あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾 2022年 (3) 5月から

2022-05-07 10:58:27 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」六月) 

◎ 野木桃花主宰句(「緑舟忌」より・「あすか」二〇二二年五月号)
この町の記憶を辿る花見船
牡丹の芽ゆるり解れて無為の午後
哀悼の汽笛は長し月朧 
      (前書き 悼む白石文男様)
少年の遠国に向け草矢打つ
ゆく道の桜蘂ふる緑舟忌 
     (前書き 四月十三日は名取思郷先生の忌日です)
【鑑賞例】
 一句目、花見船のゆったりとしたスピードが、記憶を噛みしめている思いに相応しい表現ですね。二句目、心までほぐれていくような表現ですね。三句目、海の句が秀逸だった白石文男さんに相応しい、心の籠った悼句ですね。四句目、木下夕爾に「草矢高くこころに海を恋ひにけり」という句があり、季語「草矢」の俳句ではこの句がいちばん好きでしたが、この句がいちばんに変わりました。この草矢は海を飛び越して「遠国」にまで飛んでいます。五句目、桜蘂の降り積もった並木道は暗桜色で染まります。花道のような、名取思郷氏への手向けの句ですね。

〇 武良竜彦の三月詠(参考)
遠きもの見え難くなり富士残雪
善戦と呼ばれ春雨の白衣の塔

(自解)(参考)
一句目、実景描写を借りて、何か近視眼的になっている世相への憂いを詠みました。二句目、医療現場の現実も知らず、気楽に「善戦」などと「声援」を送る無責任さを慎んで。

2「あすか塾」39  2022年6月
  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例
―「風韻集」四月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。この評言を読んで自分の句のどこが良かった
のかと、発見、確認をする機会にしてください。     

人の名をほろほろ忘れ春の昼                           本多やすな
 「ほろほろ」と手応えのないような不安感の表現にしたのが効果的ですね。

春愁の海の匂ひを持ち帰る                            丸笠芙美子
 海辺に佇んで、もの思いをしていたのでしょう。その気持ちを今も引き摺っていることを「海の匂ひを持ち帰る」と表現したのがいいですね。             

ここからはカギカッコして冬仕舞                         三須 民恵
 カギ括弧をカタカナにしたのが効果的ですね。春に向けて気持ちを一新しようという意思がユーモラスに表現ざれました。   
 
大吹雪頼りは前を行く尾燈                            宮坂 市子
 三月の「あすかの会」で評した句ですが、実景描写以上に、目先の利かない状況の中での不安感の表現としても普遍性のある表現になっていますね。
  
子供等に金の鶴折る小正月                            村上チヨ子
 折鶴といえば何かの願いをこめて折ったり、送ったりするものの象徴になっていますね。とびっきりの「金の」という思いが籠っていますね。
 
毛糸あむ一人の時を一心に                            柳沢 初子
 一心に毛糸を編むというだけで、すでにある想いが込められた表現ですが、さらに「一人の時」という言葉で、その切実さが深まる表現ですね。

さくらさくら馬手に不二置き遠筑波                        矢野 忠男
 馬手(めて)は馬の手綱を持つ手の意味から右手のこと、右の方のことで、その対義語は弓手(ゆんで)で、弓を持つ方の手の意味から左手のことを指します。この句は、桜満開の季節に、右手に富士山、左手に筑波山を遠望している壮大な景でしょう。

祈願所の矢立の匂ふ朝桜                            山尾かづひろ
「矢立」は矢を立て入れる道具、胡簶(やなぐい)も指すことばでもありますが、この句では「祈願所」ですから、墨壺に筆の入る筒をつけて、帯にはさむようになっている携行筆記具のことでしょう。この古風なことばの持つ響きから、その願いの質まで伝わりますね。下五の「朝桜」もいいですね。

一文字の突き出してゐるレジ袋                          吉野 糸子
 この句の「一文字」は文字ではなく、もと女房詞で「ねぎ」を「き」と一音でいったところから、葱の別名として使われてきたことばですね。冬の季語で、蕪村に「一文字の北へ枯れ臥す古葉哉」という句があります。そんなゆかしいことばと「レジ袋」という現代語を取合せて面白いですね。
            
凍星の布陣完璧帰宅道                              渡辺 秀雄
 帰宅が遅くなった帰路、見上げると澄んだ冬空に星座の煌めき、という景ですね。「布陣完璧」で、その不動の輝きが表現されていますね。
     
手ぶくろの中はぐうの手子と散歩                         磯部のりこ
 母子それぞれが自分の手袋の中で手を握り締めている、とも解せますが、母親の片方の手袋に子どもが手を入れて、手を繋いでいるさまとも解せる句ですね。母子の強い絆を感じる表現ですね。 
 
「もういいかい」大地押し上げ蕗の薹                       稲葉 晶子
 植物の神秘的で力強さを感じる表現ですね。待ち焦がれた春がやっと来たという思いが込められているようですね。

春光や運河もビルも跨ぎ見て                           大木 典子
 スカイツリーの展望台のような、高い視座からの景ですが、それを「運河もビルも跨ぎ見て」と、動的に表現されて爽快感がありますね。
             
春禽の歌垣背戸の雑木林                             大澤 游子
 歌垣とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗で、元々は人間の行為ですが、それを鳥たちの鳴き交わすさまの表現にしたのが効果的ですね。
 
角打ちの人みな寡黙春寒し                            大本  尚
水音のときには尖る浅き春                              〃   
                        
 一句目、「あすかの会」の句会で尚さんに教えてもらった言葉ですが、「角打ち」とは、酒屋で購入した酒を店内でそのまま飲むことで、四角い形をした升の角から直接酒を飲んだことに由来する言葉だそうです。「みな寡黙」が効果的ですね。二句目、春の川などの表現は穏やかな流れなどの表現にするのが常識的で、類型的ですが、現実にはときおり「尖った」音も混じると言う鋭い観察眼の冴える表現ですね。
 
やはらかく拭い遺愛の雛調度                           奥村 安代
夕暮れのととのつてゆく春障子                            〃

 一句目、大切に心をこめて取り扱っている心の様まで感じられる表現ですね。「雛人形」ではなく「雛調度」としたのも効果的ですね。二句目、「ととのつてゆく」というぴたりと決まった表現に、句会の席でも感嘆の声があがったほど、見事な表現ですね。

椿落つ風の重たき狭庭かな                            加藤   健
 椿の花はぽたりと重い音を立てて落ちます。それを「風の重たき」と表現したことと、「狭庭」という空間に絞り込んでゆく表現が効果的ですね。

石磴の幟に騒ぐ空つ風                              金井 玲子
固き芽にほのと紅指す梅一枝                             〃      
      
 一句目、高台にある神社仏閣の石段に沿って、幟がはためいている景が見えます。「幟の騒ぐ」という表現に工夫がありますね。二句目、下五はふつう「梅一輪」で受けてしまうところですが、「梅一枝」として、梅の木の全景が見える表現にされています。しっかり工夫されている表現ですね。

転調となりし波音鳥雲に                             坂本美千子
 鳥たちの渡りの季節の到来を、「転調となりし波音」と、海の景の変化で表現したのが効果的ですね。

薄氷に触るる総身指にして                            鴫原さき子
初心いま梅一輪に問われをり                             〃

 一句目、たとえば「薄氷や触れれば総身(そうみ)に寒走る」というような表現にしてしまいがちですが、それを「総身(そうしん)指にして」と一点に収斂させる効果的な表現になっていますね。二句目、この句も一点に凝縮させる表現で強調ざれる効果を上げていますね。

バス停めて海へ黙禱弥生月                            攝待 信子
 その場所に関連した不幸な出来事があったのでしょう。バスの客みんなに悼みの思いが共有されていることが伝わりますね。

春水とどこまでも行く母の里                           高橋みどり
歳時記に父の匂ひや春の宵                             〃

 二句とも、直接的に両親が他界されていることを表現せず、このように間接的に表現することで、逆にその深い喪の悼みの心が伝わりますね。「言わないでいう」という俳句の心得の見本のような句ですね。
 
豊作も削る命と種浸す                              服部一燈子
 深い哲学的な思念の表現ですね。命を自然の大循環の中に置く視座でなければ、この逆説的な表現はできないでしょう。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」五月号)  

あたたかや小さき坂に名前なく                          村田ひとみ
 坂道学会というのはタモリ氏の架空の学会だそうですが、無名の坂に愛着を感じている人も多いでしょう。今この時を丁寧に噛みしめて生きている実存感の表れですね。
             
啓蟄やかの人居らぬ俳句欄                            望月 都子
 この句は「あすかの会」での投句にあり、会の冒頭で野木主宰が白石文男さんの訃報と哀悼の辞を述べられたばかりでしたので、感慨ひとしおでした。句友の逝去の報はさびしいものです。

山ざくら咲きて京都の華やぎぬ                          稲塚のりを
中七の「咲きて京都の」という表現に趣があって、江戸の粋な桜より、京都の山桜の華やぎの表現として、とても効果的ですね。

窯出しの壺ちりと鳴く春初                            近藤 悦子
出征の男数へし年の豆                                〃

 一句目、「ちりと鳴く」という控えめの小さな音の表現が効果的ですね。二句目、戦時中、節分の日に出征した男性のことでしょうか。切なさが滲みます。 

⑵ 「あすか集」から(「あすか」五月号) 

窓際に財布鍵杖風信子                              丹羽口憲夫
 物忘れが多くなったことを自覚しての配慮を怠らない、丁寧な暮らしぶりがうかがえる句ですね。玄関の靴箱の上の窓際の風信子の脇に、財布と鍵と杖が並んでいる景がみえます。
                      
スーパーの臨時やつちや場春野菜                         沼倉 新二
猪牙船の瀬音ゆかしや葦の角                             〃

一句目、「やつちや場」は「やっちゃ、やっちゃ」と声を掛けて競りをしたことから、主に東京で青物市場のことをいいます。この句は市場ではなく、それがスーパーに臨時開設されたことを面白がって詠んだのでしょう。二句目、「猪牙船(ちょきぶね)」は、猪の牙のように舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟のことで、江戸市中の河川で使われましたが、浅草山谷にあった吉原遊廓に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれました。この句は「葦の角」という季語を下五に置いて、江戸情緒の春を表現していますね。

春一番出店の椅子を転がして                           乗松トシ子
 「出店」で、商店街の常設の店ではなく、何かのイベント会場の屋外の店であることが分かります。そのお客用の椅子が春一番で転がったシーンを切り取った表現が効果的ですね。
 
フェンス内身動きとれぬ蕗の薹                          浜野  杏
 人間が自由に出入りできないフェンスというと、沖縄の基地の長い金網を想起してしまいますが、この句は特定のフェンスと解しなくても、閉所幽閉感があって効果的ですね。

『この国のかたち』七巻菜の花忌                         林  和子
 歴史、時代小説で多くの読者に指示された司馬遼太郎の書で、多角的な視野で日本のことを考察した書として定評があります。その菜の花忌に再読したのですね。
 
密会を貝母の花の雨の庭                             福野 福男
「貝母 バイモ」の鱗茎は母貝が子貝を抱いているように見えるために、この名が付けられたそうです。中国名を音読みしたもので別名「アミガサユリ」ともいいます。この句は母子ではなく男女の「密会」とユニークな見立ての表現ですね、しかも生憎の雨の中の密会のようです。
 
桐の花ダム放水のごうごうと                           星  瑞枝
 ダムの怒濤の放水音を背景にした桐の花、作者の独創的な視座を感じる句ですね。
  
立春の街角ビアノ弾く二人                            曲尾 初生
 立春の景としての、街角ビアノの調べ。二人ですから華やかさが倍増する連弾曲が聞こえます。

金鳳花はちきれさうな人に似て                          幕田 涼代
 キンポウゲ(金鳳花)の小さな黄色い花の見頃は四月~五月頃です。全国各地に自生し、日当たりの良い山野で見られます。花弁がキラキラと光沢を帯びて輝くのは、光を反射するデンプンを含んだ細胞層があるからそうです。それを元気が「はちきれさうな人に似て」と表現しました。
 
