はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●番留京子展 ギャラリーオカベ銀座

2018-02-22 | Art

番留京子展 2018.2.12~2.24 ギャラリーオカベ銀座

 

番留京子さんの版画を見に行ってきました。前回は6月に開催されていたので、今年はまだかなと楽しみにしていたのです。(2016年の日記

 

今年のテーマは「Made in Japan」

 

今回も、とってもよかった!

エネルギーが満ち満ちて、あふれている。とにかく、元気が出る。

楽しくなって、思わずにっこりして、おおおと打たれて、ほっこりする。

なにかいいものが、いっぱい体や気持ちの奥から表にでてくる展覧会でした。

番留さんが在廊されていて、いろいろお話しながら拝見し、とても楽しく過ごさせていただきました。

特に好きな作品を以下に。

壁一面使って、どどーんと牡丹が吹き出す。ものすごいパワー。

かつて見た絵の中で一番大きな牡丹。

噴火は怖いけれど、これはいいものがたくさん出てきているのだと。ハッピーカプセルって呼ばれてるそう。

ど・直球。清々しいほど。例えば、山で大きな声で叫んでみる、お行儀もかなぐり捨てて大笑いしてみる、お腹がよじれるほど笑ったそのあとに来るような、根源的な気持ちよさ。

 

赤って色もすごい。メンタル強いぞ、赤。

「Hapiness」 これも約1.7m角もある大きな作。

ひとつひとつ顔を彫ったのだそう。2016年の展示の「五百名山」もそうだったのだけれど、自分に似た顔を探してしまう。

番留さんが、「『バレンタイン?』って言われる」っておっしゃていた(笑笑)。この方はいつも脱力系の自作評をなさる

この作品がデパートのチョココーナーに置いてあったらとっても素敵だ

これだけ顔があっても、いやな感じがしないのはなぜだろう。

 

「笑福」 これも大好き。赤、いいなあ。お月様と太陽の顔がまたよくて。

 

富士山はいくつかの作に登場している。やっぱり日本には富士か。

そういえば、江戸時代に富士山が噴火したときは、和歌山まで津波がきたらしいとおっしゃっていた。(こういう絵の前でシャレになんないと思うのだが(笑))。番留さんは和歌山の熊野にお住まいでネイチャーガイドもされている。熊野古道をぜひご一緒させていただきたいものじゃ。

「Love Japan」 

北斎も光琳もみんないっしょくた。ああ楽しすぎる。全部ツボ。私は絵でも服でもビビりで、こんなにたくさんの色を使えないので、とってもうらやましい。こんなふうにはじけ飛んでみたいのだ。

 

「Hana Karuta」のシリーズの数作は、花札をモチーフにしているそう。

「Hana Karuta Botan&chocho」

 

「Wao Wao」 これもたいへんお気に入り。

でも番留さんは、これが好きとおっしゃる方が多いのだけど、私はじっとこの絵を見てるとちょっと怖くなる、とおっしゃる。

ええ、描いた方がなにをおっしゃいますやら。描いた者と見る者が違うふうに感じるのも、おもしろいもの。

私はとても好き。丸い目も上げた手もかわいい。鳥獣戯画や小川芋銭の不思議で小さな生き物みたいで、その赤ちゃんみたいで、抱き上げてこの丸い頭をなでなでしたくなる。そう思うとなんだか癒される~。他の絵もそうだけれど、この方の描く顔は邪気がなくて。

 

ずっと気になっていたのが、前回にとても惹かれた「五百名山」の大きな絵は今どこにあるのだろうと。伺ったらご自宅にあるということで、これまで10年間以上に及ぶ作品のファイルも見せて下さった。

彫刻、人体、染物、仏教的なモチーフ、などなど様々な変遷がある。とくに彫刻はプリミティブな感じで、やっぱりここの作品と同じく、温かみがありそうに見えた。

昨年来、縄文やラスコーやペルーも含め、この人たちはなぜ絵を描くのかなと思い続けているけれども、番留さんの絵を見ていると、見る側の元気や抑揚に直接作用する絵もあるんだなと思う。基本はとてもシンプルである。

 

ああ楽しかった。なんだかぐぐっと手にも足にも力が増えて、元気がでたぞー。

一枚、わたしのところにお迎えさせていただいた。写真を撮り忘れたけけれど、きほんのき、が率直に描いてある絵。まずは笑おう。いやべつにぜんぜん楽しくなくっても、ちょっとにこっと。ムリなら、に、にや・・っ・・と。そんなことでもけっこう違う。展覧会が終わったら受け取りに行くので、楽しみである。

 

ついでにシナモンクッキーとカモミールティ。目について入ってみた、RETHINK CAFE GINZA。お店の奥に入り口があるので、銀座で静かに気軽にお茶だけ飲みたいときには穴場だわ。お気に入り。今調べるとJTの加熱たばこの販促店だったようで、そのたばこのみ吸えるのだとか。私はスマホかスマホのケースのお店かなくらいに思ってた、、。たばこのにおいもしないし、そもそも吸ってる人もいたかいないかすら記憶にないくらい。このカモミールティは、マンダリンオリエンタルのカフェもこれなのだけど、カモミールの花が見えるのが嬉しい。

 

 


●金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」

2018-02-18 | Art
金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」
平成30年1月13日(土)~3月11日(日)
 
青空がまぶしいくらいの日に行ってきました。
 
先日の東博の運慶展とはまた違った視点の「運慶展」でした。(といっても運慶展には行けてなかったのでした...)
 
●まずは、運慶(?~1223)と慶派の仕事を、東国の地域からの視点で見ること。将軍・源頼朝、頼家、北条政子や時政、義時ら北条氏、東国のもののふたちと運慶・慶派とのつながりを追うと、時代をリアルに想像することができる。
●今は現存しない仏像でも、「模刻」や寺院の出土品、書物などを通して、運慶や慶派の仕事に迫っていること。
●そして「霊験伝説」。ふしぎな伝承を持つ、まさにその像たちが目の前にあるのは、なんともなんとも。
 
土日に二回行われている、ボランティアさんによる展示解説も拝聴してきましたので、以下、併せて備忘録です。(写真はフライヤー、カナフルTV(1月28日)、展覧会サイトから)
 
一階では、金沢文庫や鎌倉幕府の紹介。
 
武家の暮らしや当時の市場の様子などを、一遍上人絵伝、絵師草子、西行物語絵巻などを用いた資料展示で紹介しているコーナーが楽しい。絵師草子では、土地を与えられてニコニコしている絵師の姿。
 
金沢北条家は、北条義時(二代執権)の子の分家。北条得宗家に次ぐ権門。
金沢文庫は、金沢北条家の実時が邸宅内に設けたのが始まり。鎌倉時代にもなると、武士も勉強しなくてはならないらしい。
鎌倉幕府滅亡後、文物は隣接する菩提寺称名寺によって管理される。称名寺の国宝や重文は、今は金沢文庫が管理している。(時間がなくて参拝できなかったのが無念。)
 
展示室には、称名寺の金堂壁画が復元されていた。表に「弥勒来迎図」、裏には「弥勒浄土図」。鎌倉時代の実物はかなり劣化しているのを、日本画家の林功(1946~2000)が考証し、再現したもの。そよ風とともに笙や笛、太鼓などが鳴らされる浄土のシーンなど、ふっくらとした流麗な線と鮮やかな彩色で、とても美しかった。
 
吾妻鏡(真名本、江戸時代)の版本も展示。運慶の記述があるそう。
 
 
二階が、運慶展。(◎が運慶仏)
 
◆まずは、運慶の父、康慶の「地蔵御菩薩坐像」(重文)1177年  静岡・瑞林寺
意志的な面貌、がっしりとした体躯、深めで流麗な衣文に慶派の先駆性が見える
 
 
◆それから、運慶の作品を模して作ったと推察される、慶派の仏像。
運慶作ではないけれど、運慶のどの作品を模したのかは興味深く、また工房の商圏(?)が広範囲なのが面白い。
 
ずらりと並んだ、十二神将立像(鎌倉時代)(横須賀市の曹源寺)は見もの。
写実的な憤怒の形相、衣文、動きのある闊達な作風から運慶派と知れる。どれもひねりのある体勢なのに、芯がまっすぐ、体幹がすごい。
 
申神、辰神、馬神、、と十二の神様はそれぞれ干支の動物を頭上に載せているが、どう見ても名前と動物があっていない??。周囲の鑑賞者もざわついている。未神には愛らしい猿が乗っているし、卯神の頭上ではネズミが彼方を眺めている。これは長い年月のうちに動物が取れてしまったのを、江戸時代に修理した人がどれが何神かわからず適当に?くっつけちゃったらしい。近年の研究によって、本体を今の名前にしてあるけれども、こういうのって定義も正解もないのだそうな。
 
この十二神のうち、放つオーラが異質で強いのが、真ん中に立つ「巳神」。他よりひとまわり大きいが、それだけではない迫力。他の神よりも、彫が浅く、人間っぽい。
 
横須賀市の浄楽寺や、静岡の願成就院に伝わる運慶の毘沙門天立像に近しいらしい。今はなき永福寺の摸刻という説もある。
 
 
栃木の光得寺の「厨子入大日如座像」鎌倉時代 は、運慶の東寺の大日如来を参考にしたもの。高く結い上げた鬢、意志的でまるまるした顔、引き締まった体躯がその特徴とのこと。
 
 
 
「金剛力士像(東寺南大門様)」の二体は、30㎝ほどで、江戸時代の作なのだけど、今はない東寺の金剛力士像の姿を伝えるものとして、貴重。慶派の流れをくむ江戸時代の仏師が、大きな像を造るためのひな型として制作したものらしい
 
 
 
運慶仏
数は多くはないのだけど、誰がどういういきさつで運慶に発注したのか、興味深い。
 
◎「梵天座像」伝運慶・湛慶 1201年 愛知・滝山寺 は、頼朝の三回忌に、頼朝のいとこが発注したもの。
 
厚い胸板、はりのある肉付き。おおらかさ。後ろから見ると、さらに官能的ですらある。衣をかけられた後ろ姿の肩のラインの色っぽいこと。脇と腕のあいだのすきままでがセクシー。日本画の余白じゃないけど、運慶の余白までがこんなに魅力的とは。運慶展に行けなかったのがまたまた悔やまれる。
 
こちらは東寺講堂の立像を翻案したもの説あり。運慶は運慶は東寺の復興造営の際に、仏像群の修理を担当。その際に講堂の仏像から仏舎利が見つかり、運慶仏はご利益のある像として注目された。
 
 
◎「大威徳明王像」運慶 1216 神奈川・称名寺光明院 は、実朝の後宮の筆頭女房の大弐の局の発願によるもの。運慶の最晩年の作。
 
小さな明王だけれど、単眼鏡で右下のほうから見上げてみたら、レンズの円の中に、自分でおののいたほどの迫力。金の残る髪とともに上に立ち上るオーラが炎のようだった。
東寺の大徳明王を参考にしたとのこと。
 
 
◎抜頭面(瀬戸神社 1219年)は 頼朝が使用したのを、政子が奉納したもの。

 

蘭陵王の面(瀬戸神社)は 工房作。龍が頭にしがみついているのに圧倒される。この龍の形式は、運慶の興福寺の帯喰に酷似しているとのこと。

 

 
講座では、そもそも運慶が鎌倉に来たのは、北条時政、政子が頼朝に紹介したという説があるとのこと。日美たびでも、願成就院の御住職のお話として、1185年に頼朝の命で京都守護の任についた時政が、在京中に運慶とのつながりができ、離京の際に連れてきたのかも、とある。
 
運慶が東大寺の修復にかかる前には、作品年が明確にされない空白の7年程の期間があるらしいのだけれど、その間は鎌倉・永福寺の造営にかかっていたという。
永福寺は、戦没者の供養のために頼朝が建立したお寺。現存しないが、出土品が展示されていた。こんなにりっぱなお寺なら、運慶の大作がたっぷりあったに違いない。
 
その後、平家により焼け落ちた東大寺の再興を頼朝がバックアップした折、運慶ものみをふるう。本来は興福寺の担当だった慶派だけれど、頼朝と近いので、ではこちらもということになった、と講座でのお話。
 
 
 
◆霊験伝説 こういうお話は好きなほう。
 
神奈川・青雲寺の毘沙門天 は、兜がとりはずせる。生身仏。和田合戦のおりに、和田義盛の代わりに矢を受け、義盛を助けたと言い伝えられる。(が、別件で義盛は討死する。ご利益使い果たしたか。)
 
 
神奈川・光触寺(鎌倉~南北朝)阿弥陀三尊像 伝運慶 は、ある法師がお金を盗んだと疑われ、頬に焼き印を押されたが、やけどにならない。代わりにこちらの阿弥陀様がやけどをしていたという。黒っぽく、頬がぼこぼこしてはいたけれど。

頬焼阿弥陀縁起絵巻(鎌倉時代)も展示。運慶に制作依頼するシーンで、手付金?の反物が積み上げてある。運慶の姿が描かれる最古の絵巻。(ただし阿弥陀様は運慶ではなく、工房の作らしい)

 

宝生寺の十二神将立像は、北条義時の夢枕に立ち、行ってはいけないと告げる。鶴ヶ岡八幡へ向かう途中、犬が現れ立ち往生してるときにお告げを思い出し、引き返す。そうして鶴ケ岡八幡では将軍・実朝が暗殺され、義時は難を逃れる。

 

◆運慶の弟子や兄弟弟子による作品も、思いのほか見応えがあった。(素人ゆえなんでもよく見えるのだけれど、まったく見劣りしないというか)

運慶は、鎌倉幕府の注文を受け、何度も鎌倉へ赴く。あいだで本拠地の奈良や京都に帰国する際には、弟子たちが鎌倉やその周辺で制作を継続する。皆の力量が直に伝わる作品。

宗慶「阿弥陀如来坐像」埼玉・保寧寺1196 運慶の兄弟子

 

実慶「大日如来坐像」静岡・修禅寺 1210年 運慶の弟子か、兄弟子。将軍・頼家の妻の発願。

はっきりした顔立ち。黒目も大きい。毛彫りも見事。運慶のデビュー作・円成寺(奈良市)の大日如来坐像(国宝)に似ているそう。実慶では、「勢至菩薩立像」(かんなみ仏の里美術館)も展示。

 

最後に、”トランプ不動”とうわさになっているらしい「不動明王立像」 埼玉の鳩ケ谷・地蔵院 慶派(写真も地蔵院のサイトから)

 

お庭にはもう梅が咲いていました。 

 

日美たび「伊豆へ 慶派の仏像に出会う旅」を見ると、今回のお寺を回っていて、私も行ってみたくなっています。


●東博の常設:山田道安、狩野永敬、田中訥言、柴田是真と今尾景年の鷲など

2018-02-14 | Art

一月末に行った、今さらの備忘録の続きです。

おやお久しぶりの二人。

 ずっと男女だと思っていたけれど、最近の研究では二人とも男性説もあるそう。

 

 つり上がった目の土偶は、縄文時代(中期)前3000~前2000年 山梨県御坂町上黒駒出土

顔の文様は、当時に入れ墨をしていたことを表しているんだろうか。獣面に近いこの顔の表現は、中部高地や関東地方西部の中期の土器の人面把手に共通する。胸に当てられた左手の三本指の表現もこの時期の土器につけられる人体および動物装飾にみられる。 という解説が気にかかる。昨年読んだ、”古代では動物と人間の境界が今よりあいまいなものであった”ということを具象化した作例になりましょうか。

