感させられる。ものすごい世界を作り上げられるものだなあと、画家の方々がまぶしく見えてしまう。

 

そんななか、これはほっこりする夜。

稲田雅士「静かな夜に」(特選)

 

横断歩道の信号と、家路につくおばちゃんとウインドウのワンピースは、もしかしてシンクロしているのかな?。ウインドウの商品もかわいくて、窓からはクロネコがのぞいているし。きっちり描いた街並みでなく、道路や屋根にはゆがみが許されていて、三角の空は狭いけれど星がとてもきれいに見える。いつものふつうなんだけど、少しずつ、楽しいことのある夜なのだった。

 

岩田荘平「蜜蜂の軌跡」

いつも極彩色の濃い画面が印象的なのだけど、今年は大きな余白。でも余白もしっかり、まるではちみつが固まった表面のような。しべから取って運ぶ花粉が、蜜蜂の軌跡として微量の金に。大きな余白は、本当は花の合間の小さな空間。この距離感は蜜蜂目線なのかも。

 

高増暁子「森の声を聴く」 

影がステキ・・。木漏れ日もささやく感じ。また富津のカフェと美術館に行きたいなあと時々思う。牛やキジもいたしね。

 

川島睦郎「翔」 

花でなく、花たちといいたくなる。鳥もかわいいなあ。上村松篁を思い出す。

 

成田環「月瀬の大杉」

幹の筋ひとつひとつが立っているというか。木は樹皮のところで生きているんだと、知床のネイチャーガイドさんが言っていたっけ。向こうの景色も深まって好きなところ。

 

樹皮ではもう一作印象的な作品も。

「久遠」西野千恵子

昨年も驚いた、この膨大な筆跡こそが久遠ではないかと思う。今回は一瞬ポップに思えたりもした木肌。古木からは若い枝が生まれて伸びあがっている。

 

膨大な作業では毎年感嘆する、池内璋美「映ゆ」

毎年見いってしまう。写真と写実の違いをしみじみ感じる。どの部分を見てもそこが立ち上がってくるというか。つまり、この方は、描き続けながら、どの細部にも長い時間目を遣っているのだ。

水面に写る上下の重なり、静かな波のしじま、柳の葉のずっと川の奥まで続く見通せる距離感。淡々とした静かな光景だけど、胸にせまってくるもの。

 

山本隆「伴偶」 老いた夫婦、これまでともに歩んできた厳しい。。なんと言っていいものなのだろう。

 

水野收「HIRUSAGARI」 

なんだかいいなあ。色も、簡略化された花や犬や鳥も好きなところ。サリーのおばあさんは目がよく見えないのだろうか。おばあさんの手に感じる子供の顔の感触、子供の顔に感じるおばあさんの手、子どもの手やすりすりしているイヌの顔にあたるサリーのやわらかさ。触覚を感じるような絵だった。

 

伊東正次「野仏図」

いくつかの作品で見た蝶や野仏。この蝶があちらの世界とこちらの世界を行き来する感じで、ではこの世界はどちらの世界なのだろう。仏教的な慈光のような光があたる石畳をひとあしひとあし踏んで入って行ったら。その先は絵の中には描かれず。一枚一枚の落ち葉さえなにか響いてくる感じ。

 

光の光景 海亀」土屋禮一

これまでのあしかやいるかも印象的だけど、今回は海亀。ぐいぐい泳いでくる、大きくて力強い亀。光が神秘的でドラマティック。

 

もうひとつの亀の作品もお気に入り。

「何処へ」佐藤隆太 

こちらは、”どこ行くのー?決めてなーい”、みたいな浮遊感。

与那国でシュノーケリングしたときに出会った海亀は、こんふうにゆら~んと通り過ぎていったのだった。なんとなくついていく感じの一匹の魚や、三匹で話し合っている感じの赤いフグ?もかわいいなあ。海中のほほえまし気な世界。

 

