50歳を前にして私は初めて身近な人を亡くした。「死」が突然やってきて、混乱し対処しきれなかったと悔いている。
ガンで余命6ヶ月と宣告された父が、急速に年老い弱って死を迎えるのを間近でみた。「死」を理解したい。死後1ヶ月経ち、本書を手に取った。
魂の存在。
哲学的に「死」をどう捉えるか。様々な説を分析し退け、著者シェリー・ケーガン先生は主張する。
「魂は存在せず、死ねば全て終わる」
死ねば「無」となる。この考えに同意しなくてもかまわない。自問することが重要だと語る。
死は悪いのか
シェリー先生によれば、将来起こるよいことを剥奪されるから、死は悪い。
おいしいものを食べる。気持ちよく眠れる。犬や猫に癒やされる。映画の封切りや来週のドラマを心待ちにする。お風呂で「ああ、生き返った」と手足を伸ばす。よいことを奪われるのは不当にちがいない。
病院で父は病床から出られない状態が続き、ついに痛みを取るだけとなった。父がダビングしたカセットテープを持参し昭和の歌謡曲を聴かせた。「別世界に行ったかのようだ」と消えるような声しかだせなくなった父の顔が穏やかに見えた。日々の些細な幸せは生きる力になると思う。
自殺に正当性があるかもしれないのは、末期の病気などで、改善する見込みのない苦しみに耐え続けるときのみ、シェリー先生は必ずしも生き続けるのがよいと結論づけない。
早すぎる死。自分でないものの死
だれもが死を迎える。多くの人にとって早すぎる死だろう。
私にも父の死は少し早すぎた。80歳までは生きてほしかった。病いで体が動かなくなる。頭が混乱し、はっきりしなくなる。「崩れ落ちるかのようだ」と父は嘆いた。こんなに早く死ぬとは思わなかったのだ。どうしたかったのだろうかと父の思いを想像すると胸が締め付けられる。亡くなる日、父が伝えようとした言葉を聞き取れなかった。それが最後の声だとわからなかった。早い死だった。
死はなにか、答えはない。
死を考えるのはきつい。考えずに生きられるほうが幸せかもしれない。しかし人の死を感じることが自分の死を受け入れる準備となる。やせ衰えていく父を前にして、無力さを思い知らされる私に「どんなに一生懸命(親を)みても後悔する」と母は教えた。それでも自分を責めた。
読んでいる間、後悔の念から逃げられた。死の本質に迫るというよりも哲学的な考え方や思考法を伝授されているようだったからだろう。哲学を勉強していない私にはためになった。本書のよさは答えがないところだ。
いつか死ぬ。生きているほうがよいと言えなくなる時が来る。
悲しみの感情にとらわれるよりも生きてこられたことの幸運に気付けるようにできたらと思う。どう生きたいかどう死にたいか。対話する。死に対する考え方はそれぞれにゆだねられる。他人が決めるものではないが1人で決められるものでもない。