縄文土器のような後ろ姿。折れた手はどういう形だったんだろう。

 

弥生の武人は、おだやかな顔をしている。(挂甲の武人 栃木県真岡市 鶏塚古墳出土 6世紀)

 でも少し悲しそうにもみえる。以前のギリシャ展では、像の顔の造形が、豊穣や子孫繁栄を願うものから、次第に個の感情を表すようになっていく道筋を感じ取れたのだが、日本では埴輪の先はどうなっていくのだろう。仏像の造形までの、そのすきまの期間は、どうなっているのだろう?。

◆◆国宝ルーム◆◆

「釈迦金館出現図」11世紀 解説

 お釈迦様の入滅の報に、天上界から駆け付けるも間に合わなかった母・摩耶夫人の為に、棺桶から身をおこしたお釈迦様。

涅槃図の少し前のシーンなのだけど、涅槃図よりも人や動物は大きく密集して描かれ、表情まで判別できる。だから身体をおこした瞬間の緊迫感を感じてしまう。摩耶夫人もその瞬間にくいいるように釈迦を凝視している。

そのような皆を包み込むような、お釈迦様の表情がなんともよく。

 

 ◆◆本館 3室 :仏教の美術―平安~室町◆◆

鎌倉時代の仏画一字金輪像(いちじきんりんぞう)絹本着色 鎌倉時代13世紀 重文 特徴が、青・緑系統の冷たい色彩や細身の造形感覚に窺われる。

仏画を描くのに悪戦苦闘し、私なんかの手には負えないと投げ出したくなっているところだが、ただただこの仏画の前には、自分がちっぽけな蟻、いや一粒の砂くらいであるように感じてしまった。

 

 十六善神図像 玄証(1146~1222)筆 平安時代・治承3年(1179) むちむちした顔が印象的な、生身のように生き生きした神様たち。白描でこんなに濃密な空間になる。十六善神は、般若経の守護神として、釈迦の左右に8体ずつ配される。この図では、四天王も加えられている。

 

◆◆本館3室 宮廷の美術―平安~室町◆◆

鳥獣人物戯画巻断簡 平安時代12世紀 重文 鳥獣人物戯画巻の甲乙丙丁の4巻のうち、甲巻の一部とみられるもの。よく分かれて残ったものだ。

 

鳥獣戯画では、明治時代の山崎董詮による甲巻の模写も展示されていた(上の断簡のシーンはなかった。甲巻の第10紙から最後の23紙まで。)。普段見る機会の多い有名なシーンだけでなく、その間のところも繋げて見られたのがうれしかった。背景の草木も達筆なのだった!カエルやウサギだけでなく、ネコやフクロウなんかもかわいい。

15紙、カエルの舞を見に来たらしいネコ判官?かわいい~

16,17紙、萩やススキに秋の風情~

21紙、カエルの仏さまにお祈り~

その後ろの木がいい枝ぶり。ふくろうがかわいい~

 

楽しくてきりがない。

最近こんなのを見つけて買ってしまった。なぞり書きって癒される…。

本館3室:禅と水墨画

・梅樹禽鳥図屏風(作者不詳)室町時代・16世紀 2曲1隻 元信の息子、狩野松栄周辺の絵師らしい。薄めの墨や、ふわりとした大気が好きなところ。岩の描き方も、後の狩野派よりもまだ初期の感じで型にはまらず、和やかで緩やか。腕前と気迫を前面に押してくる絵もいいけれど、このようなどこかゆったりとした余裕がある画、いいなあ。小説では永徳に凡庸とこき下ろされていたお父さんだけれど、この絵師もその穏やかな雰囲気を受け継いでいるよう。

 

その松栄のお父さん・元信に目をやると、緊張感ある線の強い美しさがきわだって見える。

・楼閣山水図屏風 伝狩野元信 室町時代・16世紀 6曲1隻 重美 水殿には、山水を描く人物と童子。

「伝」元信なのだけど、素人の恐れを知らぬ見解では、真筆か高弟子かに見える。。

 

この日のお目当て1 山田道安「鍾馗図 」室町時代16世紀

以前に出光美術館で、キッとした叭々鳥(日記)に惹かれて以来の道安との再会。奈良の戦国城主・道安が描く、鐘馗のぎょろりとした目ヂカラ。鬼は描かれていないけれど、刀を下に持ちにじり寄る足。ふわりと描かれたひげを救い上げる手も、ぞくぞくするほど

 
一休宗純の「七言絶句「峯松」 」 晩年の作らしい
旋回する「峯」に、そしてぱっと散るような「松」。これだけで風が周り、字自体が自然の風景のよう。
 
◆◆本館4室:茶の美術◆◆
 
お目当て2は松花堂昭乗。 
「一行書」清巌宗渭筆、松花堂昭乗画 17世紀 書と画がいい連絡をするものだなあ。
 
松花堂昭乗の鶴の、首から身体、足へと織りなすラインとリズム。手慣れた洒脱感。
 
昭乗では、8室に「和歌屏風 」も展示。当時の文化人は書も画もなんでもできてしまうのね。。
 
 
 
 
あ、”コップのフチ子さん”とうわさの、景徳鎮の「古染付一閑人火入 」17世紀
 
 
◆◆本館9室:屏風と襖絵―安土桃山~江戸◆◆
 
亜欧堂田善「浅間山図屏風」江戸時代19世紀
油彩の屏風に妙に圧倒される。下絵では斧で気を割る人や炭焼き人窯の番人の姿があったそうだが、本画では描かれていない。でも人の気配だけは残っていて、マグリットのようなシュールさが増している。風俗的要素を排し、風景画を目指したらしい。 
 
 
大倉集古館「宮楽図 」安土桃山時代17世紀 6曲一双 は写真不可。印象的だった。右隻は、中国の宮廷の内。官吏か?おじさんたちがそこここで踊る。軽快なステップ。門の外でも、楽士がタイコを鳴らし、女性たちが目を細め微笑み、眺めている。 左隻では、反物や器のお店など町の様子。家の中では、奥様が堀に浮かぶ蓮の花を眺めている。と、侍女が蓮の花を手渡している。花は紙を切ってつくり、水に浮かべていたのだ。
 
 
狩野永敬(1662~1702)の「十二ヶ月花鳥図屏風 」17世紀 琳派か抱一かと思うほど装飾的で、とても詩情豊か!。各シーンだけでも物語になっていた。細部のどこをみても花も木も鳥も美しく、見どころ満載の金屏風だった。
 
とりたてて大きな余白があるわけでもないのに、余白の向こうにしみじみと奥に広がってゆく感じ。
右隻では、松の大木に絡む藤が、たっぷりと花を垂らす様子が美しくて。花越しに見える、深い山並みにじんわり。
 
まるで上村松篁みたいに、鳥にもちゃんと意志がある。
 
垣根に色とりどりのなでしこの佇まいが愛らしい。
 
三井記念美術館で見た、船先のアームはなんだろう?底引き網?と謎に思っていた謎がとけた。鵜飼いの灯をつるすものだったらしい(恥)。
 
左隻は、秋から冬へ。
おみなえし、つゆ草、萩と、見事なこと。渡り鳥を見やる橋の上の鳥には、物寂しさが漂う。
印象的な赤と白と黒。
 
最後の曲には、真っ白い月。抱一のような雪景色。

 
他にも、鶉やビワの花、写実的な菊など、たくさん好きなシーンがあった。
 
「別冊太陽 狩野派決定版 監修山下裕二」を見てみると、永敬は「京狩野の中継ぎ投手」と。二条家など有力公家の庇護を得て、西本願寺、仁和寺などの仕事も獲得している。
気になったのが、西本願寺における尾形光琳・乾山との直接的な接触があったと記載されていること。永敬と光琳の画には共通点があるそう。永敬にどことなく琳派の面影があるように思ったけれど、両者の影響関係は今後の重要な課題であるとのこと。研究が進むのが待たれます。
 
 
◆◆本館8室:書画の展開―安土桃山~江戸◆◆
 
今回も江戸絵画がたいへん見ものぞろい。強い個性を放つ江戸の絵師たち。
 
お目当て3 英一蝶「大井川富士図」17世紀 大倉集古館蔵 (写真不可) 雄大な富士山に雲海が下り、大生川の対岸は霞んでいる。馬に乗って川を渡る人、肩車の人、荷を頭の上に乗せてわたる人と様々。
 
宋紫石「日金山眺望富士山図」18世紀 横ひろ画面に、西洋画のような遠近。左に大瀬崎、駿河湾、宝栄山、愛鷹山、右に二子山。宋紫石の貴重な作だけれど、カヌレのような・・。特にVIRONのカヌレがおいしいのよね・・
 
 
若冲の「松梅孤鶴図 」18世紀は、もはや抽象・アバンギャルド・ロックと言いたい。タコ足の吸盤のような幹。デフォルメもさることながら、すべてが振動している。この松の葉はどうでしょう。鶴の体までが、単なる外ぐまではなく、微細に振動している。若冲は、人の目が瞬時の動きをどれだけ捉えることができるかに挑んでいるのだろうか。若冲の墨の絵は、彩色の絵とは全く違うことに挑戦しているようで、見るたびに驚かされ、新しい技を見せられる。
これは京都・大雲院の松上双鶴図(陳伯冲筆・明)という元絵があるそう。
 
 
 
 
金井烏洲「月ヶ瀬探梅図巻 巻上 」1833年 奈良の添上郡、月ヶ瀬梅渓の景観。群馬生まれの絵師が西国への旅を記した。浦上春琴や頼山陽の賛が寄せられており、文人画家たちとの交流を示す。
 
この長い絵巻に細密、根気に脱帽(!)。畑に田んぼ、山は険しくなり、そして里に行きついたり。夕暮れたり、また明けたり、長い旅の日々。昔の旅はなかなかハードだ。人は描かれていなかった。
 
 
お目当てその4 田中訥言(1767~1823)「十二ヶ月風俗図屏風」19世紀 ずっと見たいと思っていた。病で眼が見えなくなり、自ら命を絶ったといわれる訥言。展示の絵は、なにか言いようのないものを放っていた。
 
凧あげ、猿回し、面をつけた人たち、輪くぐり?、踊り、お酒の瓢箪を抱える男たち。楽しく享楽的な場面であるはずなのに、ほとんどの人の顔は笑っていない。他の絵師の風俗絵巻なら、どんなに小さく描かれた人物でも、目も口も笑って描かれているのに。
 
手を挙げ、仰ぎ見る子どもたちの姿に、ふっと久保田早紀「異邦人」がフラッシュバック。
<♪子どもたちは 空を見上げ 両手を広げ 鳥や雲や 夢までもつかもうとしている その姿は 昨日までの なにも知らないわたし ちょっと ふりむいて 見ただけの 異邦人♪ >我ながらよく覚えているもの
 
 
なんだかね、悲しい場面じゃないのに、かなしさが漂うのよね…。
 
 
 
背景を描かず、ひとの姿がしらじらとし浮かび上がる。人には薄い墨で影を入れていて、大げさに言えば憑かれたようにも見えてしまう。だから、どこか魔が通り過ぎているようでもあり、交錯しているようでもあり。
 
不思議な訥言。短く切った線は、全くたるみやゆるみがない。無心でもあり、峻烈な感じすらする。
 
ちょうど家庭画報の3月号で、染色家の吉岡幸男さんが、訥言による平安王朝の色を編纂した手鑑を繰るところが紹介されていた(こちら)。やまと絵の復興を目指したという訥言。いつか彩色の絵も見てみたいもの。
 
 
そのほか気になったのは、大倉集古館所蔵の二作、菅井梅関「寒光雪峰図 」1829年(大倉集古館)と酒井抱一「五節句図」1827年、 板谷桂舟(広隆) 「源氏物語図 初音・胡蝶 」、 佐藤一斎「甲辰元旦試筆」など。
 
 
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本館10室 浮世絵
 
宝船や七福神のおめでたい画題が終結。北斎、渓斎英泉、魚屋北渓、歌川豊国、広重など。
 
肉筆では、鳥文斎栄之「隅田川図巻」、大黒天、恵比寿さん、福禄寿が、柳橋から舟とかごを乗りついで吉原へ急ぐ。
 
 
 
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1階18室
 
柴田是真今尾景年の鷲が並んでいるのが見もの。それぞれ、リスとサルが生命に危機にある。生死を分ける、一瞬の反射。
 
 
柴田是真「雪中の鷲」19世紀 墨が澄んでいるのにまず感嘆。明るい光を浴びて、一瞬の緊迫感。羽が二枚、舞い落ちる。鷲は踵をかえすように向きを変え、飛び掛からんばかり。栗鼠や鷲の毛並みの再現もリアル。鷲の羽毛も、外側の固い羽も触感を感じるほど。とてもキレキレのシャープな画だった。
 
 
今尾景年「鷲」1893 是真が光なら、こちらは暗闇だろうか。細部まで描きこんで、墨でこれだけ濃密。暗い森の中でも、鋭く光る鷲の目。美しくも黒々とした獰猛さ。猿の必至の形相。息がつまりそうな、凄い画だった。
 
 
 
他に印象深かった画。
橋本雅邦「狙公 」、安田靫彦「五合庵の春」、高橋由一の「大久保甲東像」「上杉鷹山」、平櫛田中の大好きな「森の仙人」「木によりて」、原田直次郎「三条実美」など。
 
 
小林万吾「門付」1900
 
 
たっぷり時間がある日に行ったけれども、やはり全部見るのはムリでした。へとへとで退散。
 
 

●東博「博物館に初詣 犬と迎える新年」

2018-02-10 | Art

東博「博物館に初もうで 犬と迎える新年」 2018.1.2~1.28

1970年以来の大寒波で、すっかりお正月気分も抜けてしまっているけれど、先日行ってきました。

その年の干支の特集のコーナーが例年の楽しみ。数年を思い起こしてみると、サルではサルの群れの楽園感、トリでは美しさと装飾、とその動物の持つ特性によってどうモチーフとしてきたかが、毎回展示から伝わってくる気がします。

では今年のイヌは・・、

”ペット感”が全体に満ち溢れていました。サルにもトリにもない、身近さ。ネコがいない以上、干支の中では一番身近な動物かもしれません。

縄文時代にはすでに人間は犬と暮らしていたのだそう。先日行ったブリューゲル展でも、犬がペットとしてそこここに登場していましたっけ。

以下、備忘録です。

一室目は「いぬとくらす」

古来より日常の暮らしのなかに、さりげなく溶け込んでいる犬たち。ひとのそばに犬を一匹描きこんでおくことで、ぐんと穏やかさや安心感が増す。地味に効果的なアイテムなのかもしれない。

●中国、朝鮮半島の画から始まっていた。

桃源郷を描いた各シーンにも犬が一役かっている。点みたいに小さく存在しているイヌも、意地で探し出しましたよ。

桃花源図(韓画帖のうち) 金喜誠筆 朝鮮18世紀 桃花源記を描いている。漁師が村人にあたたかく迎えられている。

 

右と左のページに一匹ずつ、クロ犬のかわいいのが人間たちの村社会に溶け込んでいる。中国の仇英の影響とのこと。

 

仇英では、狩野養信が模写した「西園雅集桃李園帰去来図(模本)」1814年(原本は仇英、明代16世紀)も展示。「模写魔」の養信、昨年来、見るたびほんとに模写ばかり出てくる笑。しかも労苦を厭わず、丁寧。

あれ?犬はどこにいたんだろう?

