愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

主張 米の対キューバ封鎖 中南米と対等の関係築けるか 

2008年12月09日 23時07分40秒 | 国際政治・経済
2008年12月9日(火)「しんぶん赤旗」

 
中南米二十二カ国が参加する「リオ・グループ」がキューバの加盟を承認しました。「(同グループは)より豊かで、強化された」と議長国のメキシコ外相は述べています。中南米諸国は自立した地域づくりを進める中、米国によるキューバ孤立化の押し付けを拒否し、米国に中南米との道理ある対等な関係の構築を迫っています。

 米国で来年一月に発足するオバマ次期政権は世界とどんな関係を築くのか。それをみるうえで、米国が「裏庭」とみなしてきた中南米との関係見直しは大きな意味をもっています。対キューバ関係がその課題の一つです。

一貫した干渉政策

 キューバは来年一月一日、革命から五十周年を迎えます。歴代米政権は一貫してキューバを敵視し、キューバの体制転覆を企ててきました。意にそぐわない政権を認めない米政策は、キューバの民族自決権を踏みにじる内政干渉であり、国連憲章に反したものです。

 いまなお干渉の最大の道具となっているのがキューバへの経済封鎖です。米議会が一九九六年に制定した「ヘルムズ・バートン法」はあらゆる禁輸措置を法制化し、強化しました。欧州諸国など第三国にも禁輸を強制し、国際法違反と批判されてきました。正式名称(「キューバ自由民主連帯法」)が示すように、キューバの「体制転換」を目的に掲げています。

 ブッシュ米政権は八年の任期中貿易や渡航、送金の制限などの措置を強化してきました。米政府内に「自由キューバ支援委員会」を設置し、「キューバの体制転換を急がせる」措置を推進しました。ブッシュ大統領自身、「米国が実施している(対キューバ)政策のすべてはキューバ国民に表現の自由の機会を与えるためのものだ」と公言してきました。

 しかし、こうした路線によって国際的に孤立化したのは、キューバではなく米国の方でした。国連総会が十七年間連続で対キューバ経済封鎖の解除を求める決議を採択していることがそれを示しています。今年は決議賛成が百八十五カ国と過去最多になりました。

 米自立化を強めてきた中南米諸国はキューバとの関係を緊密化し、キューバを国際社会の一員として全面的に迎え入れることが域内の平和構築に重要だとみています。米国が影響力を行使してきた米州機構(OAS)へのキューバ復帰を求め、オバマ次期政権に経済封鎖の解除を求める声を強めています。
 
 
欧州連合(EU)も二〇〇三年以来の対キューバ経済制裁を解除し、関係正常化へと動いています。関係の見直しを求める声は米国内でも上がっています。

主権尊重を基礎に

 米ブルッキングス研究所の報告は渡航や送金の自由化、「テロ支援国」指定の解除、外交接触の強化、国際機関へのキューバ加盟に反対しない、などを提案しました。キューバに「体制転換」を求めながらも、封鎖が国際関係の悪化をもたらす中、従来の強硬路線を転換せざるをえないとの判断にたつものです。

 
米国には、中南米はもちろん世界各国と主権の尊重や平等互恵を基礎にした新たな関係を築くことが求められています。対キューバ経済封鎖をどうするのかがオバマ次期政権に問われています。

転載元URL
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-09/2008120902_01_0.html

    ここより以下ブログ管理人のメッセージ
 アメリカのオバマ次期政権が本当に"Cgange"を果たすのかどうかの試金石の一つがキューバの経済封鎖問題です。この問題を今日の「しんぶん赤旗」の主張に簡潔に書かれているので、皆さんにも読んでいただきたく、本文をそのままこのブログに転載しました。

日記@BlogRanking

Che Guevara「ゲリラ戦争」から見る田母神問題

2008年12月08日 22時24分05秒 | 戦争のない世界をめざす
一歩間違えればクーデターの危険

 民主国家において、言論の自由が損なわれる最たる要素は戦争を国家が行なうことです。もう一つは制服組の暴走です。この最たるものがクーデターです。

 私は、夏ころに中公文庫から出版された訳しおろしの「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美都里 訳)を購入して読みました。田母神氏の侵略戦争を美化する論文の問題が浮上したときには、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」という著作でどういうときにゲリラ闘争が正当化されうるのか、という問題に関する著者の基本的な考え方を述べた部分が自分自身の頭をよぎりました。

