ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

小濱地車

2010年05月26日 12時07分35秒 | 地車祭礼まいり
宝塚の地車を数台とりあげてみたいと思います。

第1弾は、先日幕箱から墨書きが出てきた小濱
HPサイトあるのに恐れ多いですが、追加、誤記あればご指摘ください。
その幕箱ですが、箱蓋・表、上部横並びで虎・竹、中央=幕、左下=西若中
裏面 明治10年(うし年) 丑 9月26日 世話人名
先代幕新調が明治10年と考えられます。
これまた微妙な年代に幕新調ですね(笑)なぞが深まるばかり。
その後幕大修理が大正11年10月20日完成この時に西から巴に変更と推測。
これは、若江町(元小濱東)地車を尼崎築地丸嶋に譲り渡し(丸嶋大正10年ごろ譲り受け)と合うので正解と思います。

本体地車ですが、築造年・大工ともに不詳
江戸後期と推定されています。

彫物師・新調時 相野夘兵衛 (口伝?記録はなかったと思います。)

相野夘兵衛は、弘化2年(1845)30歳にして大阪天満宮修築時の彫物をまかされています。本体完成前後に彫物作成と考えるとその後数年は大阪天満宮彫り物に従事したとし、小濱地車新調時の彫師が相野夘兵衛であるなら築造が嘉永、安政あたりから明治10年までになります。
安政あたりであれば、私の推測川面東築造と同時期ですが、おそらくは、川面東地車と小濱地車の製作年代は、何十年も離れていないと思います。

相野夘兵衛歿が明治10年・幕新調が明治10年・なぜか年号が合います。
幕の新調と同時に地車も新調?
それとも幕は一時旧地車幕を使用していた?どれが一番スムーズな考えですかね?普通は地車が古くなり新調したら古い幕も新調したいですよね?旧地車には、豪華刺繍幕ではなかった可能性もありますので、当分はその飾り気のない幕を垂らしていたとも考えられます。まあ好き放題堂々巡りの推測です。(笑)

口伝では、当初2台を大阪より購入、その後小濱在郷大工にて新調されたのが、現小濱地車と言われています。旧小濱3台(鴻池・川面東・現小濱)残り2台も(鴻池はなんとも言えません。)その後新調と考えると現小濱地車が最古参になります。私もなんとなく小濱地車が一番古いと思っています。根拠ないですが、あえて言うなら、彫物題材かなぁ・・・

正面車板・「漢の高祖(劉邦)白蛇(龍)切る」か?もしくは、「素盞鳴命 ヤマタノオロチ退治」か?龍の頭ひとつは、前者のように思います。
向かって左側彫物龍(蛇)画像掲載していませんが、頭ひとつです。前回の旧五軒屋町地車車板彫物もそうかもしれません。(案内文では、ヤマタノオロチ)



画像左側は、小濱地車正面懸魚・獅子、右側は、旧五軒屋町地車後部桝合・獅子
なんとなく似ていませんか?





さてさて、相野夘兵衛探してみました。

小濱地車の彫物と言えばやはり天蓋の龍。
大阪天満宮彫物龍は、拝殿向拝柱欄間の龍。
無理やり並べてみました。
なんとなく似ている雰囲気ありますね。尻尾の先小濱の方が巻き足りませんが、巻き方が似ているような気がしなくもありません。



木鼻獅子も並べてみました。
大阪天満宮拝殿獅子は立派(豪華)すぎて比べにくいので、南西門の木鼻獅子
左が天満宮・真ん中が小濱・なんと右側は、小浜毫攝寺
全部似てますね。左右は同じと言ってもいいぐらいです。



川面地車史製作過程で毫攝寺彫物ヒントないかと調査させていただきましたが彫師銘は発見できず、ただ本堂再建等の資料は拝見してませんので、首地蔵さん、毫攝寺には、まだ地車製作ヒントあると思うので是非調査してください。

その後明治27年に大修理されています。
この事は、泥幕内側に残る墨書きより確認できます。

明治27年1月22日上棟
新調彫物・泥(泥台)龍宮、高欄波千鳥。従前彫物彩色
細工人・大阪市西区本田1丁目14番屋敷 相野喜兵衛
大工・亀井安太郎 大工頭・中野市蔵 目付役・勝山安太郎 助・他4名

書き忘れか?後日追加か?別の場所に柄振板鳳凰・相野喜兵衛 とあります。

その柄振板鳳凰 (鳳凰頭は平成時の修理追加?)