「二つの季 冬から春へ」藤井範子

芽吹いた季節と花が咲く季節。枝のスキマの空気感も、それぞれの季節で違う。赤い芽がかわいいなあ。があいだのスミレやわらびもいいなあ。

 

加藤晋「思い出せない忘れ物」 楽しみにしていた大好きな絵。最初にささっと1周して場所は知っていたけど、先に見ちゃうと足が止まって他の絵が見られなくなりそうなので我慢していたのだった。

なんてきれいな緑。でも遠い記憶のなかのような色。水田が広がる。少しずつ山がちになっていく。画家の私や個が先に立ちぐいぐいくる絵は多いけれど、ただただこれをこんなふうに描いてくれる絵ってなかなかないのだった。すごい。すうっと入っていける気がする。

 おお雲だ。ああっしっぽが。楽しすぎる。小鬼たちが!前にも絵のなかにいた小鬼たちだ!。また会えたね。とてもうれしくなる。絵の中で生きているってほんとうにあるのね。龍や風神雷神はのんびりしている。だからこちらもとってもなごむ。

加藤さんの絵には、深い深い緑の人里や山に、いろいろな生き物たちが暮らしている。あ、そこにひとり、あそこにも、と彼らに気が付いていくことは、ほんとうに楽しい。しかもみんなとってもかわいい。なかにはこっそり山並みにわからないくらいに紛れているのもある。そうすると、だんだん山の端、葉っぱの濃淡、なんでも動物かなにかに見えてきたりする。ウサギが走っているからにはどこかに亀が仕込まれているのではないかと捜してみたり。(16人(匹)は見つけたけど、他にもいる気がする)。

ずっとこんなふうにして人間は自然になにかを見て生きてきたのかもしれないと思う。登り龍なんて竜巻に神をみたんだと思うし。子どものころには、冬の初めに遠くの山に雪が降ると、白くガイコツの形が浮かび上がって、登校途中に皆で今日は不吉なんだよってことになっていたっけ。

それにしてもいいなああ。この前に布団を敷いて眠りたいぞ。このなかに入れて眠れるなんて夢のよう。まず小鬼たちを探しに行く♪。ちゃんと道も橋も描かれている。朝起きても幸せな気持ちだと思う

会場でも、幾人ものひとが、”あっ見てあそこ”と同行の方とニコッとなる。会場の中でここは幸せなスポットなのだった。

 

「水の音」木村光宏

はっと意識を向けるカワセミ。ススキやねこじゃらし、枯れ草に光が反射する。光の線と粒が踊るよう。

 

岡田繁憲「そば畑」 おおお、そば畑って見たことがないけれど、こんなに真っ白になるのだろうか。キジもいる

 

これ以外にも心に残った作、好きな作は、、

・「いっしょにいるしあわせ」時田麻弥「鼓動の旋律」戸田淳也(特選)「風韻」石崎誠和(牛と見る者との間の距離感が印象的。スーっと抜けていったような風の跡)・森美紀「燦雨」、・「蘇鉄綬」北川由紀恵(蘇鉄のかぶさるような量感が。)、・「鮭」坂本幸重(新聞の文字まで描いたのかな(!)鮭のうろこもミクロの世界(!)。金地にイカもいて、お正月セットを意識?新聞の見出しも新年っぽいような)、

能島浜江「寒山拾得」、・「空と海とのはざま」川田恭子、・「幻影の安土城服部泰一(安土城の再現は気になるところ。どこかから絵図が発見されないものか。人影はなく、馬が一頭だけ駆けている。滅亡しそこねたのか?)、・諏訪智美「兆し」(毎年水中と魚を楽しみにしている。水中のほの暗さがいいなあ。)、・東俊行「碧」、那須勝哉「姿見の池」(少しシュールな雰囲気。鯉、カモ、それぞれの動きがなんとも。)、

