遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

草枕・那美を巡る人々~#11「夏目鏡子<草枕>の想い出」

2024年05月16日 | 人物
  「わが墓」夏目漱石画

今日は夏目鏡子述・松岡譲筆録「漱石の思い出」から「草枕」の思い出を書く。
漱石夫人は、山川さん、卓を「前田のお姉さん」とか・・・さん付けで話す。
が、以下の要約記述では 山川、卓などと'さん'を省略して書く。

漱石と山川・那古井へ~1897/M30年
"大晦日に出発、宿は山の斜面に建つ前田家別邸、最上等の3番の部屋。
無口の漱石と饒舌の山川、宿の女中らは彼らを"3番のご夫婦"と呼んだ。"
"卓が部屋で蜜柑を食べている時、漱石に呼ばれて3番の部屋へ行った。
漱石の話は長く、終わった時は手に持った蜜柑の皮がバリバリ・・・と卓。
それでいて漱石の話が何だったか、卓はまるで記憶にないそうだ。"

「草枕」、山川の'や'の字も出て来ないが、この時は山川の饒舌が移ったか?
那美の振袖姿、湯上りの漱石を那美が待って背に着物)を羽織らせる・・・。
いずれも事実では無く、漱石の創作力(妄想力?)も大したものである。
しかし、蜜柑皮のバリバリなど、那美の話には現実感がより漂う。

"漱石と山川の散歩帰り、玄関前の柿の木に那美が登るのを目撃する。
お土産に持ち帰ってもらおうと、柿をとっていたのだ。
その卓の素早い身のこなしを ’猿の親戚みたいだ’と漱石が揶揄した。"

"宿を去る時、漱石が世話になった心づけを卓に渡す。
'そんなものを客から貰ったことは一度も無い'と言って卓は受け取らない。
'せっかくやったものを返すことはない' 漱石は凄い剣幕で怒った。"

"同じ年の5月頃 漱石は山川らと小天を再訪する。
別邸で昼食の後、卓の案内で本邸や辺りの名所を見て、日帰りで戻った。
卓は、本邸下の夏みかんを一枝ずつ折り、土産に持ち帰って貰った。
その後、卓は何度か熊本市内の山川の家に遊びに行ったという。"
漱石の家に行った形跡が無いのは、鏡子夫人への遠慮からだろうか・・・。

【謡曲に凝る・耶馬渓へ旅行・長女筆子誕生~1899/M32年】
"前年頃から漱石は謡曲に凝った。'お世辞にも上手とは言えない'と夫人。"
1月 漱石、同僚と2人で耶馬渓などへ旅行する

大分県・耶馬渓


5月 長女筆子誕生。夫人は字が下手、上手くなるよう'筆子'と名付けた。
9月 漱石、山川と阿蘇山に登る

全編ほぼ2人の会話体、「草枕」とは全く異なり、富裕層批判の作品である。  

冒頭の漱石の絵の元になった玉名市の風景写真


阿蘇山(阿蘇五岳と外輪山)


今日は、長女誕生の年を除き、卓がらみの所を摘読?してみた。
素顔の漱石を知るには格好の本なので、いずれじっくり読んでみたい。
今日はここまで。次回は前田家から宮崎家に話を移す予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

草枕・那美を巡る人々~#10「那美・出版社を訴える!」

2024年05月15日 | 人物


1928/S03年 講談社から「婦人倶楽部」2月号が発売された。(上掲画像)
漱石の没後12年ほど経った頃である。
目次に、名作「草枕」に絡はる文豪漱石の初戀物語、の赤文字。(下記画像)


この記事内容を入手できなかったので、安住恭子著書から超要約摘記する。
”漱石先生の一生に一度の秘められたロマンスがあった。
相手は「草枕」那美さんのモデルとされる前田おつなさん。
先生は艶やかなおつなさんを訪ねて何度も湯の浦に通い、
奔放なおつなさんを一途に慕った・・・”
「草枕」の内容を引用して、その殆どが雑誌記者の興味本位の創作だった。

事前取材に来た雑誌記者に卓はこう話したという。卓すでに60歳。
"そんな若い頃のことなど覚えてません。先生と会ったのは数えるほど。
それに小説は小説、那美は那美、私は私。古い話を出されても困ります。"

卓は、雑誌の予告を見て不安を感じ、掲載を見合わすよう申入れた。
にも関わらず雑誌発売・・・漱石夫人(鏡子)も「迷惑千万」だと怒った。
怒るだけで済まさないのが卓、周囲の反対を押し切り出版社を訴える。
同じような被害を出さない為、というところが卓らしい。

結果、双方の弁護士で示談、雑誌に謝罪記事を載せることで決着。
その後、「婦人倶楽部」から同種記事が殆ど消えたという・・・卓さん、流石!