落椿地中の音を聞いてゐる                            増田 綾子
 ラッパ状の花の形を、集音器に見立てて、ユーモラスに表現した句ですね。

採れ過ぎの春筍だけのお菜かな                          増田  伸
 楽しさと、飽き飽きしている気分の間で揺れる気持ちの表現ですね。

あの時は恋猫なりき今八十路                           松永 弘子
 「あの時」とはもちろん、すべてが輝いて見えた思春期のことですね。一途な恋心を「恋猫」とかわいらしく表現しましたね。

小流れの木の葉をさらうおとこかな                        緑川みどり
 この「さらう」は誘拐ではなく、浚渫の浚うでしょう。家の近くの小川の底に溜まった木の葉を除去する掃除をしているようです。町がきれいに保たれている雰囲気が伝わります。
          
紅梅の濃きも淡きも愛らしき                           宮崎 和子                        
 俳句ではあまり「愛らしく」思うという気持ちことばを使わず、それを感じさせるように表現すること、というセオリーのようなものがありますが、この句は敢えて「愛らしき」ということばを使って成功している例外的な句ですね。それはその上の唄のような「濃きも淡きも」というリズム感溢れる表現があるからですね。
        
望郷のタンポポ日和遠出して                           安蔵けい子
 何々日和と、いうような、造語的な例をよく見かけますが、「タンポポ日和」は初めて見ました。蒲公英と漢字にせずカタカナにしたのも効果的ですね。
  
芽ぐむもの身の内外に退院す                           飯塚 昭子
 作者の心にも何か芽ぐむものを感じている表現ですね。下五で「退院」のことだと解り、共感する人も多いでしょう。

告白の後退りして卒業す                             内城 邦彦
 告白したのか、されたのか、明示されていませんが、作者はどうやらモテ男子だったようで、たくさんの女子たちに告白されてたじろいでいるようです。微笑しい卒業のシーンですね。

残されし一人の時間春惜しむ                           大竹 久子
 おそらく永年連れ添われた、大切な方を亡くされて、一人ぼっちになってしまったという状況ではないでしょうか。「春惜しむ」が二重の意味の深さを持つ句ですね。
 
故郷に住む人はなし青山河                            大谷  巖
 個人的な血縁者がいなくなったという句でもあり、視座を広げて読めば、深刻な過疎化の表現にも読める句ですね。
 
剪定の済めばからから風見鶏                           小澤 民枝
園児らの鳥の鳴き真似山笑ふ                             〃

 二句共、明るい音響の表現で春の到来を詠んだ句ですね。多様な視点がいいですね。

五年目の遺影とともに雛飾る                           風見 照夫
 大切な人の遺影は年中飾られているのですが、桃の節句になるとそれに一時、雛飾りが加わるという表現ですね。雛飾りが時を刻んでいるという表現が効果的ですね。
 
ザボザボと水車の廻多摩の春                           金子 きよ 
 ざぶざぶではなく「ザボザボ」の擬音が独創的で、豊かな水量を感じさせて効果的ですね。

一べつし塀の上ゆく春の猫                            城戸 妙子
 猫の「チラ見」の表現がユーモラスで独創的ですね。

水音に一輪ひらく二輪草                             紺野 英子
覚めて聴く葉擦れの音や春しぐれ                           〃

 一句目、「二輪草」は一本の茎から二輪ずつ花茎が対になって伸びることが、その由来となっています。この対なるものが一輪咲くとわざわざ表現していることに詩情が生まれていますね。二句目、早朝の、覚醒したばかりの耳に、春しぐれの中の、葉擦れの音が聞こえてきた、というだけの表現で、その早春の爽やかな気配をみごとに捉えた表現ですね。

幼子の「なぜ」に答へて針供養                          斎藤 保子
 幼い子供が「針供養」の慣習を不思議がっているとも解せますが、季語として独立して切れていると解すると、知能の発達期に「なぜ」を連発する幼児に対する暖かい眼差しの表現とも解せますね。

妻入所介護解かれる浅き春                            須貝 一青
「入所」という言葉で、何処へ、と思う謎が、中七の「介護解かれる」で解る表現になっていて、複雑な思いがこみ上げてきますね。

雲海を抜き手で泳ぐ夢始め                            杉崎 弘明
 「抜き手」という日本の古式泳法めいた言葉がいいですね。しかも初夢。爽快感と浮遊感がありますね。

地に微風天に動かぬ春の雲                            鈴木  稔
 春の穏やかな気候が体感されます。

枝詰めの古木の幹に梅の花                            鈴木ヒサ子
 古木の生育を助けるために、太目の枝も剪定したりしますね。その切り口のそばに小さな花をつけているのをクローズアップした表現で効果的ですね。

志野茶碗あつかふ手許春兆す                           砂川ハルエ「志野茶碗」の源流「志野焼」は室町時代の茶人・志野宗信が美濃の陶工に作らせたのが始まり。耐火温度が高く、焼き締りが甘い「もぐさ土」を使って作ることが多かったようです。鉄分が少なめの土で、紫色やピンク色がかった白土の素地に、長石釉と呼ばれる長石を砕いた白い釉を厚めにかけて焼くと、綺麗な志野焼・志野茶碗が出来上がります。この句はその茶碗の手捌きに春の到来を表現して効果的ですね。

鬼やらひ子等ゐぬ部屋へ「福は内」                        高野 静子
 節分の日、子供達が巣立った家では豆撒きをやらなくなることが多いようですが、この句は母らしい人が、いない子供の部屋に独りで豆撒きをしているという詩情豊かな景を詠んで心に滲みます。
              
御玄猪に伐採の梅真副体                             高橋 光友
「御玄猪 おげんちょ」は陰暦十月の亥の日。この日の亥の刻に新穀でついた餠を食べて、その年の収穫を祝います。亥の子、おげんじゅう、ともいいます。「真副体」は華道の用語で、花の生け方の 中心となる枝ものの花を「真」といい、その「真」の花に 添える草花を「副」といい、「真」よりも 三分の二ほど低い高さにして生け、「副」に対するものとして「体」の花を 「真」よりも二分の一ほど低い高さにして生けることを意味します。この句は採ってきた梅を華道の基本に沿って生けたようです。新春らしいきりっとした空気が漂う句ですね。

蟻穴を出て挨拶回りらし                             滝浦 幹一
蟇穴を出て長考の棋士めきぬ                             〃 

 二句共、啓蟄の季節の蟻と蟇の二様態で、春らしく暖かくユーモラスに表現した句ですね。

賀状仕舞知らせし友の初電話                           忠内真須美
 若い頃は、「来年からは賀状は失礼します」というお知らせをすることなど思いもよらぬことでした。それを貰った同年配の友人から電話があったのですね。「お互い、そういう年になったわね、私も来年から失礼しますからね」などという会話があったのかも知れませんね。
 
おひたしに買った菜の花咲く力                          立澤  楓
 切り花の状態のまま、菜の花の蕾が花を開かせたのを見たときの感慨の句ですね。そこに菜の花と、春という季節の生命力を感じたのですね。

ホワイトデーは牛丼ふたつ春の朝                         千田アヤメ
「ホワイトデー」は、バレンタインデーにチョコレートなどをもらった男性が、そのお返しとしてキャンディ、マシュマロ、ホワイトチョコレートなどのプレゼントを女性へ贈る日とされていますね。日付は三月十四日。マーケティング上の観点から日本で生まれ、中華人民共和国や台湾、韓国など日本の影響がある東アジアの一部にも広がったそうですが、欧米には浸透しなかったようです。近年(二〇〇〇年代以降)の日本ではバレンタインデーの習慣が「友チョコ」や「自分チョコ」、「義理チョコ」など多様化し、ホワイトデーにも「友チョコ」や「義理チョコ」のお返しが行われるなど多様化してきているそうです。この句はそれと「牛丼」を取り合わせて、その多様化がユーモラスに表現されていますね。

寒戻るラップの切り口見つからず                         坪井久美子
 寒さで指がかじかんでいる感覚が良く伝わる表現ですね。
 
福豆を力士の手から受くる子等                          西島しず子
 豆撒きのイベンド会場での一コマでしょうか。両手を力士の方に高く差し出している可愛らしい
子供の顔が見える表現ですね。


※                           ※



1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」五月) 

◎ 野木桃花主宰句(「蝶の昼」より・「あすか」二〇二二年四月号)
鳥帰るさゆらぎもせぬ風見鶏
紡ぎ出す新たな一歩蝶の昼
日差し得てささやくごとく犬ふぐり
天に月地に菜の花の黄をこぼす
走り根の地の底を這ふ山桜

【鑑賞例】
 一句目、「さゆらぎ」の「さ」は小さいことを示す接頭語ですが、言葉にゆかしい響きがでますね。まるで風が動きを止めて去る鳥を送っている雰囲気になりますね。二句目、新たな一歩を踏み出す、と言えば類型的ですが、「紡ぎ出す」ということで、人の意思の加わった表現になりますね。三句目、路傍の小さな花が日差しを浴びている、なんでもない景ですが、それを「ささやくごとく」と表現すると、見守る人の優しく温かい眼差しの表現になりますね。四句目、有名な「与謝蕪村」の「菜の花や月は東に日は西に」という古典を踏まえた句ですね。菜の花が咲いていて、東に満月、西に夕日が見えるのは、旧暦の三月十日~十五日、今の暦で四月二〇日~四月二五日に当るそうです。この句は「黄をこぼす」と独自の発見的な眼差しが効いている表現ですね。五句目、桜を詠んだ句は視線が上向きのものが多いですが、「走り根」で足元に向けられています。生命力の表現の句ですね。 

〇 武良竜彦の二月詠(参考)
うつくしき余寒の頬や常乙女

(自解)(参考)
二月十日が命日の石牟礼道子に捧げる句。「常乙女(とこおとめ)」は折口信夫の古代研究でいう感性の優れた処女である童女のこと。そのイメージを石牟礼道子に捧げて詠みました。

2「あすか塾」39  2022年5月
  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例
―「風韻集」四月号作品から 

※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。この評言を読んで自分の句のどこが良かった
のかと、発見、確認をする機会にしてください。     

春待てぬ出征のごと吾子の去る                           服部一燈子
 「出征」に喩えて見送る複雑な心境を切実に表現した句ですね。

ふきのとう夕陽はいつもやわらかに                         本多やすな
蕗の薹の新芽の心象を、夕陽の日差しの柔らかさとして表現したのが効果的ですね。 

雪国は山もろともに暮れゆけり                          丸笠芙美子
 冬の日暮れの速さを「山もろともに」と、ダイナミックに表現しました。暗さと冷えが身に迫るような効果がありますね。                 

まあだだよ御国はどちら雪だるま                         三須 民恵   
 上五が童あそびの声のようで、雪だるまを他国から訪ねてきたかのように表現して、無邪気な雰囲気が出ましたね。

初結や産毛の光る子の額                              宮坂 市子
 正月に子供の髪を結ってあげている景でしょう。光る産毛のクローズアップ表現が効果的ですね。
 
一枚の枯葉残して去りし風                            村上チヨ子
 木枯しは木々の葉を散らすという見方や表現は類型的ですが、この句は逆に「一枚残して」と表現しました。そうすることで、作者の優しい眼差しが感じられる表現になりますね。

一心にひとりの時を毛糸あむ                           柳沢 初子
 編み物に夢中になっているさまの表現ですが、「一心に」「ひとりの時を」と効果的に表現しました。寂しさを紛らわせているような、ひたむきさが感じられる句ですね。

猿山に焚火暖とる親子猿                             矢野 忠男
 俳句では普通は猿山に猿、焚火に暖をとる、というような言葉の重なりを避けるべきだというのが通例ですが、この句は敢えて、そのリフレインで、しみじみとした感慨がわく表現になっていますね。

伊予柑をバケツで売つて里のどか                        山尾かづひろ
伊予柑は主に愛媛県で栽培されている糖度の高い柑橘ですね。「バケツで売つて」で、栽培地元で売っている景が浮かびますね。
 