・「遡上の舞」平戸孝、・「時空巡り童子(遥かなる認識への旅)」間瀬静江(金箔の上に塗り重ねた背景に、かたつむり、ミジンコ、ナマズ、てんとう虫、とかげ、、)・「たどり着いた町」中村文子(すてき・・)、「暮れゆくとき」村居正之(暮れきる直前の暗さ、灯りが特に好きなところ)、「漁火」山田毅(海上の月と満天の星空!)、

・福田宏之「FIELD LINE ススキ」(セザンヌを思い出したり)、「花たちの宴」佐久間香子(菊(!))、北川咲「積」(トタン板が。。。壁の雰囲気がすてき)・・

 

時間が無くなり、日本画すら全部は周れなかった。もし時間があってももう頭がいっぱいいっぱい。でも好きな絵に出会えて、今年も楽しい一日だった。

 


●藝大コレクション展2018 柴田是真「千種之間天井綴織下図」、蕭白、原田直次郎、高橋由一ほか

2018-10-07 | Art

藝大コレクション展2018 

東京藝術大学大学美術館 本館 展示室1  2018年10月2日(火) - 11月11日(日)

昨年は《藝「大」コレクション展》(日記)でしたので3階をいっぱいに使っていましたが、今回は地下の半分だけの展示。

でも(!)

柴田是真の「千種之間天井綴織下図」明治20年が、51枚も公開されているとあっては、さっそく行ってきましたよ。

他の作品も、蕭白の屏風絵、高橋由一&原田直次郎の師弟作品が並んでいたりと、充実の展示でした。以下、備忘録です。

「千種之間天井綴織下図」は、数年前、藝大美術館の3階で初めて見て、衝撃的に惚れ惚れして、ショップで「柴田是真の植物図」(平成25年版)という小さな本を即買いしたのだった。タンスの肥やしの図録が多いなか(恥)、この本は今でも折に触れよく見る。

 

今回の公開は、クラウドファンディングによる修復を終えたお披露目でもある。

数年前の時は、和紙がしわで波打っていたような記憶があるし、上述の本でも和紙のつなぎ目の黄ばみがしっかり写っている。

今回は、黄ばみもしわも感じず、色があざやかさを取り戻していた。

修復の過程や担当した方々のお名前もパネル展示されていて、スペインで続く衝撃的な修復の事例を思うにつけ、ほんとうに尊敬と感謝です!。

 

さて、「千種之間天井綴織下図」は、一枚が1m四方の大きいもの。それが3枚×横に17列、ずらっと壮観。

明治21年(1888年)に竣工した明治宮殿(旧皇居)の《千草の間》の金地の綴錦の下絵。

《千草の間》は、宴会のあとにくつろぐための空間で、欄間には花は葉が彫りだされ、七宝や彫金の釘隠し。壁面は刺繍の裂貼り。表宮殿の中でもとりわけ豪華な部屋だったとか。

この下絵を112枚、皇居造営主事・山高信離は、是真ではなく、是真の息子の真哉に発注した。81歳で(へんくつ)是真に命じても応じないだろうから、息子に命じれば是真に相談するであろうとふんだ。山高信離は、旧幕臣で、徳川昭武、渋沢栄一らとパリ万博に赴き、明治期には日本美術の保護展示、博覧会・博物館行政などに活躍。椿椿山に画を学んだそうな。読み通り、「山高氏するどいのお。この仕事はお前にはムリじゃ。」的なことで、是真自ら花卉数十種を描き、真哉に彩色させた。(と明治24年の新聞が伝えたと、上述の本より)

 

51枚、円の中のおさめかたに、いちいち感動。これはこうか、おおこれはこう来たか、と。

しかも不自然でなく、躍動し、流れがある。

なんて花が生き生きしていること。花の美しさを存分に愛でることができ、花のしべまでにおいたつような気を放つ。

長年の是真の写生のたまものでしょう。

「写生帖・縮図帖」も展示されていた。こまやかに観察している。

燕子花、ケイトウなど美しいこと。省亭もそうだけれど、スピードを落とさない筆致で、細部の先端まで的確にとらえ、しかも繊細に描きあがるって、すごい。茶色くちりちりになった葉まで、うまい。