泥台は、平成時に新調されていますので相野作ではありません。

他、墨書きで「西若中祝蕃歳」とありますので、明治27年当時、小濱には、西若中以外の青年団があったと考えられます。若江町で地車が出ていたのではないでしょうか。




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19 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
人それぞれ (まっしゃ)
2010-06-20 15:53:26
はい。人それぞれにお調べになったことをおいそれと否定はできません。
ただ、川面村と安場村が合併したのは明治18年のこと。
川面では明治以降の記録はかなり充実した量が発見されています。残念なことにその多くは収支の記録に終始していて、だんじりが3台いっしょだったとか、2台だけだったかとかいったことははっきりしません。しかし、それらの記録から少なくとも3台が同日(22~23日)に曳き出されていたことはわかっています。
もし、仮に東(安場村)とほかの2台(川面村)のだんじりが別々に曳かれていたとするなら、それはおそらくもっと昔の話であり、少なくとも「合併を機に」というのは伝承(または推測)に過ぎないと思います。
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ま、でもいちおう (首地蔵@小濱)
2010-06-15 19:34:44
状況証拠、証言というのは大事にしていなかいといけませんから・・・一笑に伏すようなものもありますが、煙がたっているのは、なんか話があるんでしょう。

旧鴻池はもうすこし突っ込んだビデオがありますのでまた小浜HP動画館へアップさせてもらいますね。
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鴻池 (あにき)
2010-06-14 12:03:09
鴻池地車改修前によく見ていないのでなんとも言えません・・・基本的には、小濱型の特徴は、他地車にはない特徴やから、裏をかえせば、特徴なしイコール一般的形になりますよね。

首地蔵さん、前田さん、wekipediaについては、昔の記録のないことは人それぞれ意見があると言うことにしましょう。(笑)

あまり・神社祭礼=地車まつりにとらわれないほうがいいと思います。
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おっと (首地蔵@小濱)
2010-06-13 17:19:44
だんじり担ぎの件を考えていたら書き込めなくなってました(笑)

交互にことなる氏子さんが住んでいた事情は良く分かります。それでは前田何某さんのいう合併から祭りを合同で始めた説や、wekipediaの川面神社の同じ記述はいかがですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/川面神社

現小濱地車の明治27年時の新調彫り物以前に彫り物がなかった場合、旧鴻池地車の形に似通っていくのではないかと想像してます。(絵振板なし、台座の彫り物なし)つまり旧鴻池地車が初期形態に近く、東、小濱がそれからの改造版、発展系とすれば、鴻池と他の2台の細かな部分が違うことに説明がつきます。




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おはよう (あにき)
2010-06-13 09:34:41
首地蔵さんには、余計に????になったかも(笑)
小濱の話題から川面村・安場村の話題に変わってしまいましたが、小濱地車で知ったことですが、川面東、小濱地車共通の形態の一つで新調時より同じと思っていたが違ったのが、おそらく川面東地車・高覧、擬宝珠四隅柱の波彫は新調時と思われますが、小濱は、明治27年の修理時に新たに彫られたようです。
小濱の場合絵振板もその時に新調(それまでその部分彫なし)の可能性もあります。
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ご無沙汰しております。 (まっしゃ)
2010-06-12 20:13:43
あにき殿、首地蔵さん、すっかりご無沙汰しております。あにきからダイレクトコールでお叱りを受けましたが、せっかくの盛り上がりにすっかり乗り遅れてしまったようです。(本当に忙しくて…)
今さらなんですけど…「東地車は旧安場村のもの、南、西は旧川面村もものと表現される、またそう考えられているかのような印象を受ける」は、書いた本人は「…ような印象を受ける(が、実際はそうではない)」という逆説を意図したつもりです。川面の場合、「東地車は小場町・大道町のもの、西地車は鍋野町・池田町のもの、南地車は宮の町・旭町のもの」というほかに定義の方法がありません。川面村と安場村には村境がなく、街道に沿って川面村の屋敷と安場村の屋敷が交互に並んでいたとされています。六町のうち少なくとも大道町と鍋野町には川面村の住人(川面神社の氏子)と安場村の住民(皇太神社の氏子)が混じっていて、つまり、「東地車は安場村だけの地車ではなく、西地車は川面村だけの地車ではない」のです。それゆえ、おそらくは川面・安場村が合併するより前から、3台の地車は現代と同じように両方の神社に宮入をしていただろうと考えられます。
川面に特殊な事情ではありますが、ご理解いただけるでしょうか?
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(笑) (あにき)
2010-06-05 20:30:33
そうやねん、このブログコメント訂正できないのです。私も何回もあります。

