何十年も昔、敬愛する人に『本音を言うやつは我慢強くない!』と言われたことがあった。
その時、固まったよ 私。
その頃の私は、というより今も多分あまり変わらないんだろうけれど、思ったことは直ぐに口にする。
口にすると言うより出てしまうのだ。頭と口が直結している。書くことで言うと、どうも手も頭と
直結しているらしい。勝手にキーボードの上をカシャカシャと手が動いてしまう。
良いも悪いもあまり深く考えてない。勿論子どもじゃないのだから、人の嫌がるであろうことは
言わないようにはしている。それくらいの常識的ベーシックな分別はあるつもり。
好きだ嫌いだ面白い面白くない難しい苦しい嬉しい腹立たしいこう思ってる。何でもかんでもあけすけに。
ストレートに言い過ぎ。
素直と言えば素直。正直と言えば正直。裏表が無いと言えばそう。嘘もつかないつけない、すぐバレる。
でも・・・こう並べて書いてみると、ゾッとする。これらのこと、今なら良いことだなんて思わない。
むしろいい大人が・・と恥ずかしい。幼い子どもならいざ知らず。大人なら褒められるようなことでもない。
その昔、その人が言いたかったのは、本音をぶちまけた方は本音が言えて楽になっただろう。
でも逆に、聞かされた方はしんどいんだよ、受け止めるのが。ということだったんだと思う。
言いたくても考えて我慢して我慢して、本当にそれを言って良いのか?と。考えてモノを言いなさい。
相手は戸惑うかも。そんな相手のことを慮って、ということだったんだろう。
そーなんだ・・・。そんな風に考えたこと無かった。何でも本音を打ち明ける方が隠しごとが無くて
良いんだ くらいに思っていたんだと思う。絶大なる信頼をおいていたし。
敬愛する人に、自分の考えも及ばないことを言われてびっくりしたけれど、凄い人だと思ったし感心したし、
その言葉は今も私の中にあって忘れない。
何でもかんでも、本音を言えばいいってもんじゃないんだ。正しい訳じゃないんだ。我慢強くないんだ私・・。
初めてお目にかかる世界の人に言われたその言葉に、私は弾かれたようになったのだった。
今の私は、正直であったり裏表がなかったりということに、大した意義を感じない。生きていく上で
それほど大事なことだとも思わない。勿論、嘘をつくのが良いことだとも思ってない。嘘をつかずに
済むのなら、それに越したことはない。正直であることや裏表がないことが美徳である場合もある。
でも正直だからとか、裏表がないからとかが、人を評価する時の大きなポイントになるとも思わない。
大人の場合ね。ましてやそれが自身に依る評価であるならば尚更だ。自分が言うかって話。
他人がその人を評価して正直な人・裏表がない・嘘のない、良い人ですよというならともかく。
正直だったり裏表がなければ何を言っても良い訳では無い。悪気が無ければ何をしても良い訳でも無い。
自分がそれを言うことに依って、誰かを傷つけている場合があるかも知れない。そういうことに
思いを至らせねばならないと思う。
気になる言葉を見たんだよね。
自分のことを完璧な人間とは思ってない人が、だから自分は欠点もさらけ出していると言う。
そしてその人を非難する人たちに対して、あなた方は完璧ですか?と問うている。
う~ん・・・欠点もさらけ出しているからどうだというのだろう?ロジックが解らない。
完璧でなくても、欠点さらけ出しさえしたら何言っても許されると?
完璧じゃなくては何も言ってはいけないと?
それにそもそも、完璧な人って居るの?って話。居たらお目にかかりたいよ。
どんなに素晴らしいと思える人にも、反論する人はいるだろう。認めない人は居るだろう。
世の中に、数字で割り切れること以外、どんなことにも万人が納得するパーフェクトな答えなど
あろうはずがない。
人は感情の動物だ。人間て素晴らしいと思う反面、愚かなものだとも思う。
”人間は考える葦である”とパスカルは言った。そう、人には”考える”という得難いものが備わっているのだ。
それをしなければただの葦。弱いものでしか無い。
考えようということ。自分が良かれと思っていても、他の人にはそうでない場合もある。
人によって考え方も千差万別。自分の考えが正しいと思うことは、それを他人に押し付けることは、
暴力でしか無い。正論も正義も世の中に受け入れられなければ、ただの独り善がりだ。
口では何とでも言える。嘘は言ってないと言いながら、その言葉が大嘘の場合もある。
要は中身。心の問題だ。口では上手く言えなくても、黙って人を他人を思いやり心沿わせ寄せられる人がいる。
態度にそれが現れる。そして周りの人はそれをちゃんと見ている。分別のある人は正しく理解しているのだ。
正直であるとか裏表がないとか欠点をさらけ出しているとか、本音だから本心だから。
そんなものは ”ふうん・・・”だ。”だから何?”ってこと。ただのイクスキュースとしか思えない。
私は自分勝手でワガママな人間だから(ああ、これも言い訳だよね💧)相も変わらず自分の正義というものを
振りかざしているだろう。間違ったことを言っているかも知れない。周りの人はホント迷惑だと思う。
でも私には、『それはあなたの正義でしょ!?それが正解って訳ではないんだよ』と諭してくれる人がいる。
言われてちょっと立ち止まる。だからそれほど大きな過ちや失敗をしなくて済んでいるのかも知れない。
ありがたいことだ。
私らの歳になれば皆、それなりの人生を過ごして来た。多くの経験の中で色んなものを身に着け、知識を得、
そして今生きる糧にしている。どうやれば賢く快適に過ごせるかと知恵をめぐらす。
残された時間はそれほど多くない。平和で平穏で温かく誠実な日々を過ごしたいと自分は思う。
人は1人で生きているのではないのだから、周りの人のことも思いやって慮って、感謝し和やかに暮らして行きたい。
本音バカにならずに、ちょっと知恵を絞って人間関係を円滑に進めて行きたいものだわ。
昔言われたこと、忘れてませんよ~(^^)/
コメントありがとうございます。
完全無欠ねぇ・・・
難しい質問ですが私の思うところを。
誰かを評価する時って、夫々個人の主観でしかないと思うんですね。
Aさんという人を評して
Bさんが”Aさんは完全無欠な凄い人だ・・・”と思っても、
Cさんにとっては”そうかなぁ・・・?”と感じるかも知れない。
ということは、万人が”完全無欠な人だ”と思える人はなかなか居ないのでは?
と言うことではないでしょうか。
各人が好みで感じていればいいってことではないですかね。
人は裏表も使い分けるでしょう。
小さな嘘だってつくかも知れない。
本音本心を隠す場合も多々ある。
それはhanaさんも仰るように
社会で生きていく上で、人間関係を円滑に進めていくための知恵でもあると思います。
決して悪いことではないと思います。
悪いのは、一見そういうネガティブに聞こえる言動の数々が、
誰かを傷つけたり困らせたり攻撃したり貶めたり・・の道具?材料?に
なってはいけないということです。
自分の正義で知らずのうちに人を傷つけていることあるかも知れないと
謙虚に考えることが大事かなと。
偉そうなこと言いましたが💧答えになってますでしょうか?
隠れて?でもいいので又覗きに来て下さい(^^)/
小気味のよい綴りに、いつも頷いています。
ところでですが、つかぬことをお聞きします。
anさん視点で、どのように思われるか教えてくださいませ。
裏表のない完全無欠な人っているのでしょうか?
私は、裏表を使うこともあります。
それは悪い意味ではなく、円満に事が済むこともあるからです。
こういう事って、いけないことなんでしょうか?
初めてのコメントが変な質問で、すみません。
スタンディングオベーションです👏