「八月上旬花開ク。八丈島ノクサ、俗に染草」とメモ書きがある黄色い花もあった。身近な花だけでなく、珍しい花も是真は写生のストックをいっぱい持っている。

 

余白まで、うっとりするよなおしゃれな形になっているものも。

莞花(かんか)

田字藻(たのじも)

アールデコ風な、81才是真の恐るべきデザイナーセンス。

提げ箱や印籠、盆など漆や金蒔絵の工芸品を手掛けてきた是真は、制約のある空間を印象的に活かし、魅力を増幅させる技はお手のものなんだろう。格調高く、それでいて洒脱。

 

美しいモチーフはもちろんだけど、「そうでもでない」花もいいのが是真の魅力。

葉や枝の面白さ、葉と花で織りなすリズム。葉と花の重量や色、形のバランス感覚。なかにはサプライズを狙った?みたいな意表をつくものも。

葉っぱがおもしろい「柏」

枝ぶりの妙を楽しむものも。「みつまた」って必ず3つに分かれるって、ふしぎ。

明清画風な枝ぶり、院体画風なのも。

他にも、花は一つだけのトロあおいが印象的。葉が面白いのよね。

 

組み合わせもおもしろい。

ききょうは、それだけで描いてももよさそうに思うのだけど、吾亦紅と合わせるとは。

大輪の百合も取り合わせで。一本でも主役級の百合なのに、容赦ない。美の競演といった感じ。

是真の美意識がおもしろい

朝顔と芭蕉の作品は、なかでも好きな一枚。

線の美しいこと。全くもたつかない。

ひるがおは、竹にからみつく。

 

是真は、ひとを驚かせるのが好きなんだろう。

ケイトウの大胆さには、びっくりする。

ひまわりは、ばーんと。

他にも「おもと」は、大胆な紫がうねり、グロテスクに斬新。

宮殿だからって、ステレオタイプで古臭いのじゃ、是真は嫌なのね。

 

燕子花なんて、もはやオンガク。旋律を奏で居ている。

こんな撥音的なのも。

ならばレンギョウは、輪舞だろうか。

子犬のワルツ的な?。

 

ダークホース的な「鬼蓮」のひげひげには、タラ夫(バベルの塔展のキャラ)のすね毛を思い出し。

風を感じたり。

 

美しく描くだけじゃつまらない。おしゃれでかっこよくて、どんな81才よ。

 

こんな82才。写真嫌いとはいえ・・。

 

展示作の「師承過去帖」は、紺紙に、是真が金で天女や楽器を描き、師と仰いだ絵師らの名前をお経のように書きつけた軸。古満寛哉、鈴木南嶺、岡本豊彦らの名前が見える。

「がいなもん松浦武四郎一代」(河治和香)には、へんくつな大御所の是真がちょっとだけ登場する。松潤主演の19年春放送予定のドラマ「永遠のニシパ~ 北海道と名付けた男 松浦武四郎~」にもちょっと登場しないかな?演じるとしたらだれだろう。

他の展示では、以前に見たことがあるもの、初めてみるもの、彫刻、日本画、油彩画とさまざま。

曽我蕭白「群仙図屏風 」

右隻に、西王母と侍女、鳳凰。不老不死の実を持つという西王母も侍女も、後れ毛まで細密に描き、妖術使いのよう。女性の細い指先は、たぐりよせられるとなすすべもないほど美しく妖しい。鳳凰なんて、細密すぎてもはや怪鳥。岩肌は石英のような直線的な硬質感で、しかも繊細。とおもうと、薄墨の幹のゆるやかな曲線。流れや流花の美しいこと。蕭白の意外にも細やかな感性と、確かな技術に感じ入る。