祖父=担ぐ
廻す時だけでなく、大正昭和一桁の時代は、ほとんど町民農家?畑仕事していたと思います。水、肥溜め運びは肩に担いで。それと道は地道で穴ぼこだらけ?そんな強力20人も寄れば転がすより担いだほうが早いように思います。(想像です。)
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言葉まちがえました (首地蔵@小濱)
2010-06-04 10:10:01
火のないところに煙はたたずでした。

ジャイケルマクソン。
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こちらこそぜひとも (首地蔵@小濱)
2010-06-04 10:08:38
御坊さんは、改定小濱宿によると文政年間に再建とありますが、文政年間とは明治維新より40年以上昔ですか。一度なんかないか聞かねばなりません。

昔から言い伝えで残っている話でも正確に伝わっているならいいのですが・・・でも煙のないところに火はたたずなのでなんかあるんでしょう。ツタンカーメン伝説しかり、トロイ伝説しかりですよ。後悔の気持ちわかります。もう20年くらい前なら・・・お父様様が聞いておられる昔の話もありましょうから、ぜひ聞いておいてくださいね。その面白い話ききたいですな~

だんじり担いでいたのは、方向転換するときの話ですかね。いまでも川面は振るとき早いですし、かなり持ち上げてますよね。
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お願いします。 (あにき)
2010-06-03 09:49:00
調査よろしくお願いします。

毫攝寺の方もよろしく、お手伝いできることあれば、いつでもお声かけください。

私も多方面からアプローチしてますが、ふっと我にかえり、身近な聞き込みから再調査します。昨日父(昭和7年産まれ)にだんじりの話してみました。これ実は真剣に聞くの初めて(笑)面白い話聞けましたよ。公には、ちょっと内容無理あるので話せませんが。
小学6年の時に死んだじいさんにもっと聞いておけば・・・と後悔してますが、当時はそこまで真剣に考えてませんので(笑)
じいさんの話で頭に残っているのは、「わしらの時はだんじり、担いどった、こまが地面につくことめったになかった」と言ってました。私は誇張あるとは思いますが、あながち嘘でないと信じてます。
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複雑ですね (首地蔵@小濱)
2010-06-01 19:48:04
そうですか、停泊のエピソードが昭和の話なら私の仮説の裏付けにはなりませんね。

本題とかなりそれてしまいました。小濱の調査はまだまだこれからです。なんとかアニキ様ご期待に添えればいいのですが・・・
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ほんまやね。 (あにき)
2010-06-01 10:27:58
小濱から話がそれていますが、それはそれでよいかと。

色々な意見、推理があってよいと思いますのでけっして首地蔵さんの意見にとやかくありませんが(笑)誤解はといておこうかと(笑)
村の長老の話はもちろん私も聞きました。現在まだご健在の方も数名いらっしゃいます。どうしても時代背景が記憶や口伝ですの混在します。又、紙面ではページの都合もあり要所のとりあげになりますのでそれを読んだ読者の思い込みが入り解釈がかわります。
たしか、宵宮外に留め置きの話は、長老が自身が見た記憶のくだりだったと思います。以前は運行表みたいな物はなく適当にそれぞれの地車が他町内も含め曳行をしていたようです。
適当に宮入も集合?で東は泊まる場合境内外やったのかな?でも宮入はしてますよ。それぞれの神社に。たしか明治ではなく昭和の話かと?
宮入できるけど泊まらない=奇妙・私から言うとありえます(笑)=それだけ複雑です。