 

桃源問津図 4幅(8幅のうち) 馬元欽筆 清時代・順治11年(1654)(写真不可)も、桃花源記を描いたもの。桃源郷の住人に迎えられるシーンに、やっぱり犬がいる。個人的には三幅目、雪景色のなか、女性が渡る橋の下にイノシシがいたのが気になっている。ちゃんとふたまたに分かれたひずめも見えたし、確かにイノシシだと思うんだ。

 

山水画にもイヌは登場。

伝夏珪の山水図 南宋~元時代・13~14世紀  経年で見にくい中、元気よさそうなのを探し出しました。

夏珪はこの画に(多分)人の姿を描いていない。でもイヌがいるだけで人が住んでいる気配がする。このイヌは帰ってきたご主人に気づき、しっぽをびゅんびゅんさせているのかな。

 

っていうか、こんな小さな犬を探し出してきて展示する東博の学芸員さんたちがすごすぎる!。あの絵にイヌいたなあって全部覚えているんだろうか⁉

隣の伝姜希顔(朝鮮15世紀)の山水図にも、こんなに小さいのをよく…。ミニチュアダックスフンドっぽく足が短くてかわいい

これは明の戴進の影響がみられるとのこと。戴進と同世代の文人画家・姜希顔(1417~64)は、北京に派遣され明の宮廷画に感銘をうけたそう。

 

そして、日本の画へ。まずは浮世絵から。

●美人画にはかわいい愛玩系が定番らしい。美人とイヌとのたわいなくも愛すべき日常。

橋本周延「江戸婦女」明治時代・19世紀には、鮮やかな着物の美人とおしゃれなイヌが描かれている。

田村水鴎「婦女図 」18世紀では、寝ているイヌ。平和だ。

至信の「二女図」18世紀は、かごの下に寝ている犬を発見したのか?、捕まえようとしているのか?。

魚屋北溪の「五金之内・銅(狆洗い美人)」19世紀は、美しい着物の袖を大胆にまくり上げ、けっこうドスのきいた表情でチンを洗う美人の素の姿に、ある意味脱帽。カレイがつるされているのも好きなところ。

 

●母子のふれあいにも、イヌがまじる。

鈴木春信「犬を戯らす母子 」18世紀は、ネコじゃらし風

 

喜多川歌麿「美人子供に小犬」1806年には、宗達や応挙みたいな、二種のころんころんタイプ。

 

●広重の鮮やかな浮世絵の街角にいるのはノラ犬。ノラさんたちの存在を無視することなく、すくいあげている広重が意外でもある。

歌川広重「名所江戸百景・高輪うしまち」1857 食べたあとのすいかの皮が・・。これを西洋画で描いたなら(そもそも描かないか...)真逆な印象になるであろうリアリズム。広重のいたいけな犬たちに移入してしまう。

 

歌川広重「名所江戸百景・猿わか町よるの景 」1856 月影と、通行人たちの影が印象的。ノラ犬たちにも等しく影があり、人間と同じレベルで後ろ姿が語る。

 

●街の雑踏の中にも。

菱川師宣「北楼及び演劇図巻」17世紀 寛文末から元禄までの年紀を持つ吉原遊郭と歌舞伎の光景を集めたもの。吉原へ続く日本堤のあぜ道にイヌがいる。17世紀の吉原、門を一歩出れば当時はこんな田園だったのね

 

鍬形蕙斎の近世職人尽絵詞 下巻 18世紀は、いろいろな職業が面白すぎて、イヌを探すのを忘れてしまった。羽子板、イセエビなどお正月のためのいろいろなものを売り買いする街の雑踏。

 

●仲良しなばかりでなく、博物学的視点を向けられたイヌの姿。背景には江戸時代中期以降の博物学への関心がある。

唐犬・ムクイヌ(随観写真のうち)1757年は、幕府医学館で本草学を教えた後藤光生の編。後藤のヘタウマな画力ゆえか、妙に印象的なイヌ。浦上玉堂ら文人たちとの交流でよく名を目にする木村蒹葭堂の旧蔵というのが興味深い。蒹葭堂はオランダ語が得意で、博物学ほか幅広く興味を持つ「浪速の知の巨人」。

 

狆(ちん)(博物館獣譜のうち)博物局 江戸~明治時代・19世紀 中国やオランダによって長崎にもたらされた外国イヌ。そういえば南蛮屏風にもかなりの確率で外国イヌが描かれている。展示では、オランダ産と記載された4頭が展示されている。牡と牝、大きさまで記して写実だけど、なんとなくかわいいなあ。今の「ちん」っぽくないのだけれど、シーボルトは、戦国から江戸時代にかけて北京狆がポルトガル人によってマカオから導入され、現在のに改良されたと解説している。南蛮船によりもたらされた小型犬、または日本で品種改良が進んだ犬をあわせて、開国するまでは小型犬のことを狆と呼んだそう。

 

最後に、どんと「獅子」が鎮座していた。彼は、東博の草創期の1896年の蒐集品。東博のヌシなのね。

耳がツノの小鬼みたいで、怖かわいい。と思ったら、胸のあたりが赤い着色が残っており、なんか凄惨な現場を見ているようで、ちょっとぞくっ。

彼については、19世紀江戸時代、木製、長野の中野氏から寄贈されたとあるが、詳しい出自は記載されていない。それまでいったいどこにいたのだろう。

彼の後ろ姿も黙して語らず。

 

 

**

二室目は「いぬのかたち」

●彫刻や工芸

立体化しても、イヌはとってもかわいらしい造形になっていた。龍や鷹の工芸品とは正反対なアプローチ。

江戸時代の水滴  かわいい

佐世保の三河内焼(平戸焼)の染付香炉 の犬は、このおばかっぽいとこがかわいい

と思ったら、あなどれない美しさ。背中には菊の彫塑と絵付け。純白の肌は、天草石。

 

後漢の緑釉犬(2~3世紀)もとってもかわいい 螺鈿のような光沢だった。

わううん

でも彼の役割は、墓守りか、冥界への案内人らしい。

1089ブログには、首輪と胴のベルトは、多産の象徴とされるおめでたい子安貝で飾られた凝った意匠で、飼い主から彼に注がれた愛情の深さが感じられます。中国では古くから犬を表した工芸作品が作られましたが、これらは墓を守る番犬とも、死者を冥界へ導く犬とも言われています。
人間の最も身近な友人として、死後の世界においても犬と共にいたいと願った当時の人々の心情が偲ばれます。

 

鎌倉時代の板彫狛犬(12~13世紀)は、経年によって風化した木肌が心に残る。

奥行きのない社殿で神体の隣に立てかけられていたと想像されるとのこと。本館の開館翌年の1883年の購入ということなので、こちらも東博のもっとも古株なのね。ヒノキから彫り出した顔や体のふくらみ、名も残らないこの彫師の作品は、他に現存してないのだろうか。

 

●絵

江戸以降の屏風や掛け軸に、主役として描かれるイヌは、皆がほぼ一様に「かわいい」方向を目指しているのが印象的。宗達のイヌを踏襲したような、”ころんころん+たれ耳” の仔犬。

 

宗達より以前に、イヌが主役の「かわいい」イヌ絵はあったのだろうか?。元祖は宗達なのだろうか??日本独自のものなんだろうか?

と、素人の積年の疑問を抱えていたところ、南宋の李迪の犬が、ころんころんのたれ耳だった(!)。

李迪「狗子図(唐画手鑑 第二帖のうち)」南宋時代12世紀 を、17~8世紀に狩野常信(1636~1713)が模写。ころころ+たれ耳の仔犬のかわいさに注目しつつも、応挙以降のようにそこまでかわいいでしょアピールはしてこない。 

模写だけれども、しっかりとした筆目に、目線も強く、常信の画力と精神性を感じた絵。そとぐまの白い毛部分は、並みを一本一本丁寧に描きこんであった。

 

英一蝶(1652 ~1724)(好きなので嬉しい)「子犬図(雑画帖のうち) 」(大倉集古館蔵・写真不可)でも、まだまだそこまでかわいいアピールはないのだけれど、複数匹が固まって寝ている分、かわいく平和な感じになっていた。 

 

複数匹のイヌだんごの”寝姿”では、南宋絵画の模写したものがあった。一蝶より後の時代だけれど、狩野派出身の一蝶なら中国由来の寝ているイヌ絵を目にすることがあっただろうか?。

群狗図(模本) 義文(生没年不詳)模写 1794年、原本=毛益 南宋時代・12世紀  寝顔がかわいいい~。笑いながら爆睡している。

寝姿では、礒田湖龍斎(1735~)の掛け軸、「水仙に群狗」18世紀も、こんなふうな”にっこり眼”で、イヌだんごを形成。こういった感じが人気であったのでしょう。

 

”ころんころん”の元祖か、”中興の祖”か、わからないけれど、このかわいいイヌ人気を不動のものにしたのは、応挙なのでしょう。弟子たちもこういった戯れるイヌをたくさん描いた。

円山応挙「朝顔狗子図杉戸 」1784

 

歌川広重の「薔薇に狗子」(19世紀)は、花鳥にイヌ。広重は花鳥画では、四条派の影響を受けたけれど、イヌもだったのね。一室目の展示で、ノラ犬さんたちに優しい目を向けた広重だけれど、花鳥との取り合わせもとっても愛らしい仔犬だった。

 

この展示室のかわいい流れを一転させたのは、しゅっとした洋犬。ここにも李迪の模写が(!)。

「犬図」安倍養年(生没年不詳)模写、原本=李迪筆 江戸時代・天保11年(1840)、原本=南宋時代・12世紀 微妙に李迪の筆致から離れているのではという疑念も沸くけれども、雰囲気は伝わる。洋犬の大人犬はあばら骨が重要ポイントなのかな。母の献身か?。

 

明代の洋犬の模写にも、あばら骨が線描き。

「竹犬図」西山養之(生没年不詳)模写、原本=辺景昭筆 江戸時代・文政7年(1824)、原本=明時代・14~15世紀 

 

竜眼のような、あはれを感じるような。

 

日本では洋犬の絵は、これらの模写よりもっと早い時期、江戸初期から、雲谷派や長谷川派で描かれたそう。そういえば、摘水軒記念文化振興財団の所蔵品で見た長谷川等いの洋犬図はインパクトがあった。

酒井抱一「洋犬図絵馬」1814 (写真不可)の洋犬は、鶴ケ岡八幡の雲谷派を参考にしたとのこと。発注は、江戸の料理屋「八百善」。当主の干支ということ。大きな黒犬と、小さめの赤い犬。鎖も鈴も立派だった。

 

この流れにあって、明治の意外な大家二人がかわいい系を踏襲しているのに、目が点。ムリしてかわいくしなくてもって思わないでもないけど、やっぱりすごい。

竹内栖鳳「土筆に犬」明治時代 栖鳳のほのぼの系って珍しいような不思議なような。でも仔犬のぽっちゃりした身体すらも、画面から飛び出てきそうな躍動感なのが、さすが。

 

柴田是真「狗子」明治時代 是真まで、かわいい方向に寄せて描いている。是真の見事な筆使いで形どられた仔犬が、なんかアザラシ…。しかも少女漫画みたいな眼とはいったいなにごと?。ぱらぱら画集をめくると、柴犬や桃太郎の犬やいろいろ描いている。そしてイヌに限らず、是真は時々意表を突くような不思議ワールドを生み落としている。

 

普段はネコ派の私ですが、イヌ絵はとてもほのぼのした気分になれました。


●「墨と金 狩野派の絵画」根津美術館

2018-02-02 | Art

「墨と金 狩野派の絵画」根津美術館 2018年1月10日(水)~2月12日(月・祝)

所蔵品だけの構成ゆえ限られてはいるけれど、17世紀までの「狩野派」とその時代が追える展覧会でした。

すなわち、室町時代から始まる中国絵画の受容、権力の中枢に沿うための商品戦略、時代の変化に合わせたマイナーチェンジという大きな流れを追いつつ、それだけでなくその本流に収まりきらなかった個性派絵師も飛び出す。

今回は江戸中初期まで、その間約200年。

大目玉な作品がないからすいているのかなと思ったら、ところがところが。狙って練れた力作ぞろい。描いた絵師にとってもなんらかの思い入れのある作だったのじゃないかと思う、見応えのある画ぞろいでした。

昨年のサントリー美術館での狩野元信展を補足してくれる、小窓をひらくような小さな解説がちょこちょこあるのも嬉しいところでした。

以下、印象に残ったものの羅列です。

狩野派の源流をさかのぼること、戦国時代。

・「潑墨山水図  」拙宗  1幅 室町時代 15世紀    拙宗は、若いころ雪舟が名乗った号。小舟に岩山に木、玉澗様。ニュアンスに乏しいのは雪舟の若いころの特徴とか。言われてみればそんな気も。

 

その雪舟の慧可断臂図を思い出したのが、隣にあった芸阿弥。奇怪なほどに複層的な岩と、岩が作る洞窟のせいか。

 ・「観瀑図」  芸阿弥 月翁周鏡ほか二僧賛   室町時代 文明12年(1480)   

 

芸阿弥(1431~1485)の現存する唯一の作とか。そういえば、能阿弥→芸阿弥→相阿弥の三代のなかでも、見たことがなかった。きっちりした形態感覚、アーチ状の岩組みなど、夏珪風、南宋院体画を学んだことが読み取れるとのこと。

しっかりした達者な筆。複層的にダイナミックな景観が作り上げられている。滝を眺めながら橋を渡ると、滝の後ろの小屋にたどり着け、「裏見の滝」を楽しめるのだ。行ってみたい(!)。

 

滝山水は当時の流行であったそう。

隣の伝 狩野正信の「 観瀑図  」にも滝が流れる。元信パパが見られるのはうれしいと思ったけれど、おそらく正信の周辺の作らしい。工房作だろうか。

 

 

元信に至って定めた「画体」は、狩野派が工房として、集団で効率よく制作するために、画期的なことであったと解説にある。

実は、これまで「画体」と「筆様」との違いがよく分かっていなかった。画体がそもそも 玉澗様、牧谿様などを基にしているのかなと思っていた。でも明快な解説に納得。筆様ではどんな作を手本にするかで工房内でイメージにブレが生じる余地がある、と。真・行・草体と具体的に定めることで、スタンダードを統一できたのだ。筆様を超えて、狩野派モデル。

元信のプロデュース力 すごし。

そして元信の絵も、やはりすばらしかった。今回は伝元信、元信印あわせて6作。

 

養蚕機織図屏風  伝 狩野元信筆    6曲1双 室町時代 16世紀 元信の才を十分に味わえるすばらしさ。日曜美術館のアートシーンでもこの作をメインに紹介していた。

梁楷の「耕織図巻」の小さな絵巻から抽出した養蚕業にいそしむ村人たちを、こんなにも壮大な山水画に再構成したのだ。

離れてみると、右隻は柔らかく、左隻は切り立ち、中央には余白に霞む中州や木立が幽玄。山水画としてもすばらしい。岩の立体感も、筆を縦に横に斜めに自在に動かして、ごつごつとした岩、幾分丸みのある岩を描いている。筆と元信が一体化したような迷いのないスピードが心地よいこと。

近づいてみると、そこにはうってかわって、絵巻物のようなストーリーが流れている。人物が細かく生き生き。養蚕の各段階のお仕事が興味深い。

右隻では、村人は蚕を乗せた棚やざるを前に忙しく共同作業に立ち回っている。なかには昼寝をしているひと犬も。様々な種類の木の描き分けもなんなくこなして、惚れ惚れ。

ざるのなかにいるのは養蚕の青虫かな。

 