 「ゲリラ戦争」の著者であるチェ・ゲバラは、ゲリラ闘争を正当化しうる条件について著書において以下のように述べています。

抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持するならば、平和はすでに破らていると考えねばならない。

 また、チェ・ゲバラは「ゲリラ戦争」において以下のことも述べています。

 政府が、不正があろうとなかろうと、何らかの形の一般投票によって政権についている場合、または少なくとも表面上の合憲性を保持している場合には、ゲリラ活動には多大の困難が伴うだろう。非暴力闘争の可能性がまだあるからである。

 クーデターというのは、社会の矛盾が深まるなか支配層の内部でも矛盾が高まり、これを最も強権的な手法で打開しようという動きが強まるなかで発生します。当然、クーデターは非合法の方法であり、同時に支配層自らが支配層としての地位にしがみつき権力の延命を図るために今まで人民を支配するために使用していた憲法体系を軍事力で破壊します。これは、まさにチェ・ゲバラが自身の著作で述べているような、抑圧者勢力自身が制定した法に反して権力を保持する典型例です。

 日本国憲法第99条には天皇、摂政、国務大臣他、すべての公務員に対して憲法擁護の義務が記載されています。この条文があるのは、一般的に権力を担う立場にある人が法の支配をふみにじり恣意的に国民を支配することがまかり通れば国民の人権が根本的に損なわれてしまいます。だからこそ、第99
条が存在します。国民一般に憲法擁護の義務が課されていないのは、そもそも近代憲法の制定権力が国民に由来し、これが国民に由来するのは、国民の権利を擁護するために権力を担う立場にある人を縛るためであり、憲法が国民を縛るために存在する、というのとは違うからです。

99
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 日本国憲法第99条は、国民の人権一般を守るための条項であり、軍事クーデターによって日本国憲法が破壊されることを防ぐために作られたとはいえないでしょう。というのは、日本国憲法が制定された当時は、日本には常備軍が存在せず、また常備軍を創設することが想定されていたとはいえないからです。しかし、現在は日本国憲法第9条に違反する事実上の常備軍である自衛隊という武装組織が日本に存在する以上はこれをふまえて、制服組を暴走させないように私達国民が監視するための条項として第99条を生かすことが現在求められています。

 現在の日本における自公政権は、小選挙区並立比例代表制という死票を大量に作り出す選挙制度、及び選挙時における戸別訪問や公示期間中には候補者カーによる以外の拡声器を使っての選挙宣伝の一切が禁止され、投票日が近づけば近づくほどに候補者が何を主張しているのかという、有権者が投票行動を決める際に一番大事な事を分からなくする暗闇選挙という欺瞞的な制度により権力を保持しています。しかし、それでも、一般的な投票により現行政権は権力を保持しているといえます。また、実際に、公安警察による、日本共産党や民主団体(ここでは日本共産党と協力・共同の関係を持つ各分野の国民運動の団体を指します)への弾圧はありますがこれに対しては日本国憲法を盾に戦えますし、政党で言えば日本共産党が戦前のように非合法扱いされているのではなく選挙に政党としての公認候補を出せる状態があります。そういう意味では、現在の日本は、武力闘争によらない政治変革への戦いを行なうことができます。

 「ゲリラ戦争」(チェ・ゲバラ著 甲斐美登里訳 中公文庫)の巻末で解説を行なっている恵谷治さんは、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」の前提で従えば、と以下のように解説文で述べています。

 冒頭で紹介したゲリラ戦を開始する前提に従えば、21世紀に入った今日においても、ゲバラが闘ったようなゲリラ戦を必要とする独裁社会、全体主義国家は存続しており、今後も出現する可能性は否定できない。

 「ゲリラ戦争」の解説者である恵谷治さんがゲリラ戦を必要とする独裁社会や全体主義国家に関してどこの国を念頭に置いているかは、彼自身が名指ししているわけではないので分かりません。今後も出現する可能性を否定できないことに関しては、私自身なりの考え方に則して(恵谷治さんがどのように考えるかは分かりませんが)言えば、日本が一歩間違えると、政治変革のためにゲリラ戦を必要とする社会になりかねません。田母神氏による論文(「日本は侵略国家であったのか」)における日本が侵略国家でないと、日本史を捏造する妄言は論外ですが、制服組の幹部であった人物が政府の公式見解とまったく違う考えを公職の立場で発表したということ、そういうことを許す状況が日本の政治のなかにあったことは、自衛隊という武装組織が憲法体系に反してクーデターを起こしかねない危険な芽があると考えざるを得ず、このような事態が現実のものとなれば、日本で言論による政治変革への取り組みができなくなりかねないのです。田母神氏の事実上の「言論クーデター画策事件」ともいえる問題は、日本の民主主義そのもの、現在の日本国憲法体系を根底から破壊しかねない危険性を孕んでいるのです。