それとあんまり他村には、理解しにくいですが、複雑な川面村、安場村内の事実を少し。

有馬街道に面した大道町旧家もちろん地車は川面東・しかし川面神社氏子総代

川面西地区は、川面神社と土地はつながっていない旧安場村のどこかを通らないと行けない事実又、川面西地区でも皇太神社氏子さんいらっしゃいます。

私の想像では、それぞれに地車については、ライバル意識あったと思うのですが、村は別の意識あんまりなかったように思いますよ。現在もそうですが、どちらかと言えば何かする時は3台一緒ですから(笑)

村合併に向けて地車新調の可能性ないとは言いませんが、そんなに意識していなかっと思います。新調の理由はもっと単純ではないかと。
例えば、どこか1町の旧地車がぼろぼろで改装するのは費用かかる「それやった新調しょうか、おまえのところするんやったらうちも」てな具合ではなかろうかと。


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合併2 (首地蔵@小濱)
2010-05-31 23:45:59
アニキ様がお考えのように小濱から購入後に、東、西、南といわれるようになったかもしれな
いという仮説を私は支持します。ではなぜ小場大道、鍋野池田、宮の町旭町がだんじりをこしらえたのか?私個人的には合併話がきっかけに
なったのではないかと思うのです。同じ時期
に金銭面でもかなり苦労があったようですよね?なにか同時期に合わせなければならない
ような事情があったに見えます。でなければも
うすこしお金を貯めてからでも遅くなかったのでは。

亀井安太郎が川面東ノ町の表現を使用している
は明治24年ですね。ですので地車購入後東、西、南と呼ぶことになった以後のことであっています。

川面地車史に書かれているように”東地車は旧安場村のもの、南、西は旧川面村もものと表現される、またそう考えられているかのような印象を受ける”、さらに”前田氏のいう合併前は
皇太神社、川面神社の祭礼日が別々で云々”、
またどなたがお書きが不明ですが、Wikipediaの川面神社の説明には”川面神社の地車は2基であったが、1885年川面村が川辺郡安場村を併合して以来、安場村の産土神であった皇太神社の地車(川面東)1基を加えた3基で、川面神社と皇太神社の2社へ宮入りするようになった”とあります。

宵宮の夜に停泊ということは川面の宮入は周辺他村と同じくこのころは宵宮の夜に行われていたということですか。宮入後南、西はその後神社に停泊、東は氏神が異なることを理由に外に停めたという逸話は、同じように合同運行しているのに川面神社のところで東だけ別行動を余儀なくされているということです。明治18年、合併後から3基の宮入がスタートしたとすれば、川面東の地車は確実に川面神社に入っていることになりますが、宮入が出来るのに停泊ができないというのは少々奇妙な感じがするとおもうのです。ですから18年以後は東も停泊していたか又は宮入そのものを本宮の朝に変えてしまったと考えることができます。(18年以後宮入を朝に変更したとすれば停泊したという話しは当然現在まで伝わってはこないですね)15年までに地車は準備万端整ったが、肝心の合併が遅れてしまった。でも予行演習は始めた18年までの逸話ではないか?と想像するのです。

なんか話しが小濱からだいぶそれてしまいましたが・・・(笑)
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合併 (あにき)
2010-05-30 19:49:53
村の合併見こんではどうかな?元々複雑に入り組んだ村やったからそんなに川面村、安場村の意識ないように思います。改めてそれにあわす必要はないような。産まれ育った感覚ですが。

川面東ノ町と言う言葉を文献で確認できるのは、小濱大工亀井安太郎が修理受け取りの署名の際の宛名に使われているだけのはずです。たしか当町の誰かが川面東と書き残した文献ないはずです。

