創世記24章12節である。「祈った。『主人アブラハムの神、主よ、どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。』という。『主人アブラハムの神』という呼び方は始めてである。本人の信仰があってその上で強い呼
びかけなった。この祈りの時は、約1千キロを走破して目的地ナホルに到着した第一日であった。
「慈しみを示してください」という、その「慈しみ」は原語では「『へセド』であり、神の人間への重要なかかわり方、神の態度を現す言葉である。したがって、「『へセド』を示してください」というのは、神様のわたしたちへの基本的な、契約を実現
させる神の固い慈しみである。やがてキリストの十字架に開示され神の愛となる。
13節である。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、」といいます。前節からアブラハムの僕の祈りが始まった。もちろん現地に到着したのだから、祈りの本論に入ろうとして
いるのである。神様に向って、位置の認定から始まりました。「わたしはいま、御覧のように、泉の傍らに立っています。」という祈りから始まっている。長旅の休憩をもふくめて、井戸の傍らに休み場を取ったと考えてよいであろう。
また井戸は、若い娘たちが水を汲みにやって来るところであった。嫁になる娘探しが始まったといってよい。いわゆる町の娘たちの待ち伏せであった。いよいよその場所とときが来たのであるから、神の御心を尋ねるという意味での決定的な
若い女に出会うかどうか、恐ろしくもあった。何を持って、その子であると決めるのか、まずここから、すなわちその認定のしるしとなるものをきめねばならない。考えた。
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