先日、仕事からの帰りが少し遅くなったので、母を少し心配させました。
と、いうのもその前に車を運転していて、猫の事を考えていて曲がり角を通り越す、というミスをしたので。
事故でも起こしたのでは、と心配したらしいです。
(注:私は粗忽なので、慣れない道で通り越す事は普段もよくあります)
で、何をしていたかと言いますと、帰り道に雛罌粟(ポピー)が綺麗に咲いているところがあると聞いて、そこに寄っていたのです。
ほんの10分ほどだと思っていたのに、時計を見たら夢のように30分が過ぎていました。
なんだか狐につままれたような気分。
でも、花をぼおっと見ていたら、頭がからっぽになったようで、なんだか気持ちが良かったです。
眠れない。
たぶん、何かがちょっと狂ってしまったんだ。
自分が自分じゃないみたいで、ギクシャクする。
もともと、ごく小さい頃から、眠らない子どもだった。
保育園のお昼寝の時間にどうしても眠れず、しかたないので寝たふりをしたら、先生に“タヌキ寝入りしてる!”と怒られた。
《タヌキ寝入り》という言葉をその時覚えた。
実は不眠症は母譲りで、母も“嫌なところが似た”と言っていた。
母は少女の頃、何日も眠れず衰弱してしまい、とうとうお祓いをしてもらったそうだ。
母の年齢でもお祓いとは前時代的、と思ったけれど、不思議なことに効いたそうな。
(スピリチアルなものを全否定はしない私ですが、たぶん私も似ていますが、母は暗示にかかりやすいせいではないかと)
私も高校生の時眠れなくなり、“よし、いっそ、眠くなるまで起きていよう”と思ったら、夜が明けても少しも眠くならなかったことがあった。
良いこともある。授業中に居眠りしたこともないし、電車を乗り越したこともない。
でも、体力を消耗するし、今日もまた眠れないのでは、と思う不安は結構なものだ。
受け入れるしかないんだ、とも思う。何も思い当ることがなくても、躓いたように突然眠れなくなることもある。
18年も一緒に暮らした家族同然だった猫が、逝ってしまったら眠れなくなって当たり前。
それでもうつらうつらしたとき、再び猫は夢に出てきて、膝に座ってくれた。
若く元気なときでなく、痩せてしまった姿だったのは悲しかったけど、夢の中で何故かなんだか申し訳なさそうに、遠慮がちに膝に乗ってきたのを思い出すと、ちょっと微笑んでしまった。
今夜は、すぐに眠れるといいのだけれど。
以前猫友人(と、言っていいのかしら)の方が、お友達の猫を送るとき、『鳥の歌』という曲で送った、ということを記事に書いてらっしゃいました。
そうして、“鳥の歌はカタロニア語で聴くのがいい”とも教えていただきましたので、そのあと図書館からホセ・カレーラスのアルバムを借りてきました。(カレーラスならカタロニア語で歌っているのでは、と……)
でも、実際のお別れの日は、まず、仕事に出かけなければならなかったのですが、前日まで聴いていたテンションの上がるCDは外し、気持ちを落ち着かせるためにクラシックに替えました。
そのなかで、一番その時の気持ちにひっかかったのは、ポムベルクの『望郷のバラード』でした。
そして、次の日お墓を作るときは、私の頭の中で繰り返し響いていたのは、音楽ではなく詩でした。
アンナ・アンドレーヴナ・アフマートワの『葬儀』という詩です。
わたしは 墓地にいい場所を探している。
知りませんか、どこか明るいところを?
野原のまんなかはとても寒い。
海辺の岩山は もの悲しいし。
それにあの女(ひと)は、ずっと安らかに暮らしてきたし
太陽の光を 好きなのだから。
私はその墓のほとりに庵をあもう。
いつまでも そこをわが家としたい。
いままでずっと、忘れていた詩なのです。なぜふいに思い出したのか不思議でした。
そして、最近、あやに向けて歌うのは、実は、子守唄の『ゆりかごの歌』なのです。
あやが元気だった頃も、他の猫たちにも、よく歌った歌でした。
これと、“ねんねこしゃっしゃりませ”という歌は、ねこ、という言葉が歌詞に出てくるせいか、どの子も好きだったので。
素朴この上ありませんが、私はこれでいいのかな、と思っています。