愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

橋下徹大阪府知事の欺瞞的二重基準

2008年11月09日 21時45分48秒 | 地方政治

「国旗、国歌意識して」 橋下知事が高校生に呼びかけ - MSN産経ニュース


 前記事で私は、橋下大阪府知事の教育行政の反住民的な姿勢を批判した。

 義務教育の後は全部自己責任とする橋下知事の言い分はは、日本国憲法以下、法律上もまったく通用しない暴論である。マスコミのインタビューで橋下知事は、高校生は義務教育を終えているということで「子ども扱いはしない」と語った。ところが橋下大阪府知事はその舌の根が乾かないうちにまるで違うことを言っている。

 橋下知事は11月2日の職業系高校生の学習発表会「第18回全国産業教育フェア大阪大会」開会式でのあいさつで、「僕らの世代は日の丸、君が代をまったく教えられていない」といいはじめ、あげくには、

「君たちが受けているのは社会とつながりのある教育」としたうえで、「国歌斉唱時は(歌声が小さかったので)残念だった。社会を意識するためには国旗や国歌を意識しなければならない」と呼びかけた。その上で「いろいろな意見はあるが、それは大人になって議論すればいい

とまで言い放った。

 橋下知事は、高校生達の「私学助成を減らさないで」という訴えを握りつぶすときには、高校生を義務教育を終えていることを以って「大人扱い」し、今度は高校生に日の丸や君が代の斉唱を押し付けていくためには「大人になってから議論すればいい」と高校生を子どもとして扱っている。

 橋下大阪府知事は、私学助成金削減の問題で、低所得の家庭に生まれ育った子に対しては人生の初期において

「諦めと絶望のなかで生きろ」
と冷酷無慈悲な姿勢を臆面もなく見せつけ、
日の丸や君が代を押し付けるために、
「お前達は子どもだからつべこべ言うな」
と言わんばかりの強権的な態度にうってでた。「大人になってから議論すればいい」とこのような場面でわざわざ言うのは、高校生に対して何も言うな、といっているのと同義である。

 法律家にとってもっとも大切な資質のひとつとしては、自分の考え方、発言に一貫した論理を持ち、自己の発言に対して明確な責任感を持つ、ということがある。場面によって、都合よく論理をすり替え、まるで違う論理を持ち出す橋下知事には大阪府の知事としての資質はもとよりジュリスト(法律実務家)としての資質のほどを根底から疑わざるを得ない。

 私は、橋下知事の言動を知れば知るほどに、彼が権力犯罪者、民主主義破壊者としての特質とファシスト的な特質を持つ人物であるとの認識と確信を持つ。

 東京都の石原慎太郎、大阪府の橋下徹というが如き人物が地方自治体の首長となり、この類の人物があたかも強い指導者であるかのようにもてはやされる風潮は、日本型ファシズムの危険性が草の根のレベルで迫っていることの現れである(強権的なのと強い指導者であることとはまったく別物である)。私たち国民は、日本型ファシズムの危険性について恐れる必要はないが、どんな小さな現われにも決して過小評価することなく不断の警戒心を強めていかねばならない、私はそのように確信している。


日記@BlogRanking

橋下徹大阪府知事=権力犯罪者=民主主義破壊者

2008年11月09日 19時56分31秒 | 地方政治

 橋下大阪府知事は大阪府における私学助成金28億円削減問題で教育の機会均等が損なわれる、高校へ通うことが困難になるという高校生の声を握りつぶした。憲法、教育基本法を正面から蹂躙する姿勢は、権力犯罪の域に達している。橋下知事の言い分は、憲法、教育基本法などの教育法規に真っ向から反している。

 橋下知事は、テレビでも報じられたが、高校生との討論の直前にマスコミのインタビューに「子どもたちのたわごとみたいにならないように……」と言っている。高校生達が大阪府による私学助成金28億円の削減について自らの生活状況などを訴えるなかで知事に直接交渉に出た。このことに対して冒頭のようなことを発言すること自体に橋下知事が高校生の切実な訴えに聴く耳を持たない姿勢が如実に現れている。