左隻は、葛玄(死んだ魚を蘇生させる)と、亀を持つ黄石公。生き返った魚は、もうただの魚ではなく、超魚。ヒレや目には金使い。亀もするどい風貌に、めぢからも迫力。

左右の隻でいろいろ対照的。右隻はゆらゆらと優美だけれど、左隻は激しく強く。男性の強い太い腕、足の爪までごつい。岩もこちらは濃い墨で激しい筆致。全体的な流れも、右隻の枝や鳳凰の尾はゆらりと上昇し、左隻は松の枝や葛玄の腕とともに下降。登り降りするパワーがうずまく。

左右ひとりずつ、こちらを見ている人物の視線にどきっ。幽玄でいて、アバンギャルドな蕭白。

 

小堀鞆音「経政詣竹生島」 小下絵と本画が並ぶ。

古径なども描いた、神秘の夜の画題。平経政と、弁財天の化身のである白い龍の、見つめあう視線が印象的。経政は驚くでもなく、かすかに微笑む感じ。むしろ、琵琶の音につられて現れ出てしまった龍のほうが、予期せぬことに戸惑っている。龍の白い身体に、かすかな緑や朱の着色が女性的。恋の始まりのような絵。

 

原田直次郎「靴屋の親父」明治19年と、高橋由一の「鮭」明治10年頃 が並ぶ。何度も見た二点だけど、一緒に見るのは初めて。

どちらも存在感がすごい。直次郎は、由一に洋画を学んだあと、ドイツへ留学。ミュンヘンアカデミーで描いた「靴屋の親父」は、内面から尊厳がにじみ出るような。

もしかしてその尊厳は、由一の「鮭」も、同じなんだろうか。「魚の干したの」であっても。えらの傷み、生々しく剥きだされた赤い身。表面の皮の下の内面を掻き出すように由一は描き、描いたものに命を与え、存在感を与える。

直次郎の技術に比べると、由一の油彩はまだ草創期という気がするけれども、その存在感では、鮭も親父も引けを取らない。

 

椿椿山「佐藤一斎像画稿 」は、71才の佐藤一斎像の画稿だそう。他に、50代、60代、80代のものがあるのだそう。なんと。東博や実践女子大香雪記念館で見た一斎像は、何歳のだったのだろうか。ってどれも同じような、疑り深そうな顔。

 

和田英作「野遊び」大正14年 油彩で、古代日本のような女性たちを描いている。藤がきれいで、足元のすみれ、タンポポ、土筆、ぺんぺん草などもいいなあ。陰影はつけず、平面的。岩絵ではないかと思うほど、油彩に違和感がない。

 

西村五雲「日照雨 」昭和6年、幼い軍鶏と通り雨。足やトサカが細密だけど、毛はふわっとやわらかく。雨は明確に白い線が引かれ、大粒の雨が降り始めた。

 

戦中の絵も多かった。

靉光「梢のある自画像 」昭和19年は、目があいまいに描かれ、読み取れない表情なのに、重苦しく心に残っている。

久保克彦「図案対象」昭和17年  在学中に召集され、亡くなってしまう。入ってすぐの壁一面が彼の作で覆われていた。はじめて知る彼の作にかなり衝撃を受けた。

 

吉田博「溶鉱炉」昭和19年 戦時特別文展出品作、政府買い上げとなった。工場や福岡の製鉄所や造船所に出向き、写生を重ねた。

炉の炎がすごい。炎の正体って何だろう。吉田博がそれをつかみ取ろうと格闘した結果のうちの一枚。(吉田博展では他にも溶鉱炉の絵が展示されていた。)

照らされる人の輪郭を侵食するほどの炎の威力。絵の前から離れても、その火力の強さ、まぶしさが全く衰えない。かえって炎に浮かび上がる配管がいっそう赤く浮かび上がって見える。ならばと、会場スペースの許す限り絵から離れて見たら、さらに炎が際立ってまばゆく見えたのは驚いた(!)。

