土蜘蛛とは、縄文時代、朝廷に恭順しない地元民に対する蔑称で、怨念が復活しないように、頭と胴体と脚を別々に埋めたところだとも言われています。
彼岸花の名所になるところには、土蜘蛛と結びつきが深い気がします。
写真はお借りしました。
九州もそうでした(7つ森古墳群と土蜘蛛塚 )。彼岸花は秋に紅い華をつけて、浮かばれない御霊の昇天を手助けする花だと私は思っています。
この地で朝廷に恭順しなかった土蜘蛛は、葛城山の洞穴に住んで、身なりも汚かったのでしょうか。土蜘蛛たちを退治するために、葛で編んだ網で捕まえたところからこの地は葛城山という名前になったとも言われます。
茨城の御岩神社周辺に残る逸話も土蜘蛛成敗のためイバラを使った話がありました。
土蜘蛛は手足が長いとも記されます。古事記に登場し、神武天皇の東征に逆らい続けたとされる長髄彦も手足が長かったと記されます。
奈良には下記の話が残っているようです。☟
昔、この付近で、毎夜一匹の大きなクモが出て荒らしまわり、人々を困らせていた。そこへ一言主神が通りかかり、「私が捕まえてやろう」といい、首尾よく退治した。村人はその死骸を田の中に埋めたという。この時、クモの大きな牙が取り置かれ、今も神社の宝物(ほうもつ)となっている。
この話とは別に、『日本書紀』に土グモの話があります。
昔、神武天皇が日向(ひゅうが)(宮崎)から東の国々を征服する旅に出た。熊野から上陸して大和の宇陀などを経て葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。ここで天皇は土グモと戦い、これを退治した。
土グモは土地の民のこと。この時、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。やがて天皇は橿原宮で即位した。
奈良と土蜘蛛。この地も古代に闘争があった地。一言主については、逸話が沢山あります。
人の作った逸話に背びれ尾ひれがつき一言神が色付けられている気がします。それだけ古くから大和のこの地に御坐す神は、人々の心のよりどころなのでしょう。
一言主神社には雄略天皇の銅像がありました。
葛城山の一言主神が雄略天皇と狩猟の成果を競った話が記されていました。賀茂山から葛城山へ名前を変えても、賀茂一族はしばらくは力を有していましたが、やがて力をえた雄略天皇は、一族の神(一言主神)を土佐へ流すという実力行使に出ます。
黒須氏の著書の中では、一言主神は饒速日大王の神霊であり、実体としては賀茂一族を指している、とありました。賀茂一族の神は、雄略天皇により土佐に流され、氏神を祀る権利も剥奪され雄略朝に隷属する民に落とされたとありました。
雄略天皇(ワカタケル)の銅像
境内
役小角との逸話
役小角は伊豆に流されるも、701年に放免され故郷の葛城山に戻る。そして68歳の時、弟子たちに「本寿は限りはないが、化寿は今に至った」と告げ、天井ヶ岳にて微笑みながら静かに息をひきとったといわれています。
役小角の遺訓には
「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」
とあるようです。自らの身体で様々な体験し、全ての体験からその精神を高めていくところに神髄があるようです。
日本は大陸からの移民、仏教の伝来など、様々なものを受け入れ溶かす(十化ス)国。しかし、そこに至るまでには闘いも苦悩もあったでしょう。文化が大きく変容を遂げた時期、山には日本古来の民たちが生き、役小角も山で修行をします。
苦難にめげずに民に寄り添いながら、より高い霊的な高みを目指すという姿勢は、様々な逸話が語り継がれる中でも心に強く残ります。