左隻は、季節は移り、雪景色。右から進むと、岸辺にやせたおじいさんと丸顔の童子。と、突然に圧倒的な険しい山に驚く。が、目を蚕小屋?にやると、ひとの仕事のあたたかみと安心感が増して感じられる。

糸巻、かまど、働く大人たちのまわりには小さい子どもたちが遊ぶ。

おお、布になったわ。

元信の絵では、遠景にかすむ小さな木立が好きなところ。濃いめの墨、薄い墨で現した木々と大気の流れはとても幽玄で、ここだけまるで等伯の松林図を見ているよう。このかすみ具合がなんともいえず、入り込んでしまう。個人的に、ここを元信の真筆かどうかのチェックポイントにしている。元信印のや弟子たちのはここが雑で、入り込めないのが多い。と勝手に思っている。

この際なのでよくよく見てみると、霞のかかったところは、木を薄墨でグラデーションをつけていき、何も描かずに残している。それでこんなにふんわりとした靄が表現できるなんて。

 

ではなぜ、養蚕なのか?。解説では、単なる風俗を描いたのではないのだそう。狩野派がこれを描くのは、権力に近いものとしての必然がある。もとになった中国の耕織図は、為政者が農民の苦労を知り労わることを促すためのもの。狩野派は為政者が求める画題を揃えておかねばならない。そしてそれは、しかるべき中国絵画に基づくものであることが、権威付けには重要であったのだ。

 

画題という点では、「猿曳」の画題は、元は元信周辺から描かれるようになったそう。「 猿曳図屏風 」 伝 狩野元信筆  6曲1隻 室町時代16世紀 はおそらく元信の真筆であろうということだった。樹下には、たくさんのひょうたんを持った、ちょっとお鼻が上向いたおじいさん、天秤棒をもったサルがかわいいぞ。大人も子供も、乳飲み子を抱く母も、みんないい笑顔だった。

 

そして「釣り」の画題は、脱俗とともに、太公望のイメージ。「寒江独釣図 」 珍牧 室町時代16世紀   は、筆致からおそらく狩野派の関係とみられるそう。ゆるーい浮遊感をかもしだす釣り糸の線が好きなところ。釣りの老人は高潔な顔だった。

 

この珍牧のあとも、初めて耳にする絵師が続く。長吉は元信に学び、「梅四十雀図 」16世紀の右都御史狩野玉楽と同一人物で、江戸で学んだそう。右都御史はふっくらした梅や鳥がとてもかわいらしくてお気に入り。

さて江戸時代。時代はちょっととんで、17世紀、狩野探幽へとキーパーソンを移してている。

探幽、尚信、安信の三兄弟、松木寛さんの「狩野家の血と力」など読むと、正信元信らが一門の隆盛をはかったのとはまた違う、重苦しい時代になったものだと思う。もはや大・狩野派一門。その大集団を、父孝信の亡き後16歳で率いなくてはならない探幽のプレッシャーを思ってしまう。

それでも探幽の画風が、軽やかな筆で、重苦しさがないのには意外でもある。「瀟洒端麗」と称されるのも納得。時代と顧客の変化もあるのだろうか。戦国武将のなんのという時代は終わったということなのかな。

 

探幽の「両帝図屏風」6曲1双   寛文元年(1661) 

 

以前に、だれの作だったか、出光美術館でもこの画題を見たのだが、パーツを前面に押し出したそのダイナミックな絵と比べて、探幽のこの画は雅に落ち着いた感じ。

右隻に、舟と車を作って難所を克服した黄帝。鳳凰と龍の顔がかわいいなあ。

左隻に、琴を弾いて天下を治めた舜帝。鑑とすべき帝王の画は、将軍家や大名家で求められる。城内や御殿にふさわしい、壮麗な金屏風。絵具も金も良いものを使っているとのこと。

二人の皇帝は時期は違うけれども、右隻と左隻は山と水の流れ、建物でつながっている。

中国の画題だけれど、やまと絵風の繊細な金づかい。金砂子の場面などとても美しかった。

解説に、(うろ覚えだけれど)明の皇帝に献上するための品を狩野派が製作したことに触れていた。狩野派は元来中国よりの画題を手掛けてきたが、当時日本的とみなされていた「金」を多用した作品を中国に献上することで、本場の中国絵画と対峙。本懐をみせた。これを契機に日本化を進める。

 

今回楽しみにしていたのは、探幽の弟、尚信。自由でおおらかな感じがして好きなのだ。次男次女の特性かな?。

瀟湘八景図巻    狩野常信筆 近衛家煕賛   1巻   紙本墨画      日本・江戸時代 17世紀   

もはや抽象。雪舟の破墨山水図のよう。狩野派という以前に、尚信は室町や宋・元の水墨に惹かれ、求めたのだろうか?。尚信は探幽の補佐にて知恩院などの大きな仕事も担当したらしいけれども、それ以外では探幽とは受け持つ顧客が違ったのかもしれない。もしくは、誰の為でもなく、思うままに好きに筆をふるったのかもしれない。

筆目も見えて、生きていた尚信を感じてしまう。鳥は呼応し動き出しそうなほどライブ感がある。気付くと、水が流れていた。勢いよくうねるように流れていく。

左隻では、ぽーんと高く広い空。岩など五本くらいの筆で一気に引き下ろしただけ。すっかり形から自由になっている。なにもかも、重力からも解き放たれて宇宙的な解放感。

絶壁ならその圧倒感を、滝ならしぶきと勢いよく落ちる水の意を、鳥なら自由さを、その意を描けばいいだけなのだ。

自由で奔放な画を残して、尚信は44歳で亡くなってしまう。釣りに行って失踪したとか中国へ渡ったとか、いろんな噂がある。

 

そうして残された息子、常信は苦労したかもしれない。15歳で父を亡くし、探幽、安信、彼らの息子たちとの序列格差で不遇の時代を長く過ごした。

でも画力が巧みで、たんなる粉本の踏襲におさまらない独自性が見えて、見るたび好きだなあと思う。

常信の「瀟湘八景図巻」17世紀は、近衛家煕の賛があるのが興味深い。尚信ゆずりか、これもゆうゆうと自由な感じ。肩の力は抜け、自分の自然なリズムに乗って描いているよう。形をこえて、彼の心の中のイメージ。これは探幽や安信の死後の作かな(笑)。山の稜線は流れるようにどこまでも続き、川の流れも長くどこまでも邪魔されずに進んでゆく。彼の筆は、ここではなんの制約も受けない。いい絵を見たなあ。

 

そしてこのあたりから、狩野の本流と趣を異にする、個性的な作が登場する。

板橋美術館での墨の花鳥画(日記)と妖怪絵巻(日記)で大ファンになった狩野宗信に思いがけず遭遇(嬉)。根津美術館にも所蔵されているとは。きっとあちこちで眠っているに違いない…。

桜下麝香猫図屏風   狩野宗信  江戸時代 17世紀 やっぱり宗信の動物は格別彼のジャコウネコが今根津美術館のHPのトップ頁の座を射止めている↓。

異国の霊獣、ジャコウネコは吉祥画題なのだそう。もともと存在感のあるジャコウネコだけれど、宗信のは、霊獣というよりは、妖怪絵巻にも通じるヒトクセある感じ。花鳥図でもそうだったけれどちゃんと動物の意志があるのよね。

右隻では、一重の桜の下で遊ぶ。白いつつじも見える。

左隻では、八重の桜に赤い百合が一本。水を飲むジャコウネコ。なにやら虎のごとき雄々しさ。もう一匹はカイカイしてて愛らしい。

ものすごく上手いってわけではないのかもしれないけれど、とても庶民的な感じで親しんでしまう。探幽の後でこれを見たら、一気に目線が下がり、親しみやすい感じ(探幽がいかに格調高かったのか今頃気づく)。松や岩の描きぶりは狩野派なのだけれど、それらは主張せず、このゆったりとした金屏風のなかで猫を飼ってる感じ。 

 

そして久隅守景と、好きな絵師が続く。わけあって狩野派を破門されたと噂されつつ、真偽は謎のまま。子どもの不祥事の引責にてと言われているけれども、「夕顔棚納涼図」や「四季耕作図」など人間目線の自由な絵を見ていると、私はこのひとの画風や求める画題が、狩野一門を去ることをためらわせなかったのではないかなと、勝手に思ったりする。どこか尚信に通じるような気さえする。

ところが、今回の守景の「舞楽図屏風 」17世紀は、農村の絵とは全く違う、意外な作。現代的な感じすらする。この画題は宮中や寺院の調度として用いられ、狩野派も手掛けていたそうなので、破門前の作だろうか。それにしても、狩野派ぽくないような。鈴木其一と言われればへえ~と納得したかもしれない。鳥取の藩主、池田家伝来。

右隻は武将の舞い、左隻は蘭陵王

構成が不思議で確認犯的。右は斜上にラインを描き、左ではぱっと散らす。赤い衣がリズムと跳躍を印象付ける。背中を見せた後ろ姿の楽隊すらも、妙な存在感を放っている。

ただでさえ特異なオーラを放つ彼らは、さらに顔を胡粉で盛り上げ、より強い印象でもって押してくる。舞う目線の強さや、笙に息を吹き込む緊迫感。

見るたびに、必ずこころ動かされる画家のひとり。

そして京狩野。

狩野山雪の三作。永徳風を受け継いだ、濃厚な京狩野という印象だったけれども、そうでもないことを知った。

山雪の「梟鶏図  」 17世紀 は、なんとも滋味あふれる味わい。

フクロウ、なんでこんな知らんぷりんな顔しているんだろう(笑)。そして鶏も目を合わせない。これは若冲のかえるとふぐのお相撲の絵の様に、抱えてるなにかのトラブルを風刺していたりするんだろうか?。

それでも、フクロウの達磨のような体のラインと左幅の屋根のライン、鶏のまるいお腹のラインと右幅の枝のラインはシンクロしていて、なんだか双方ま~るく収まっているのかもしれない。

 

伝山雪の「百椿図」は、花あしらいがハイセンス(!)。400年も前の京の人の豪華な遊び心に感服。いくつかは参考に展示がありましたが、使用された蒔絵の器や、盃、つづみ、はねぼうき、硯箱、景徳鎮などからして、逸品ぞろい。

百椿図のクリアファイルを買ったので気に入ったアレンジメントをいくつか。

他にもタケノコの皮やひしゃくも使われている。透かし編み(というのか?)の竹かごのなかに花をたっぷりとつめていたり、パリのお花屋さんで見かけるようなアレンジメントもある。

篠山藩主松平忠国が製作させ、息子と二代にわたって賛を書いてもらったそう。天下太平な世になったものだ。

 

1月30日以降は一部展示替えになり、4作が追加される。なかでも、尚信の「文殊荷鷺芦雁図」と狩野雪信を見たいけど、行けるかな。悩ましい…。

この日は雪が積もった日の数日後。寒いので暖を取ってたらまた余計なものまで注文してしまったわ。

 

お庭で「銘・ゆらぎ」みたいなつららをたくさん見つけました。

 

もの知らずで恥ずかしいですが、これは何だろう??。

 


●実践女子大香雪記念資料館「中国美術史入門」

2018-01-30 | Art

先日の表参道の本の場所で「月光礼賛」(日記)を拝見した日、渋谷の実践女子大学 香雪記念資料館へ。

1月31日「中国美術史入門展」が開催中。

 

毎年、こちらの美学美術史学科の中国美術史入門の授業の一環として、展示されているものです。

前期と後期の2回開催、前期は主に宋・元画(一昨年の日記はこちら)、後期の今は明・清の画。

複製ですが、原寸大で精緻。台湾の故宮博物院を中心とする名品にて、簡潔に中国の美術史を学べる、貴重な機会。

石濤、八大山人、董其昌、倪瓚、黄公望、惲 寿平、、と、昨年の泉屋博古館や静嘉堂文庫の明清絵画展のおさらいにもなりました。(展示室は大学の建物内ですので、入り口で記名。女子大ですが、もちろん男性の方も観ていらっしゃいました。)

以下備忘録です。

なかでも美人画の流れが興味深い。東博東洋館で見た思い当たる絵があり、ちょっと嬉しい。

美人画も、政治や社会の変化を反映している。

唐:華やかな宮廷文化を反映した美人。豊満系の女性像が多し。一流画家が活躍した。

宋:文人政治によって儒教的価値観。山水や花鳥がメインに。女性は細い姿が好んで描かれた。

元:白描画

明:すたれていた美人画が再興。明末期には独特の美人画。

清:美人を中心に据え、(はかなさ通り越して)病的な美人画が描かれるように。

 

いくつかメモと印象。(展示リストは文末に。)

「宮廷図」作者不明 唐8世紀 :琵琶、笙、筝などの楽者の真ん中に卓を囲む婦人たち。呑んでぐでっとくだまいている。けだるく退廃的な様子が、背景なしでしらじらと浮かんでいる。「くつろぐ姿」は、唐代に流行ったそう。

 

 ・丹楓ゆう鹿図 作者不明 五代 10世紀 :不思議な作。彩色の花木と、わずかなスキマさえつくらない水墨の透けるような鹿。このように余白なく埋め尽くしているのはほかにない。彩色、水墨で山水と花鳥が融合した。まだジャンルが未文明だったからこそ存在しえた。自然描写と装飾性をこのように併せ持つ画は、のちの中国絵画からは姿を消した。木や鹿は北方の風土を示す。

 

 ・文同(1018~1079)「墨竹図」北宋 11世紀中頃: 墨竹画の創始者。蘇軾のいとこ。画面を斜めに下がってくる枝は、最後には上へ伸びあがり、起死回生のねばりを見せる。濃淡が巧み。こののち日本での中国でも多く描かれた竹の元祖がこれかと思うと感慨。濃淡に留意しつつもの、筆のキレ。泉屋博古館で見た、武士が墨竹を描いたのもわかるような。

 

・蘇漢臣「秋庭戯嬰図」南宋 12世紀後半 :ふっくらぽちゃっとしたお姉さん(6、7才くらい?)と弟(3、4才?)がかわいい。菊と牡丹が写実的。真ん中やや右寄りに細高い岩山が画面にぬおっと立ち、永遠な感じ。よって子供たちの単ににかわいいだけの絵にしていないところが、売れっ子の計算??。子(男)供を描くのは子孫繁栄の願いで人気画題。人物をゆったりととらえるのは北宋の名残りで、上部を大きく開けるのは南宋風。

 

・劉松年「羅漢図」1207 南宋 :沙羅双樹、透明な頭光、桃を持つテナガザル。桃がザクロっぽい。インド風風貌の羅漢に、侍者はあっさりした東アジア風の顔。細密な描き方が異彩。

 

・王冕(おうべん)「南枝春早図」1353年 元: 墨梅は南宋からの人気画題だが、宋代の梅は枝の鋭さに主眼を置く。一方これは花を増やし生命力にあふれ、新たな受容層の広がりと好みが見て取れる。花がびっしりと重なるほど。枝は自由にくねり、伸び、まさに生命賛歌のような画。

 

・辺文進「三友百禽図」1413 明:松竹梅の三友。鳥がいっぱい。スネイデルスの鳥のコンサートのよう。

 

・文徴明「湘君湘婦人図」1517 明:文人ならではの独特さ。堯帝の娘二人。夫の舜帝の後を追って身投げし女神になる。三日月の様に流れるようなライン。仇英に彩色をさせたが気に入らず。

 

