京都に帰ることになっても、今までの治療に消極的な私ではありません。
「先生!京都で良い不妊治療の病院を紹介してください!!」
と紹介状を書いてもらい、京都に帰ってさっそく通いはじめました。
偶然にも大阪に行く前に通っていた医院の近くで、京都市イチ人気の産婦人科病院でした。
この病院でははじめからステップアップ、つまり体外受精を望んでいることを先生に伝えました。
人工授精は1~2万で済みますが、体外受精は一度に数十万~。
ちょっとした薬や注射に万というお金が簡単に飛んでいく世界です。
でもタイミングと人工授精で一年を費やした私は、もう体外受精しかないと追いつめられていました。
排卵誘発剤を使って卵巣を刺激し、複数の成熟卵胞を育てます。
痛い採卵・胚移植など、体と心と財布の負担は半端なかったです。
10個以上採卵できたのに、受精卵になったのは二個とか…一個のタマゴ高すぎ。
いえいえ、それでも受精してくれたのです!カモン!私のもとに帰って来い!頑張れー!
しかし現実は甘くない。
…ことごとく玉砕。
わが家は不妊治療貧乏と化していきました。銀行からどんどんお金がなくなっていく。
それよりも心と体が悲鳴をあげていました。
毎朝測る体温に一喜一憂し、月のものが遅れると舞い上がり、来るとドン底に落ちる。
早く診てもらいたいために早起きして病院に行き、毎回注射注射の薬漬け。
不妊治療は本当に辛いです。
お金を撒き散らし、暗闇の中をもがきながら爆走している感じです。
2011年、凍結した受精卵を戻す日が近づいてきた3月11日、東日本大震災がおこりました。
「こんなときに、なんで私は大金かけて贅沢なことをしてるんやろう」
と自問自答しながら、それでも不妊治療は待ってくれないので、地震からまだ一週間も経っていない
混乱の中の胚移植。
結果、妊娠に至らず。
世の中が節電とか大変だった時期に、妊娠に至らなかったと告げた医師が当然のように言いました。
「では、次の採卵は…」
いやいや待って先生、簡単に言うけど、もうさすがに資金も尽きた。
いま世の中も大変だし、少し休憩したい…。
「いえ、ちょっとステップダウンしようと思います…」
そう言いながらも限界を感じていました。疲れきっていました。
もう子どもは諦めよう。
私は昔から「やらなかった後悔」より「やった後悔」を選びます。
もう充分やったと納得できるまでになっていました。後悔はしない。
優しい旦那と、可愛い文太・小梅と生きて行くんだ。
また頑張って働いてお金を稼いで、皆で旅行なんかしたいな。美味しいものも食べよう。
将来、町家でなにかお店をするのも面白いかも。とことん趣味を極めるんだ。
子どもだけが幸せじゃない。
うん、もう大丈夫!
そうやって新しい生き方に一歩踏み出そうとした次の月、何故か妊娠しました。
小文太がやってきたのです。
あんなに気にしていた体温は測ってないし、あんなに気にしていた月のものが来るのも意識して
いませんでした。いつもは期待して妊娠検査薬フライングしまくりだったのに、
「あれ?いつ来る日やったっけ?」
…気が付けば数日過ぎていました。
妊娠検査薬で憧れの「陽性」ラインが出たとき、やたら冷静な声でトイレから旦那を呼びました。
私 「○○ー(旦那の名前)」
旦那「んー?」
私 「あんなー、私なー妊娠したみたいー」
旦那「…そうかー」
旦那も冷静に答えました。二人とも数年前のように浮かれていません。静かなものでした。
不妊治療をはじめて5年ちょい、その間ガッツリ治療したのは三年間。使ったお金は百万単位。
そこまでやって疲れ果て、諦め、新しい未来に思いを馳せた時、小文太はやってきました。
「諦めたら赤ちゃんがやってくる」の典型です。
不妊治療がながいと言葉は悪いけど、えらく安上がりできたなーと苦笑してしまいます。
いままでの使ったお金と時間はなんだったんだ。
いや、泥臭くもがきながらもここまでやったから授かったのかもしれない。
今日で一歳一ヵ月になった小文太くん、私たちのところへ来てくれて有難う。
旦那さん、落ち込む私をいつも優しく力強く支えてくれて本当に有難う。
生後30分の小文太と、おとん歴30分の旦那

子どもが授かるまでのお話、はじめて書いてみました。
本当は小文太の誕生日前(年末)に書きたかったのですが、小文太と私の体調不良のため後回しに…。
できるだけ正直に書いたつもりですが、ナイーブな問題なので、もし内容で不快な思いを
された方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。
長くなってしまいましたが、読んでくださって有難うございます。
追伸
小文太が生まれたことにより、今年は生活を見直し大きく変化しようとしています。
具体的なお話は、また後日。(多分、二月半ば頃に)
「先生!京都で良い不妊治療の病院を紹介してください!!」
と紹介状を書いてもらい、京都に帰ってさっそく通いはじめました。
偶然にも大阪に行く前に通っていた医院の近くで、京都市イチ人気の産婦人科病院でした。
この病院でははじめからステップアップ、つまり体外受精を望んでいることを先生に伝えました。
人工授精は1~2万で済みますが、体外受精は一度に数十万~。
ちょっとした薬や注射に万というお金が簡単に飛んでいく世界です。
でもタイミングと人工授精で一年を費やした私は、もう体外受精しかないと追いつめられていました。
排卵誘発剤を使って卵巣を刺激し、複数の成熟卵胞を育てます。
痛い採卵・胚移植など、体と心と財布の負担は半端なかったです。
10個以上採卵できたのに、受精卵になったのは二個とか…一個のタマゴ高すぎ。
いえいえ、それでも受精してくれたのです!カモン!私のもとに帰って来い!頑張れー!