 私は、チェ・ゲバラの「ゲリラ戦争」を読んでみて、この著作の主要な内容は現在の日本においてはまず役に立たないな、と感じました。なぜならば、現在の日本では公安警察による弾圧(葛飾ビラまき事件など)があり、また選挙制度の欺瞞的なものによる困難があるとはいえ、議会制度に基づくやり方で民主連合政府樹立へ接近できる条件があるからです。

 同時に私は、「ゲリラ戦争」を読んで、武力による政治変革を必要としない社会に生きているというのは、世界の歴史を見渡してみるに及んで本当は幸せなことなんだと改めて感じました。

 世界史を見渡したとき、議会制民主主義が破壊されることによるゲリラ戦が必要になったことについては、キューバ革命を教訓にできます。1953726日フィデル・カストロはモンカダ兵営を武装襲撃します。これはキューバ革命の契機となった事件です。もともと、フィデル・カストロはオルトドクソ党左派に所属していて、議会制度による政治活動を弁護士の仕事をしながら行なっていました。その彼が、武装蜂起を決意したのは米資本と結びついていたフルヘンシオ・バティスタが大統領選挙での敗北が確実になることを悟ったときクーデターを起こして権力の座に着き、バティスタ政権は、当時のキューバ憲法を事実上停止・破壊し、さらには反対派市民への暗殺、抹殺を企てるということに及んだからです。キューバ革命により行なわれた人民によるゲリラ戦の始まりから、議会制民主主義を守り抜くことがいかに大切かということを教訓として汲み取ることができます。また、中米ニカラグアで19797月にはサンディニスタ民族解放戦線が武装闘争の末にソモサ軍事独裁政権を打倒しました。現在ニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線党のオルテガが大統領選挙での勝利により政権を担っています。サンディニスタが現在は選挙で政権を担っているのにかつてはゲリラ戦を行なったのは米資本と結託したソモサ政権が軍事政権であり、民主主義不在の独裁政権で言論による政治変革ができなかったからでした。他にも、世界史において人民が圧政者からの解放を勝ち取るためにゲリラ戦・武装闘争をせざるを得なかったことはいくつもあります(ベトナム戦争もその一つです)。

 今でこそ、かつては革命といえば武装闘争しかないとも言われ、これを正当化する状況が存在していたラテンアメリカでもチャベス政権(ベネズエラボリバル共和国)やモラレス政権(ボリビア)におけるように選挙を通じての政治変革が主流となっていますし、先進国と言われる国々ではやはり選挙を通じての政治変革が常識となっています。しかし、選挙に見られるような議会制民主主義のルールによる政治変革、言論による政治変革が、世界史においていつも常識だったわけではありません。かつての中南米を持ち出すまでもなく、日本においてさえ、本気で誰もが幸せに生きられる社会をつくろうとしたら大塩平八郎が武装蜂起したようなことをせざるを得なかった時代がありました。

 現在の日本においては、言論による政治闘争・政治変革が当たり前ですが、これを可能にしたのは紛れもなく日本国憲法の民主的条項により保障された自由や権利によります。日本国憲法第97条には以下のことが書き込まれています。

日本国憲法第97
この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 日本国憲法第12条には以下のことが書かれています。

日本国憲法第12
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 生まれたときから日本国憲法体制のもとで生きている私達にとって、言論の自由など当たり前のことは、人類の歴史上多大な努力により、実現したものです(日本国憲法第97条)。現在の世界において民族自決権などが当たり前となっていることも人民の長年に及ぶ戦いの成果です。チェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」は、圧政者からの解放をめざした、人民の戦いが生み出した果実の一つです。同時に、政治変革のために「ゲリラ戦争」を闘争の手引きとして使わなくても良くなりつつあるのも人民の戦いにより生み出された果実です。現在私達が日本国憲法に記されている、民主的諸原則が確立する前は、21世紀を生きる私達にとって当たり前のことを勝ち取るために変革を志した人々の血が多く流されました。田母神氏のような人物やこのような人物を輩出する勢力を野放しにすれば、日本国憲法そのものが破壊されうるのです。現在の日本においては、「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用する状況は、存在しません。しかし、私達国民が民主主義を守り抜くための不断の努力(憲法第12条)を怠り、極右の民主主義破壊勢力(ここでは靖国派を私は意識しています)が跳梁跋扈するようになり、日本型ファシズムの体制が生まれようものなら、現在において当たり前のことを取り戻すのに私達国民はチェ・ゲバラの著作「ゲリラ戦争」を戦いの手引きとして活用し戦い、多くの血を流さざるを得ない、ということになりかねません。そのような時代に日本の社会を逆流させてはいけません。