 

山本丘人「山麓」昭和18年  日記のような手描きのメモが添えられている。電車の窓から見た山風景に惹かれ、途中下野した奥多摩。「低い山が近くに動き、植林の直線が目に入る。(略)平凡な眺め。悠久な山川の姿は、奇観ではない」と丘人は書き残している。山の麓の小径に、細い川に架かる1~2mの小さな橋。人は描かれないけれど、山里という感じ。

藝大アートプラザがオープンしていました。今度ゆっくりこよう。

旧東京美術学校の玄関の門が開いているのを、初めて見た(嬉)。

鬼瓦がひしめき合っている。

大将

 

   


●アートフロントギャラリー「浅見貴子 特別展」、「常設作家 新作展」

2018-06-09 | Art

「浅見貴子 特別展」、「常設作家 新作展」アートフロントギャラリー

2018年6月1日(金) – 6月10日(日)

 
先日の日経日本画大賞展で惹かれた(日記)、浅見貴子さんの作品を見たくて、代官山のヒルサイドテラスへ。
この日はその前に青山スパイラルに行っていたので、偶然にも槇文彦先生の建築が続きました。
 
浅見さんの作品は、5点。
大賞の「影向図」は2015年の作品でしたが、それより前の作品が4点と、2016年の作品が1点。(写真は許可をいただけました)
 
「山椒の木」2016
 
この作品も紙の裏から筆を押しあてて、動かして描いたよう。
葉っぱ越しに、ぱあっときらめく光の粒、木漏れ日、葉っぱのきらめき、枝と葉に水分がいきわたる時のみずみずしさ、そういうものを感じていました。
 
ひとしきり時間を過ごした後でふわ~と広がる、よろこびのような感情。上手く言えないけれど、うれしくもあり、濁りが取れたような安心感もあり。
あまりにきれいで、なぜか喜ばしい気持ちになる。
 
 
ここから年代をさかのぼって、木の作品が続く。
 
「松図1401」2014  2m×2mの大きな作品
 
大きな木の中に入る感じ。先程の山椒と比べると、たしかに松の木。
木が生きているのが見える感じ。松の硬くて、エネルギッシュな。
 
 
 
「樹木図6」2007 
 
下から見上げる位置にいるんだろうか。裏から濃さの違う墨で描き、表から胡粉と墨で描き、複雑に何段階にも重なっている。茂る葉、重なり、無数の枝の線。
 
この作品から「影向図」まで10年(!)、「影向図」はずいぶんシンプルな描き方になっていたのだ。10年、この墨の手法を続けてこられたのだなあと思う。大賞展の図録の推薦文に「磨き上げられ、研ぎ澄ましてきた」とあった。浅見さん自身も余白の取り方を工夫したとおっしゃっていた。
 
この先、墨の木の作品を、浅見さんはどんなふうに描かれるんだろう。少しずつ変わっていくのかな。来年もまたどこかで拝見したいもの。
 
 
木の作品以前の作品も、とても心に残る作品だった。
木の作品も、"目にはさやかに見えねども、風の音にぞ”感じるような作品だったけれども、それよりさらに10年前の作品も、具象を描くことなく、それを表したような。
 
「深閑」1994  
 
夢かうつつかのようなたらしこみに、銀箔が流れるように。
 
月の夜空をみるような。銀河を見るような。むしろブラックホールかもしれない。
いえ、何万光年も先の惑星の表面のような。水の痕跡が見える。ような、ばっかりだけど。
 
深淵ななにか。夜の闇のここちよさ。無意識の遠い記憶に刻まれているのかも?。どこかに「還る」のだとしたら、その還るべき場所のような。(還るなんて言葉が浮かび、ちょっと書くのがはずかしくなる。)
 