 ・石濤、王原祁「蘭竹図」1691清:石濤が竹、王原祁が後から蘭石を補い描いた。二人の都での接点を示す作。寂獏とした情景は珍しい。竹はたっぷり水を含ませた筆、岩は乾いた筆。風をが抜ける。

 

キリがないのでこの辺にいたします。とにかく全てが名品中の名品。大家中の大家。少しずつ勉強していきたく思います。

 

 


●表参道「本の場所」で、裕人礫翔さん「月光礼賛」

2018-01-28 | Art

表参道の「本の場所 美術のおまけつき」で、 裕人礫翔+吉田拓也「月光礼賛」を拝見してきました。

2018.1.23~ 2.2 https://www.honnobasyo.com/vol-45

裕人礫翔さんは、西陣に生まれ、「金銀模様箔」の伝統技法の継承者であり、箔アーティストとして現代アートも手掛ける。昨年は銀座シックスでも展示があったのですね。

建仁寺の『風神雷神図屏風』や、南禅寺・妙心寺などの障壁画の複製の金箔復元も携わっておられるそう。

最近はキャノンの高性能の復元画の展示を見る機会が増え、その精緻さに驚きつつ、金色ってコピーできるのかな?と疑問を抱いていたのですが、その疑問が解けました。金の輝きは複製できないので、上から金箔をはるのだそう。このような方の仕事のおかげだったのですね。

以下、備忘録です。

地下の室内には、箔の作品。大きな月が地上に降りているのでびっくり。

おや、後ろに掛け軸があると思ってみたら、さらっと若冲で、またびっくり!。さらには蕭白(!)、応挙(!)。それがプレートもなく…。

しかも人物もトラも鶴も、目ヂカラのある個性的なヤツ揃い。現代の作品も江戸時代の作品も、どちらの存在感もくすむことがありません。画と現代アートとを合わせて、いろんな想像を与えていただきました。

(写真は許可をいただきましたが、載せるのが申し訳ないくらいうまく撮れてない…。神秘的な雰囲気が伝わるように撮れていればよかったのですが…。)

 

ごつごつとした鉄の肌に銀箔が。

この赤や青、紫などの多彩な色が、全て銀箔というのに驚き。彩色したのでなくて、銀箔は、熱と硫黄のコントロールによって、銀、薄金、濃金、赤、青、緑、紫、黒、墨と変化するのだそう。

光の具合で輝きが変わり、見るたび違う世界。
横に回って見ると、光の反射が消え、色も輝きも失われて、作品が眠りにつく。

最初から寝ている作品は東洋にはあるけど、作品がいま目の前で眠りにつくという、突然で初めての体験に、あっと小さく声がもれたくらい。心を揺さぶられるというのはこういうことか。

 

 

このあと、私は国学院博物館の「いのちの交歓-残酷なロマンティスム-」展に立ち寄ったのですが、岡本太郎や縄文土器のかけらや(食されたあとの)動物の骨などをみながら、この作品がよぎりました。

鉄という素材の暴力的で原始的なゆえかもしれないし、光を当てた時の爆発するような輝きゆえかもしれない。輝いているのに暗さがあるからかもしれない。

 

月の作品は、三日月、半月、新月と。移り変わり、繰りかえし。

金属のようですが、和紙と箔だそうです。

表面を見つめていると、上手く言えませんが、見る時間自体がすばらしい体験だったのです。

 

闇が美しい。だから金も美しい。この両者は、光と闇のごとく相反しながら、同時に切り離せない関係であり。

そういえば、すぐ近くの根津美術館でも、「墨と金」という企画展が開催中でしたっけ。

 

こちらは箔に漆。ロスコを思い出しました。長くみていると、見えてくるものが見えてくるのも、ロスコのよう。

 

さりげに応挙がこの作品を見続けていました。その応挙を若冲の鷹が見ている。



この会場には和ろうそくがおかれていました。この時は昼間だったので炎は灯っていませんでしたが、スタッフさんが、和ろうそくは独特なゆらぎがあるので、銀箔や銀箔が刻々と変化し、見飽きることがないとおっしゃっていました。
昔は、夜は屏風や掛け軸をそんな風に見ていたのですね。

ふと、ラスコーの壁画が、真っ暗な洞窟のなかで、焚火の灯りで描かれたことを思い出しました。あの人たちも、火の揺らぎで、岩壁に描きつけた牛や馬の群れが動くのを、おおーと感動してたかも 。そこに神を見ていたのかも。

ああっ、陽が落ちてから来るべきだったか。

 

外に出ると、入るときには気づかなかった青い世界。

 

小さめの円が、絵巻とともに。これは自然光のもとで拝見。

絵巻好きとしては嬉しく、これらの作品にも愛らしさすら覚えてしまう。何百年もまえのものを、今のもとの混在させて見せて下さる主催者の方に感謝感謝です。

 

とてもきれいでした。金属的なものなのに澄んでいる。現代のものなのに、長い時間を抱合するような。金や銀の持つ不思議さ。

スタッフさんのお話もお聞きできて、楽しい時間を過ごしました。

こちらは朗読会も開催されているそうです。

↑「本」の字のなかにいろいろな作家さんの名前。私の好きな中島京子さんも発見



和ろうそくの灯る夜にもう一度行こうかな。


●杉山寧の旅 市川東山魁夷記念館「日本画三山―杉山寧・高山辰雄・東山魁夷―表紙絵の世界とデザインの魅力」

2018-01-25 | Art

市川東山魁夷記念館「日本画三山―杉山寧・高山辰雄・東山魁夷―表紙絵の世界とデザインの魅力」

平成29年12月9日(土)~平成30年1月28日(日)

 

初めて行ってみました。東山魁夷は1945年から亡くなるまで、市川に住んだそうです。

メルヘンの世界みたいなかわいい建物・・・。

洋風の建物であるのが不思議でしたが、HPに理由が記されています。:東山魁夷の人間形成、東山芸術の方向性の両面に影響を与えた留学の地、 ドイツに 想をえた八角形の塔のある西洋風の外観、と。

2005年築、設計は日本設計。

一階に、1章:杉山寧・高山辰雄「文芸春秋」表紙絵の世界

    6章:資料(魁夷の表紙絵の複製を展示。「保険同人」「日本」「週刊朝日」)

二階に、2章:杉山寧・高山辰雄の作品世界

    3章:吉田五十八の劇場設計と日本画

    4章:東山魁夷緞帳の世界

    5章:東山魁夷と歌舞伎

杉山寧(1909~1993)・高山辰雄(1912~2007)・東山魁夷(1908~99)の三人は、なにかとセットで展示され、山が着くからって別に「三山」とまとめなくても・・といつも思っていました。

今回は雑誌の表紙絵に焦点を絞った展覧会。すると、三人のそれぞれの世界が際立って感じられました。

以下、備忘録です。

「文芸春秋」の表紙原画は、杉山寧の24点、高山辰雄の24点。

私は高山辰雄が好きで、実は杉山寧の際どい彩色や、明確な狙いのもとに整理されたような絵が、実はこれまで苦手だった。

でも、わずかしか見たことがないのに断じてはいけませんね(反省)

この日は杉山寧に開眼。表紙絵の17センチ角ほどの小さな画面では、杉山寧の明確な色の対比のせいか、とても魅力的。旅の絵だったのも好ましいところ。

また絵とともに毎回掲載された寧の文章も付されていて、見応えが増幅。寧が思っていること、目指していること、旅先での感心のツボなどがストレートにわかる。共感することがいくつもある。

 

杉山寧の表紙 (1965年、66年)蘭島閣美術館蔵

杉山寧は、1955年に安井曾太郎のあとを継ぐという重責とともに、文芸春秋の表紙を担当する。それから1986年まで、30年!。全369回分!。鏑木清隆、安井、梅原龍三郎、藤田嗣治、橋本関雪、竹内栖鳳、川合玉堂、川端龍子、平松礼二の歴代でも、最長記録。

 

なかでも心に残ったのは、寧が縄文に大きな感動を感じていたこと。

「土偶」1966

埴輪は旧い日本の彫刻としてすぐれたものであるのはいうまでもない。だがそれよりも前の縄文時代の土偶に、私は一層興味を惹かれる。それは埴輪ほど、当時の人間や風俗を具体的に感じさせはしない。また埴輪の持つ優美さももたないかもしれない。しかし、その素朴な逞しさと、強靭さは、原始の人の心がそのまま込められているように思われる。それは単に手すさびに作られたものではない。よほどの必然性によって作られたものにちがいない。何かの祈りを込めて。だからこそこれらの異様な表現も、強く我々の心をとらえるのであろう。

ラスコーの壁画展や火焔土器などを見つつ昨年来なにかと考えてしまう、「どうして描くのか」「どうして作るのか」。その疑問への、寧からのひとつのヒントの様におもえた。「よほどの必然性」「手すさびにつくられたものではない」ということは、これらを作った当時の人たちに思いをはせるうえで、不可欠。

 

他にも心に残った絵と文(文は抜粋)をメモ。

「サッカーラーにて」1966 

外壁の直戴な面や重量は、単純な砂漠や、碧一色の大空と一体のものの様に思われた。

 

「ロバに乗る男」1965

(エジプト)あの背の低いロバ大の男がまたがって歩く恰好は、いかにもとぼけた、おかしなものである(同感!)。然し、不思議と辺りの風物と調和して和やかな雰囲気を作り出している。(略)日干し煉瓦で造られた家を、余裕があれば白くあるいは桃色なぞに塗り、または外壁に何かの思い出があるらしい素朴な絵を描き、(略)その場のいろどりを工夫していとなみに潤いをそえてる。ゆきずりの旅行者にもその温かい感じが気持ちよく伝わってくる

 

「マカオの海」1965

(カルカッタの空港をたち、マカオの上空あたりで高度を下げた)ジャンクと呼ばれる貨物船であろうか。大きな自然の中の小さな人間の生活が思われて印象深く心に残った。わずかの間でも西洋を見てきた眼には、この景観からも東洋というものがはっきり感じられる

 

「乙女の柱」1965

(アクロポリス)頭上に軒を支え、毀損と風化のなかに25世紀を立ち尽くしたこの数体の乙女の像に感じたものは、哀れさであった。

 

「供物を運ぶ女」1966

女性が頭に荷物をのせて運ぶ習慣は、一概には言えないが、熱い国に多いようである。(略)なにか理由があるのだろうが、おもしろいことだと思う。

(略)なかでもルーブル美術館にあるその中の中の一体はとりわけ美しく、ほっそりとした姿態ものびやかに、4千年の歳月に色彩も薄れつつあるが、軽々として、その素朴で優雅な感じは、数あるエジプト彫刻のなかで最も好ましいもののひとつである

「姿態ののびやかさ」、「軽々とした感じ」ならば、山種美術館で見た寧の作品に思い当たるものがある。

 

「城」1966

(姫路城)市街から見たそれは(略)、それ以上の感銘はなかった。然し一歩場内に入り、土塀にはさまれた迷路のような道をさまよい、又建物のうちの薄暗がりに佇むとき、思わずも、時代を超えた不思議な感慨が心を占めていた。

この感覚、土牛の城の絵にも感じたなあ。建築は内部に入ってこそ。内部をさまよった先に出会うときめくは、安藤建築にも通じるかも。とか勝手に感じている。

 

「向日葵」1966

 

「冬がまえ」1966

現代の生活は、すべて自然のあり方を、我々に都合のよいように訂正しようと願っている(略)。だが誰かは、昔の人の自然をあるがままに受け入れ、その中に美しさを見出し、楽しさを作り出した素直な生活も、心の中ではうらやましく思っているに違いない。

 

全体を通して、寧の自然の中から感じる心に触れたような気がした。おおらかで、あたたかみがあって、悠久、原始、そういったものに動く寧の心というか。

その意味では、高山辰雄の表紙絵からも、自然観を感じ取ることができる。

以前も書いたけれども、高山辰雄の絵に宇宙と体内の細胞との交感のようなものを感じつつも、ずっとうまく言葉にできなかったのだけれど、ここでは高山が自分の言葉で述べている。

高山辰雄は、寧の跡を継いで、1987~99年まで、156号分の表紙を担当した。高山の文章は詩のようで、題材も身近なものが多い。そして静かに深淵に、愛情深さを感じるような絵だった。

 

「日輪」1987は、その初回にふさわしい、富士と日の出。その両者と同じくらい、いえもっとか、画面を満たす赤い背景も、存在感がある。ひとつの物質としてあるような。お正月号。高山の祈りが伝わるような。

 

「緑萌ゆる」1987

銀色の、金色の、又夢の様に柔らかな色。それは優しい、が激しい。体中新緑といっしょになって、ゆれる。

こんなふうに高山辰雄は自然に身を任せているのかと思う。

 

「夜の気」1987

夜の気 帳 包み込む暗さは 太陽が地球の裏側にあるからではなく どこからかやってくるようにも見える

美しさ 静かさ そして怖さや不安 何もかもあらゆるものを持って ゆらめきながら 現れる

高山は、目にみえない空気自体を存在として感じ取っている。以前に見た絵でも、空気自体をとりたてて前面に押し出しているわけでもないけれども、空気が日月と地上のものとの間で響きあっているように感じる。どうしてそう感じることができてしまうのか、どのように描いているのか、高山の絵は不思議で神秘的。

 

「明るい日」1999

その時々に、ひとはそのなかに行事を作り、朝を夕べを 山や森を 楽しむことを発明した 野に遊び 水を眺める

かしこいなあ人間はと感じることがある それほど人間は辛かったのだとも感じられる

泣きそうに見えてくる花。それでも咲いている。

 

「野に遊ぶ」1999

「古代人を古代人と考えるのは 現代人の思い過ごしとかんがえたりすることがある」

この子供たちを見ると、古代人でもあり現代人でもあり、違いなどないように感じる。

 

「澄明の空」1999

以前からこの季節の気を どのように 何とか表現できないかと むつかしくも楽しく 見続けている 

何か万物の動き 存在を思うのである

風に吹かれるこの女の子は、高山辰雄自身のようでもある。俗人の私には難解と思っていた高山辰雄の、子供のような後ろ姿を見たようで、ちょっと嬉しかったりする。

 

気を描くのに、高山自身も試行錯誤していたのだ。

でも、87歳の高山辰雄は「楽しく 見続けている」と。一生をかけてもまだまだ答えが出尽くさない問いを、自分のペースで追い、描き続けている。

おそらく私もこれから生きていくにつれ、「万物の動き、存在」を少しずつでももっと実感できるようになれば、高山辰雄の絵の発するものにもっともっと触れられるんだろう。

二章以降

杉山寧の言葉:その時写生がよみがえるが、描き上げられる画面の構成は、その絵のために新しい秩序を作り出しているつもりである。

それで、上述の”整理されたような絵”という印象になっちゃっていたのか。

 

・高山辰雄では、「花のある静物」1964は、クロッカス、たまごや玉ねぎなど。一つ一つのモチーフが、宇宙の中でつながる存在であり、内の内で響きあっているよう。

「森の気」1973は、くすんだ緑の色彩なのに、どうしてこんなに樹木の一本一本が気を放っているのだろう。この中に一歩足を踏み入れたら、いったいどんなだろう。

 

・東山魁夷では、緞帳の下絵に惹かれる。これが大ホールの大画面に広がったら、と想像する。こんな青や緑の海や森が広がったら、ずっと見ていたくなりそう。魁夷の緞帳、いいなあ。機会があったら見に行きたいもの。下絵は6点あった。今も現役のものはあるだろうか。

「爽明」帝国劇場緞帳下絵 1972

 

「波響く」愛媛県民文化会館緞帳原画 1985

 

