地域の歴史や文化等の資料を残し、守り、後世へと伝えて行く。博物館の持つ役割は、とても尊く意義あるものです。
コスパだとかなんだとか、そんなことを遥かに越えた価値があるのです。
被災した資料の修復に努めた方、それを助けたすべての方々には、ただただ敬意と称賛と感謝の言葉しかありません。
本当に本当に
ありがとうございます。
地域の歴史や文化等の資料を残し、守り、後世へと伝えて行く。博物館の持つ役割は、とても尊く意義あるものです。
コスパだとかなんだとか、そんなことを遥かに越えた価値があるのです。
被災した資料の修復に努めた方、それを助けたすべての方々には、ただただ敬意と称賛と感謝の言葉しかありません。
本当に本当に
ありがとうございます。
「大本営発表。帝国陸海軍ハ本8日未明、一太平洋上ニオイテ、米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」
「我奇襲二成功セリ。トラトラトラや!」
真珠湾奇襲攻撃のことを調べれば調べる程に、日本は”嵌められたのだ”ということが見えてくる。
米国側は日本の暗号電文を解読していて、日本がハワイ真珠湾を攻撃することを察知していた。にもかかわらず、そのことをハワイにいる米軍には一切知らせなかった。あえて奇襲をさせたのだ。
ハワイの一般庶民はもちろん、ハワイの軍関係者も蚊帳の外、それもこれも皆
米国民が怒り、米国が第2次大戦へ参戦する方向へと導くためだった。
抑々、日本がアメリカと戦争を始めたのも、そうせざるを得ないように誘導された、ということが近年明らかにされてきており、まったくもって
国際政治の闇とは、恐ろしいものです。
当時の安倍総理は、哀悼の意は捧げたけれど、謝罪の言葉は口にしなかったといいます。日本国を預かる為政者として、阿部さん自身の矜持として、やはりそれはできなかった、ということでしょう。
でも、私はただの一般庶民にすぎないし
あの奇襲攻撃で、何も知らずに驚きと恐怖と怒り、悲しみのなかに亡くなっていった、犠牲となった多くのアメリカ国民がいたことには違いない。
だから
同じ一般庶民として、その方々に、私からの
心よりの哀悼の意と、心よりの謝罪の意を表すことは意義があると
信じたい。
1941年12月8日、朝7時55分。ハワイ真珠湾攻撃にて犠牲となった米国軍人と、巻き添えを食って亡くなった米国一般庶民他、すべての方々に
謝罪いたします。
申し訳ありませんでした。
御霊安かれと願うのみ。
昭和16年(1941)12月8日。一太平洋上において何が起きたのか
忘れてはいけない。
『十一人の賊軍』を観た日。岩手県奥州市に鎮座される、鎮守府八幡宮に参拝しました。
何時参拝しても、気持ちの良いお社で、大好きな神社です。
そのお社の鳥居を潜った時、空からなにやら鳴き声がする。
見上げると、ツガイの大きな白い鳥が、羽を広げて飛び去っていきました。
白い鳥は古代より信仰の対象だったと思われ、白鳥神社あるいは大鳥神社は日本各地で祀られています。ヤマトタケルノミコトが亡くなられた後、白鳥になって飛び去ったという伝承があることから、御祭神はヤマトタケルノミコトということになっていますが、本当はもっと古くからある信仰で、そこに後から、ヤマトタケルの伝承が加えられたものだと思う。
鎮守府八幡宮が鎮座されている土地は、かつて坂上田村麻呂が蝦夷追討のための城、胆沢鎮守府を造営した土地です。
ですから、そこに祀られるお社は、あるいはかつて蝦夷たちが祀っていた土地の神であったかもしれない。
そんなこんなに思い至った時、なにやら蝦夷以来の土地の神に歓迎されたような気になってしまった。
我ながら、いい気なものだと思うよ(笑)。
往古、悲しい歴史が繰り広げられた土地に静かに佇むお社に、先人たちの想いを見、改めて平穏なる日々が続くことを願う。
なんてことをつらつら思いつつ
参拝させていただきました。
ありがとうございます。
映画『十一人の賊軍』、実は私、まだ観ていないんです。いないんですが
YouTubeなどを観ておりますと、賊軍のことを単に「悪い奴ら」という意味にしか解釈していない人が結構いらっしゃるのに驚きます。
まるで解ってない!