木の作品もそうだったけれど、なんだかやっぱり安らぐ感じ。
 
「精Ⅲ」1998
 
胎内のような?。放出される生命のもと。水中のようでもあり、なにかの生命の根源的なものような。
 
目に見えないどころか、意識にも把握することのできない、体内の誕
生レベルからの記憶の痕跡に触れたような。
 
画風は違うけれども、木の作品にずっとつながっているような感じも。
 
 
このギャラリー全体が深淵な空間でした。
時々見たい、ふと見たくなる絵。影向図もそうでしたが、見て最後にはなんだか心が整うというか、ああ見に来てよかったと思う。
 
 

●「加藤晋 日本画展~昔も今も~」藤屋画廊

2018-04-15 | Art
「加藤晋 日本画展~昔も今も~」
 藤屋画廊 2018年4月3日~14日
 
昨日で会期が終わってしまったのですが、先日拝見してきました。
大好きな絵で、日展などで多くの作品を見た後でも、途中や帰る前にはもう一度見に戻ってしまう。個展を待ちわびていました。
この日は、加藤先生が在廊されていらっしゃって、とても緊張したのですが、お話しを伺うことができて嬉しい出来事でした
 
 
日春展出品の「昔の約束」に再会でき、ナゾが解明されました(喜)!
 
この風景はどこなのだろう?と気になっていたこともうかがうことができました。
三蔵法師一行や動物や龍たち以外にも、もっとなにかいる気がするとあやしんではおりましたが、聞いてびっくり、そんなたくさん隠れていたとは!。
そしてあの肩を落とした青い服の子は、浦島太郎ではなくて(恥)、白蛇伝の許仙だったのです。(1958年の東映アニメ。もの知らずで恥ずかしいですが、雨月物語と清姫の純愛版のようなお話なのですね。youtubeで少し見ると、背景までとてもきれいな絵でした。しかも原画を、日本画の絵具で描いている!)
 
 
 
「こちらの向こう側」の絵で正体を表しちゃった嫁狐の、その後も知ることができました。
「花の宴」
 
夢のように、または狐のくせに自分が憑かれたように、踊っている。その顔が雲中菩薩かなにかのようで。
杉の板の木目は不思議な気を漂わせて、狐たちはどこか向こう側の世界にいる感じ。
 
 
 
加藤先生の大きな風景の絵の中から、外に出てきたようなものたちが他にもいました。
 
風神雷神もいましたよ。
でもこの二人のタイトルは、「風雷坊」でした。
 
まだローティーンな男の子たち。
風神は、袋を制御しきれず悪戦苦闘。雷神の打ち鳴らすイナビカリは、出てはいるけど、イマイチ迫力に欠ける感じ。
今までに見てきた風神雷神図は、あれは熟達したキャリア神だったのですね。
まだ不完全なものたちの一生懸命さ。彼らにはまだ、宗達や其一たちの風神雷神が背負ってくるバックの暗雲がない。
丸腰な感じ。たとえ暗雲があっても情けない雲だったりしそう。
そのかわりに、二人はなにかで結ばれている。
いつか一人前の風神雷神に成長したら、きみたちも雲を背負うのかな。
 
 
 
「空 大地と共に」と、「大地 空と共に」は、気になって心に残る二作。
 
 
 
馬は、ほんとうに邪気がなくてやさしい顔をしていた。板の木目が砂丘のようで、空も大地もその境も、汚れない感じでとてもきれい。でもどこでもないような思い出のような、不思議なところ。
このタイトルの違いが不思議で、「空 大地と共に」では馬の耳になったつもりで空に耳を澄ませてみたり、「大地 空と共に」では馬の足になったつもりで大地を踏んでみたり。とかしてしまった。
 
 
 