針箱に母の匂ひや針供養                             吉野 糸子
 母の遺品に、在りし日の母の面影を感じるという俳句はよくあり類型的ですが、この句は針供養の季語で母を詠み、針ではなく「針箱」という具象で独自の表現をしたのが効果的ですね。
             
雲駆くる日も泰然と一冬木                            渡辺 秀雄
 雲の流れが急になり、天候が荒れている日にも、「泰然と」している「一冬木」のさまを表現して、作者の毅然とした思いの表現にもなっている句ですね。 

はや六日掛り付け医の目の優し                          磯部のりこ
 年末年始お休みだった掛り付けの医院の医師に対面したときの感慨の句ですね。ゆっくり休めた医師の眼差しに余裕があり、優しく感じたのか、休みの間、病の悪化を案じていた気持ちから解放されて安堵している自分の気持ちの反映なのか、どちらも想像させます。

明日有るを信じ水仙一花活く                           伊藤ユキ子
 水仙は香も強く室内に活けるとその香が満ちます。すがたもの清楚で凛としていますね。病がちで沈みがちな自分の気持ちを、さわやかにしてくれる景ですね。

コトコトと煮豆とろ火に喪正月                          稲葉 晶子
 身内にご不幸があって喪中の正月だったようです。「とろ火」の色と音が、ゆっくり気持ちを癒してくれているような句ですね。

書き留めし句帳三冊去年今年                           大木 典子
 三冊というのが絶妙の量ですね。一冊だと寡作過ぎますし、春夏秋冬新年ごとの四冊だと、少し過剰過ぎます。作句に向き合う丁寧な姿勢が浮かぶ表現ですね。
                     
風花や秩父武甲の息吹とも                            大澤 游子
 壮大な景の造形の、清々しい句ですね。晴れた空に遠く秩父武甲さんの彼方から、風に運ばれてきた風花が舞っているさまが浮かびます。
 
冴え返る終着駅のがらんだう                           大本  尚
梅が香に闇の膨らむ露地の奥                             〃

 一句目、句会で高得点を得た句です。終着駅で終電後の人気のない、がらんとした駅舎の雰囲気、冴え返る寒気がみごとに表現されていますね。二句目、狭い露地という空間の晩冬の雰囲気を、梅の強い香りと、それと対比した闇の濃さで表現されていますね。

風花や一樹となりて立つ朝                            奥村 安代
海鳴りやひとりに余す置炬燵                             〃

 一句目、早朝のひんやりとした空気に包まれて、身の引き締まるような想いをしているのでしょう。二句目、遠く聞こえる潮騒、一人でそれを置炬燵で聴いている。そう詠むだけでなにか人間の孤愁のようなものが詩情豊かに立ち上がりますね。

遍路地図展げ八十路の春隣                             加藤   健
冬日燦孫かるがると逆上がり                             〃

 一句目、まだ一度も実現していないお遍路行への憧れが「春隣」の季語で詩情豊かに表現されていますね。二句目、上五の「冬日燦」が輝きがあっていいですね。孫に注がれる祖父の優しい眼差しがかんじられます。

せせらぎの水音抱き冬紅葉                              金井 玲子
日溜りを分け合ひ石蕗の花群れて                           〃

 一句目、「水音抱き」が、冬紅葉に投影された自分の心を表現していて効果的ですね。二句目、「日溜りを分け合い」は、そのように見えるという描写であるとも、擬人化された石蕗の気持ちとも解することができる深い表現ですね。

夕さればほつと二人のお正月                            坂本美千子
 中七の「ほつと二人の」の「ほつ」の擬態語が安堵感を表わすことばとして効果的ですね。

寒波くる日本列島尖らせて                            鴫原さき子
裸木に孤独のちからありにけり                            〃

 一句目、俯瞰的でダイナミックな表現で、寒気に覆われた列島の姿が想像されますね。二句目、「孤独」という力もあるということ、それを「裸木」で巧みに表現されていますね。

北を指すブロンズの少女冬銀河                          攝待 信子
追分けの唄沁みとほる炬燵舟                             〃 

 一句目、湖畔に立つブロンズ像が目に浮かびます。作者が心に秘めたある決意のようなものを感じますね。二句目、下五の「炬燵舟」で河を行く舟からの眼差しであることが明かされる句ですね。追分の唄が心に沁みます。

返信を書けず机上の寒さかな             高橋みどり
 何か深刻な内容の、特に作者の心を氷りつかせるようなことがしたためてある手紙を受け取ったようです。しかも返信が求められているようです。それを「机上の寒さ」と効果的に表現されました。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」四月号)  

幾度も振り返りつつ春の虹                            村田ひとみ
 「振り返りつつ」で、作者は移動中であることがわかります。春の虹は淡く消えやすく、確かめるような心境が表れています。何か祈るような想いを抱えての移動中だったようです。
            
車椅子押す手が語る寒さかな                           望月 都子
 冬の寒気を「手」に語らせた表現が効果的ですね。車椅子に乗っている方、車椅子を押す方の双方の想いまで伝わる表現ですね。

欲も未だ七分残してしじみ汁                           稲塚のりを
逆算すると、未だ欲望が三分しか減っていない好奇心旺盛な、生き生きとした心境が読み取れる表現ですね。
 
湯豆腐やおまえ百までという真顔                         近藤 悦子
 「おまえ百まで」ということばから、久保田万太郎の句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」を想起しますね。それを踏まえて、下五で「という真顔」と結んだのが効果的ですね。決意がにじみます。

⑵ 「あすか集」から(「あすか」四月号) 

温度差に敏感な肌寒に入る                            須貝 一青
 冬の寒気の変化も、人は体感、主に皮膚感覚の気温で感じていますね。ことさらに自分の肌が、温度差に過敏であることを、わざわざ表現しているのは、老いと共にそれが鈍感になってゆくと一般に言われていることが背景にあるのですね。 


蠟梅の香りを残し主逝く                             西島しず子
 この「主」は蝋梅を育てた人なのか、一般的な妻側からいうときの夫なのかわかりませんが、人の逝去による「喪」の哀しみは、その鮮烈な「香」のような記憶に深く関わることが多いですね。
 
春めきて座りたくなるベンチかな                         丹羽口憲夫
 寒気の最中では肩をすくめて素通りしていたベンチが、陽光のなかで、しばし座ってみたくなったという実感的表現ですね。春の兆しをこのような具象表現で際立たせることができるのも俳句の力ですね。
                     
雪吊や旅のみやげの加賀手鞠                           沼倉 新二
 雪吊、旅のみやげ、加賀手鞠、名詞だけで冬期の旅情を鮮やかに表現されましたね。

俊敏に枝ぶり選ぶ春の鳥                             乗松トシ
 鳥はただ飛んできて枝に止まり、羽を休めているだけはなく、「俊敏に枝ぶりを選んでいる」ようだという発見の感慨の句ですね。

紅白梅農機具小屋の屋根を越ゆ                          浜野  杏
 中七、下五の動的な表現が効果的ですね。春の深まってゆくリズム感を感じる句ですね。

初場所や贔屓力士の髷の艶                            林  和子
 髷の艶をクローズアップした表現が効果的ですね。力士の力強い生命感と、作者の贔屓にする強い想いも感じる句ですね。
 
永遠に生くる白鳥帰りけり                            福野 福男
 厳密に言えばある白鳥という個体が永遠に生きるのではなく、種族としての白鳥の「渡り」という生命の営為が、毎年繰り返されて永遠に続いているようだ、ということですが、俳句的にそれを冒頭で「永遠に生くる」と効果的に言い切り表現したのがいいですね。

六代を経し太柱雪五尺                              星  瑞枝
 木造寺院や明治時代頃にまで建てられていた民家は、柱を太くすることで地震への耐性を持たせていました。大黒柱、大極柱などといわれる重要な柱もあり、通常は土間と床上部分との境の中央の柱床の間辺りの家の中心に当るところに、一際太い柱が使わていました。この句はそんな柱の家が六代に亘って継承されていることを詠んだものですね。下五の「雪五尺」で雪国の伝統家屋が想像されます。
 
につこりと一輪挿しの黄水仙                           曲尾 初生
 黄水仙が「につこり」とほほ笑んでいるように感じたという比喩表現ですね。「一輪挿し」の愛らしい姿で、作者の心の投影表現ですね。

アルバムを閉ぢては開く春炬燵                          幕田 涼代
 「閉ぢては開く」で、過去の思い出が作者の心の中を駆け巡っているさまが表現されていますね。春炬燵の季語の斡旋が効果的ですね。
 
広告のスニーカーの色春近し                           増田 綾子
 新聞の広告か、テレビの映像か、街頭で見かけたポスターの色使いに春を感じたという句ですね。その内容が「スニーカー」という活動的な具象であるのが効果的ですね。

マスクしても素心蝋梅馥郁と                           緑川みどり
 マスクは顔に一部を隠しますが、心模様まで隠してしまうように感じているのでしょう。まるで素顔を曝すような気持ちで「素心(そしん)」という、偽りのない心、飾らない心には変わりはないですよ、と宣言するように詠まれています。「蠟梅馥郁と」にもその気持ちが込められていますね。
          
アルプスの嶺白々と春田打つ                           宮崎 和子                        
 句の構図が壮大で清々しいですね。近景の「春田打つ」が際立ちます。
        
水ぬるむ海獣ジュゴンの大欠伸                          阿波  椿
 水族館のジュゴンが大欠伸をしているのを目撃されたのか、春の長閑さの比喩として表現されたのか解りませんが、ユーモラスでいいですね。

ものの芽の光力を貰ひけり                            安蔵けい子
 二重の意味にとれる表現ですね。「ものの芽」が春光に力をもらっている、そしてその景を見ている私の心も力をもらっている、と。伝統俳句派だと、それは曖昧な表現として「指導」されてしまうかもしれませんが、「あすか」は現代俳句派なので、その曖昧さも可として鑑賞したいですね。
 
雨戸繰る問答無用と冬がゐる                           飯塚 昭子
 まるで、出合い頭に「門無用の」冬に直面させられたような表現ですね。上五で早朝であることもわかります。
 
隙間風一家九人の熱雑煮                             内城 邦彦
 暖かさ、温かさの九人の輪が見えますね。人は冷たい風が吹いている季節感も伝わります。

鴨一羽遊ばせてゐる浮氷                             大竹 久子
 浮氷をつついている鴨のようすを見たのでしょうか。それを浮氷が「遊ばせてゐる」としたのが効果的で、視線の暖かさが伝わりますね、

木の根明く蔵王連峰雲を脱ぐ                           大谷  巖
 ひと息で読みくだす呼吸のリズムと、「雲を脱ぐ」という表現が効果的ですね。春を感じますね。
 
説経は朝帰りせし恋猫に                             小澤 民枝
 これはもう母親の眼差しですね。実際の家族の比喩表現ともとれるユーモラスな句ですね。

ペダル踏む力与へよ春の風                            風見 照夫
 春の風に呼びかける表現で、外の世界に遊びたいという思いが伝わりますね。

大晦日母のレシピに染みのあと                          金子 きよ 
 母の生活の痕跡についての感慨を詠んだ句は多いですが、年末年始用のレシピとしたのは独創的ですね。年越しの時間には特別な感慨が伴い、効果的ですね。

丸餅や郷との絆細りゆく                             城戸 妙子
 調べたわけではないので明言はできませんが、列島の西側は丸餅、東側は角餅という違いがあると聞いたことがあります。だとすれば作者の故郷は関西方面でしょうか。その故郷との絆も年と共に迂遠になってきている、という感慨の句ですね。餅の形状で故郷を表現したのが独得で効果的ですね。

うたかたの光弾きぬ薄氷                             紺野 英子
身ほとりに本のある幸雨水かな                            〃
陽炎へる木の香ただよふ太鼓橋                            〃
初漁といふ白魚の卵とじ                               〃
初蝶の光となりて風に消ゆ                              〃

 紺野さんは先月に続いて、粒揃いの秀句を詠まれていますね。かなりの実力ですね。一句目の「うたかたの光り」を弾くという表現、二句目の「身ほとりに本のある」という表現に詩情があっていいですね。三句目は「陽炎へる」から「木の香ただよふ」ともっていく表現、四句目は「初漁といふ白魚」という表現の切れ味、五句目は「光となりて風に」という変容と動的な表現、どれも巧な表現ですね。