余談だが、漱石没後も卓は夏目家へ出入りした。
上記雑誌の事件後、鏡子夫人と娘婿松岡は「漱石の想い出」をまとめる為に、
熊本と松山を旅行・・・熊本では、小天や市内の旧居・五高を訪ねた。
それを知って、卓が知り会いに連絡、小天での案内を頼んだという。


上掲の本には、「草枕」には無い関係者の話も載っていて興味深い。
が、それらは改めて書くこととして、今日はここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

草枕・那美を巡る人々~#9「卓・大陸へ行く」

2024年05月14日 | 人物
1912/T01年 孫文が臨時大統領になり南京で中華民国(臨時政府)が成立。
卓もその記念式典に招待されたが、 旅費が工面できず参加できなかった。

辛亥革命武昌起義記念館と孫文像 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/User:Mongol


清王朝の崩壊1913/T02年
革命運動はその後も中国全土に拡がる。
清王朝は、袁世凱(えん・せいがい)を内閣総理に任命、革命鎮圧を命ずる。
袁世凱は、全土で強大な軍事力を持つ地方豪族たちの領袖。
清王朝の命運は長くはない、と判断した彼は革命派と取引する。
”私を中華民国の大総統にすれば、宣統帝(清皇帝・溥儀)を退位させる"
中国全土を制圧する武器も兵力も資金も無い革命派はこれに応じた。
翌1913年、宣統帝が退位し、袁世凱が中華民国大総統になる。

袁世凱大総統就任~中央の小柄な人物が袁世凱


しかし、この年の選挙で国民党(黄興・宋教仁らが組織)が大勝利する。
彼らは大統領制ではなく、立憲制や議員内閣制を目指していた。

袁世凱は、実質的リーダだった宋教仁を暗殺、国民党を弾圧する。
孫文・黄興・李烈鈞(り・ れつきん )らは、この年の秋、再び日本に亡命。
中華民国の首都は、袁世凱の手により南京から北京に移された。

李烈鈞:1904年に日本へ留学 孫文の「興中会」、同盟会設立にも関わる
李は「民報社」の編集スタッフとしても宋教仁を手助けした

華興会~前列左端が黄興・右から2人目が宋教仁 後列右端2番目が李烈鈞? 1905年東京


【黄興の死~1916/T05年10月】
卓が民報社で最も親しく付き合った黄興が亡くなる。
"黄興氏病死 胃潰瘍で大量出血" "支那の大西郷" ”未来の大総統"等々。
滔天は10月の国慶節に招かれて既に現地に居て、黄興を見舞ってもいた。
槌は目白に住む黄興の母と妻を伴い上海へ、卓は残ってマスコミ対応。

黄興の人柄を示す卓の談話がある。
"尾行する刑事をまくことが巧みでした かと思うと気さくな人柄で、
家に居る時は離れでビールを振舞ったり、外出時は声をかけたりしました"

【卓・大陸へ~1917/T06年秋】
卓は上海で行われた黄興の一周忌の式典に出席する。
民報社で最も親しく付き合った黄興・・・ぜひとも出席したかったのだろう。
後日、自分には大陸の水が会っている、と述懐していたという。
黄興や宋教仁が生きていれば・・・卓はまた大陸を踏んだかもしれない。
しかし、この時だけが卓にとって最初で最後の大陸への旅になった。

今日はここまで 次回は「卓~出版社を訴える!」の予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

草枕・那美を巡る人々~#8「那美・漱石との再会」

2024年05月13日 | 人物

「草枕」成立のあらましとその後の漱石の略々年譜をざっとおさらいする。

1898/M31年 熊本五高教師として勤める
同僚山川と年末から年明け1週間ほど小天を訪れ 志保田の那美を知
1900/M33年 ロンドンへ留学
1902/M35年 帰朝、一高/帝大に勤務しながら執筆活動を行う
1905/M38年 「我輩は猫である」「ホトトギス」発表
 翌年「坊ちゃん」を発表し 人気作家になる
1906/M39年 「草枕」を「新小説」9月号に発表する
1907/M40年 一切の教職を辞して朝日新聞社に入社 執筆に専念
1916/T05年 胃潰瘍により自宅で死去(享年50歳) 


