年が明けて最初の美術館は、東博の常設。
東博の空は広い
だんだん閃光めいてきた
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18室
この日は、浅井忠(1859~1907)のプチ特集。7点のうち4点は、高野時次のコレクションからの寄贈。高野時次は 名古屋にあった高野精密工業株式会社(現・リコーエレメックス株式会社)の社長。
明治の巨匠と知ってはいても、まとめてみるのは初めて。今回は1900~02年にフランスに留学する前までの初期の作と、留学中の作品。留学前とあとでは大きく画風が変わっている。
留学する前の作品がとくに心に残る。技巧的なことはよくわからないけれど、油彩の重さが、日本の風景、さほど明るくない色調とうまくあわさっているような。100年前の風景を見ているという自分の心情が、無意識に作用しているのかもしれない。
田舎家炉辺 1887年
惹かれる作品なのだけど、映り込みで良く見えなかったのが大変残念。どう角度を変えても、後ろの展示物の鏡となり果て...涙。予算は限られていると思うけれど、なんとかならないものだろうか...
(重文)春畝 1888年
中心になって創設した明治美術会の第一回出品作。人物は写真からの引用とのこと。
房総御宿海岸 1899
かすかに人が見える。簡素な村の自然な情景。
昔ある画家がフランス留学から一時帰国して描いた自宅付近の風景画を見て、洋皿にフォークとナイフで秋刀魚の塩焼きを食しているような不思議な感覚を覚えたことがあったけれど(それがまた忘れられない絵になっているのだった)、 これらの絵にはそんな感じはしなかった。
浅井忠は、1876~78年にかけて工部美術学校でフォンタネージに学ぶ。小山正太郎、山下りんなど、フォンタネージに学んだ明治初期の画家には心に残る人が多い。日本の油彩画についてよく知らないけど、フランス帰りの外光派が幅を利かせる前に活躍した油彩画家の作品は個人的に魅力的。
留学中の作品は、うってかわって、まさにフランスの洋画という感。真摯な学びの日々だったのでしょう。
でも深く情感のある静かさは変わらないのかもしれない。
ちょうど今ヤマザキマザック美術館で「アール・ヌーヴォーの伝道師 浅井忠と近代デザイン」を開催中。
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工芸で印象深かったもの。シカゴコロンブス博出品作は力の入ったものばかり。
「銅蟹蛙貼付蝋燭立 」百瀬惣右衛門 1873年
枯れた蓮にうごめく生命がなんとも。ガレのような。台にはしっかりと種が表現されている。
雪中南天樹鵯図額 正阿弥勝義作 1892 は刀工らしい細やかさ。
猿猴弄蟷螂図額 香川勝広1892
毛、指先の皮膚まで細密なこと。小さくても目線の強さまでしっかり伝わる。
戸張弧雁。ネコって時々液体になるよね。でも骨格と肉感はしっかり、
海士玉採図石菖鉢 山尾侶之1873
好きな作品に再会。真横から見ると、一匹だけぶら下がっている兎がいる。
人長舞図花瓶 紹美栄祐作
火。人の写実、立体、陰影、どこか怖いくらい
遠目からはく製かとおもった、森川杜園作の鹿 1892。
鹿って雄々しくも、どうしてこう抒情的な表情をするんだろう。
せっかくなので、向こうの青邨の獅子とともに。堂々たるコラボ。
ご退位や年頭の御挨拶など、陛下のお席のうしろになにかと青邨(1885~1977)の獅子図が映る最近。私があの実物を見られることはないだろうけれど、山種美術館に続いて、ここでも青邨の獅子を見ることができた。
ユーモラスなものと神的なものを併存させることが叶うのが、日本の美術のすばらしいところだろうか。ぐいぐいくるこの存在感とまるみ。
「唐獅子」20世紀 大正時代
これが個人蔵とは。しかもこの迫力は後年の作だろうと思ったら、大正期なので少なくとも41歳までの作。
3頭の表情がすばらしい。父母と、一人前になった息子かな?
この線に見惚れきってしまう。
線を塗りのこしたところや、薄墨の線のうえに、たらしこみ。透明感すら感じ、獅子の存在の神秘性が見えるような。
一本の線で、重量感、神的なもの、ふくよかさ、肉感、おおらかさ、すべてを表す。全ての線がなくてはならないものであり、余計な一本はない。
しっぽもいいなあ。青は透明でクール、赤はまるで火のような。
新年そうそう、爽快な気分になれました。
青邨は、絵巻もおおらか。そしてこちらの線も見もの。青邨は絵巻のほぼすべてのものを、多種多様な長短の「線」だけで描き上げている。
「朝鮮の巻」1915 巻物の左から右へと歩いてゆく人々。のどかな風情。
藁ぶき屋根や瓦ぶき屋根の線のリズムと、人物の洒脱なラインがおもしろい。
おおらかに上から見る目線だけど、細かい描写。韓国の町がにぎわっている。おお韓国ドラマで見る輿だ。担ぎ手の腰が心配になるやつ。
女性たちは棒でせんたくをしているのかな
船着き場の人物が遠く指さすほうへ、さらにその先へ、河をゆうゆうと視線が流れていく。
旅人の気分になれました。
青邨とともに渡欧した小林古径(1883~1957)はこの日のお目当ての一つ。今回は渡欧前の作品。
「異端(踏絵)」1914
悲壮感は強調されず、なんというか、インナー世界。蓮の花は美しく、仏画の天上界のような色調。
踏み絵との距離感が、なんとも。3歩先の命運。キリスト像を見つめる3人は、この状態はもはや強制されたものではなく、まさに自分と向き合った極みにいる。
二人目の女性の表情は、おそらくもう自分の中に答えを見出しているのだろう。でもその手は、もしかしたら最後の一片の迷いがあらわれているのか、もしくは今消えようとしているところなんだろうか。
3人目の表情からは、はっきりした感情は読み取れない。今まさに自分の心を自らに映しているところなんだろうか?彼女の目と手からしばらく目が離せなくなってしまった。
一人目の女性は、信仰心の極みのなかに立ち、自分の心に曇りがないことを自覚し、むしろ信仰の悦びのなかにいるのかもしれない。
当時の女性の立場がどのようなものか知らないけれど、人として意志のもとに自立した存在であり得ているといえる。
彼女たちはきっと自らの意志を全うしたのだ。
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そのほか、心に残った作品
富岡鉄斎「二神会舞」1923 90歳の作
アメノウズメと、もう一人は天狗?サルタヒコ?。安田靫彦も描いていた、口を開かないサルタヒコに対し、アメノウズメが胸をあらわにして道案内をさせたという場面かな?
天上界の雲は不思議なエネルギーに満たされている。
肉筆浮世絵の二作。
小林永濯「美人愛猫図」にも再会。確か2~3年前にも同じ場所で見た記憶が。興味尽きない永濯だけれど、東博の所蔵は、この作品と「黄石公張良」のみなのかな?。永濯展はまだまだ遠いかな…
落合芳幾(1833~1904)「五節句」明治時代19世紀 隅から隅まで見どころ満載。
おとぼけイヌ
四季と富貴の着物の柄の美しいこと。牡丹、なでしこ、菊、あじさい、水墨のような月と梅。
ちさかあや「狂斎」を読んだところなので、登場する芳年の兄弟子と思うと感慨深いものがあったりする。
2に続く