縄解かれしばられ地蔵に春来る                          斉藤  勲
 縛られ地蔵の民話は一種の身代わり地蔵の類で、各地にあるようですが、だいたい次のような話ですね。ある小僧が大旦那の言いつけで反物をお届け先へ届ける途中、樹の下で居眠りしてしまう。目を覚ますと反物がなくなっていた。報せた役人は樹の下にいたのはお地蔵様だけだという理由で、お地蔵様を捕らえて奉行所に突き出す。村人達は、お白州で開かれたお地蔵様のお裁きに大いに関心を持って集るが、お奉行様とお地蔵様のやりとりを面白がり、酒を飲んでの祭さわぎになる。お奉行様は「無礼である」として、その村人全員に、一人につき一反、反物を差し出す罰を与える。差し出された反物の中に盗品の反物があり真犯人が捕まる。お奉行はお地蔵様も無罪にはせず、縄で縛った格好で元の位置に戻した。というなんともユーモラスな民話ですね。この句はその縄が解かれたという表現で、春到来の雰囲気を詠みました。

寄せ植ゑを転がして行く猫の恋                          斎藤 保子
 なんとも迷惑な猫の所業ですが、怒っているのではなくユーモラスな春の空気感がただよいますね。

防人のつま恋ふ歌碑や蝶の影                          佐々木千恵子
 古代人の感性では、蝶は人の魂を運ぶものとされていて、それを踏まえて、古代の防人たちのせつなさを詠みましたね。

マスクして左右の耳を橋渡し                           杉崎 弘明
 見事な「ただごと俳句」ですね。マスクを架橋と見立ててユーモラスですね。

足場解体雲をはらひて弥生富士                          鈴木ヒサ子
 長期間に及ぶ大規模修繕が終ったマンションか、小規模の民家の外装修繕工事が終わったの景でしょうか。その保護テントが外されるのと、雲がとれて姿を顕した富士山を取り合わせて、清々しい気分を効果的に表現しましたね。

春立つやのつぽの影と二人旅                           鈴木  稔
 冬から春にかけての影は、太陽の位置が低いので長く地面に映じますね。二つ並んで進む「のつぽ」の影の表現で、春風の中を旅する爽やかな気分を効果的に詠みましたね。

七草を買うて来る世になりしかな                         砂川ハルエ
 むかしは春の七草は、野に出て自分で摘んでいました。その行為自身が楽しまれていたのですね。そんな文化も失われてきたという感慨の句ですね。

子等乗せし車の尾灯雪に消ゆ                           高野 静子
 おそらく正月か冬休みに帰省していた子供たちが、車で帰ってゆく、ちょっと寂しくなる景を詠んだ句でしょうか。下五の「雪に消ゆ」に詩情があって効果的ですね。
               
着膨れて車に五人夜明け前                            高橋 光友
 どこか車で遠出した帰りなのでしょうか。夜明け前」で夜間の旅で寒かったことが「着膨れて」でわかります。後部座席に三人乗っていて、窮屈な思いをしたことまで伝わります。

茎立のくすむ光の土手つづき                           滝浦 幹一
「茎立(くくたち)」は三春の季語で、三、四月頃、大根や蕪、菜の類が茎を伸ばす事ですね。一般に茎立した野菜は潤いがなく味が落ちるといわれています。下五を「土手つづき」として、何かくすんだ感じの春先の空気感を表現しましたね。
 
初満月白雪富士と張り合つて                           忠内真須美
 寒月は晩冬の冴え冴えとした月ですが、これは新年の初めての満月を詠んだものでしょう。「白雪富士」と新年の輝きを競っているという表現が効果的ですね。

松手入れ鋏の音の天をつく                            立澤  楓
 松手入は晩秋の季語で、赤く変色した古葉を取り除き、風通しをよくしてやると、松の姿は見違えるほどよくなります。その清々とした気分を「鋏の音の天をつく」と、大きく表現したのが効果的ですね。

早やばやと一声発す蕗のとう                           千田アヤメ
蕗の薹は初春の季語で、花茎は数枚の大きな鱗のような葉で包まれ、特有の香気とほろ苦い風味が喜ばれていますね。真っ先に野で声を上げているようだ、という表現が効果的ですね。                          

小流れの音やはらかに去年今年                          坪井久美子
 小川のことを「小流れ」というゆかしい和語で表現したのが効果的ですね。行く年来る年の感慨表現の句ですが、作者の心が穏やかなさまが伝わりますね。
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「あすか塾」2022年 1 

2022-02-01 18:40:12 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」2月)   


◎ 野木桃花主宰句(「年新た」より・「あすか」二〇二二年一月号)

耳ふかく父母の声年新た
ふるさとの色どり豊かお重詰
加留多読むひと日心を遊ばせて
孔子木すくつと立てり去年今年
語り部の記憶をつなぐ小正月

【鑑賞例】
 一句目、例えば「心深く父母の声あり年新た」と詠んでもいいところですね。でもこの句は「耳ふかく」として、身体性に引きつけた「ちちはは」の声の質感ごと甦っているという現代俳句的な、実存感のある表現になっていますね。二句目、生家の郷土色豊かな重箱の正月料理を嫁いでも守り、毎年再現し続けているのでしょう。三句目、「犬棒」加留多ではなく、和歌加留多、つまり百人一首で読み手が和歌の上の句を読み上げる、あの朗朗とした正月らしい音響に包まれていますね。四句目、「孔子木(こうしぼく)」というのは植物学博士の牧野富太郎が名付けた別名で「楷の木」のこと。別名に爛心木、南蛮櫨、孔子の木(クシノキ)、特に中国では黃連木とも呼ばれる木で鮮やかな赤に紅葉します。「楷の木」の名は直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされています。別名の孔子の木(クシノキ)は、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木が、代々植え継がれていることに由来するそうです。また、各地の孔子廟にも植えられていて、孔子と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を送ったことから、学問の聖木とされています。初学の志を新たにされた句でしょうか。五句目、日本の韻文文化は散文より古く、忘れてはいけない大事な過去の記憶を謡い語ることを緒元とします。「小正月」というような古い慣習の季語と、句を詠む俳人としての矜持を感じる句ですね。

〇 武良竜彦の十一月詠(参考)
柳葉魚焼く校歌は山河永久に謡ふ
霊に重さあるとするなら散紅葉   

(自解)(参考)
 一句目、校歌にはその地区の悠久の自然が必ずといっていいほど詠み込まれています。今となってはそれが失われつつあることの危機感を感じますね。二句目、季節の色を纏って四時(いしじ)の変遷に身を委ねる散紅葉。すべての精霊の魂が宿っているように感じます。

2「あすか塾」36  2022年2月
  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十一号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。 

    
湖はみな哀話を持てり薄紅葉                           鴫原さき子
横顔を持たぬ案山子でありにけり                         鴫原さき子

 一句目、例えば榛名湖には女人入水説話が諸説あるように、多くの湖には同様の伝説が残されていますね。水平に広がる湖面が何か哀しみのようなものを抱えているように感じるのは詩人の感性でしょうか。二句目、最近は立体的な案山子も見受けられるようになりましたが、たいていの案山子は厚みがなく薄くて、顔の部分は横から見ると扁平で「横顔」というものはありませんね。作物を被害から守るための田という「正面」向きの仕事を負わされた、人型の哀しみのようなものを感じます。

藁塚や風の形を留めをり                              白石 文男
 藁塚は円錐形をしていますが、風に一方向に靡くような跡がついているのを発見した句ですね。

泡立草勢ひづくや津波跡                              摂待 信子
 河原や空き地などに群生する「泡立草」は北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)。芒などの在来種と競合しているそうです。山田みづえの「泡立草穂すすき雑草合戦図」という句はその様を詠んだものですね。信子さんの句は荒れたままなっている津波跡の荒涼感を表現しました。兜太に「泡立草群れて素枯れて思案かな 」という句もあります。

仏壇の菓子はなやぎてクリスマス 高橋みどり
 宗旨を違えているのにクリスマスの派手なイルミネーションなどの過剰ともいえる光の洪水で、仏壇の菓子まで「はなやいで」見えるというアイロニーですね。ごった煮日本文化ですねー。

冬の薔薇今朝の青空虚ろなり                            服部一燈子
 今月の一燈子さんの句は暗めのものが多かったのですが、何かそのような思いをされることがあったのでしょうか。憂いを抱えた人にとっては、薔薇の花の鮮やかさが過剰に感じられたり、空の青さが虚ろに感じられたりするものですね。

山寺の庭の深きにこぼれ萩                            本多やすな
 こぼれ萩は深まりゆく秋の風情ですが、それを庭の「深きに」と表現されました。庭は物理的には一定の空間ですから、広い、狭いという言葉で普通は表現されますね。それを心の奥行きのように表現したのが効果的ですね。

夕映えの風のゆくへや鳥渡る                            丸笠芙美子
 渡り鳥の行方ではなく、風の行方という表現にしたのが、深みがあっていい表現ですね。大気の動きが渡り鳥に先行しているような、大きな季節の変動感がありますね。

冬日差す房総の崖目を醒ます                           三須 民恵
 房総半島の地層は,大部分が海洋プレートのかけらや海底の堆積物から成り立っていて、それが活発な地殻変動によって海底から持ち上げられ陸上に顔を出し,私たちの目に触れるようになったそうです。その部厚い歴史性を踏まえて「目を醒ます」と詠んだのですね。

スイッチバックして姥捨の月今宵                          宮坂 市子
 スイッチバックは、険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた道路又は鉄道のことですね。悲話を抱え持つ姥捨山の月が、まるでそのように屈折して上がってきているような、独特の表現ですね。

潮騒や房総指呼に月見酒                             村上チヨ子
 神奈川県の海岸線の高台から見た房総半島の景ですね。月見酒ですから、窓外に東京湾を挟んで月光に浮かぶ房総半島が見えているのでしょう。上五に「潮騒」の季語を置いたのがいいですね。

病棟の長さ際立つ秋灯                              柳沢 初子
 大病院の病棟は一直線で長いですね。病室の数だけ窓があり、秋の灯が点っているのでしょう。それだけを描写して、病を抱えて入院している人たちの個々の思いに寄り添うような表現になっていますね。 
 
秋寂の社よ里よ水細る                              矢野 忠男
 社よ里よ、と呼びかける詠嘆のリズムで「水細る」冬に向かう寂寞が表現されていますね。

洞窟の切符売る婆股火鉢                            山尾かづひろ
 観光客が来るような鍾乳洞なのでしょう。その入場券を売っている老女が足下の火鉢で暖をとっているほど寒いのでしょう。季節の寒さだけでなく、鍾乳洞の冷気まで感じる表現ですね。

竹篭を真っ赤に染めて烏瓜                            吉野 糸子
 竹篭を真っ赤に染めて、という表現が巧みで効果的ですね。熟した烏瓜の赤は本当に鮮やかです。

ビル街の時は早足夕月夜                             渡辺 秀雄
 アインシュタインの宇宙物理学的な世界では、時の進行は条件によってズレが生じるようですが、特定の地域の等時性は不変のはずです。でも詩人の感性ではビル街は時が速く進むように感じられてしかたがない、というわけです。街全体が分刻みでセカセカと動いているように感じられますね。

立話して団栗に打たれけり                            磯部のりこ
十三夜淡き白雲脱ぎ着して                            磯部のりこ

 一句目、まるで「罰が当たった」ような表現がユーモラスですね。二句目、「脱ぎ着して」という擬人化した表現が効いていますね。

語り部としての生きざま秋高し                          稲葉 晶子
 歴史的な被害を被った地区で、その悲劇を語り継いでいる人の生き様に共感した句だととれますが、自分が俳句を詠んでいることも、一種の「語り部」的行為ではないか、という思いも込められているように感じる句ですね。

トンネルは煉瓦積みなり葛の花                          大木 典子
 現代的なトンネル工法は進化しているでしょうが、古いトンネルは、この句のように煉瓦積み工法で造られているのを見かけますね。その時代感と季語の「葛の花」がぴったりですね。