 日本と世界から貧困をなくしていくべく、チェ・ゲバラの志を継承しながらも、しかし、チェ・ゲバラが闘ったようなやり方を必要としないのが一番いいのです。

 現在の日本は、思想・信条、世界観の違いを超えて多くの人々が民主主義を守るために結束して、日本国憲法の平和と民主主義の原則を守り、日本社会の隅々にまで生かしていくべきときです。日本国憲法に記された民主主義と平和の原則を生かし、靖国派など民主主義を破壊する勢力を国民の運動と世論で包囲して孤立させ、そしてこの類の勢力が日本社会に二度と跳梁跋扈しない社会をつくっていこうではありませんか。


日記@BlogRanking

忘年会の季節―飲みすぎ注意!

2008年12月07日 00時35分05秒 | 雑記帳
 昨日(日付が変わっているからおとといというべきかも)職場の忘年会がありました。帰りの電車で泥酔状態になって足腰立たなくなり(意識があるかどうかも怪しい状況)、連れの人に両脇を抱えられながら電車を降りていく人を見かけました。この状況は、一歩間違うと急性アルコール中毒の危険性すらある状況です。やはり、万が一…ということになると、本来楽しむべき行事が台無しになります。

 職場に限らず、サークルや各分野の国民運動の団体でも忘年会が行なわれます。急性アルコール中毒で倒れるなどということが起きると本当に悲惨です。まして、死亡する人がでるということはあってはいけないことです。これから、あるいはすでにやっている人もいるでしょうが、最後まで楽しくひと時を過ごすため自分が飲みすぎないことはもちろん、お酒を飲めない人には「一杯くらい」と無理に進めないようにしましょう(本当に飲めない人にとっては、お酒おちょこ一杯程度でも毒にしかならないです)。飲める人も限度を超えた飲み方をして、連れの人に迷惑をかけないようにしましょう。

  追伸
 日本共産党は、忘年会を行ないません。日本共産党の支部などが今の季節に行なうのは忘年会にあらずで望年会です。日本共産党の支部などが望年会を行なうのは、今年を力を合わせて戦ったことを仲間同士で労をねぎらい、未来への展望をきりひらいていくことをお互いに再確認し、日本と世界の未来を明るいものにするために新しい年も戦うための団結を高めるためです。だから、日本共産党の立場では、忘年会ではなく望年会を行なうことになります。

日記@BlogRanking

カメラ目線?の猫(BlogPet)

2008年12月06日 10時53分33秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
Aleido Che Guevaraの「カメラ目線?の猫」のまねしてかいてみるね

いつも買い物に行くスーパーの呼びかけに行くスーパーの呼びかけに返事した猫です!

*このエントリは、ブログペットの「キキ」が書きました。

続・「財源」論のうそとペテンのテクニックを斬る!

2008年12月03日 08時12分23秒 | JCPの活動、国民運動、国内の政治・経済等
 政府・自公政権は、特に社会保障・福祉の充実など国民生活を守り向上させるための要求を握りつぶす論理としてなかば、紋切り型に「財源がない」という論理を繰り出してきます。しかし、これは自らが国民生活の向上を図ろうという気がないことを覆い隠すためのごまかしです。

 国家財政のことを考えるときにはまず、国家というものがどのようにして行政活動に必用な金銭を調達し(税制のあり方)、どのようにして調達した金銭を使うか(税金の使い道)ということを見ることが大切です。この論点から切り離したところに「財源」があるわけではありません。

