1923年9月1日、言うまでもないことかもしれませんが、関東大震災の日です。小学校、中学校、高校に通っていた頃は、9月1日には必ず避難訓練をしたように記憶しています。
関東大震災の日には、当時の日本の暗部ともいうべき事が噴出しもしました。この一つの現われが亀戸事件です。亀戸事件では、私が住んでいる江戸川区の隣の江東区では南葛労働組合の理事であった川合義虎氏が特高警察につかまり、拷問によってその日のうちに殺されました(川合義虎氏は、現在の日本民主青年同盟の前身である日本共産青年同盟の初代委員長であり、同時に前年の日本共産党創立時からの党員でもありました)。
亀戸事件については、日本共産党がホームページに解説しています。罫線以下、党中央委員会ホームページからの転載。
〈問い〉 関東大震災直後に起きた亀戸事件とは?(山梨・一読者)
〈答え〉 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」(内務省警保局長から各地方長官あての電報)としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。
前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。
9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。
同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。
「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)
〈参考〉『亀戸事件~隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)
〔2007・9・1(土)〕
【転載元】関東大震災直後の亀戸事件とは?
関東大震災の日には、当時の日本の暗部ともいうべき事が噴出しもしました。この一つの現われが亀戸事件です。亀戸事件では、私が住んでいる江戸川区の隣の江東区では南葛労働組合の理事であった川合義虎氏が特高警察につかまり、拷問によってその日のうちに殺されました(川合義虎氏は、現在の日本民主青年同盟の前身である日本共産青年同盟の初代委員長であり、同時に前年の日本共産党創立時からの党員でもありました)。
亀戸事件については、日本共産党がホームページに解説しています。罫線以下、党中央委員会ホームページからの転載。
〈問い〉 関東大震災直後に起きた亀戸事件とは?(山梨・一読者)
〈答え〉 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ…」(内務省警保局長から各地方長官あての電報)としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。
前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。
9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。
同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。
「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)
〈参考〉『亀戸事件~隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)
〔2007・9・1(土)〕
【転載元】関東大震災直後の亀戸事件とは?