校庭の角に火柱櫨紅葉                              大澤 游子
 まさに櫨の紅葉の燃えるような鮮やかさをずばり「火柱」と表現してインパクトがありますね。十代の生徒達が集う若さの熱気の象徴のようでもあますね。

また別の光の道へ秋の蝶                             大本  尚
 こう詠まれると、まるで秋の蝶が光のハンターのごとく日差しを追って飛んでいるかのようですね。むろん、作者の心の投影の比喩表現でもありますね。

秋寂ぶや庇寄り添ふ漁師小屋                           奥村 安代
 庇を連ねて小さな漁師小屋が並び建っている漁村の景色が、秋の光の中に浮かびますね。心地よい昔ながらの共同体の暖かみも感じます。

向ひ風切り裂く秋の白帆かな                            加藤  健
 帆船と風の関係を熟知の上で詠まれた句ですね。「切り裂く」で風の強さも伝わります。

こぼれ萩水無き井戸の小暗がり                            金井 玲子 
涸れ井戸の森閑としたわびしい景を「こぼれ萩」という季節感と動的な表現をしてから、「小暗がり」に収斂させた詠み方が効果的ですね。

治部少輔柿食さずに逝きにけり                           坂本美千子
碑に七言絶句も鵙高音                              坂本美千子

一句目、治部少輔は、じぶしょう、じぶしょうゆう、などと読み、治部省の次官二人中の下位者、従五位下に相当します。江戸以降は豊臣秀吉の臣、石田三成をさすことが多くなりました。徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しましたが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑されました。その末期の食として柿が出されたが「柿は体に悪い」または「体が冷える」と言って拒否したという逸話が残っていて、この句はそれを踏まえて詠んだものですね。二句目、「七言絶句」の「絶句」は四句からなる近体詩という漢詩体の一つ。一句七言で四句からなり、二句目と四句目が脚韻を踏み、四句の内容が順に起承転結になるように作る漢詩ですね。故人の慰霊碑でしょうか。そこに見事な漢詩を発見した感慨の句ですね。 

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」一月号から)  

絶筆の目のなき龍や冴ゆる月                           村田ひとみ
 日本画の巨匠が弟子に遺した絶筆である龍の絵に、弟子が「眼」を入れて完成させたという逸話を踏まえて詠んだ句だそうです。下五の「冴ゆる月」が相応しいですね。

躊躇ひを言葉に変へてピラカンサ                         望月  都
 植物にも「ピラカンサ」があり初夏に白い梅のような花をつけ、秋から冬にかけて可愛らしい赤い実をたわわにつけますが、これは季語にはなっていません。季語になっている「ピラカンサ」は冬の鳥全般を指す三冬の季語で、子季語に、冬鳥、寒禽、かじけ鳥という言葉があります。雪の上の鴉や雀、ピラカンサなどの実に群れている椋鳥など、種類はさまざまですね。この句は何の躊躇いを冬の鳥に託したのかは不明ですが、語義が二種類あるので、その間で揺れているように感じる句ですね。

美しき嘘を聞きをり虎落笛                            稲塚のりを
 嘘にはいろんな種類がありますね。人を騙す悪い嘘から、聞き手の心を慮ってつくやさしく切ない嘘まであります。この句の嘘は後者の嘘でしょう。言っている側の心の複雑な思いが季語の「虎落笛」に込められているように感じますね。

鰐口のにぶき響きや秋日差                            近藤 悦子
譲渡書の実印歪む秋の暮れ                            近藤 悦子

 一句目、鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。金口、金鼓とも呼ばれる金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打ち誓願成就を祈念します。金属の響が秋日差しと調和していますね。二句目、「実印歪む」で逡巡の気持ちを表現して見事ですね。

十三夜カレーを焦がす妻がいて                          須貝 一青
 十三夜と少し焦げたカレーの匂い。円満な家庭の空気が感じられます。一青さんの愛妻俳句は「あすか」で一番です。          

⑵ 「あすか集」(「あすか」一月号作品から) 

晩秋の風亡き母の独り言                             千田アヤメ
 冬に向かって北風がだんだん強くなる季節。聞き慣れた隙間風の音が聞こえてくる季節でもあります。その音を亡母の独り言としたのが効果的ですね。

手作りの花笠回し運動会                             西島しず子
 花笠が、参加している生徒一人ひとりの手作り、という点に届く眼差しの深さがいいですね。

抽斗に動かぬ時計神の旅                             丹羽口憲夫
 季語の「神の旅」の「旅」の動的な言葉と、止まったままの時計、それを閉じ込めている抽斗という構成がお見事ですね。

団栗の百万分の一つかな                             浜野  杏
 手にした団栗を見て、「百万分の一」という貴重な物だという感慨の表現にしたのが効果的ですね。人間だってそうだよねー、という背後の思いも伝わります。

捨案山子流行りのTシャツ惜しげなく                       林  和子
 まだ新品の、今流行りのデザインのTシャツを案山子に着せてあるのを発見して、労りの気持ちを感じている句ですね。

裏鬼門南天の実固まりて                             曲尾 初生
 裏鬼門とは鬼門の正反対にあたる方角。起源や考え方の基本は鬼門と同じ。裏鬼門は数ある鬼の出入り口の中でも最後に鬼が出ていく場所。そのため陰陽道などでは鬼門だけの対策だけでなく、裏鬼門の対策も行ってきました。裏鬼門の方角は南西です。北東の正反対の位置にあたり、干支に当てはめると未と申の間で未申(ひつじさる)となります。南西は北東の対角線上にあたる場所。そのため陰陽道では北東と南西の間は不安定になりやすいと考えられてきました。ちなみに裏鬼門の干支には申があたるので、古来よりその対策として申の彫刻や置物をおいて対処してきたとされています。この句の南天は、「南を転じる」ことに関連して植えられているのでしょうか。

尻餅や空青々と大根引く                             幕田 涼代
 太くて長い大根を引き抜いた瞬間の動的な一瞬を切り取った句ですね。尻餅をついて視線が上向きなって、視界に広がる青空も見えます。

秋うららサドル一段下げにけり                          増田 綾子
 児童と高齢者は転倒しないように、サドルの位置を低くして、両足が地面に着くようにして乗ることを勧められますね。それを守って、安全対策をぬかりなく行って、さあ、うららかな季節の中に踏み出そうという爽やかな思いが伝わります。 

晩秋や鍬すく男の影長し                             宮崎 和子                        
 晩秋から冬の陽の低さと影の長さ、そして暮れの早さ、それを畑打つ人の姿として描き出した句ですね。静かな抒情が立ち上がります。

息かるく母のまじなひ石蕗の花                          安蔵けい子
「息かるく」の主体と情景が少し解りにくいですが、「母のまじない」は子供が打撲傷を負ったときなど、息を吹きかけて指でさすりながら唱えてくれた言葉と仕草が浮かびます。下五「石蕗の花」の路傍の花である季語が効いていますね。上五は「息かけて」でいいのではないでしょうか。

ストーブの熱量譲る間柄                             内城 邦彦
「熱量譲る」という言葉が独創的ですね。ストーブの熱の放射には強いところと弱いところがあります。それを譲り合っている仲睦まじい間柄が、そのぬくもりといっしょに伝わります。

風凪て湖水に休む落葉かな                            大谷  巖
 ただ落葉が湖水の水面に散っただけの景ですが「湖水に休む」とした表現に抒情性がありますね。

彩も香も小さく納め返り花                            小澤 民枝
 返り花はどうしても小ぶりなものなることが多いようです。それを「彩も香も小さく納め」と、可愛らしく表現して、作者のやさしい眼差しも感じされる句になりました。

ヴィオリンの音色とどけて冴ゆる月                        金井 和子 
 バイオリンではなく「ヴィオリン」と表記するのなら、いっそフランス語で「ヴィオロン」と表記した方がもっと情感が出たのではないでしょうか。冴える月光とその音色がいいですね。

釣瓶井戸桶に野菊の忘れ物                            金子 きよ 
 実景を詠んだ句でしたら、まだ共同井戸でしかも釣瓶井戸が存在している所があるのですね。作者はそれだけではなく、野摘みしてきた野菊を忘れていった人がいるという物語性のある場面として描きました。余韻のある表現ですね。
             
水音の遠きにありて黄櫨紅葉                           城戸 妙子
 「水音の遠きにありて」と、実景のようでもあり、幻想のようでもある表現にして、秋の水音という普遍的な季節感で、黄櫨紅葉を包みこんだのが効果的ですね。

行く年や語らふごとく詩を誦す                          紺野 英子
風呂敷をふんはり被せ熊手買ふ                          紺野 英子
炉話や遺愛の棗掌にかるし                            紺野 英子

 三句とも粒揃いの秀句ですね。一句目、詩の朗読会の景と解してもいいですが、作者独りのこころの様とも読める句ですね。二句目、「ふんはり」は作者の所作の優雅さ、心根の優しさを感じる表現ですね。三句目、親しい人の遺品の棗を手に炉話を聞いているのでしょう。その人の思い出話ではないかと想像させますね。「掌にかるし」がお見事です。

月さして部屋いつぱいに吾の影                          斎藤 保子
 何か充足感のようなものを感じる表現の句ですね。部屋の灯を消して月光を楽しむ心の余裕がそうさせているのかもしれません。

夜行急行の窓懐しや冬銀河                           佐々木千恵子
 開閉自由の車窓ではなく、嵌めごろしになっている寝台特急のような列車の車窓のようです。長距離の夜行列車で帰郷していた、かつての学生たちの姿が浮かびます。

鳥来ればかつと目を剥く案山子かな                        杉崎 弘明
 案山子は実際には眼を見開いたりはしません。そんなことができる進化した人形タイプの案山子のことかもしれませんが、この句は役目を果たしている案山子の心象表現と解しました。

実南天仏間に生けて退院日                            鈴木  稔
 南天は「難を転じて福となす」に通じることから、縁起木として親しまれてきました。戦国時代には、武士の鎧櫃に南天の葉を収め、出陣の折りには枝を床にさして勝利を祈りました。正月の掛け軸には水仙と南天を描いた天仙図が縁起物として好まれました。江戸時代に入ると、南天はますます縁起木として尊ばれるようになり「これを庭に植えて火災を防ぐ」とされました。この句の背景にはそんな日本古来の文化の伝統があります。「退院」を寿ぐ思いの詰まった表現ですね。 

黒土に命託して虫逝けり                             高野 静子
子を育てデジタル駆使す一葉忌                          高野 静子
海渡る難民の背を冬が押す                            高野 静子

 多様な題材、多角的な視座のある三つの句です。一句目は天命を悟っているような境地、二句目は時代の変遷と、独身で子育てなど体験していない擬古文による物語作家の一葉と、デジタル時代の子育ての環境の違いを鮮やかに表現しました。三句目は命さえ危ぶまれる洋上の孤立した難民の境遇に思いを寄せた社会性のある表現ですね。

自転車の空気入れ足す冬うらら                          滝浦 幹一
 自転車でピクニックにでも出かけようとしているような句ですね。春に相応しい題材ですが、たまたま暖かい日差しに恵まれた冬の一日の、浮き立つような気分の表現にぴったりですね。 



※                      ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」1月)  

◎ 野木桃花主宰句(「くだら野」より・「あすか」二〇二一年十二月号)
火口湖の黙を沈めて水の秋
錦秋や湖の愁ひをともなひて
鐘一打山頂テラス霧ごめに
馬の背に微動だにせぬ冬帽子
点景の羚羊冬の遠からず
くだら野や失ひし過去へ深入りす

【鑑賞例】
一句目、「沈めて」で水の重さと「黙」の深さが伝わりますね。二句目、一句目との連作で静けさが一層深まっていますね。三句目、霧深き山小屋のテラスでしょうか。静けさを逆に「鐘一打」という音の後の余韻で表現されていますね。四句目、馬上に人がいるのですが、その不動の気配を「冬帽子」だけで表現されました。五句目、向こうの山との距離感、空間の広さ、小さい点のように見える羚羊、その全体に冬の冷気が迫ってきているようです。六句目、「くだら野」は朽野 枯野のことですが、枯野よりも草木の枯れ朽ちた様がより強調される季語ですね。人生には喪失感が付き纏うものです。大切な人との別れなどがその一例。気が付くとずっとこのことばかり考えていることがありますね。その茫漠たる喪失感と「くだら野」の景が拮抗していますね。