 消費税が導入されたのは竹下内閣のときでした(1989年4月1日施行)。
このときの理由が「福祉」でした。消費税法が施工されて20年が経ちますがこの間、社会保障・福祉制度が少しでも良くなったでしょうか。答えはあきらかに"NO"です。制度は、悪くなっています。例えば、健康保険法を見るだけでも一目瞭然です。昔は、健康保険の被保険者本人は、病院、診療所で受診しても窓口負担はありませんでした。私が物心ついたときにはすでに病院、診療所での窓口負担は1割でした。その後、病院、診療所での窓口負担が2割となり、2003年(平成15年)4月1日からは、3割の窓口負担となっております。その他にも差額ベッド代がもたらされ、今となっては世界にも例のない高齢者への医療差別、後期高齢者医療制度(長寿医療制度という名の姥捨て法。)が施行されています。年金制度を見ても改悪されているのは、明白です。昔は、夏や冬の一時金からは厚生年金保険料は徴収されませんでしたが今では徴収されます。徴収される額に見合って年金制度が充実したというならまだしも、実態はマクロ経済スライドの導入に見られるように国民から徴収する保険料を多くしておきながら、いざ給付する段階になって年金給付の水準を自動的に低く押し下げる仕組みを歴代政府は作っていきました。

 上記のことを考えるだけでも、社会保障・福祉の「財源」を口実にした消費税の導入やこれを増税する論理のでたらめさが明確に分かってきます。

 根本的な問題としてあきらかにしておくべきことがあります。それは、消費税等逆進性の強いものを社会保障や福祉の「財源」にしよう、という発想が根本的に間違っているということです。社会保障・福祉制度の役割として、所得の再分配というのがあります。

 では、なぜ所得の再分配が必要なのでしょうか。

 それは、資本主義社会においては、市場における競争の結果、いわゆる格差というものが拡大するからです。ここで言う格差とは、年収1億円の人と年収10億円の人がいる、というような相対的な格差ではなく、極めて高額な所得を得る人がいる一方で日々を生きることにすら困窮する人がいる、という絶対的な格差のことです。日本共産党が「貧困と格差の拡大」という言葉を使うのは、日本において貧困という絶対的な格差が存在していてこれを正面から問題視しており、これをなくすことを広範な人々の訴えているからです。話がそれましたが、貧困の拡大は、犯罪の増加、その他さまざまな社会不安をもたらします。そのような社会においては、まず労働者階級の戦いが広がっていきます(もちろん自動的にということではないです)。状況いかんによっては、労働者階級の戦いは、革命につながります。こういう事態は資本家階級にとって由々しきことです。こうして、労働者階級は、階級的利益を守り、向上させるべく社会変革を志向し、資本家階級は資本主義社会の延命を図るために、世界のさまざまな資本主義国家においてさまざまな社会保障・福祉制度が生まれてきます。つまり、労働者階級と資本家階級との妥協の産物として現在における社会保障・福祉制度などの所得の再分配の仕組みが存在するわけです。

 労働者階級と資本家階級とでは相容れない階級的利害を持ち、それゆえ社会保障・福祉制度にたいする階級的思惑はまったく違いますが、社会保障・福祉制度そのもの必要性を完全に否定することが資本家階級でさえ今日の資本主義社会においてはできなくなっています。

 それでは、所得の再分配にふさわしい税制のあり方はどのようなものでしょうか。

 各種社会保障・福祉制度が所得の再分配の機能を果たすためには、税制のあり方が累進課税制度を基本とする応能負担の原則によらなければなりません。累進課税制度というのは、課税所得(収入から社会保険、そのほか法律で定められた各種支払い、事業を営んでいる人(法人含む)の場合事業経費を差し引いた額)の多い人ほど納税金額の絶対的な額及び課税する率を高く設定した税法体系です(もちろん最高税率は法律で定められています)。所得が低い人の場合は治める額はもちろん所得に対する税率そのものが低く抑えられています。所得が高い人は、それだけ担税力が高いわけですし、また、所得の高い人や企業は自身の行動に対する社会への影響が高いわけです。だからこそ、自身の行動による社会への影響に見合った責任の一端を納税により、所得の高い人、企業には社会的責任を果たしてもらう、これが累進課税制度の本旨です。累進課税制度と各種社会保障制度・福祉制度とが有機的に結びつける施策を国家が行なえば、累進課税制度が社会が社会を守る仕組みとして、所得再分配の役割を果たしていきます。