 
利鎌と漱石との出会い~1916/T05年
或る日、利鎌が早稲田の穴八幡宮で偶然漱石と出会う。
利鎌は思い切って、”熊本の前田です”と名乗って挨拶をした。
わかってもらえただろうか? その夜、利鎌は漱石へ手紙を書く。
熊本の小天のこと 姉の卓と一緒に住み 一高に通っていること等々・・・。
折り返し漱石から返事が来た。”面会日ならいつでもいらっしゃい”

卓に似て快活な利鎌は早速「木曜会」に出かけ、卓姉の近況を報告する。
”ぜひお姉さんに会いたい” 早速姉と一緒に早稲田の漱石宅を訪問する。
再会時のことは、残念ながら誰の記録にも残っていない。

しかし 漱石死後に彼の全集が出版された時 門下の寺田寺彦が提案。
”関係者が存命のうちにインタビューをして全集の月報に載せたらどうか”
その提案が通り、第1号に那美こと卓が取り上げられた。
漱石との再会から20年程過ぎた1935/S10年、卓67歳の時のことだった。
利鎌は既に亡く 卓は弟の九二四郎と現・西池袋に住んでいた。
宮崎滔天・槌一家の住居と広場を挟んで向かい合う家だったという。

インタビューアは漱石門弟の森田草平。(平塚らいてふと心中未遂した人)
以下、卓の談話を要約記述する。
”草枕発表の時 熊本出の帝大の学生が’おばさんのことが小説になったよ’
と教えてくれたので神楽坂で雑誌を買って読んだ。(民報社は飯田橋)"
”モデルにされたことはあまり気持よく思わなかった。自分は出戻り、
派手な振袖など着た事はなく、風呂場のシーンも驚いて飛び出ただけ。"

それより卓の不満は、自由や平等への想いが那美に反映されなかった事。
漱石と再会した時、革命家との交流話を含めてそんなことを話したようだ。
それを聞いて漱石は、"「草枕」をもう一度書き直さなくては"と語った。
卓は その言葉で漱石に自分のことを理解してもらえた と思った。

寺田寅彦が語る漱石のエピソードを一つ。
漱石の机の上に 新橋の芸妓おえんの写真が飾ってあった。
寺田説によると おえんは 知性的な顔立ちが卓に似ていたとか。
だから机に飾って 那美の想い出に浸っていたのではないか・・・。
その「おえん」と思われる写真(AIカラー化?)を掲げて 今日は終わり。



次回は 「卓 大陸へ行く」の予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

草枕・那美を巡る人々~#7「民報社解散後の卓」

2024年05月12日 | 人物

東京市養育院巣鴨分院での児童の遊戯~渋沢史料館所蔵

熊本へ帰る前、卓は民報社の住込みをやめて近くに家を借りていた。
異母弟の覚之助と利鎌らを呼び寄せ、一緒に暮らすためだ。
清国の革命も支援し家族も守る、どちらも卓にとっては大切なこと。

卓が弟らを連れて東京に戻った時、すでに民報社は解散していた。
父の遺産は、革命や槌一家の生計支援に底を尽きかけている。
新しい仕事口を探して働かなければ・・・。

【卓 保母さんになる~1910/M43年】
東京市養育院巣鴨分院・・・卓42歳の新しい勤め先で、仕事は保母。
養育院の設立者は渋沢栄一。彼は私財を投じて福祉施設の充実に取組んだ。

分院内には幼稚園・小学校も併設されていた。
この分院で8年間 卓は母親代わりになって孤児たちの世話をする。
孤児たちは小学校を卒え丁稚奉公に出て、休みの1月の藪入りだけ帰院。
分院では藪入り会を行って盛大に子供たちを歓迎したという。
孤児らは大人になっても院を訪れ 母親と同じように慕われたと卓は語る。

【辛亥革命~1911/M44年】
秋、清国各地の中国同盟会が武装蜂起、民主政府の独立宣言が相次ぐ。
清王朝が崩壊、翌年1月、孫文が臨時大統領となって中華民国成立を宣言。
記念の式典に卓も招待されたが、行くことができなかった。
仕事と日々の暮らしのため 旅費が工面できなかったからである。

【利鎌を養子にする~1915/T04年】
利鎌が一高入学 それを機に卓は彼を養子とする。
革命会で最も親しかった黄興の助言に従ったという。

 
前田利鎌(とがま)                黄興(こうこう)

翌年、利鎌が縁となって卓は漱石に再会、話は長くなるので明日に回す。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]