魁夷と歌舞伎界のつながりの章では、魁夷の手描きの着物に圧倒された。

六世中村歌右衛門所用「助六」揚巻の着物 1956 

珍しい魁夷の水墨。荒く太い筆致。墨と金で岩と松を。波は金の線。迫力だった。

魁夷の知らなかった一面にふれることができました。

こちらは、気軽に、落ち着けそうなカフェも併設。「白馬亭」といい、上野精養軒の直営だそう。ケーキメニューに後ろ髪をひかれながらも、近くの法華経寺(前回の日記)へ急ぎました。


●法華経寺に、立正安国論、伊東忠太、本阿弥光悦

2018-01-23 | Art

 日が経ってしまいましたが、千葉県市川市の東山魁夷記念館(日記)に行ったあと、すぐ近くの日蓮宗 大本山正中山 法華経寺にもお参りしてきました。

せっかく市川まで行くので近くにもうひとつ見どころはないかな、と思ったところ、こちらの法華経寺がhit。

伊東忠太(築地本願寺の設計など)の設計の「聖教殿」があり、しかもその中には、日蓮の国宝「立正安国論」が保管されているとは。

 

日蓮というと、千葉の鴨川生まれというのは記憶にありましたが、市川は日蓮にとって深い縁があるようです。

ざっくりとメモ:鎌倉時代、この地に館を構える武士、富木常忍は、鎌倉に出向いた際に布教中の日蓮と出会い、熱心な信者となる。1260年、日蓮が立正安国論を北条時頼に建白した40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされると、日蓮は常忍を頼ってここに逃れた。さらに1264年に襲われた際にも常忍のもとに身を寄せ、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮に説法を願う。この若宮法華堂で日蓮は、百回に及ぶ説法を行う。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とする。

 

仕事ついでだったので、法華経寺に着いた時にはすっかり夕暮れどき。

五重塔(国指定重要文化財) 本阿弥光悦の甥、本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したもの(こちらから)。

本阿弥家と日蓮宗との縁は、本阿弥光悦の曾祖父・本阿弥清信が、将軍足利義教の怒りに触れて投獄された際に、たまたま日親上人(1407~88。法華経寺で修行し、京に上る。将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、迫害を受ける。焼けた鍋をかぶせられるという拷問を受け、鍋かぶり上人と呼ばれたとか。)と獄中で出会い、帰依するに致ったことを端緒とする。ムショなかまなのね。清信は、出家して本光と称し、日親の本法寺の再再建に協力する。

 

大仏様(1719年鋳造)はメンテナンス中

 

祖師堂(国指定重要文化財)1678年

「祖師堂」の扁額は、本阿弥光悦の筆

 

刹堂 十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置。

 

法華堂(国指定重要文化財) 法華経寺の本堂。上記の富木常忍が若宮の館に建立し、後にここ中山に移されたと伝えられる。

禅宗様を基調に和様を取り入れ、室町時代後期に再建されたものと思われるとのこと。

扁額は光悦。

 

振り向くと、四足門(国指定重要文化財 )室町時代後期 鎌倉の愛染堂にあったものを移築したと伝えられる。

 

「こけら葺」の屋根の肌が印象的。

 

宇賀神社

 

宝殿門

この門をくぐると、聖教殿へ。ひっそりとした小径の向こうに。

 

聖教殿 昭和6年 国宝の観心本尊抄、立正安国論ほか重文数十点が保存されている。

伊東忠太らしく、いろいろと神獣に守られている。フェンスの向こうにあり、スマホではうまく撮れなかったのが残念

毎年11月に公開されるそう。

 

引き返すと、さきほどの宝殿門の太鼓が見える。

ぐるっと参道へ出たころには、すっかり暗くなってしまいました。

 

赤門(仁王門)

扁額は光悦

日蓮というと、激しい人、というイメージ。

京成中山駅へと続く参道に黒門

黒門のたもとに和菓子屋さん

戻って、先程の赤門の仁王様

参道は、通勤帰りの人が通り抜けています

参道のお店が静かに灯りをともしていました。初詣のころはたいへんにぎわっていたでしょうね。お花見にも人気だそう。

 

龍渕橋(龍閑橋)昭和20年 欄干はざくろの形

 真っ暗になってしまいました。

 

和菓子屋さんで買った「鶴もち」♪

花びら餅

周辺にも塔頭などお寺が集積していました。短い時間でしたが、楽しい散歩でした。

 


●三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」

2018-01-16 | Art

三井記念美術館「国宝雪松図と花鳥」 

2017年12月9日~2月4日(円山応挙「雪松図」は1月4日から展示)

 

日本橋の三井タワーの7階が鳥尽くしになっていました。歴代の三井家の人々がこんなに鳥好きでいらしたとは。その財力には感嘆のため息がもれるばかり。

円山応挙の国宝「雪松図」、沈 南蘋狩野栄信渡辺始興柴田是真河鍋暁斎仁清などなど、私の興味惹かれる絵師がたっぷりと勢ぞろい。眼福眼福でした。

以下、好きな作品の備忘録です。(画像は、絵ハガキ、フライヤー、三井記念美術館のHPから)

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◆出品目録に出ていないけれど、印象的な衝立(ついたて)がウエルカムボードのように迎えてくれる。

布を切り張りし、刺繍で仕上げたような花鳥。絵とは違う光沢と色の冴えが印象的。「剪綵(せんさい)」という技法とか。奈良時代に伝来したもののやがて忘れられていたのを、徳川家治の時代(1760~86)に、三井家に伝わっていた裂地でつくられてから復活したそう。

牡丹と孔雀の図の剪綵(1883年)は、三井の総領家である北家の8代目当主、三井高福(1808-1885)の画を基に剪綵に仕上げたもの。岩は青みがあり、たっぷりと孔雀の羽も紺色の系統色で、三井高福の怜悧な好みを想像する。

牡丹と鶏の図の剪さいは、高福の画を、11代目の三井高公夫人の鋹子(としこ)(1901-1976)が 剪綵にて仕上げたもの。(この方、松平春嶽のひ孫さま。) 以降、三井の奥方さまたちに継承されているのだそう。ちなみに高公邸は、現在江戸東京たてもの園に保存され、見学できる。

 

◆展示室1

茶道具や香合の珍しいものがたくさん。鳥もびっくりでは。自分のパーツがこんな美しい品々になっているとは。ちょっと気の毒かな。

・「青鸞羽箒」は、鳥の羽を三枚ほど重ねて作った卓上ほうき。鳥だけど、ヒョウ柄が鮮明で美しい。その羽を提供した青鸞は、マレーシア辺りに生息するとのこと。数寄者は自分で羽を選ぶのだとか。

 

・香合では、たまごを半分に切ったものがお気に入りそのたまごがまた、鶴だの孔雀のたまごだというから恐れ入る。その吉祥な鳥たちのたまごが金や絵で仕上げられ、なんとも優雅な逸品。卵の製品は輸出用に人気だったのだとか。イースターの土台があるからかな?。でも横割りにしたのは、斬新に見えたかもしれない。ダリに見せてあげたいかも。

鶴卵香合 前後軒園中産」は、北家9代目が屋敷で飼っていた鶴のたまご。内側を金で塗り、まぶしいほど。

孔雀卵香合 了々斎好」1814は、和歌山城で飼われていた孔雀のたまご。紀州藩主から拝領したのだそうな。内側を漆、外側は蒔絵の牡丹。

柴田是真が、鶴の卵を盃にした「稲菊蒔絵鶴卵盃」は、たいへんクールに美しかった。稲穂はむっちりつまって、首を垂れ、菊とともに秋の風情。見込みの金地は、陽に輝いて見える芒野原のような色みで、うっとり。

 

・仁清の香合は、首のひねりもびっくり目もかわいい

 

・茶道具では、「凡鳥棗 藤村庸軒好」。漆にひとつ、桐の葉の文様が描かれている。底には、(鳳の字をふたつにわけて)凡と鳥と。なるほど。鳳凰は桐の葉を好む。

 

◆展示室4

見ものぞろいの掛け軸や屏風。なんて贅沢なお部屋なんだろう

《狩野栄信「四季山水図」4幅》 はとても好きになった大型の掛け軸。

人も動物も、キャラ設定とストーリー立てがしっかりしてある。そして山も村も、細部にみどころシーンがいっぱいあるのだ。(以下、長いので読み飛ばしてください

栄信といえば、木挽町狩野の8代目。昨年の板橋美術館の江戸の花鳥画展では、濃い青地に牡丹の画が展示されていた(日記)。中国画を基にしたようで、鈴木其一にもそっくりな枝ぶりの牡丹の図がある。

一幅めは、春の初めのなだらかな山里の情景。梅の花が少し開き始めてたところで、空気はまだ冷たそう。村の人々は、一人3センチ程なのに、体勢もしっかり。表情や目線までちゃんと描いて、生き生き。中段あたりには、馬にまたがろうとするひと。水辺の柳下で馬を洗う髭のおじさんは、日に焼けた肌も健康そう。東屋には琵琶をひく高士、外を眺める高士。その視線の先には、梅の木から飛び立つつばめの群れ。

川の中州には、白ヤギ母子がかわいい。子ヤギは母ヤギの乳を飲んでいる。その足元に置かれた植木鉢には水仙、花壇には牡丹や百合が咲いている。ほのぼのするスポットが散りばめられた、ハートフルな幅だった。

二幅めは、うってかわって夏の自然の雄々しさ。雲海を超えてそびえる岩山。どうどうと音が聞こえそうな滝がいく筋も流れ落ちている。気付けば小さく、山中にお茶を広げる二人。二人の視線の先に、お、鷲が飛んでいる。うっ、鷲は青い尾長鳥をくわえている(怖)。でもその先の木の上の巣に、母鳥と、口をあけて待っている三羽のひな鳥。鷲とはいえ、ひながかわいいなあ、親子愛だなあ。と思った瞬間すとんと陥落。狩野栄信ファンになってしまった。そしてこの幅、遠目で見ると、岩山と雲と樹々とすべてが一体となって、自然の力強さと夏の清涼感を圧倒的に放っている。すごい。

三幅めは、木の葉が茶色くなりはじめた初秋の、水辺の集落。屋根のついた舟で暮らす人々。なんだかやたらと舟が細密で、模型図みたいなのはなんだろう?。網を引き揚げるクレーンみたいなのが機械装置としてきっちりと描かれている。そのわきには、伝統的な木と牡丹と太湖石と、かくれんぼんをするような犬たち。別の小舟には、黒い鵜がとまっている。乳飲み子を抱く胸を出した母親や、腕に留まらせた小鳥で遊ぶ幼児、お茶碗をもって食事中の女性などが乗る舟もある。

中段あたりには、水牛に乗ったり、三頭だての水牛に荷車をひかせたり。水辺の集落の暮らしが、まるで見てきたようによく描けている。なにか中国の絵巻にこういういい作品があるのか、それともどこか日本の水辺を参考にしたのか??

画の間近には、底から高い木が大きく描かれ、見ている私がそこを起点に置き、さらに画面の上へ上へと目線が誘導され、水辺の集落は幾重にも連なり、炭焼き窯?か煙が立ち上り、最上部の月に収束する。ここまでの三幅とも、画の中で違う流れにのせられてしまうのが面白い。

四幅めは、雪景色。冷たい空気に、険しい岩が印象的。こんなに寒いのに、雪の中州でお茶?お酒?する三人がいる。一人は寝そべっている⁈大丈夫か?。手前の東屋には、童子に簾を上げさせて、外を眺める高士。

だらだら書いてしまったけれど、細部にも、遠目にも、とても思い出深く残る4幅だった。狩野栄信の作に次はいつ出会えるだろう。

 

さて、さらには沈南蘋の掛け軸が6幅も見られるなんて、なんて大盤振る舞い。11幅を所蔵している《花鳥動物図 清・乾隆15年(1750年)》のうちから、鳥のものを6幅選んだそう。

写実的で多色の彩色。徳川吉宗の招きにより来日し、彼の影響を受けた南蘋派の日本人画師は多いけれど、おおもとがこれかと思うと感慨深い。清では有名とはいえ、一職業絵師だった彼がたった二年の日本滞在によって、日本の江戸絵画界に与えた影響は多大。人生って不思議。。

《松樹双鶴図》 鶴の羽の描き方は、一本一本胡粉で線が引かれ、若冲が影響を受けたらしいことを反芻する。爬虫類を思わせる細密な足や節は、応挙をも。波上の岩山は蓬莱山なのだとか。

《柳下雄鶏図》 柳に花海棠、つばめ、鶏、オレンジ色の仙爺

《群鳥倚竹図》青紫の花大根とたんぽぽが印象的。竹も花も鳥もとにかくリアル。極めた写実の先に妖しい感じを放っていた。

 

《白鸚鵡図》の赤い実はライチだそう。

《檀特鶏雛図》は、赤い檀特という花と秋海棠。ヒナは、幼くとも鋭い目をしている。

 

《枇杷寿帯図》寿帯鳥とは極楽鳥。

枇杷のおしり?が生命を放っている。葉は虫食いや枯れてかけた葉も。

↑の絵ハガキでは切れていたけれど、下側にはケシの花。

散り始めたもの、すっかり花びらが落ち種がむき出しになったもの、つぼみ。無常感は、くねる茎によってあやしさを増している。

隅から隅まで、どこにもすっとした直線はなく、沈南蘋の線はどの線もまがりくねる。彩色の際どさとあいまって、日本人たちはこれに魅せられたのかな。沈南蘋の波も、執拗なまでのしぶきが印象深かった。

 

この後に、応挙国宝「雪松図」。

以前に根津美術館で見た時も圧倒され、長い時間離れがたかっけれど、改めて見ると、応挙の大胆な筆致に改めて打たれる。雪は描かずに、松と金の背景を描くことでふわりとした雪を見せる。雪の晴れ間の陽の光を見せる。空間の奥行きを見せる。この荒い筆致の事前に、応挙はどんな風に計算し、組み立て、そして筆を下ろしたのだろうと思う。

 

応挙では、展示室7にも3点。

《蓬莱山・竹鶏図》1790 

先日の松岡美術館で見た三幅対の竹と同じく、これも左右で描き分けた竹。右はしっかりと立ち、左の竹は柔らかに風になびく。打たれたのは、真ん中の幅。蓬莱山の下の波(!)、こんな小さな画面でも、たしかにあの波濤図を描いた応挙の波だ。船酔いしそうな揺らぎ。そして奥へと入る山の遠近感。遠目にも梅が美しかった。

 

《双鶴図》1792 には、三井家の領収書がついているのだとか。金子500匹、約1両1分。高いのか安いのか?。

 

今回のお目当ての一つ、渡辺始興「鳥類真写図鑑」は、圧巻。

1718年から1742年の間に描かれたそう。全長17m、鳥は63種。まさに鳥図巻。始興のメモ書きも見える。

一羽につき、羽は前と後ろから、さらには広げた時の模様や、とじているときは見えない内側の模様までも描きつけている。果ては、翼のわきの下?まで観察している。顔は前向き、横向き、後ろ姿など角度を変えて観察。もちろん雄か雌かも注意書きしている。鳥のあごの下まで描いているのには、笑ってしまった。

この博物者のこだわりは、始興が仕えた近衛家煕の命によるものか?。

そして、画としても巧み。鷹の鋭く湾曲する爪は黒光りしている。つかむ力の強さ、固さまで伝わる。爪間近まで羽毛でおおわれているとは知らなかった。

この図鑑で写生した「カケス」が本画になった「花鳥図」も、後の部屋に展示されていた。もの寂しい冬の情景、どんぐりの実がついている。

 