 所得税や法人税のような累進課税制度と対照的に逆進性が極めて強いのが一般消費税です。現在の消費税は、日常生活で購入するほとんどのものに課税されるので、一般消費税としての性格を持っています。逆進性が強いというのは、低所得者ほど負担が重くのしかかっていくということです。現行の消費税は、食料品など人々が社会生活を営んでいくための生活必需品にまで消費税が課せられます。生活保護世帯、そのほか所得が低い人でも生きていくためには、当然食料品を購入するわけですし、そのほかにも最低限の生活必需品(洗剤や衣料品、その他雑費)を購入せざるを得ません。生活保護を受ける状態は、あきらかに担税力に欠けるといえます(生活扶助から税金などは引かれないし、国民年金の保険料は法定免除を受けます)。ところが、消費税は生活保護を受けている人やそのボーダーライン上にいる低所得者が生活必需品を購入する場合にも、同じ値段のものを買えば、高額所得者と同じ金額の税金を課せられます。生活必需品、特に食料品は生きていくためには買わざるを得ないわけですから、必然的に所得が低い人にほど重くのしかかっていくわけです。


 政府・自公政権は、社会保障を口実に消費税増税に固執しています。民主党も確かに、11月30日の首相の(3年後の)消費税増税発言を批判してはいるものの、消費税増税を明確に批判していません。さらに、民主党は財界の前では消費税増税に関して「いずれは必要」という態度をとっています。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-09/2008110901_02_0.html

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-01-06/02_02.html

 消費税が生活必需品にまで容赦なく課税されることから、社会保障や福祉の財源とするというのは、本末転倒です。応能負担の原則に即した累進課税制度を税制の基本とし、社会保障を国家予算の主役にすえてこそ社会保障・福祉制度が所得再分配の役割を果たし、貧困の解消へ一歩近づけていくのであって、逆進性の極めて強い消費税をもっぱら社会保障・福祉制度の「財源」とし、予算の主役を社会保障・福祉にすることに背を向ければ、社会保障・福祉制度の所得再分配の機能が根本から損なわれてしまいます。政府・自公政権や民主党のように社会保障・福祉制度の「財源」を口実にするようでは、貧困と格差の拡大から国民生活を守る立場とは言えず、むしろ真逆の立場にあると言わざるを得ません。

 消費税が導入されて以降、国民から徴収された消費税額は延べ189兆円にもなります。一方で大企業や大銀行への優遇による法人税の減収額は159兆円にもなります。結局のところは、大企業や大銀行からの減収分が消費税によって穴埋めされているわけです。

 国家予算は(他の費用についてもいえることですが)、国会の議決を経て決定されます。社会保障・福祉予算は国会での予算審議の過程でどのくらいの金額を回すかが決まってくるのです。消費税がどのくらいはいるから社会保障・福祉予算はいくらくらいになる、というような審議のされ方が国会で行なわれているのではありません。

 また、小泉内閣の骨太方針によりこの5年間で社会保障費が毎年2200億円も削減されてきました(社会の高齢化による自然増分まで減らしたということ)。小泉構造改革の名のもと、社会保障費を削減しておいて「財源」がないという言い分は欺瞞に満ちたもの以外のなにものでもありません。
NPO法人もやいの事務局長・湯浅誠さんが著書「貧困襲来」(山吹書店)で政府が「財源」論を持ち出すのは、ほかにまともな理由がないからだと指摘しています。私達は、政府・自公政権や民主党の「財源」論という雑音に惑わされずに、生活を守り向上させていくために必要な予算を回すことや、必要な法律の制定及び改正を遠慮なく要求すればいいわけです。

 橋本内閣のときに、消費税が3%から5%へ引き上げられたとき、国民の消費者マインドが一気に冷え込み、せっかく回復しかけた景気をどん底に陥れられました。このために橋本は定率減税を取り入れました。このときに、法人税の実効税率を55%から40%へ、所得税や相続税の最高税率を70%から50%へ引き下げました。その後、定額減税が廃止(2005年・平成18年)されましたが、大企業や高額所得者への優遇措置はそのままにされました。この数年間だけでも、私達庶民はしっかり事実上増税を押し付けられました。大企業や高額所得者への税制上の優遇措置を棚上げして「財源」がないから消費税の引き上げをしなければならない、という言い分は通用しません。

 政府・自公政権は、歳入の面では大企業や高額所得者への優遇を棚上げにし、歳出の面では在日米軍への再編費用(3兆円)、日米安保条約上の根拠さえない「思いやり予算」(2083億円)を絶対不可侵の聖域とし、社会保障・福祉を狙い打ちにして切捨てをもくろんでいます。こういったことを覆い隠すためのごまかしと国民に諦めを植えつけるためのイデオロギー攻撃と言うのが政府・自公政権が繰り出してくる「財源」論の欺瞞的本質です。

                    おわり

日記@BlogRanking