〇 武良竜彦の十月詠(参考)
十月や巣籠りのまま逝く虫も       
十月の巒(らん)気(き)のごとき疫病(えやみ)冷え  
     
(自解)(参考)
二句とも新型コロナ・ウイルスの世相から詠みました。一句目は病院に収容されることなく亡くなった方への悼句です。虫に例えるとは不謹慎な、と叱られそうですが、その見殺し感を表現したつもです。二句目、「巒気=らんき」は山特有のひえびえとして冷たい空気、山気のこと。感染症は罹患すると発熱しますので、これは人体のことではなく世相の冷え込みの喩的表現です。

2「あすか塾」35  2022年1月  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十二月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。  
   
ちちははの齢を既に銀河澄む                            坂本美千子
 寿命は遺伝的なものと聞きますので、特にこのことへの感慨がありますね。美千子さんはその思いを下五の「銀河澄む」で、澄みわたった宇宙的な天命観へと昇華表現しましたね。 

問い問われ旅人と知る城の秋                           鴫原さき子
 旅の途上で「どちらから?」と互いに尋ね合ったのでしょう。そのことで今自分が旅路にあることを改めて自覚したという感慨ですね。時代を感じさせる「城の秋」としたのが効果的ですね。

秋湖の匂ひ満ち来る身のほとり                           白石 文男
 「身のほとり」という表現で、匂だけではなくその景全体の只中にいる実感が伝わりますね。

採血に息を凝らして深む秋                             摂待 信子
 「息を凝らして」で慣れない体験による緊張感が伝わりますね。下五の「深む秋」で、自分の身体的なことへの思いを深めているようです。
 
父母のあらば天の高さを言合へり 高橋みどり
 単なる回想や想像ではなく、これは逆の深々とした喪失感の詩的表現になっていますね。

日の高し冬の小鳥の寝てをりぬ                         長谷川嘉代子  
 本当に「寝て」いるのかどうは解らないはずですが、「寝てをりぬ」と敢えて断言的言い切り表現にすることで、ある情感が立ち上がりますね。

無花果や一日一果を薬食とす                            服部一燈子
 無花果は晩秋の季語ですね。「薬喰(くすりぐひ)」という三冬の季語がありますが、これは体力をつけるために、寒中に滋養になる肉類を食べることですね。獣肉を食べることを嫌った時代があったので、これを薬と称して鹿や猪などを食べていたわけです。この句は「無花果」を薬のようにして食べたという思いの表現ですね。
 
遠き日やどんぐりひろいの教科あり                        本多やすな
鬼やんま時間の嵩が消えて行く                          本多やすな

 一句目、まだ時代がゆったりとゆとりがあったことを感じさせる句ですね。二句目、時間というものに「嵩」を感じるときとは、どんな時でしょう。この句の場合は何か為すべきことが滞っている状態を感じさせますね。それが解消された安堵感を表現しているように感じますね。
 
降りつのる雨燃えつのる花野かな                          丸笠芙美子
 雨の中でその濡れ色で一層、燃え立つような輝きを放っている花野の景でしょうか。「つのる」のリフレインが効果的ですね。

頬張って朝の空気は冬の味                            三須 民恵
 空気を「頬張る」とはあまり言いませんね。その大胆な表現が効いていますね。林檎でも齧るかのように、初冬の空気を味わっていることが伝わりますね。

目はすでに少女鬼灯もみてをり                           宮坂 市子
「鬼灯」を揉むのは皮を毀さず、中身を取り出して空っぽの球体にして、口に含んで鳴らず遊びをしたいからですね。花は叩いて爪を赤く染めるのに使っていました。主に少女の遊びですね。そんな乙女時代への感慨の句ですね。

ちちろ虫夫の手擦れの辞書繰れり                         柳沢 初子
 夫も辞書を傍置いて調べものをする方のようです。俳句を詠むようになって自分もその辞書を使っている、という感慨の句ですね。辞書には印や書き込み、折り皺などが残っていたりして、間接的に夫と対話しているような気持ちになっているのかもしれません。なんでもスマホで済む時代にはなかった抒情が立ち上がりますね。
 
土の香を嗅いで起こして秋の空                           矢野 忠男
 秋の土起しの作業を、そのようにストレートには表現せず、「香を嗅いで」を先ず入れて、二段階のアクションにしたのが効果的ですね。その行為そのものを味わっているような感じが伝わります。土起しをしてから、土を手に取って嗅いでいるのではなく、まず深呼吸をして土の香と季節感を味わい、おもむろに土起しを始めているのですね。

史跡読む転びバテレン懐手                           山尾かづひろ
 解説するまでもないことだと思いますが、「バテレン=伴天連・破天連・頗姪連」はポルトガル語でキリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に対する呼称、「パーテレ」が元になった語ですね。そこから日本に伝来したキリスト教の俗称、またはその宗徒の意になりました。この句は、キリスト教弾圧があった不幸な時代に、踏絵などを迫られて、やむなく宗旨換えをさせられた人の「史跡」を読んでいるのですね。下五の「懐手」に沈思黙考の思いが籠ります。

語尾荒げ次の舞台へ法師蝉                            渡辺 秀雄
中七の「舞台へ」で切れている句ですから、上五中七の行為の主体は蝉ではなく人間だとも解せます。しかし、まるで「法師蝉」が一際高く鳴いて、その場所から飛び去った景のようにも感じる面白い表現の句ですね。

味噌汁の菜を摘みに出る朝の畑                           磯部のり子
 農家としての専用畑ではなく、庭先などの家から近い場所に家庭菜園を持っている人の暮しの一コマを切り取ったような句ですね。晩秋か初冬の朝の空気感が伝わります。

手ざわりの三粒の種や大根蒔く                          伊藤ユキ子
 感じることは生きること。一つひとつの行為を、慣習にしてしまわないで、日々の命を噛みしめて生きるとは、このような感度の高い感性を生き生きと働かせて生きることですね。上五中七に無駄のない、切れのある句ですね。

朝霧に足絡まれて山くだる                             稲葉 晶子
校門に鳥の口上九月来ぬ                             稲葉 晶子
風を呼び風をはなさぬねこじやらし                        稲葉 晶子

 一句目は「朝霧に足絡まれて」、二句目は「鳥の口上」、三句目は「風をはなさぬ」と、類型を脱した、自分だけの独創的な表現がされていますね。比喩的表現の熟達と、その上に拓ける表現の地平を目指されているような意欲を感じる句ばかりですね。
 
裂織の指のざらつき昼の虫                             大木 典子
豪放な筆字のラベル新走り                            大木 典子

 一句目、裂織(さきおり)は、傷んだり不要になったりした布を細く裂いたものを緯糸(よこいと)として、麻糸などを経糸(たていと)として織り上げた織物や、それを用いて作った衣類のことですね。表面が芸術的な凹凸があります。それに触ることで、自分の手荒れの「ざらつき」を自覚した、という感慨表現でしょうか。下五の「昼の虫」で秋の乾いた空気感も伝わりますね。二句目、新走りはその年の新米で醸造した酒のことですね。今は寒造りが主流となって季節感がズレてしまっていますが、元々は新米が穫れるとすぐに酒作りをしたのですね。その新米の収穫のめでたさを祝う思いがこの季語には含まれているのです。この句の上五中七の表現がその祝賀気分を表わしていますね。

盛り皿に触れ合ふ手と手衣被                           大澤 游子
はらからの根釣りの一尾夕餉膳                          大澤 游子
海のなき故郷へ続く鰯雲                             大澤 游子

 一句目、大皿を家族で囲んで和気あいあいと食している景が浮かびます。二句目、季語「根釣り」の「ね」は海底の岩礁などの障害物の意で、海中の岩などの根方、割れ目にひそむ魚を釣ること。水底につく魚の多くなる晩秋がその季節とされています。兄弟同朋が釣ってきてくれた魚の「夕餉膳」なので家族の空気感も伝わります。三句目、故郷は内陸で海に面していない所だったようです。下五を魚の名のつく季語にしたのが効果的ですね。

下りることなき遮断機や秋の蝶                          大本  尚
 遮断機が壊れて、長いこと放置されているのでしょうか。考えられるのは廃線になった線路の踏切の景でしょうか。過疎化するご自身の故郷の景でしょうか。寂しさの身に染む表現ですね。

いくさ場の今なほ昏し百舌の声                          奥村 安代
骨片のやうな流木銀河濃し                            奥村 安代

 一句目、古戦場の景でしょうね。芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」は空しさの表現ですが、この句は今なお昏いという歴史的な影響の現在性に焦点を当てていて斬新ですね。下五の「百舌の声」も贄を想起させて不気味です。二句目、形のいい流木は民芸品に加工されて売られていますが、元々は植物の「死体」であることを「骨片」と即物的に表現してインパクトがありますね。下五の「銀河濃し」で宇宙的な時間の中に置き直しています。いずれ人間も・・・という批評性も立ち上がりますね。

竹林の闇を切りとり黒揚羽                              加藤  健
触れてより蕾弾くる枝垂れ萩                           加藤  健
 一句目、上五中七の表現が効果的ですね。竹林の中は昼でも薄暗く闇を湛えていますね。そこからふわっと黒揚羽が、まるで竹林の闇の欠片のように飛び立ったという劇的な表現になりました。二句目、零れ萩ともいうように萩の花は少しの揺れでも散ります。それを、自分をアクショ
ンの起点として表現したのが効果的ですね。

小鳥来る手作り工房並ぶ街                              金井 玲子 
 「手作り工房並ぶ街」で、何かクリエイティブな活気と雰囲気の街の様子が浮かびます。それだけだとただの説明ですが、上五に季語の「小鳥来る」を置いて自由で楽し気な効果を上げましたね。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十二月号から)
 
星星の澄む声聞こゆ賢治の忌                           村田ひとみ
母の忌の露ほろほろと葉を流る                          村田ひとみ

 一句目、賢治のイーハトーブ童話世界へのリスペクト感に満ちた句ですね。「星星の澄む声」という「無音」を音化したのが効果的ですね。二句目、「露ほろほろと」という擬態語的な音韻の響が、母に対する敬慕の抒情表現にぴったりですね。昔、墨を摺るとき採ってきた、大きな里芋の葉の露は玉状になって葉の上を転がっていました。

角砂糖の角の溶け行く良夜かな                          近藤 悦子
九九の声一人ずれたり鰯雲                            近藤 悦子 
 
 一句目、本当に角砂糖が角から溶け始めるのか、真偽のほどは知りませんが、この句はティタイムの心理的なほぐれを暗喩的に表現したと読めますね。二句目、子供が声を上げて九九を覚えている授業の景ですね。その中にみんなから遅れてしまう子がいます。微笑ましい一瞬を切り取りました。

おしろいの咲きて路地への道標                          稲塚のりを
 おしろい花の白を、路地への道標と詠んだ視点がいいですね。そこで暮らす人々への温かい眼差しが感じられる句ですね。
句の載りし俳誌祝うや実南天                           須貝 一青
 俳句同人誌なら自句が掲載されるのは当然ですね。この句は有名な商業誌の読者投稿欄に優秀作として掲載されたのでしょう。朱色の南天の実がまるでそれを寿いでいるかのようです。            
豆柿の自覚の色や黄金色                             望月 都子
 豆柿は枝に小粒の実をびっしりと付けて、その「黄金色」が賑やかですね。霜が降りる頃に渋が抜けるので、一部食用にもなりますが、主に未熟果から柿渋が採られました。この句は、やがて柿渋になる豆柿の「自覚」を、その黄金色に見たのでしょうか。

⑵ 「あすか集」(「あすか」十二月号作品から) 

今日もまた有明月をベランダに                          忠内真須美
 毎日繰り返される暮しの一コマなのですね。まるで月を独り占めした気分の早朝の空気感です。
 