大きな桜にも、こっそりいろいろなものたちがくつろいでいるとは。小鬼たちにも再会、かわいいなあ
 
 
桜の花びらも、風景の絵に遠く感じるのと重なるような色合いでした。思い返してみれば多くの桜の画はとてもはかない感じで、とめたくてもとどめようもない寂しさすらよぎりますが、この桜の世界は、それを超えて、とどまっているというか普遍的な感じがしたり。現実と向こう側の世界が同じ世界にあるような。小鬼たちはこの世界に住んでいるようだし。お話しをお聞きした桜の花の裏側のついて気になっているのですが、来年の桜の季節に見てみようと思っています。
 
 
桜の絵のもう一作には、花さかじいさんのポチがいましたよ。
「花陰」
 
 
そのやさしい顔がなんとも・・涙。おじいさんはいないのかな?と捜したけれど、ポチの視線の先に、こうやって会いに来るのがおじいさんの場所なんでしょうか。大事な人やペットを亡くした人が見たら泣いてしまうかもしれない。 
 
 
どうして、いろいろなものたちをこっそり小さく描かかれるのか、気付かないものもあるのでもったいないのではと、素人のたわごとで伺ってみました。
そうすると、気付かなくてもいいかな、というようなことをおっしゃっておられました。
 
そんな謙虚な(!)。音楽でも絵でもほとんどのアーティストは、私の世界を見てくれ、私を理解してくれ、みたいなイメージでしたから。
 
入っていける絵、とおっしゃっていました。
「花鳥の夢」で、狩野松栄が、狩野永徳の絵を見て、上手いが見る者が入るところがないというようなことを言っていたのを思い出したり。
改めてこれまで拝見した作品の日記から画像を見返してみると、こんなに広く深く入ることのできる空間が絵の中に広がっていたのかと思う。空間的にも時間軸としても吸い込まれそうなくらい果てなく広い。
 
加藤先生の絵には、本当に遊びにいける感じ。出入り自由というか。
観光地のようにさあさあどうぞっていう感じではなくて、静かにそこにある場所、みたいな。旅のようでもある。
入ってまた出てくる。
その時には、なにやら充足感に満たされている。
 川端康成が色紙に書いていた、ドイツのシュピタール門に刻まれていたという言葉、「歩み入るものにやすらぎを。去りゆく人に幸せを。」を思い出しました。
 
 
そしてそこにいるものたち全部は気づけてないかもしれないけど、
見つける喜びを残してくれている。
発見したときの嬉しさ。最初の一回は一度しかないので、
見つける喜びを奪わない
 
この棚(!)
 
 
小さな作品が展示されていました。丸いかたちの木に描かれた、つばめ、馬、トナカイ、シロクマ・・
 
後ろにもっとあるとのこと。
 
えええ、なぜそんな誰も気づかないところに!
お聞きしたら、少し棚のスペース空けといたほうがいいかなと思ってというようなお答えでしたが、またそんなもったいない(!)
 
触ってもいいですよとおっしゃっていただけたので、ずうずうしく後ろのも全部見て来ましたよ。
 
おおお、あじさいの後ろには、はりねずみがこっそり隠れている
 
 
月見うさぎもいた。かわいい!!
 
山のふもとの子牛もまったり!かわいいなあ
 
 
そして猿。ぶら下がるの、すわってるの、歩いてるのはいたけど、飛ぶ猿は珍しいかも。
しかも富士をひとっ飛び。
 
 
楽しかった~。まさに見つける喜びでした。しかも出てくるのが、どれもほっこりして、見るごとに固まってた気持ちがほぐれていく感じ。
 
以前の日記で、加藤晋先生ワールドに遊びにいく、と書いたけれども、
この画廊のお部屋自体が、遊びに行く、中にはいる、という感じでした。 
 
しかも、帰りのエレベーターにも、きつねが。行きは人が立っていて気付かなかったのです。
 
 
この狐の手や顔を見ていると、また戻って、ポチと鬼とサルと馬ともう一巡りしてきたくなりましたが、恥ずかしいので断念しました。
 
もう次回作に描く場所も見つけてあるとおっしゃっていました。
わくわく。
 
とてもよき日になりました。