しかし現実は甘くない。
…ことごとく玉砕。
わが家は不妊治療貧乏と化していきました。銀行からどんどんお金がなくなっていく。
それよりも心と体が悲鳴をあげていました。
毎朝測る体温に一喜一憂し、月のものが遅れると舞い上がり、来るとドン底に落ちる。
早く診てもらいたいために早起きして病院に行き、毎回注射注射の薬漬け。
不妊治療は本当に辛いです。
お金を撒き散らし、暗闇の中をもがきながら爆走している感じです。
2011年、凍結した受精卵を戻す日が近づいてきた3月11日、東日本大震災がおこりました。
「こんなときに、なんで私は大金かけて贅沢なことをしてるんやろう」
と自問自答しながら、それでも不妊治療は待ってくれないので、地震からまだ一週間も経っていない
混乱の中の胚移植。
結果、妊娠に至らず。
世の中が節電とか大変だった時期に、妊娠に至らなかったと告げた医師が当然のように言いました。
「では、次の採卵は…」
いやいや待って先生、簡単に言うけど、もうさすがに資金も尽きた。
いま世の中も大変だし、少し休憩したい…。
「いえ、ちょっとステップダウンしようと思います…」
そう言いながらも限界を感じていました。疲れきっていました。
もう子どもは諦めよう。
私は昔から「やらなかった後悔」より「やった後悔」を選びます。
もう充分やったと納得できるまでになっていました。後悔はしない。
優しい旦那と、可愛い文太・小梅と生きて行くんだ。
また頑張って働いてお金を稼いで、皆で旅行なんかしたいな。美味しいものも食べよう。
将来、町家でなにかお店をするのも面白いかも。とことん趣味を極めるんだ。
子どもだけが幸せじゃない。
うん、もう大丈夫!
そうやって新しい生き方に一歩踏み出そうとした次の月、何故か妊娠しました。
小文太がやってきたのです。
あんなに気にしていた体温は測ってないし、あんなに気にしていた月のものが来るのも意識して
いませんでした。いつもは期待して妊娠検査薬フライングしまくりだったのに、
「あれ?いつ来る日やったっけ?」
…気が付けば数日過ぎていました。
妊娠検査薬で憧れの「陽性」ラインが出たとき、やたら冷静な声でトイレから旦那を呼びました。
私 「○○ー(旦那の名前)」
旦那「んー?」
私 「あんなー、私なー妊娠したみたいー」
旦那「…そうかー」
旦那も冷静に答えました。二人とも数年前のように浮かれていません。静かなものでした。
不妊治療をはじめて5年ちょい、その間ガッツリ治療したのは三年間。使ったお金は百万単位。
そこまでやって疲れ果て、諦め、新しい未来に思いを馳せた時、小文太はやってきました。
「諦めたら赤ちゃんがやってくる」の典型です。
不妊治療がながいと言葉は悪いけど、えらく安上がりできたなーと苦笑してしまいます。
いままでの使ったお金と時間はなんだったんだ。
いや、泥臭くもがきながらもここまでやったから授かったのかもしれない。
今日で一歳一ヵ月になった小文太くん、私たちのところへ来てくれて有難う。
旦那さん、落ち込む私をいつも優しく力強く支えてくれて本当に有難う。
生後30分の小文太と、おとん歴30分の旦那

子どもが授かるまでのお話、はじめて書いてみました。
本当は小文太の誕生日前(年末)に書きたかったのですが、小文太と私の体調不良のため後回しに…。
できるだけ正直に書いたつもりですが、ナイーブな問題なので、もし内容で不快な思いを
された方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。
長くなってしまいましたが、読んでくださって有難うございます。
追伸
小文太が生まれたことにより、今年は生活を見直し大きく変化しようとしています。
具体的なお話は、また後日。(多分、二月半ば頃に)