 「自己責任」論は、権力支配層・為政者が好んで使う論理だ。なぜならば、「自己責任」論ではすべてのことが彼あるいは彼女の責任に解消されて自らの政治責任一切を回避できるからだ。同時に、権力支配層・為政者にとって「自己責任」論は、国政においては国民の声を、地方政治においては住民の声を握りつぶしていくためにもっとも手っ取り早く使える論法である。橋下知事も御多分にもれずといったところである。


 橋下知事は、高校生達の訴えに対して「日本は自己責任の国である」と続き「完全に保護されるのは義務教育まで」と言っている。また、「なぜ公立高校を選ばなかったんだろう」と言っている。報道では、橋下知事がこう反論と伝えているが、橋下知事が高校生達にしたのは、反論ではなく、問題のすり替えである。同時に、法律の根本をふみにじるようなでたらめなことを橋下知事は言い放っている。

 大阪府が私学助成金を28億円削減することによって生じる本質的な問題は、高校生の家庭の経済力により高校へ通うことが困難になる、悪くすると退学せざるを得ない高校生が出るという、教育の機会均等が損なわれる、というところにある。なぜ、彼らが公立高校ではなく私立高校へ進学したか、ということは枝葉の部分であって事柄の本質ではない。また、交渉しに来た高校生達が中学のときに担任の教師に何を言われたか、ということは問題の本質ではない。橋下知事は、高校生達が私立高校へ通っていることなどを口実にして、あたかも彼らが公立高校ではなく私立学校へ通っていることが問題であるかのように、問題をすり替え高校生達や広範な国民、住民を欺瞞している。

 橋下知事は、「完全に保護されるのは義務教育まで…後は自己責任」という旨の発言をした。この発言自体が法律を知ってか知らずか、教育基本法ともまるで違うことを言っている。以前の、記事の投稿で教育基本法(現在の教育基本法は反動勢力により改悪されているが)の引用をしたが、ここでも改めて該当条文を引用しよう。

 教育基本法
 第4条1すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のあるものが、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的な理由によって修学が困難なものに対して、奨学の措置を講じなければならない。

 
上記の条文は日本国憲法第26条を受けて成り立っている。

 日本国憲法
 
第26条1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 教育基本法と日本国憲法の該当条文を読んでいただければ、経済的な要因で教育を受ける機会から排除されないように法律の裏づけを持って、国家が教育政策を作成し、実行しなければいけないことを読み取れるであろう。日本国憲法第26条?でわざわざ義務教育を無償とする、という規定がある事を前提として教育基本法第4条第3項において
「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的な理由によって修学が困難なものに対して、奨学の措置を講じなければならない。」としているのは、貧しい人が教育課程から排除されないように保護の対象としているのを義務教育だけではなく義務教育終了後の各種高等教育を視野に入れているからである。橋本知事の「保護されるのは義務教育まで」というのは、成り立ちうるけれど不当だ、というのではなく、明らかに間違い、でたらめな暴論である。さらに、経済的な要因により、教育の機会均等が損なわれていいのかどうかを、義務教育を終えてから、壁だとか、社会人になってからも定員だという論法は、悪質な論理のすり替えである。なお、交渉に臨んだ高校生達は試験を受けて高等学校に合格して学校に通っているのだから、技術的な法解釈のいかんにかかわらず、少なくとも高等学校に通う能力を有している。高校受験の時に中学の生徒が見る偏差値などは相対的なものでしかない。よって、こういうのは問題の本質とは関係ない。

 日本国憲法や教育基本法で言及されている「能力に応じて」ということに関して、どう考えるべきかをここで簡単に述べておこう。

 「能力に応じて」というのは、人間としての発達の段階にふさわしい教育を受ける権利を国民は有する、という意味である。偏差値や学校の成績などの尺度で「能力」を決め付けて、相対的に成績の良くない子を教育課程から排除してもいいというわけではない。橋下知事の問題とは直接は関係ないが文部科学省が「新学力観」と称して「できないのも個性」とうそぶき成績の芳しくない子を必要な教育を等しく受ける機会から排除する口実を作ろうとしているが、これは日本国憲法や各教育法規を意図的に曲解したものである。かような、法の正義から背を向けたことは許されない。

