ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

川面東前車板

2008年12月21日 22時20分55秒 | 川面東
車板彫物図柄の物語は、玉藻の前(たまものまえ)・陰陽師、安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも言われてます。)が鳥羽上皇に仕える女官(玉藻前)が白面金毛九尾の狐であるとあばくところです。詳しくは、川面地車誌「川面の町に生まれて」ご覧ください。

何気なくみればなんとも感じない彫物かと、でも見れば見るほど細かいしあじがあります。なんせ誰もが自町の地車は日本一なので(笑)
まじまじ見るたびにええやんと思ってしまいます。


安倍泰成



九尾の狐


悲しいかな、昭和61年大修理の時に少々変わってしまいました。なぜか?理由がわかりません。見逃していたのか?気づかなかったのか?
安倍泰成の前に欄干が以前あったのに修理後なくなってます。
屋根の桁が大きくなったのか?屋根が全体に以前より低くなったのか?どうかわかりませんが、安倍泰成の持つ鏡少々隠れてしまってます。
九尾の狐のしっぽもそうですかね・・・9本ありますか??




見づらいですが、修理前の画像あきらかに九尾のしっぽが大きく多く見えてますし、泰成のもつ鏡も全体見えてます。足元に欄干があります。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
大修理 (ひっそり)
2008-12-23 10:20:34
昭和61年の修理か~、残念やね、もうちょつと皆に修理する意味の意識の高さがあればね、この頃は痛んだ場所が綺麗になれば良しの感覚やったしな、ん~残念、でも今後後世の為にも細部の写真取り置きしとくのも大事なことやね。
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車板 (地車狂)
2008-12-23 22:36:25
お久しぶりです。ずっと拝見はしておりました。この車板の件についてコメント挟ませていただきます。昭和61年の大修理の時、帳箱でしたので、どこを新調する、どこを修理だけにするとか、当時の様々な経緯について自町では一番記憶していると思っています。で、この車板ですが、洗いにかけただけで、オリジナルのものですし、屋根が低くなったということもございません。もしかしたら、垂木が若干大きくなったということがあるかもしれませんが、私の見解としては、アングルの違いかと思います。私の写真は地面に立ってかなり見上げる角度で撮影しておりますので、その違いかと・・・。また、欄干は修理後数年は付いておりました。恐らく接着剤が弱かったのでしょう。振動で落下したと思います。ある時、無くなっているのに気付きましたが、時既に遅しでした。そばで見ると、接着剤の痕があります。一時期、ガンガン持ち上げて振ってましたからねぇ。本体以外にこんなところにも影響が出ている残念な例です。当時の帳箱衆は、オリジナルでの復元にこだわって、かなり食い下がりましたが、やはりスポンサーの意見は強く、意にそぐわない形で戻ってきたところがあります。私も含め、他の5人の帳箱の名誉の為に、この点だけはみなさんに知っておいていただきたいところです。
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名誉挽回 (ひっそり)
2008-12-24 12:15:08
地車狂さん、昔の経緯了解です、昭和45年頃からの帳箱は運行の権限もある意味では、中老、長老のごり押しに勝たれへんとこあったもんな~、縦社会の中でそれぞれが苦労してたし、私の次の帳箱の時も結構な修理したけど、あれやこれや横目八段が多かったんしやり難かったと思うます。私が修理意識といったのは、その横目八段の連中です。直接修理に係わった人たちではありません。
PS しらん間に欄干が落ちるのは悲しいね、そういったことも含めて東の地車の修理箇所見ていかなあかんね。(会長の権限でやりましょか?)
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前車板 (あにき)
2008-12-24 17:13:33
間違っても当時の担当者のことを非難してませんので誤解なく。前役員として地車に深く関わりそのたいへんさを身にしみてかんじてますので。又、当時は現在ほど情報も知識もないなかで修理担当された方々には敬服しております。
ただ、私が感じた今現在の東地車のあり姿を伝え残したいと思ってます。

そうそう欄干の件は、以前に地車狂と話してな。そうやった。しかし彫物は変形してると思ってます。当時正直みんな彫物に興味なかったやん。後車板であきらかに解ります。おそらく垂木の割付がずれたのか垂木と垂木の間が狭いかで彫物にあたって納まらんかったので削ったと思います。
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