川面東は、過去から現在において川面神社内停泊はないと思いますよ。停泊したって誰か言ってました?
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ある仮説 (首地蔵@小濱)
2010-05-29 10:33:52
地車の値段ですが、しかし小濱からすれば保釈
金、賠償金など最低これくらいはもらわないといけない事情があったとはおもいます。青年団の激しい抵抗があったのか25円で説得している雰囲気もありますしその後15年ほどして中古だんじりを購入していますから青年団に責任の無い事故だったのかもしれません。
なぜもうすこし待って資金をため、以前のようなだんじりを作らなかったのか前から疑問です。これこそ伝説ですが小濱にはだんじりが2台写っている写真がどこかにあるそうですが、現在行方知れずです。(こんなんばっかですんません)

いつごろから東、西、南なのか。幕の履歴を考える場合に非常に重要なポイントです。たしか24年の修理の時には東之町さまで資料がありましたか。地車購入14年以前にすでに正式に川面東と呼んでいたのなら幕が川面製の可能性も捨て切れませんが・・・私はこの安場村と川面村の合併計画にともなって、祭りおよび地車の刷新計画が明治11、12年ごろからスタートしていたのではないかと推測しています。川面2町が15年同時完成からみてこのあたりを目指して合併、お祝いの計画が立っていたのかもしれません。

合併し新しい川面になるわけですから祭りの運営や、だんじりの組織の見直しは当然あったでしょう。計画がスタートした段階で東、西、南と名前分けができていたため、東の幕が入っている小濱の幕を使うことに支障はなかったか、もしくは購入予定のだんじりに東の文字があったので、我々は川面東と名乗ってもよいのではないかとなり、他2町はそれに合わせたと考えることもできます。少なくとも地車に東の文字が入るためには公式に川面東でなければならないということです。

その状態がいつであったか? 自然に考えれば明治18年以後だと思いますが、なんらかの手違いで合併のほうが遅れ、地車が結果として数年先に完成していた。祭礼は15年以後も予行演習のつもりで同時開催されはじめた。正式合併までの3年間、東は宵宮の夜川面神社に停泊できなかった。

と想像するのですが・・・
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その通り (あにき)
2010-05-28 10:28:32
色々想像、推理、調査するからのめりこむんでしょうね(笑)全部わかっていたら頭の中地車一色にはならないでしょう(笑)

地車の価格ですが、当時の人が高い安いの判断はたしてできたでしょうか?私はできなかったと思います。ですので「ほしいからなんぼや」的であったと思います。
あんまり公的に言いたくないのですが(笑)幕も付属されていたと思います。

川面東の文献や文字で東若中は、提灯か幕にしか存在しません。しかし小濱では、どうも頻繁に東や西が登場するのでおそらくは、小場、大道町が小濱東ノ町より地車を購入した以降で東と言う言葉が使われだしたのではないかと考えています。川面は、あくまで各町の名称で呼び合い、地車を便宜上呼称するのに、ももだん、きいだん、あかだんと言っていたのではないかと考えます。
小濱から来た地車幕に東が入っていたのでその後自然か偶然か、川面も東、西、南なったではないでしょうか。

発見文献年月いいですね、明治4年は廃藩置県の年です。なんかおもしろいですね。決定打でること期待してます。
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いろんな方面から (首地蔵@小濱)
2010-05-27 23:34:54
いろいろあーでもないこうでもないと思い巡らせていると楽しいもんですが、やはり結論はどうしても出したいと思っている今日この頃です。もうこの時代を逃がすと調べられないのではという気もします。すでに遅いという感じもありますが・・・

仮に新調でもどうかなという地車には金銭的価
値は出ない。古くてもいいものなら値段は張
る。そのような価値観で地車が取引された可能性もあるわけですね。どういった観点で東の人たちはこの地車に価値を見出したのでしょうね?やはり幕も付いていたから高くなってしまったんですかね?(笑)現代でもぱっと見、バランスよくきれいな地車だとおもいますが。525円なら新調できたはずですが、西と南と200円くらい差がでますか?このあたりの差額がうまらなかったのでしょうか。