◆展示室5

茶道具、盃、印籠、置物、箱など、豪勢な品々が展示されている。贅の基準が私の知る上の上を普通にこえてて、ぽか~と口が開いてしまう。

・「牙彫鶏親子置物」明治~大正は、一本の象牙から鶏の立体を彫りだしている。三匹のひよこもついてて、かわいい。といっても象牙製品、今じゃもう幻の工芸品。

 

・象彦(西村彦兵衛)の蒔絵の三点はどれも見ごと。象彦は、1661年創業の象牙屋に始まり、今に至る蒔絵や漆器の老舗。象牙屋の彦兵衛で象彦。

なかでも口をあんぐりなのが、「月宮殿蒔絵水晶台」象彦(西村彦兵衛)明治~昭和。上にのった水晶玉の大きいこと(!)。蒔絵で描かれた側面や台の宮殿や海中、月の美しさも素晴らしいけれど、驚くべきは宝石類が埋め込まれていること。孔雀石やほうかい石がちりばめられている。方鉛鉱、黄銅は、三井鉱山から出たものだとか。そもそも、この大きな水晶玉を飾るために、この台が作られたのだとか。風流にもほどがあろうかと、目が点。

これを見てから他のを見ると、元の世界に戻ったような気がする。

 

・永楽和全の屏風や茶碗もある。仁清を意識した香合などもある。永楽妙全の雉は、舌がちょろっと見えているのが芸がこまかい。永楽家は三井家のひごを受けたそう。

 

・国井応文「百鳥図横額(片隻)」は欄間らしい。ちょっとお部屋にはどうかな・・これで片隻とは。たまに白目の鳥がいるのはなんだろう?剥落かな?。

国井応文は、4世で絶えた応挙の円山家を継いだ。

 

◆展示室6 

土佐光起「鶉図」は、さすがの土佐派。風雅で品格ある鶉でござりました。

 

源琦「東都手遊図」天明6年(1786年) 北三井家の6代目が、27歳下に弟が生まれるにあたり取り寄せたおもちゃを描かせたもの。楽しい絵でお気に入り。

って、この時期といえば、天明の大飢饉の真っ最中ではないの。あるところにはあるんだなあ。

 

・好きな小林古径「木兎図」昭和時代 に出会えたのはうれしい。薄い墨の淡い濃淡で、ふんわりとしたミミズク。耳もかわいい。目だけ金地にぱっちり黒目がかわいい。ミミズクのおなかの、「丰」じるしが斜めになったような模様もかわいい。

 

展示室7

狩野養信「七福神図」、ちんまりいい笑顔の七福神たち。なかでも福禄寿が鶴と踊っているのが好きなところ。これは狩野探幽の模写だとか。養信は「模写魔」と安村先生が言っていたとおり笑。

 

三井家の当主たちの作が続く。

三井高福「海辺群鶴図屏風」1885は、絵師の助けも得ながら描いた、晩年の作だそう。丹頂とマナヅル。横にひろがる波は応挙をほうふつとする。ちょっと線が多いような気がするけど、アドバイスした絵師は円山派なのでしょう。

 

最後に、新寄贈の河鍋暁斎「花見の図」。天狗の面を被る男、胸もあらわにお団子を食べながら踊る女。この乱痴気さわぎを、平常に見ている玩具売りのおばあさん。本紙の外側には大胆なタッチで桜が描かれている。奇想な花見図だった。

とても贅沢な展覧会を堪能しました。

一階のマンダリンオリエンタルのショップのイートイン、ハイビスカスのお茶でひと休み。向かいは三重県のアンテナショップです。

 


●放菴のむかしばなし 日本橋三越「横山大観と小杉放菴展」

2018-01-13 | Art

三井記念美術館の帰りに、日本橋三越で小杉放菴の小さな墨の絵に和んできました。

「横山大観と小杉放菴展」日本橋三越 6階 美術特選画廊 1月10日~16日(火)

 

大観と放菴を合わせて60点ほど。

大観は、大観の好きな富士山を中心に、金の屏風、書なども掛けられていました。つけられた札では1000万円は軽く超え、数千万円も普通。大観の愛国心の強さが伝わる作品が多かったように思いました。

ちょうど山種美術館では大観展が開催中であり、3月からは東京近代美術館でも大回顧展が開催されます。大観が亡くなるのは1958年。戦前、戦後という視点でも通して見てみたい気がしました。

さて今回は、放菴の文人画風の小品に見入ってしまいました。ちなみにお値段は、大観とは一桁違う。おとくなので買っちゃいました。うそです。言ってみたかっただけです。

特に、昔話を描いた絵がとても好ましい。(会場は写真、模写不可。以下の画像は、2015年に出光美術館で見た小杉放菴展の図録から。展示作ではありませんが、同様の作品があったので参考に載せました。)

以下、備忘録です。

花さかじいさんが、灰を巻いて枯れ木に花を咲かせていました。その顔がとてもよくて。かわいがっていた亡きポチが花となってまた帰ってきたことに、おじいさんはほんとうにうれしそうだし、愛があふれている。なんだかやさしいものが私の気持ちの中にもふりそそいできました。

 

「かるいつづら」は、舌切りスズメのお話。つづら箱を背負い、振り向くおじいさんの優し気な顔。おじいさんの周りを親し気に飛び回る雀たちも、ぽちゃっとしてて本当にかわいい。雀たちはおじいさんが本当に好きなんだ。

 

「 こぶとりじいさん」は鬼たちと輪になって踊っていましたよ。とっても楽しそうに、センターでいい感じで。ツノのはえた鬼たちは、「おおっ、このじいさん、めっちゃ上手いやん」みたいに目をぱちくり。喜々としておじいさんを見ながら、これまたいい感じで踊っている。ああいいなあ。

 

中国の故事も。

「寒山拾得」も、妙な風貌で描かれることが多いけれども、放菴が描くと、かわいい顔をした子どもだった。仲良しのふたりは、大きな岩の隙間からのぞきこむ。寒山はそういえば洞窟に住んでいたのだった。

 

「良寛和尚」は、桜の木の下で、子供たちを相手に毬つき。無垢で無邪気な顔。

 

「芭蕉翁騎馬像」は、東北の農耕馬のようなぼってりとした馬。おそらくこれは放庵の愛。彩色の大きい絵などでも、いくつかこういう日本的な馬の絵を描いている。作品には「のをよこに うまひきむけよ ほととぎず」の句が書き入れられている。放菴の字がまたとてもいい風貌だった。

 

どれも放菴の擦筆がとてもいい味わいだった。

紙は繊維が見えて、これもなんともいい風合い。

上手く言えないのだけれど、この紙と筆でいい具合に合わさって、濃い墨でも、墨のかどが取れるというか。やさしく枯淡になるというか。・・うまく言えない。

帰ってから上述の図録を読み返すと、麻紙との出会いが、洋画家としての「小杉未醒」から「放菴」への改号の転機になったとある。麻紙は、隋唐代に日本に伝来し、平安時代には消滅していたのを、1925年に、福井の紙すき職人・岩野平三郎が復元した。放菴は、平三郎親子に100通もの手紙を送りながら、自分の求める麻紙を注文した。放菴の難しいこだわりにも、職人気質の平三郎は応えたそう。

 

放菴は西洋画家として留学していたパリで、池大雅の複製の「十便帖」(川端康成蔵)を見たことが大きなきっかけとなって、東洋の美に目覚める。「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、その基調は一に彼の太くゆるく引かれたる線篠にある」1925 と言葉を残している。

私は池大雅が好きなので、嬉しかったりする。4月からは京博で池大雅展が始まる。

放菴は、池大雅の心のままにあそぶ世界に自らも入り込み、でも池大雅とはまたちがった、独自の線の風合いを作り上げたのだなあと思う。

短い時間でしたが、安らぐ放庵の展示でした。

会場前には、もうお雛様がせいぞろい。手のひらサイズのやかわいいのもたくさん。春先取りでした。

 


●「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」後期2 松岡美術館

2018-01-10 | Art

「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」 松岡美術館

後期1(日記)の続きです

一つ目の部屋には屏風。

野田九浦(1879~1971)「妙高山」

激しい絵を描く人だと思う。洋画のようなタッチの荒い樹の幹。そびえる山が眼下に見える。強い風が吹きぬけ、崖ギリギリに立つ足がすくむ。これを爽快に感じる人もいるかもしれない。豪胆で山男のような世界でもある。左隻に一輪の山百合が風にふかれながらも咲いているのも、ほのぼのというよりも、しっかりと潔い感じ。

大村智先生所蔵の「芭蕉」の静かな佇まいで九浦にひかれて以来、九浦に出会えるのを楽しみにしているけれど、出会うのは激しい絵ばかり。昨年東京近代美術館で見た日蓮もそう。この先はどういう絵に出会うだろう。九浦は、寺崎廣業に師事し、東京美術学校日本学科に入学するも、二年で退学。白馬会で洋画を、正岡子規に俳句を学んだそう。

 

円山応挙「菊図」 

松花堂昭乗の「一本菊」を応挙が模写した。ただし、前期に掛けられていた昭乗の「菊図」とは別の図を模写したものだそう。花の向きが反対で、花びらもちょっと違う。昭乗の菊は、菊が入ってくるのを花器が待っているようだったけれども、応挙のこれは今まさに花器から菊が飛び出してしまったよう。今回も、ちょうどいいところに花器が置かれている

この床の間は、大正時代に建てられた旧松岡清次郎邸から移築されたそう。旧邸の写真を見ると、松岡美術館は洋風建築だけれど、門構えの様子や松の枝のかかり具合に旧邸の面影を宿している。

右側の屏風は、前期に右隻が展示されていた、荒木十畝「春秋花鳥図」1826 の左隻。

鶏の鶏冠、葉鶏頭(鶏頭は中国では鶏冠花という)とで、「官上加官」つまり出世の意味が込められているそう。個人的には、茄子が食べごろに実っているのに意識が向いてしまい、昨年末に見た、観山の唐茄子や古径の茄子(日記)を思い出す。実ものの絵はやっぱりおいしそう楽しい。茄子の花のほうも、多くの日本画家が僕も描いてみようかなと思うのもわかる気がする。

この屏風、一双そろってみたら、また違った全体の動きが感じられたのでは。

 

雲谷等益「山水図」1618

時空の切れ目みたいな岩といい、雪舟っぽい。

解説には:等益は、雲谷等顔の次男。等顔は毛利輝元に仕え、雪舟の雲谷庵と雪舟の「山水長巻」を拝領し、雪舟正統を称して雲谷を号とした。この画が描かれた年に等願は亡くなる。等益は早世した兄の代わりに若くして父の後を継ぎ、実子と兄の遺児を絵師として育て上げ、雲谷派の工房体制を整えた。

これは27歳頃の作。木の根元など細部に力がみなぎるというほどでもないけれど、若くして一門を率い、体制を盤石なものにするところは狩野元信のよう。

 

西村五雲(1877~1938)「老松遊鶴図」は、特に心に残った作の一つ。

鶴の屏風はよくあるけれど、鶴単体の躍動感、肉感に驚き。琳派や加山又造の鶴は、「群れ」として流れるような優美さを求められるけれど、五雲の鶴は、個に迫っている。

右隻の鶴は、地面を走ろうとしている!。走るのはダチョウで、鶴は舞うものだと思いこんでいたけれど。

鶴のお腹のたっぷりとした肉づき。そして重さ。鶴は、吉祥のアイコンである前に、動物。大型鳥だったのだ。

目の輝き。そしてちっとも優美じゃない、あるがままのポーズ。

鶴も松も薄い彩色、さらっとした筆。そして松と鶴以外、何も描きこまれない。なのに、このおおきな屏風の”間がもつ”のがすごい。スカスカな感じなど全くしない。余白に、しんと耳をすましてしまう。すると、空間に響く鶴の鳴き声が。

これまで五雲の動物は、師の竹内栖鳳と並んで展示されたのを見る機会が多く、”栖鳳のほうが一枚うわてかな”などと恐ろしくも素人のたわごとを申していたけれど、五雲の独自の世界にひかれてしまった。

五雲は、岸竹堂、栖鳳を師とし、1912年より主催する西村五雲塾(1933年に西村五雲塾晨鳥社と改名)で山口華楊(当時12歳!)らを指導した。 1923年には京都市立絵画学校の教授となる。画塾は38年五雲亡き後も華楊らに引き継がれ、晨鳥舎となる。華楊が動物をあんなに心あるものとして描く、その原点なのかも。

 

池上秀畝「巨波群鵜図」1932 58歳  秀畝は荒木寛畝の最初の弟子。上記の荒木十畝とは兄弟弟子。

 右隻の、狩野派のような圧倒的な重量の岩。松の青々と精緻なこと。波が激しく打ち寄せる砂浜は金に輝いている。

波は左隻の沖合へと返す。下の海がどんなに激しくうねり、波が岩に打ち付けしぶきを飛び散らせていても、ものともせず飛べる鵜が不思議なほど。

 

海のエネルギーと鵜の浮遊感にくらり。右隻の眼前の岩から始まり、波打ち際から沖合へ、さいご左隻の末には大海原へと、海はどんどんはるかに遠くなっていく。

 

大きな屏風の部屋の最後には、現代の屏風、大森運夫(1917~2016)の二作

大森運夫「伝承・浄夜 毛越寺」1981  平泉の毛越寺で1月20日に行われる二十日夜祭りの「延年の舞い」。「老女」と「若女」の二つの演目が、かがり火でつながっている。

手を合わす人々のしっかりとぶこつな指。炎に浮かび上がった人々の顔はとても安らかに見えて、ここは聖なる空間のよう。

 

二つ目の部屋は、掛け軸。

応挙が3点。どれもとてもお気に入り。ここにも鶴がいる

円山応挙「老松日の出図」1787年 54歳

三幅で、大きな富士山の稜線のようなラインを描いている。右の鶴の足元にはヒナが元気そう。ばさばさっと羽音を立てそうな左の鶴の足元には松の若木。さささっと描いているけれど、肩肘張らなくて、しかも温和でいいなあ。それでいて鶴の足の節など、ぎくっとするほど写実的。

 

円山応挙「人物に竹」1791 このおじさんが誰だったか、解説を見忘れてしまったけれど、とってもおもしろい。

右幅では風が吹いて、竹は外へと飛ばされている。おじさんがなにやら唱えたか?この指で止めたか?、すると左幅では風がぴたっとやんでいる。右幅の竹は細く、左幅はしっかりとした太い竹。

細部は見れば見るほど、応挙の筆の細密さと冴え。おじさんのもしゃもしゃの髪の毛。葉も、竹のすっとした硬質さも、節まで美しい。

(きっと偉人なのだろう。知らなくてごめんね。)

きれいな彩色だなあ。少ししなびた葉も、青い葉も、応挙は葉先まで気を抜かず描いている。見飽きないほど美しかった。

 

円山応挙「鶏狗子図」1787年 今年タイムリーに、鶏から犬へ引継ぎ?

