人前に立って話すのは苦手です。しかし、そうしないといけない時、必ずその場所毎に氣を感じます。話し自体に興味がある人もいれば、興味無い人もいます。後者に話すとき、話す私はもう正直興味ないのにいる意味あるの?やめようか、お互いにとって良くないよ、と言いたくなります。
自営業なら、そう言うと思います。お互いにプラスの意味をみいだせないから。しかし、そうはいきません。仕事は仕事。私なりに精一杯努めます。仕事があることに感謝と気持ちを切り替えます。
反対に目の輝きを感じている相手が多い空間を感じる場所では、私まで相乗効果で楽しく嬉しく、もっと沢山伝えたくなりますし、私の感じる楽しみを目の前の皆んなにも伝え、みんなの目の輝きに一生懸命応えたくなります。
人を惹きつけるかどうかは話し手の腕の見せ所ですが、私は特に話術に長けているわけでもなく、なかなか難しいとこですね。
なぜ同じ時間同じような話しをしていてもそうも気持ちが変わるのか?それはその場の氣を全身で感じるからかもしれません。
氣は、雰囲気とか空気とか目に見えないですけど、とても重要な流れです。同じ空間に人がいて、そこでプラスのエネルギーを生み出すことも、マイナスのエネルギーを生み出すことも、全て人ひとりひとりにかかっているように思います。
たとえ、良くない空気の時でさえ数人が必ず、ありがとうございましたと笑顔で空間を離れて行く時、心の葛藤が少しだけ溶けていきます。
仕事はそんな事の繰り返しです。
氣はエネルギーです。自分に合った氣にいると、それはプラスですが、反対に、どうしても合わない氣にいると、様々な支障をきたします。人間関係は最たるもの。
だから、もしどうしても違う氣にいたらどっかで中和させないと、自分が壊れてしまいます。
聖人のように不動な心があれば周りの氣に影響されることはないのでしょうし、そこが到達目標ではあるのですが、私は未だ辛いことは辛いと感じる凡人に過ぎない。
自分を否定し続けたり、頑張り過ぎるのも、我慢するのも、辛いと思う環境なら程々にしないと、身体はだんだんとその見えない辛いを形に変えて表してくるかも。
外にも氣の流れがあるように、身体にも、心にも氣が絶えず流れているように思います。
水のようにサラサラと流れている時は良いのです。しかし、どっかで澱むことは人との交わりの中ではあります。
自分を責める事なく、合わないだけ、だってそれぞれ違う個性や特技や性格の人がより集まった中で生きるのがこの世なんだから、と考え方を変えたり、環境を変えて割り切ってみるのも良いかもです。
数年前に神社に行って、寒い時でしたが伊勢の五十鈴川の水に手をつけながら、暫くぼぉっとしていると、自分のモヤモヤが中和されて、よし、また氣を取り戻して生きようと思えました。