せっかくなので川面東地車ヒントです。今年おなじく3月に、“東若中 明治4年正月の調”というメモが出てきています。そこには世話人3名の名前、大工1名の名前、施主の名前が書かれています。当たり前の話ですが、全員東地区の人の名前で、世話人の一人が米屋定太郎、施主が八苛屋仁兵衛です。いずれも宝塚史に出てくる醤油醸造人の人たちです。ただ唯一米屋定太郎は明治元年の時点では米谷村登録になっており、これはこれでどう解釈すればいいのかわかりません。というわけで最近は個別家庭訪問を考えているわけです。
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首地蔵さんご無沙汰 (あにき)
2010-05-27 20:26:22
誰しもがわが町地車一番やから客観的に見ることがむずかしいよね。(笑)
川面東地車・小濱地車はどう考えても地元産。
これは、間違いないと思うので、年代ですよね・・・・
川面東地車明治14年購入時の価格にその時の地車新しい、古いはあまり関係ないと思ってます。高額に間違いないんでしょうが、結局はそれだけ、小濱東ノ町、川面東にとっても対価に替え難い思いがあると思います。
ので私は、明治14年が地車新調に近いはあまり考えてません。このことが客観的ではすでにないのですが(笑)

最近なんとなくわかったようなわからんようなことですが、文献残っている地車は別として明治初期以前(廃藩置県以前)の地車は、彫師はあくまで裏方さんのような気がします。大工がすべて采配ふるい町と彫物題材を決めたり、又は、独断で指示したのではないでしょうか。もちろん大工も彫物を刻んだと思います。
彫物から推測は相当むずかしく思います。

古い彫師の彫物ひとつとして同じものないと思ってますので、似ている似ていないは、第一印象を信じるのみですよ。(笑)

追伸・新資料期待しております。
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毎度お世話になります。 (首地蔵@小濱)
2010-05-27 18:54:22
こちらでははじめましてですね。ついに我々にも参加できる話題がやってきましたw

なにしろ伝承+某氏の書いた文章が難解なため混乱しております。某氏文章では相野夘兵衛が現小濱地車の最初の彫刻師とも読めるし、10年ほど前某神戸のHPBBSでの見解は今の鴻池地車が卯兵衛になるのでは?という見解を示した方もいらっしゃいました。私個人の見解は現小浜地車が最古参かどうか分からないです。

最古参なら一番早くガタがきてもおかしくないわけですが、明治27年まで大規模な改修がされていません。どれくらいで改修が必要か当時の感覚は想像できないですが、30年としたら製造は慶応年間になりますね。東地車が14年にかなりの高額で売却された理由のひとつは新調直後のクオリティーをかなり保っていたという見解に異論はありませんが、製造後10年程度だったとすれば明治4年、製造後15年程度だったとすればこれまた慶応年間ということになります。仮に慶応2,3年とすれば、明治24年の川面での修理まで、25,6年経過ですか。いいところですか? 慶応年間なら小濱の人はのんきでしたね。世は幕末の混乱期。あんまり関係なかったんですかね。

彫り物の題材から古いという類推は面白いとおもいます。彫り物に疎い我々ではなかなかその点からアプローチできません。この彫り物の似ているか似ていないかについてはほんとうに感性がにぶいというか、似ているといわれればそう思うし、違うといわれればそうにも見えますし・・・ただ天蓋の龍と天満宮龍は雰囲気にてますし、毫攝寺の木鼻は初めて見ました。過去帳を見に行きたいとはおもっていたのですが、こんど是非調査にいきたいとおもいます。

明治27年当時に東若中がだんじりを出していたかどうか確証ありませんが、この3月にでてきた新資料によって東若中が明治後期にだんじりを購入していたことが裏付けされています。大正10年尼崎へ転売したやつだと思われます。 その文章にはだんじり小屋を買い戻したとか、購入時の出張費とか、かなり細かく明細が書かれてあります。できれはどこに買いにいったくらいまで判明すればよいのですが。。。

現在の川面東については若干のヒントはでてきているのですが、もうすこし決定的なものが欲しいところです。
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