鶏は格調高く、鋭い目線。両親そろってひよこの教育中?。ひよこまでも、きりっとしている。親子そろって、武士の家っぽいのだ。

鶏のふわりとした毛並みは細密に描かれている。ひよこも一本一本、筆をいれている。

対して、子犬たちは、ころんころんの天真爛漫。ぽってりとした線でかわいさ満開。こちらは幼稚園児の遊びの時間みたい。

 みやこわすれは青と白のつけたてで描かれているようで美しいし、つぼみはかわいらしい。真っ先にお友達と行っちゃう元気な子も、ついてけなくて遅れちゃう子もいるところ、やっぱり幼稚園みたい。

 

狩野探幽「牡丹に雉、長尾」1666 65歳 絵師の最高位である法印に叙せられて4年後、晩年の作

雉と尾長と牡丹で作る柔らかな楕円、それもシャボン玉が宙で風に押されたよう時のように浮遊していて、地面に立っていながらも重力から自由になった感覚。

尾長のしっぽの美しいこと。黒と赤の量と分配が素敵で、雉は尾のところにコサージュのような赤い牡丹が特徴的。

探幽って、瀟洒で巧みで、やっぱり上手いんだなあと改めて思う。

 

下村観山が二点。

「山寺の春」1915 は一度見たことがあるけれども、こんなに随所に哀しさや寂寥感がそっと声を上げていたとは。以前より心に迫って見える。

義経と思しき人物は、こんなに悲しい顔をしていたのだった

行く末を暗示するようなものが随所に描かれていた

左幅から右幅の間には、時間の経過があるのだろうか。鞍馬を出て、31歳で自害するまで約14年。卒塔婆にふりかかる桜の花びらが優しすぎる

 

観山の「鷺」1919 

一見優美だけれど、蓮はつぼみ、花の終わりをむかえつつあるもの、すっかり花びらを落としたもの、と命の各段階を見せている。

丁寧な描きぶりに見ほれてしまう。葉のやわらかなウエーブ。葉脈は、裏側はしっかり描き、表はうすく。微妙な陰影もつけている。

花の線描きも、白とピンクの花では違えている。

鷺は、食べようと捕まえた虫に巻き付かれて、困った顔。

観山の動物を見る目は優しいなあと思う。

 

野間記念館でひかれた、吉川霊華「寿星」も。観山や木村武山などが描いた寿星もみたことがあるけれど、霊華のは独特の高雅な雰囲気。故事の世界からそこに甦ったようだった。

 

最後に観山の師、橋本雅邦(1835~1908)も二点。

「龍虎図」 68~71歳の作だそう。

龍虎図といえば勇猛なのもいるけれど、この龍は静かに登場する。そのへんの勢いだけのやつにはない、抑えてもにじみ出る、名優のような貫禄。雲をまとっている。

一方、虎は光を受けるように顔を上げている。なんだか柔らかい感じ。

二頭はゆるやかな音のないダンスのように織りなしあう。

先日見た川合玉堂展、玉堂が雅邦に感銘を受け、キャリアを捨てて上京を決意したのは、1895年だった。雅邦が60歳の時。雅邦の父は、木挽町狩野の狩野養信の門下で、川越藩御用絵師の養邦。雅邦は11歳で狩野芳崖とともに狩野派に入門。塾頭となり、25歳で独立。廃藩置県により禄を失い苦渋の時代を送ったものの、47歳ごろから各展覧会で頭角を現し、1888年に東京美術学校の教授となる。 

西洋画からも技法を取り入れ、かつ維新前は狩野派の絵師としてならした雅邦が描く日本の画題は、自由で魅力的。

欄間「藤図」1902も、自在に、のびやかな筆。 前期には日中の面が展示され、後期は裏返して、夜の情景。

前期の蔓は透けるように薄い墨で描かれていたけれど、今回の夜闇の中の蔓は濃い墨で。そして昼間の蔓は上へと光の中を伸びあがっていたが、夜の情景では下を向いて、眠りについているよう。

と思ったら、一すじの蔓が上へ。ひそやかな息遣い。これは表面の日中の蔓へとつながっているのかも。

 

 **

このあとは、陶磁器の部屋へ。明清の景徳鎮に、眼福眼福。気に入ったものを列挙。

明代

 

水草がかわいい

 

清代

明代の壺は図案的だったのが、清代になると絵画的傾向を強める、と解説に。

こうもりがかわいいぞ。

表裏合わせて、桃が8つ。

 

この壺のあっちこっちに、のどかな人たちが楼閣山水に遊んでいる。

ほんとに楽しそうなの。

 

松岡清次郎さんのコレクションには、ほっこりさせていただくものが多い。

松岡美術館は来る度、心なごみます。

 

 


●「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみ 」1 松岡美術館

2018-01-04 | Art

「屏風と掛け軸ー大画面の魅力・多幅対の愉しみー 」 松岡美術館

後期:2017年11月28日(水)~2018年1月21日(日)

前期展もたいへんよかった(日記)ので、後期展も楽しみにしていました。

応挙や雅邦など有名な絵師のものはもちろん、作者未詳のものまでもすばらしいのは、前期と同じ。人も少ない平日だったので堪能してきました。

以下、備忘録です。

入ってすぐの、作者未詳の二組の屏風。ここでもう足止めされてしまう。

「洛中洛外図」17世紀 作者未詳  

たいへん親切な解説ボードが数人分ソファに置かれており、手元にもって見比べられる。京都の地理に疎いものには本当にありがたいです。隅から隅まで、見どころ満載。

解説には、同様の洛中洛外図はほかに3点存在し、粉本を基にして制作したものとある。(Wikipediaでは、「司馬家本」(田辺市美術館)の系統の5作のひとつ。「歴博D本」(国立歴史民俗博物館)に近似しており、他にも「坂本家本」、大分市美術館所蔵のものがあるようだ。)

内容的には、祭礼が両隻に渡って描かれているのが特徴的。右隻、左隻それぞれに、豊臣と徳川を象徴させている。そして庶民の暮らしと町のにぎわいがたいへん細やかに描かれているのが好きなところ。

右隻は、豊臣家を象徴ずる方広寺大仏殿と、祇園祭の山鉾など。

あの国家安康の鐘。寺の外ではなんだか喧嘩している。

月鉾。侍女に日傘をささせた奥様が見物している。美白の為かな?。奥様の象徴かな?この屏風にはこのような日傘の奥様がたくさんいて、お買い物などしている。

菊水鉾

他にも、函谷鉾、鶏鉾、長刀鉾など。

左隻には、徳川家を象徴する二条城と祇園祭武者行列、神輿渡御。

 

この屏風がお気に入りなのは、見世がたっぷり描かれているところ。鍵屋、反物屋、蕎麦屋、床屋、筆屋、花屋、足袋屋、人形屋、酒屋、数珠屋、櫛屋、蝋燭屋、風呂屋。今じゃあまりみない業種では、槌屋、箍屋(たがや)、糀屋、箔屋、鼓屋、唐物屋、槍屋。

さらに、傘売り、魚売り、炭売り、猿回しなどの路上ベンダーも。シャッターばかりの商店街が危機的な現代からしたらうらやましい限り。路上で売り歩かずともネットで買っちゃう世の中。江戸時代は路上にいろいろな人がいて、楽しそうだ。

花屋って江戸初期にはあるのね。江戸時代には椿や朝顔の品種改良がさかんだったそうだけど、こういう見世先で、仏花だけでなく庶民も気に入った花を買い求めたんだろうか。

こちらの花屋の見世先では、犬も元気いっぱい

笠売り。昔話「かさじぞう」のおじいさんは、寒村でおばあさんと作った笠をこうやって都で売り歩いていたのかな。この屏風は洛中洛外のようすだけれど、村とみやこはお互いに流通している。

魚屋は解体中。チョウザメ??。鼓を打つお坊さんたちはストリートパフォーマンス的な??。

右上には人形浄瑠璃。右下の楽しそうな若者たちはなにを??。左下の番台みたいな人がお代金を取って天然のプール??。

蕎麦屋の店先の大きな彼はなぜそのかっこう??

わからないことが多い。夫婦げんかも描かれていたりする。洛中洛外図のカオスは底がない。

作者未詳のもう一作は「南蛮人渡来図」6曲一隻 17世紀半ば

南蛮寺と南蛮船が描かれているのは南蛮屏風の定番だけれど、これは各シーンが大きく描かれ、印象的。だから人物の表情まで読み取れる。

印象的なことのひとつが、南蛮寺で祈る人々の顔がたいへん清らかに感じること。真摯に祈っている。解説には「禁教令で京都の南蛮寺も破壊されて久しいころの作にもかかわらず、キリスト教色が強く打ち出されている」と、気になる文末。信仰のある絵師がまだいたのだろうか?。

 

そしてもう一つの印象的なことは、遠景の山。洋画のごとき迫力。後ろからさす光も神々しいほど。これまで見たこまごま描きこんだ南蛮屏風には、こんな写実的な山はあまり見たことがなかったような。少ししか見たことないけど。

船越しの海や山の壮大さ。日本の絵にあまり見ないような。

もう少し時代が進んで18世紀の司馬江漢が描く微妙な西洋画みたいな??。ダイナミックな船には陰影もついている。この山は長崎だろうか?。この絵師は長崎で西洋画を見にする機会を得た、隠れキリシタンだろうか??。誰か詳しい方に教えてほしい。

 

それから、ダイナミックな屏風だけれど、細部も細やかなのだ。衣には金彩が施され、屋根もカラフル。

細部にもこだわりのある絵師らしい

南蛮屏風が大流行したのは、やまと絵風なきらびやかさでもって、”こんな大きな南蛮船が着いて、こんな珍しい南蛮人カピタンやインド系の船員たちや、たくさんの舶来品やエキゾチックな象や犬や動物なんかが行列をなして上陸しましたよ”的なことではと思うのだけれど、この絵師はやまと絵風を超えてしまっている。アートであったり、表現者として極めようとしているような。

いったいどこで暮らすどのような絵師なのだろう。惹かれるけれども、謎。

美術館や博物館まわりをしているうちにいつか、17世紀半ばのこの絵師かも!?と思う作に出会えるだろうか。前期展の日記でもそんなことを言っていたような

 

二作で長くなってしまったので、続きは次回に。

お正月なのでこの南蛮屏風の犬。

これはちょっと足が短いけれど、南蛮屏風ではだいたいこういう洋犬のグレイハウンドが多い。

徳川家康が鹿狩りの時に、舶来の70匹の狩猟犬を披露してから、グレイハウンドを飼うのが、武家のステータスになったそうな。

今年は南蛮屏風をみる時は、犬に注目しよう。


●今年行けなかった展覧会と来年行きたい展覧会。そして良いお年を!

2017-12-31 | Art

★今年行けなくて残念でたまらない展覧会
あべのハルカスの北斎展
草間彌生展
運慶展
名古屋の長沢芦雪展
怖い絵展

草間彌生や北斎は少しずつ見る機会はあろうし、蘆雪もいずれ和歌山の串本まで行くぞーと闘志満々だけれど、運慶展だけは、取り返しがつかない気がする…。
存命中に行けるだけ運慶巡りをしたとしても、躯体の後ろまで回り込んでお尻や背中のラインをしげしげ見る機会ってなさそうだものね。
無念なり。

先ほどちらとテレビつけましたら、紅白で石川さゆりのバックが北斎の波だそう。歌はあまりよく知らないけど、映像でどんな風になるか楽しみ。


★来年の特に楽しみにしている展覧会
◎田中一村展、岡田美術館4月6日〜9月24日
◎ブリジットライリー展、川村美術館4月14日〜8月26日
◎国華、東博4月13日~5月27日
◎池大雅展、京都国立博物館4月7日~ 5月20日
◎岡本神草展、千葉市美術館5月30日~7月8日
◎琉球王国の美、サントリー美術館7月18日〜9月4日
◎狩野芳崖と四天王、泉屋博古館9月15日〜10月28日
◎ムンク展、東京都美術館10月27日~1月20日
◎特別展縄文、東博7月3日~9月2日

フェルメール展は日にち指定を検討しているらしいけれど、どのような形式になるのだろう?

★来年の夢
台湾の故宮博物院に、行きたーい

★来年とは言わないまでも、ドイツとデンマークの国境辺りにあるノルデ美術館に、行きたーい
http://www.nolde-stiftung.de
数年前はベルリンに分院みたいな美術館があったのだけど、いまはノルデ邸のこちらだけのよう。電車の便もなく不便な立地らしい。レンタカーは自信ないし、どうやっていったらいいのだろう(・_・;

宣言しましたので、口だけにならないように気長にがんばろうと思います。

展覧会の備忘録も行ったものの6割くらいしかここに残せませんでしたが、来年は早めに書こうと思います。

今年は、拙ブログを読んでくださった皆様、ありがとうございました。
また、こちらからも訪問させていただいて皆様のブログを拝読させていただき、ほっこりさせていただいたり、刺激や励まされる思いをいただいたり、いつもありがとうございます。

来年もよろしくお願いします(*^ω^*)
良いお年をお迎え下さいませ!

追記30.1.5
上記、紅白の石川さゆりの背景はこんな感じでした〜

チームラボのような映像をイメージしていたので、そこまでではなかったけれど、少し波が動いていました。


●2017年の美術展トップ5

2017-12-30 | Art

皆様にならい、今年の美術展トップ10をと思いましたが、全部良くて、絞れないタチでして。特に良かったものを拾ってみます。

今年は、「人類はなぜ絵を描くのか?」「なぜ飾りを施すのか?」と、そもそもそこから考えてしまう展覧会が多かった気がします。

アボリジニの「ワンロード展」(市川湖畔美術館)、國學院博物館の火焔土器、ラスコーの壁画展から始まり、その流れで、「子供は誰でも芸術家だ、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」(芸大美術館)、「流山おおたかの森バリアフリーアート展」、「アンデス展」とつながりました。これは来年も続く、myテーマです。

 

それ以外ではー
○岩佐又兵衛を、MOA美術館や出光美術館や東博で見られたこと

◯変わりもん揃いの江戸の絵師は好きなので、「河鍋暁斎展」、安村敏信先生監修の我孫子の「北斎展」と板橋美術館の「江戸の花鳥画」展、「浅草伝法院の大絵馬」、と見もの揃いだった。

◯水墨でも、「狩野元信展」、永青文庫の「長谷川等伯天授庵障壁画」、「海北友松展」(京都)、「国宝展」(京都)で雪舟をまとめて見られたりと、満足感に満たされた。

◯東博の東洋館で中国絵画に開眼した年だったところへ、泉屋博古館と静嘉堂文庫の明清絵画展があり。台湾の故宮博物院に行くのが目下の夢。

◯彩色の日本画では、富山での「石崎光瑤展」が素晴らしかった。奄美では田中一村美術館の再訪もいい思い出。富山も奄美も、自然や町並み自体もアートなのですね。来年の岡田美術館の田中一村展が楽しみ。

◯海外では、バベルの塔展、ボストン美術館展は良かった。タラ夫に会いたいな〜。ミュシャ、ジャコメッティも良かった。

海外の貸し出し展は最近ますます、相手美術館に信頼される学芸員さんの熱意や構成の良さや、知ってほしいという思いで貸し出してくれる相手美術館の思いが伝わる展覧会が多くなってきたように感じます。海外の美術館にももちろんとっても行ってみたいのですが、日本の展覧会として見るのも価値あるなと思ったりします。


米欧以外のアートでは、カンボジアの「ソピアップ・ピッチ展」、メキシコでは「ディエゴリベラの時代展」も良かった。

その他、戸嶋靖昌展、椿貞雄展、不染鉄展と、ちょっとマイナーな人の回顧展が見応えあり。

こうして見るとトップ5は、
狩野元信展
海北友松展
石崎光瑤展
ディエゴリベラの時代展
ラスコー展
+いつでも素晴らしいのは東京国立博物館でした。

マイベスト一枚は、ソピアップ・ピッチでした〜。