私の街は郊外の新興住宅地なのだが、車で5分も走れば旧街道があり、
そこには村々の営みや古い習わしが
素朴に脈々と続いている。
小さな医院や歯科、神社や森、棚田、川のせせらぎ、竹藪などがある。
この町には折々の祭があり、人々が
歴史ある八幡さんの社を交代で守っているのである。神主さんは、有馬路から毎月出勤してくるのだそうだ。
「火」に清められるというのを知ったのは、この町の「どんと」からだったと思う。
私はそれからしばらくしてから、奈良のお水取りの素晴らしさを知った。
朝4時スタート。
そして約30分。
一年の穢れや罪もすべてを忘却してしまいそうになる、すごい熱の力だ。熱量だ。
火は上に、上にいく。
高く、激しく熱く燃え上がって、あの人やこの人の頬を温かくオレンジ色に照らしている。
村々のおじさんやおばさん、おばあさん、ちょっとヤンキー風のお兄ちゃんも、この時ばかりは火をじっと見つめて、
何かを心の中で反芻している。
白いエプロン姿のおばさんも、その隣のおばさんも頬を温かくして、火をみている。
懺悔か祈りか、それとも願い事か。
誰もが神妙に何かを思い、
何かを描き黙祷する。
しばらくしてから、火に清められた頬と頬を寄せて、会話し、笑いはじめる。おだやかに火をみつめるようになる。
小さな子どもたちやそのきょうだいたちも、焼き芋やお餅の焼けるのを待ちながら、火のそばで声を殺すようにして遊んでいる。
誰もキャッキャッ!といわないのは、この火の清浄さを知っているからか。
火が燃えていくと、神社の石段をあがってお詣りにいく人も。
私もそのなかに混じってもう1度、新年のお詣りにいく。
この町の「どんと」は1月の成人式に一番近い祝祭日の、4時から毎年執り行われている。
聞くところによれば、1週間前くらいから神事を執り行い、土地を清め、
その後、数日かけて柱をたて、竹やかれ柴などで5~6メートルの円錐形をつくり、
仕上げに化粧用の竹を並べてその上から縄を巻くという。
お正月飾りには、伊勢海老の身をくりぬいたものや、
串柿、みかん、炭、田作りをつけて仕上げるのだそうだ。
朝4時からの火は、正午になってもまだまだ燃え続けていた。
街の消防団が監視するなか、時折、
新興住宅地からの若い夫婦が正月飾りなどを、もってやってきた。
私が、どんとに行くようになったのは、10年前くらいからかしら。始めてみた時にはあまりに立派などんとのやぐらにビックリした。
この火をみてからは、正月飾りや床の間飾りをゴミ焼却に一緒に出すのがためらわれて、
毎年、寝坊しても途中から出向くようになった。
ある時には、仕事の原稿を燃やしたこともあるし、Nの成績や模試を書き初めと一緒に火にくべたこともある。
新興住宅街から、隣町に時々こうしてやってくる私はある意味、異邦人かしら。
お正月や地蔵盆、秋祭、受験祈願、散歩がてら。
時間軸を飛び越えて、新しい街から
旧街道へわたり、この八幡さんに会いに来ては、
再び、コンクリートの街(ニュータウン)にかえって、コンビニでアイスなどを買い、
また仕事をして夜になれば、食事の準備などをはじめる。
夜、社の提灯に再び火が灯る。
外はマイナス1℃だ。