 日本国憲法に始まり教育基本法といった教育法規で国家や地方自治体に、教育の機会均等の措置を講じることを義務として課しているのは、民主主義を守り、発展させるためである。主権在民の民主国家において、国家の政治のあり方を根本的に決定するのは国民である。現在の日本では議会制民主主義が採用されている。言うまでもないことであるが、国会や地方議会の議員、都道府県及び市町村(特別区)の長は、選挙を通じて国民・住民の代表者としての信託を受けて職務に励む。国民が主権者として自覚的に行動できるためには、それぞれの社会発展の段階に応じた基礎的な教養が必要である。読み書きすらできない国民がもし国家の構成員の多数を占めるとすれば、議会制民主主義、主権在民といってもなんのありがたみもない無意味な空文句であろう。また、主権者である国民が国家、社会の形成者として自覚的に行動できるためには、社会の仕組みなどの基本を知っておく必要がある。だからこそ、憲法以下各教育法規で以って国家及び地方自治体に経済的な理由―特に生まれ育つ家庭という本人の努力によりどうにもならない要因―により、国民・住民が教育課程からの排除を受けないように必要な施策を講じる義務を課している。

 教育を受ける権利について誤解のないように、ここでそもそも論に立ち返っておこう。国民の教育を受ける権利の保障に関して民主主義の維持、発展のため必要である旨、私は述べた。教育を受ける権利は、すべての国民が人間らしく生きるために必要と言うことであって、国家や地方自治体のため、ということではない。民主主義というのは個人の尊厳を守るとということが考え方の出発点であり、結論である。教育を受けることは、すべての人にとって自分自身の成長・発達に欠かせない。自らの潜在的能力を開花させ、発達させていくことは、人間の本源的かつ正当な欲求である。それだけにすべての国民に教育を受ける権利を保障することが民主主義の根幹をなす。すべての人は個人として尊重され幸福に生きる権利があり、この権利は公共の福祉に反しない限り最大限に尊重されなければならない(憲法第13条参照)。貧困による教育課程から排除される人がいるということ自体が憲法第25条、第26条に違反する状態である。憲法第25条は、社会保障法が主としてかかわってくる条文であるがだからと言って教育を受ける権利と無関係と言うわけではない。憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活をする」ことを国民の権利として明確に位置づけている。たんに生存できればいいということではない。教育をまともに受けられないようでは、正常な社会生活を営み社会的に孤立せず、健康で文化的な生活への最低ラインすらおぼつかないことは火を見るより明らかである。

 以上のことから、教育を受ける権利は、古典的に民主主義を維持・発展させていくだけではなく国民が人たるに値する生活を営む権利を守るという、社会権としての性質を同時に併せ持つということがわかる。

 橋下知事は、「良いものを選べばいい値段がついてくる」と公教育をあれこれの商品と同列に扱っている。資本主義社会においてはほとんどのものが商品化されうる。教育もサービス労働すなわち役務の提供という形で商品になりうる。しかし、日本においては、日本国憲法第26条、教育基本法第4条などで公教育から市場原理を締め出すようになっている(現実の政治において支配層が公教育において市場原理を持ち込もうと策動しているのでさまざまなひずみが出る。)。学校教育法においては、幼稚園から大学にいたるまで学校を設置できるのは国、地方自治体、その他法において認められた法人(学校法人)だけであり、要件自体が厳しく規定されている。そもそも、日本において法律において定められる学校は公の性質を持つと位置づけられている(教育基本法第6条
)。よって、高等学校のように学校教育法で定められている学校を市場に出回る商品と同じ扱いをするのは、明文上教育基本法に明らかにそむいている。

 日本国憲法においてすべての公務員は日本国憲法を擁護しなければならない(憲法第99条)。

日本国憲法
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


 憲法及びこれを具体化する法規を正面から蹂躙する形で高校生達の訴えを握りつぶした橋下知事の行為は、権力犯罪の域に達している。また、教育の機会均等から青少年を排除する政治を行うことは、民主主義を破壊する最悪の行為である。


 そこで、私から橋下徹大阪府知事に以下の烙印を押しておこう。

権力犯罪者

民主主義破壊者




激励先

 日本共産党大阪府委員会

 大阪革新懇

抗議先

 大阪府

 橋下徹大阪府知事


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