1月7日(木曜日)暴風、風雪のち粉雪
奥の部屋のエアコンが付きっぱなしになっていたので夜中の3時に起きて消した。それからトイレに行ったり外を見たりとしたせいで寝付かれず、うつらうつらしたところで外が白んできた。
あいかわらず風は強い。6時半。
カーテンをあけたら、薄っすらと屋根や電柱に雪が積もり、ゴーゴーと風が吹き荒れ、細い雪が斜めに降っていた。まだまだ強くなりそうだった。参拝ができるのか。だんだん心配になってくる。
朝食前にお風呂に立ち寄る。熱い湯に浸かりながらも窓ガラスのむこう、舞う雪ばかりをみていた。竹はあいかわらず揺れまくっていた。
昨日のダイニングで朝食。白酒の食前酒のあと、おせち風のお膳が並ぶ。だし巻きがおいしかった。
丁寧につくられた食事をゆっくりと時間をかけていただいた。
9時。外へ出るのを躊躇する大風だったが、勇気を出して「竹野屋旅館」の玄関を出る。
正面門まで2分ほどだが、まっすぐ歩けないほどの強風。大丈夫? といいながら皆で身を寄せ合って進む。
鳥居をくぐると、なんと!立ち入り禁止の札にロープがしっかり掛かっている。先に行くな!といわれているよう。
大ショック!
せっかく、参拝のために宿を予約したのに。残念で諦めきれない。Nがしきりにネットを検索している。
出雲大社の隣「古代出雲歴史博物」(展示ディスプレイ)の案件を担当したパパさんが、「出雲大社の裏門を知っている」というので、Nと一緒に腕をからませて付いて歩く。が、そこも閉鎖。無理か。諦めかけていたところ、Nが出雲大社の社務所へ電話がつながった「裏の○○からなら入れるそうよ」と。どうやら正面門は松が倒れてきたら危険なので、閉鎖したらしい。
ほっと安心して裏へまわる。猛吹雪の中、出雲大社の境内へ。
するとこれが不思議だけれど、風がやんだ。後ろに控える八雲山が盾になってくれているのだろう。そればかりか雲間から光が差し込んでくる。信じられない現象だった。
手を洗い、御仮殿(拝殿)に。総檜造りで屋根には銅板を拭く、質素で古式ゆかしき拝殿(昭和34年に建築)。御本社をのぞむ。大社造りとよばれる日本最古の神社建築である。
ただ、そこでおしまい。真後ろの素鵞社(そがのやしろ)まではお目にかかれない。ロープが張られもう先には行けなかった。それで、遠くから、柏手を4つ叩いて参拝。最後に神楽殿までいく。また再び本殿を仰ぎ、出雲大社を後にする。
出雲大社を司る大国主大神様は、目に見えない世界、そこに働くむすびの御霊力によって人々を導いて下さる神さまだ。
小さい頃に父母と参拝した思い出も深いが、私にとってはもうひとつ。2017年の宣伝会議「わたしの広告論」という連載ページで、銅版画家の小松美羽さんのインタビュー原稿を書かせてもらって以来、特別な神社として自分の中に深く刻まれていた。(3年越し)
小松さんは、神様の使いとされる神獣の自由闊達な姿ほか、「生死観」をテーマにした独特の画風が特徴の現代アーティストだ。2013年には出雲大社に絵画「新・風土記」を奉納されている。一カ月以上も出雲に滞在されて絵を描き、いろいろな神社をまわるうちに「死生観」が変わったとおっしゃっていた。
「出雲大社の神在祭に正式参拝(2013年)して、お庭まわり(神社参拝)をしていたのですが、突然にパーンと光が差し込んで本殿に当たったのです。それが光の加減なのか何種類もの彩を重ねたような鮮明な彩が私の目に飛び込んできました」。
小松さんはそれまで前世や魂が肉体に入るイメージを、ピュアな光を連想させる白で表現されていた。
黒は人間の業を清算する意味合いによって地獄を表す色だと思い、筆を握ってきたそうだが、出雲大社で見た色と光の織りなす不思議な世界にふれた瞬間から、「生きている人の魂や生き方には必ず彩がある。それを表現することがあの世とも繋がるのではないかと考え、ダイナミックな彩を幾重も重ねる着色技術に踏み出すきっかけになった。宇宙とつながった」と仰っていた。
毎日、本殿近くの社に参拝するうちに、とてもスピリチャルな世界を目でみた、とも言われ、わたしは彼女の声を耳で聞いて文字の中に織りながら、真夜中にぞくぞくっとしたことを覚えている。冷蔵庫やダイニングテーブルや背後で、暗闇からみられている気配を感じた。そして、出雲に行ってみたい(子どもの頃はよく覚えていないので)とずっと焦がれてきたのだ。
小松さんは、それからインドやイスラエルなどの聖地を旅しては宗教を学び、瞑想されたという。
出雲大社の門を出ると、再び、激しい雪が舞い始めた。白いきれいな雪だった。青い松が音をたてる。寒さと風を背に受け、押されるようにして参道に行く。土産物屋へ逃げ込む。そこで「立ち往生にならないうちに早く帰りんさったほうがよいですよ」と店のおばちゃん。
お世話になった竹野屋旅館を後に、出西窯まで車を走らせた。