本と映画とわたしと

感想です。

映画『内部被ばくを生き抜く』で、生き抜くを考えた。

2015-05-14 | 映画
福島の原発事故が起こる前から、私は原発に反対。

それなのに、事故後、
だんだんと主張する思いが小さくなっていった。
なぜなら、問題が難しいから。

私には科学的な知識もなく、政治的な議論もできない。
いろいろな問題が絡み合い、
ただ被ばくが恐ろしいというだけでは
結論が出せない気になった。

私は広島に暮らしていて、福島は遠い。
忘れているわけではないけれど、
正直、自分から福島の情報を得ようとはしてこなかった。
ただよい方へ向かっていると、信じていた。

チェルノブイリの事故があったとき、
私は中学生。
福島にくらべたら、ロシアはかなり遠い。
それでも私は怖くてたまらなかった。
青くきれいな空だけれど、
放射能という目に見えないものが
ここまで来ているかもしれないと思わずにはいられず、恐ろしかった。

チェルノブイリの時ほど、
福島原発事故後、恐ろしく感じなかった。
なぜだろう。
日本で起きたから、逃げる場所はないという諦めからか。
日本政府がきちんと対処していると信じているからか。

私が大人になったから、
いろいろなことを考慮に入れようとしているのかもしれない。

私はこの映画を観て、本来の想いに立ちかえった。
被ばくはおそろしい。
子供たちを被ばくをさせてはいけない
私は単純に思う。

この映画を観て、
そんな危ないかもしれない地域であっても
様々な事情があり、人は生きる道を選ぶのだと知った。

福島・二本松で生きることを決めた家族が登場する。

家族が離れて暮らす影響よりも、一緒に生活した方が、
子どもたちのためとの決断されたという。

子どもの尿からセシウムが検出され、給食をやめた。
母親は子ども5人のお弁当を作りながら、
「とにかくセシウムが入っていない食べ物を子どもたちにという思いから、
栄養なども二の次で材料はすべて県外産」と話されていた。

お母さんが、子どもの尿からセシウムが出た時、
ものすごく後悔したと自分を責めるように話されていて、
涙が出る思いがした。

福島で暮らしている親たちは、
子供たちの食べるもの、遊ぶ場所などに、気を使い、
自分の判断は正しいのだろうかと、日々不安に感じながら生きている。
大変な思いをされている。

映画の中では、
被ばくに関する医療活動を続けてきた4人の医師たちが
これからどうしていけばいいの答えてくれる。

チェルノブイリ原発事故の後に病気になった子どもたちの話に、
病気になったとしても諦めない強さを感じた。
その強さを支えるため医療などの助けがいることがわかった。

安全だと思っていたのに、
安全ではなかったということがないよう、
危ないか安全かの判断基準となるデータをしっかり取り、
すべての情報を開示することが重要だとわかった。

未来を考えて、
今できることをすることが大切なのだと感じた。

鎌田實医師は、
「放射能によって、体が汚れても空気のきれいな場所にいき、
きれいな食べ物を食べる生活を続ければ、体がきれいになる」
と、話されている。

広島の被爆者で、助かった人は、
「新鮮な野菜を食べていたからとか、どこどこの温泉がよかったからとか」
という話を聞いたことがある。
何が生死を分けるのかわからない。
できるだけよいことをするということしか手はないし、
そこに希望がある。

健康と思われる生活をして、免疫力をたかめることで、生き抜く。
個人では大変だし、限界もあるので、力を合わせることが大切だと思う。

肥田舜太郎医師は、色紙にこう書かれた。
「人の命は自分で守るもの
何が起こっても他をたのまず、
全力で生きる努力をしましょう」

1人1人が全力で生きる努力をして、
みんなで生きましょうという意味だと私は受け取った。