これも歴史教育がなってない、からですかね。などと嘆きつつ
それならと、私が簡単に、「賊軍」とはなにかを、
解説いたしましょう。
日本は建国当初より、天皇、皇室によって統治される国です。
「統治」とは「シラス」という意味であり、シラスについては以前説明いたしましたので、ここでは説明いたしません。
さて、日本は天皇が統治する国。したがってすべての武士は、天皇を、天皇の統べる国をお護りするために存在するわけです。
この、天皇の下に国家を護る軍勢、軍隊のことを
「官軍」といいます。
この「天皇の軍隊」が戦う相手は、理屈の上では天皇に反逆した者たち、ということになりますね。こうした者たちは「逆賊」と呼ばれ、この逆賊による軍勢、軍隊を
「賊軍」というわけです。
天皇に反逆することは日本国に反逆することと同義ですし、抑々武士の存在理由は天皇を、国家を護るためにある。つまり「賊軍」という名称を賜るということは、もはや武士ではない、日本人ではないという
非常に重い意味合いを持つということになります。
単に「悪い奴ら」みたいな意味ではない。全然違うのですよ。
幕末、戊辰戦争においては、薩長などの新政府軍が「官軍」を自称し、これに反旗を翻した奥羽越列藩同盟などの者たちを、新政府軍側は「賊軍」と呼びました。
明治天皇を推戴する我らは、正式な天皇の軍隊「官軍」であり、我らに歯向かう奴らは、天皇に逆らう「逆賊」である、という理屈ですね。
しかし「逆賊」と呼ばれた奥羽越列藩同盟側は、天皇に反旗を翻したわけではありません。彼らが反抗したのは、あくまで薩長などの新勢力であり、決して天皇ではなかった。
薩長の強引なやり方、幕府を無理やり潰したやり方に反発を覚えたわけで、天皇にはなんら含むところなどは無かったのです。
特に会津藩主・松平容保公は孝明天皇に深く信頼されていました。孝明帝は幕府と朝廷が協力して国家を運営する「公武合体」を推しており、幕府を潰そうなどとは露ほども思ってはいなかった。容保公はそんな孝明帝の御意思に忠実に従おうとしていました。
このような態度に、賊の要素など微塵もありません。
会津藩は初代藩主・保科正之公以来、幕府を護ることを藩是としていました。幕府を護ることが、ひいては皇室を護ることに繋がると、少なくとも容保公は信じていた。
そんな容保公にしてみれば、孝明帝の御意思に逆らって強引に幕府を潰す方向に持っていた薩長こそ
「逆賊」以外の何物でもなかったわけです。
実際、列藩同盟側は、先の天皇・孝明帝の弟君にあらせられる、輪王寺宮公現法親王を同盟の盟主に推戴しております。
明治天皇も輪王寺宮も、どちらも神武天皇以来の直系の血筋。つまり両陣営とも「官軍」を名乗れる体裁は整えていたわけです。
幕末、戊辰戦争における「官軍」と「賊軍」とは、かように相対的な意味合いを持っていました。
「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉があります。新政府軍は勝ったから「官軍」になっただけのこと、もし旧幕府軍側が勝っていたなら、この「官軍」と「賊軍」の立場は
ぐれんと逆転していたわけです。
当時の奥羽越列藩同盟側は、自らを「賊軍」などとは思ってはいない。決して。
さて、この辺のことが映画ではどのように描かれているのか、いないのか。
それによって、私の映画に対する感想は、かなり違ったものになると思われます。
はたして、どうなっておりますことやら。
鹽竈神社の社殿の隣に鎮座される志和彦神社。御祭神は志和彦大神。
記紀には登場しない御神名ですが、農業の神であり国土開発の神とされているところから、東北に入植し、開発に尽力した人々を神として祀ったもの、かもしれません。
しわ、志和、志波、紫波などの地名は一説によると「国境線」という意味だそうな。つまり「しわ」の地名のあるところは、各時代ごとの「国境線」だったのではないか、ということです。
志和彦神社より北、宮城県栗原市には志波姫神社があり、さらに北、岩手県一関市には配志和神社。
坂上田村麻呂によって造営された志波城跡があるのは盛岡市、その盛岡市の南には紫波郡。などなど。
国境線が徐々に北上していったことが、「しわ」の地名からわかるわけです。
ところでこの志和彦神社。延喜式神名帳にも記載されている式内社であり名神大社でしたが、時代の推移とともに廃れ、江戸の頃には岩切村(現・仙台市岩切)の冠川(七北田川)の辺に鎮座される牛頭天王社(現・八坂神社)境内に、小さな祠でひっそりと祀られていたそうです。
明治の世になり、国幣中社に列せられたことから、もっと広い場所で改めてお祀りしようというところから、鹽竈神社境内に御遷座されることとなったそうです。
この御遷座、明治天皇直々の思し召しであったそうです。
大霊覚者とも言われる明治帝直々の思し召し。なにやらとても
”深い”ものを感ぜずにはおられません。
鹽竈神社に参拝される際には、まず志和彦神社に参拝してから、鹽竈神社を参拝するという順番があるそうです。もっとも宮司さん方は「自由に参拝してください」とおっしゃっておられますので、そんなに気にすることはないのかもしれませんが。
いずれにしろ、鹽竈神社と志和彦神社はセットのようなもの、どちらのお社にも参拝するのが、ベストでしょう。
ご参考になれば、幸いです。