庭師のごと枝を落とすや秋の空                          立澤  楓
 上から突然、小枝が降ってきたのですね。庭師が入って剪定作業でもしているのかと思ったら、人影はない。自然が季節の変り目にしていることだったのですね。まるで秋の空の意志のように。

私を見てあわてて落ちる零余子かな                        千田アヤメ
 擬人法の句ですね。そのように「私」が感じたという表現ですが、俳句では「かのように」と説明せず、ずばりそう言い切ることで味わいが深くなりますね。

日照雨降り丸まる太る秋茄子                           坪井久美子
「丸まる太る秋茄子」は普通の表現ですが、「日照雨」の中の景にしたのがいいですね。「降り」と言わなくても解りますので「降り」は削りましょう。字余りもなくなりますね。

広大な大地潤す蕎麦の花                             西島しず子
 壮大な蕎麦畑の一面真っ白の世界ですね。「広大な」と説明表現にしないで「ひろびろと大地潤し蕎麦の花」というように「し」でキレを入れて描写的表現にしたらもっといい句になると思いました。 
 
吾亦紅古里はいまダムの底                            丹羽口憲夫
菊日和谷中の猫はよく太り                            丹羽口憲夫

 一句目、故郷がダム湖の底に沈められたのですね。戦後の高度経済成長期に日本各地で起こったことでした。石牟礼道子の小説『天湖』は九州で実際にあったことを元にした小説で、故郷を失うということがどういうことか考えさせます。上五の「吾亦紅」の季語が効いていますね。二句目、谷中は町ぐるみ猫を保護飼育している町として有名ですね。幸せそうな猫の姿が浮かびます。

秋の声みみずの声も混じりをり                          沼倉 新二                
 季語の世界では春に亀が鳴き、秋には蚯蚓が鳴くといいます。本当は亀も蚯蚓も鳴いたりはしませんが、その声が聞こえるように思うのが俳諧の趣ですね。秋の夜のしんとした静けさを「声」として「混じりをり」と敢えて表現したのですね。 
                     
奥宮へ見上ぐる磴や初紅葉                            乗松トシ子                       
「磴=トウ」は石でできた階段。訓読みでは「いしざか・ いしだん・ いしばし」とも読みますが、ここは音読みの表現がいいですね。そこを初紅葉が染めている景ですね。視線が上向きで背景の青空も見えます。 

手折ること拒む白さよ杜鵑草                           浜野  杏
「杜鵑草」は紫紅色の斑点のある花ですが、それがかえって白地を際立たせています。何か人を寄せ付けない凛とした雰囲気を捉えた句ですね。

落蝉や暗がりの地を終として                           林  和子
 哀愁の滲む表現の句ですね。地に還るのが命あるものの定めですが、その暗がりこそが安心立命の境地なのかもしれません。

俳句てふ文字のアルバム秋の旅                          曲尾 初生
 句帳を「文字のアルバム」とした表現に味わいがありますね。ただのノートではなく自分の心を記録したアルバムなのですね。心の旅路としての「秋の旅」の季語を下五に置きました。

食卓の夫の定位置栗ご飯                             幕田 涼代
夫の食卓の席を「定位置」と表現して、ご夫婦の季節の定番料理である暮らしの一コマを表現した句ですね。

朝顔の野生となりて草を這ふ                           増田 綾子
 専用の棚を作って咲かせていた朝顔が、まるで野生帰りをしたように、思わぬところまで蔓を伸ばしている様を、「草を這ふ」表現したのが効果的ですね。

百目柿袋をかけて良き予感                            緑川みどり
 労働の動作と吉兆の予感を素直に結びつける、楽しげな心持ちが伝わる句ですね。

藁ぼっち雀は何処へ行ったやら                          宮崎 和子                        
 稲架掛けをして干した後、その藁を結わえて田圃で更に干す様を「藁ぼっち」といいますが、そのクローズアップから、雀の行方へと視点を自然の空の方に広げた表現が効果的ですね。

床の間に活けて人呼ぶ花芒                            村上チヨ子
 宮沢賢治は「風の又三郎」の中で、芒が風に揺れるさまを「あ、西さん、あ、東さん」と芒が風に呼びかけているような表現をしていましたが、この句は床の間に活けられた芒が、人を招いていると表現して、味わい深いですね。

冬日向ゆつくり廻るミキサー車                          吉野 糸子
 工事現場のミキサー車の動きと「冬日向」を詠み込んで味わいがありますね。中のコンクリートをよく攪拌して、固まらないようにゆっくり動かしているのですね。そのゆっくりとした動きが「冬日向」にぴったりです。

不器用な相手たよりに障子貼る                          安蔵けい子
 プロの職人なら独りでテキパキと済ます障子貼りも、素人はそうはゆきませんね。たるみや皺にならないように、反対側を引っ張る手伝いをしてもらっているのでしょう。その相手が、まあ不器用なもので・・・というユーモラスな暮れの一コマを表現しましたね。

秋潮の引き残してや夕日影                            飯塚 昭子
 暮れるのが早い秋の落日の中で、引く潮までが「引き残して」いるようだという感慨を、俳句的な格調のあるリズムで表現しましたね。

どんぐりの時節到来トタン屋根                          内城 邦彦
 トタン屋根と言えば、人の住む戦後のバラック小屋の屋根を思い浮かべる人はもういないでしょうね。この屋根は農家の作業小屋のようなところでしょうか。どんぐりの実が立てる音に、そんな時節の到来を感じている表現ですね。

暮れ早し砂場に小さき足の跡                           大谷  巖
秋澄むや吾妻連峰雲を脱ぐ                            大谷  巖

 一句目、秋の日暮れの早さを、つい先ほどまで子供が遊んでいた砂場に残された小さな足跡に感じている俳句的叙情の表現ですね。二句目、下五の「雲を脱ぐ」という擬人法表現も俳句的叙情ですね。

過疎の地に若き移住者稲雀                            小澤 民枝
夫は鬼皮吾は渋皮を栗の飯                            小澤 民枝

 一句目、過疎地に若い人が移住してきた、という感慨の表現は、説明的にならずにどう俳句的表現にできるかが、命ですね。下五の「稲雀」だけで効果的に表現しました。二句目、夫婦で役割分担をして手際よく栗の皮を剥いて、無事栗御飯を作ったようです。仲睦まじさが伝わります。 
                    
命日は赤丸印虫時雨                               風見 照夫
秋風や重なり合へる絵馬の声                           風見 照夫

 一句目、いろいろスケジュールを書き込める壁のカレンダーのようです。誰のとは書かれていませんが、「赤丸印」という言葉で、特に大切な人の命日だということが伝わりますね。二句目、それぞれに違う願い事が書かれた絵馬が、重なり合っている神社の景ですね。風でその絵馬が触れ合う音が、照夫さんには人声のように聞えたという感慨の句ですね。

竹の春旧家の屋根を越えて伸ぶ                          金井 和子 
 旧家の藁葺き屋根を思わせる句ですね。もしかしたら、もう人が住んでいないのかも知れません。時間が止まったようなその家の屋根を越えて、成長の時間を全うしている竹の姿を対比して詩情がありますね。
 
こほろぎの掛け合ひの間に引き込まる                       金子 きよ 
 まるで鳴き交わしているかのような蟋蟀の声に、聞き惚れてしまったという感慨の句ですね。僅かに無音の間が生じるのでしょう。その間に引き込まれる、という表現が効果的ですね。 
             
天高し小学校の国旗台                              城戸 妙子
 国旗台、略さず言えば国旗掲揚台でしょうか。校庭に一段高く設えられている所で、普段はだれもその存在すら忘れているような、ポールが立っているだけの場所ですね。秋の空が高くなったなあ、という感慨の表現にぴったりですね。

小学生総出で田圃の飛蝗取り                           斎藤  勲
 都会では考えられない、微笑ましい景ですね。農家の多い地区では、もしかしたら、その食害防ぎは、小学生も駆り出されるほど、必須の「仕事」なのかもしれないと考えてしまいました。

音階を変へて露地ゆく虎落笛                          佐々木千恵子
 「露地ゆく」という擬人化表現で、笛吹き童子のような格好の少年の姿を思い浮かべました。電線などが強風で立てている音ですが、場所場所で音程、音色の変わる虎落笛の雰囲気を幻想的に表現しましたね。

風の盆男踊りも嫋やかに                             杉崎 弘明
見上げれば星も囃すや風の盆                           杉崎 弘明

 二句とも風の盆を詠んだ句ですね。「おわら風の盆」という富山市八尾地区で、毎年九月一日から 三日にかけて行われている行事ですね。「越中おわら節」の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが、洗練された踊りを披露します。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了します。作者はその男踊りにも「嫋やかさ」を感じ、「星も囃して」いるような優雅さを見出しているのですね。私も見たことがあるので、作者に同感です。みんな美男美女に見えて惚れ惚れしました。

朝霧や一番で入る診療所                             鈴木  稔
秋風をふるさとに吸ふ旨さかな                          鈴木  稔

 一句目、診療所に一番で入っているのは医者か看護師さんかなとも思いましたが、高齢で病院通いが日常的になっている人のことかも知れないですね。とすると、順番待ちを短くするための努力のことで、そちらの方が、ある種の感慨が沸きますね。二句目、こういう実に俳句的な表現技法が身につくと、作句が楽しくなりますよね。「○○を○○に○○/○○」。/は切れの意味です。それだけで一つの情景とそこから立ちあがる感慨と叙情の表現ができます。この句はその簡潔な成功例ですね。

嵯峨菊に源氏名のあり御苑展                           砂川ハルエ
嵯峨菊は独特の古代菊で、王朝感覚の一つの型に仕立て上げられた風情と格調をそなえた菊です。大覚寺「門外不出」の菊とされています。一鉢に三本仕立て、長さは約二メートル。花は下部に七輪、中程に五輪、先端に三輪で「七五三」とし、葉は下部を黄色、中程は緑、先端を淡緑と、四季を表します。花弁は糸状で五十四〜八十弁程、長さは約十センチの茶筅状が理想とされ、淡色の花々が色とりどりに美と格調高い香りを漂わせる特別な菊です。作者は御苑展に出品された菊に雅な源氏名のを発見して、溜息をついているようです。「源氏名」とは「源氏物語」の五四帖の題名にちなんでつけられた、宮中の女官や武家の奥女中などの呼び名のことですね。近世以降は遊女や芸者につけられました。その雅すぎる名に、ある感慨を抱いた句ですね。

薩摩芋核家族のごと畝の中                            高橋 光友
「核家族のごと」という比喩が効いていますね。因みに核家族とは社会における家族の形態の一で、旧来の大家族、複合家族が主流だった時代が終わり、夫婦や親子だけで構成される家族が趨勢を占めるようになって生まれた言葉ですね。元は米国の人類学者であるジョージ・マードックが人類に普遍的ですべての家族の基礎的な単位という意味で用い始めた「nuclear family」という用語の和訳だそうです。それを畝の中の薩摩芋の表現に使ったのが斬新ですね。

宵寒やポスターの人みな笑顔                           滝浦 幹一
 選挙の季節になると専用ボードにベタ貼りにされるポスターなどの、人物像を見ての違和感の、巧みな表現ではないでしょうか。怒りや悲しみを抱えて歩いている人が、その作り笑いのような、ある種、人ごとめいた作り笑いに、むしろ腹が立つ思いがするのではないでしょうか。その感慨を見事に俳句にしました。


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あすか塾 2021(令和3)年 4

2021-11-25 12:10:27 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
あすか塾 2021年(令和3)年度 4

【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。

                 ※           ※          ※

(「あすか塾」12月)


1 今月の鑑賞・批評の参考

◎ 野木桃花主宰句(「青瓢」より・「あすか」二〇二一年十一月号)
ひとことをためらひがちに十三夜
耳寄せて音の出さうな青瓢
ふと人の気配木の実の落つる音 (「悼む 石坂晴夫様」の前書き)
秋気澄む恩師の句集繙く夜

【鑑賞例】
一句目、陰暦九月十三日の夜。この夜は八月十五夜の月に次いで月が美しいといわれ、「のちの月」と呼んで宴が催されました。八月十五夜の月を芋名月と呼ぶのに対して、豆名月・栗名月といいます。八月は満月なのに、九月は満月になる前の十三夜の月を愛でるというのが、いかにも昔の日本人の情緒ですね。十三夜といえば、樋口一葉の同名小説の不幸な結婚をした「お関」を通して、封建的な社会の矛盾を女性の立場から描いたものを想起しますね。その辺りの女性特有なくぐもった思いも含めた表現の句ですね、二句目、これは人の顔ほどの大きさにもなる「青瓢」ぴったりの表現ですね。三句目、哀悼の意の籠った句ですね。「あすか」の俳人仲間の石坂晴夫さんへの悼句ですね。「あすかの会」にもご参加いただいていて、古語を発掘して詠む熱心な姿が目に浮かびます。ご冥福をお祈りします。四句目は亡き恩師への句ですね。三句目と同様、こうして死者は俳人の魂に生き続けます。 

〇 武良竜彦の九月詠(参考)
第五福竜丸を陸に引き揚げ夏去りぬ
文明という洪水や秋に入る 

(自解)(参考)
一句目、第五福竜丸は一九五四年三月一日、ビキニ環礁で行われたアメリカ軍の水素爆弾実験により発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船。一九六七年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣にある第十五号埋立地に打ち捨てられていましたが、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は一九七六年開館の東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されています。原水爆禍はかくも忘れられ易いという事例のようです。二句目、洪水のような文明の氾濫というのは、昔は比喩でしたが、今は文明が洪水を引き起こしています。


2「あすか塾」34  2021年12月  

⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十一号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。   

  
水無月やお日様を待つ亀の池                             金井 玲子
梅雨の長雨の季節、お日様が恋しくなるのは陸の上の人間や生きものだけだと思いがちですが、水生や両生の生き物たちも同じではないか、そんな人間中心の感覚をひっくり返すような表現ですね。

川原石拾つて熱し原爆忌                              坂本美千子
 川原の焼石を拾って、その思わぬ熱さにびっくりしているようです。それを原爆忌と取合せたのが効果的ですね。 

町担ぎ時代を担ぎ神輿ゆく                              鴫原さき子
時計草ダリの時間に迷い入る                           鴫原さき子

 一句目、神輿担ぎのリズムに乗せたような表現が効果的ですね。時間軸を呼びこんだのもお見事です。二句目、時計草がダリの時間迷宮に誘っているような表現で面白いですね。

秋澄むや沖に影おく離れ島                             白石 文男
 中七の「沖に影おく」という表現がすばらしいですね。ぽつんと一つだけ。孤独で寂しげです。空気が澄んでくっきりとその輪郭まで見えていますね。作者の心の投影でもあるのでしょう。

白鷺が佇つ堰提に魚道あり                             摂待 信子
 堰はさまざまな目的で河に作られた水流の一部を堰き止める施設ですね。そこにぽつんと白鷺の姿を見つけました。そこには魚道が作られていて、白鷺の餌場でもあったという発見の句ですね。
 
思ひ出を母と分け合ふ夜長かな                   高橋みどり
無我といふ軽きものを得草の花       高橋みどり

 みどりさんは両親の死を短い期間に体験されたと「あすか」の「編集後記」に書かれていました。ですから一句目の「母」は亡くなって、みどりさんの心の中にいらっしゃるのですね。つまり母と共有する思い出を語りあっているのですね。二句目、両親の死に続いて孫の誕生も体験されました。これは孫を腕に抱いたときの感慨の句で「無我という軽きもの」という表現が巧みですね。

満月や雲を縫う時光る闇                              服部一燈子
 鮮やかな表現ですね。もちろん闇は光をのみ込んで暗いから闇ですね。その闇を見事に輝かせる一瞬を描き出しました。満月の光線で青白く輝く夜景が、雲が過って闇に沈みます。その入れかわりの一瞬、逆に闇自身が輝いて見えた、という巧みな表現ですね。

わけありと書かれ売られるさくらんぼ                       本多やすな
「訳アリ」とは人事や人の複雑な事情が隠されていることをいう言葉でしたが、いつの間にか、何処かに欠陥があるので安売りされる商品のことを指す言葉に変化してきています。そのことに何か違和感を抱いてしまう感慨の句ですね。共感します。

秋蝉の後追ふやうに日暮けり                丸笠芙美子
ひとしきり夕日にひたる酔芙蓉  丸笠芙美子

 一句目、最近は都会では夜鳴く蝉もいるようですが、普通、蝉は夜には鳴かないものです。その鳴き止む時間が夕暮れで、それを詩的に表現した句ですね。二句目、これも夕映えの中の酔芙蓉の彩の変化を詩的に表現した美しい句ですね。 

鉛筆の先が躓く九月尽                              三須 民恵
 本当は躓いているのは作者の心でしょう。それを暗喩的な具象表現にして、効果的ですね。おそらく推敲の迷いの中でいる心地でしょうか。

青芒刈るや荒縄もて括る                              宮坂 市子
荒使いせし手を撫でて短き夜                           宮坂 市子

 二句共、生きて今ここに「在る」ことの存在の手応えを感じる実存俳句のお手本ですね。刈り取った青芒を束ねる荒縄の質感、農作業で荒れた手の手触り、どれもその実感が読者の心に迫ります。

校庭に芋づる這へり敗戦忌                            柳沢 初子
 現代の景から敗戦後の食糧事情が悪化した時代の景へと、まさに「芋づる」式にたぐり寄せた表現がお見事ですね。
 
ノーサイド負んぶ飛蝗がまかりでる                         矢野 忠男
とんぼとんぼ閼伽の水桶赤とんぼ                         矢野 忠男

一句目、伯仲した試合が終わり、敵味方が相手の善戦を讃え合う、緊張のほぐれる瞬間ですね。この緩和の雰囲気をユーモラスに「負んぶ飛蝗がまかりでる」と表現して見事ですね。二句目、「閼伽(あか)」は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。インドでは来客に対し足を浄めたり、食事の後口をすすぐための水が用意される風習があり、仏教に取り入れられ仏前や僧侶に供養されるようになったといいます。この句はまるでそんな僧侶のように「赤とんぼ」がやってきているようだと見立てた表現ですね。「とんぼとんほ」が童唄のような趣がありますね。

石垣鯛干して駐在パトロール                          山尾かづひろ
 海辺の小さな漁村か、小さな島の村落にある駐在所が目に浮かぶようです。仕事と職場の境目がなく重なり合う、どこか長閑な景ですね。住民と駐在警官が互いを熟知し合っている平和な空気を感じますね。
 
火蛾狂ひ夢の一期の舞ひおさめ                          渡辺 秀雄
 蛾などの昆虫は外灯など光に集まってくる習性がありますが、この句は自分を燃やしてしまう火に集まってきて、その周りを飛んでいるようです。それを上五で「火蛾狂い」とし、その自滅的な舞を「夢の一期の舞ひ」とした表現が効果的ですね。

鉢植ゑの胡瓜「し」の字に朝の影                           磯部のり子
 胡瓜の影と表現しないで、「し」の字の形象を間に挟んで、「朝の影」と表現したのが効果的ですね。 

震度6軒の氷柱が落ちつづく                           伊藤ユキ子
 これは北国か東北地方ではないと見られない景ですね。透明な槍が降ってくるような迫力と怖さがありますね。

植田村水の匂ひに眠り入る                             稲葉 晶子
かなかなの声は濡れ色朝ぼらけ                          稲葉 晶子
    
 一句目、水が張られた田圃の、あの水平感の広がり。夜が更けてゆく静けさ。それを村全体の眠りの表現にしたのが効果的ですね。二句目は蝉の声が象徴的な表現になっていますね。蝉の声は乾燥した響きの印象が強いですが、それを「濡れ色」と意表を衝く表現にしたのが効果的ですね。
 
「尻こすり坂」とふバス停や轡虫                          大木 典子
京浜急行線には長いトンネルになっている所があります。その丘に実際にある坂の名前が「尻こすり坂」です。それほど急勾配の坂なのです。京急系のバス路線の停留所名にもなっています。下五に「轡虫」という季語を置いて、その鳴き声の響とともにユーモラスな効果を上げた表現ですね。

踏み込めぬ親子の絆百日紅                           大澤 游子
 上五の「踏み込めぬ」を読んだとき、親子の間でも踏み込めない、心の様の表現かと一瞬思いますね。それが他人からは計り知れない、親子の固い絆の表現だと判ったとき、読者は軽い裏切り感と、小さな驚きを感じるでしょう。親子の固い絆を感じます。百日紅の下五の季語も効いていますね。

大太鼓一打天へと佞武多発つ                           大本  尚
「佞武多」の原義は「ねむた」で、その睡魔を払う鉦太鼓を鳴らすのが「佞武多祭」なのですね。まさにその原点に戻ったような眠気を吹き飛ばす表現ですね。

新涼の谷戸風のこゑ水の音                            奥村 安代
送り火の尽きたる小路闇深む                           奥村 安代

 一句目、やさしい風のそよぎと水の音の、リズム感のある表現が心地いいですね。二句目、路地の角々に焚かれていた送り火が消えて、周りの闇が濃くなってゆく、そんなゆっくりとした時間の流れも呼びこむ表現ですね。

銭洗ふ笊に秋日をかき混ぜて                            加藤  健
 本当は掻き混ぜられているのは銭ですが、「笊に秋日をかき混ぜて」とした表現が効果的ですね。弁財天系の社の中にある澄んだ池や秋の空気感も取り込まれていますね。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十一月号から)  

かつて銀河見し東京の瓦屋根                           村田ひとみ
マンションの聳え秋灯つぎつぎと                         村田ひとみ

 二句共、都会、特に東京が俯瞰的に捉えられている二句ですね。一句目は今のように矩形のビル型家屋ではなく、瓦屋根が多かった時代には、東京の夜空にも銀河が輝いていたという時代の証言の句ですね。二句目は今現在の東京の景で、横の視界を失って縦型の建物が空間を閉ざしています。その一つ一つの窓に灯が点りますが、縦に連なる灯の景ですね。見事な視点です。

胡麻香る日向の国の冷し汁                            近藤 悦子
長寿眉にひそむ反戦生身魂                            近藤 悦子

 一句目、夏の冷し汁は宮崎県が有名ですね。熊本県にもある夏の風習です。「日向の国」という古名で表現したのが歴史を感じさせて効果的ですね。二句目、長寿眉は仙人眉ともいい、長寿の人の深い見識も含めた尊敬の言葉ですね。そのぶれない反戦魂の表現にぴったりです。

止まれば祈る姿に糸蜻蛉                             須貝 一青
一代で空家に秋風五十年                             須貝 一青

 一句目、前肢を対にして揃えるような姿勢で止まる姿を「祈る姿」と表現したのが効果的ですね。蜻蛉を精霊の使いと見做す風習も詠み込まれているかのようです。二句目、何代にも亘って受けつがれ住み続けられた家が、後継者が途絶えて空家になっている景はよく見る「自然な」ことの成り行きを感じますが、一代でそうなるという急激な変化に、どこか不自然な時代性を感じますね。人生と社会のサイクルが不自然に急速化していることの、違和感の表現が見事ですね。              

⑵ 「あすか集」(「あすか」十一月号作品から) 
                        
秋茄子にキューと声してためらひぬ                        滝浦 幹一
 茄子は水洗いしているとき、意外と可愛らしい音を立てることがあります。ごめん、乱暴だったかなと、その音に手を止めた瞬間を詠んだ、心優しい表現ですね。

短冊に揺れる美文字や夏の風                           忠内真須美
 七夕の短冊か、俳句展示の短冊かわかりませんが、そこに清々しいほどの筆遣いの美文字を発見したという句ですね。下五の「夏の風」で爽やかな一陣の風が吹き抜けているようです。

背景の気になる動画九月尽                            立澤  楓
 本当は違う内容の動画を見ていたのだが、そのメインの内容と無関係のものや、様子が背景に映り込んでいて、それに気を取られてしまったのですね。今年の九月は何か慌ただしく、気が散る様々な出来事に囲まれて過ごした一か月だったなーという感慨の表現ですね。
 
先生と交わす挨拶黄のカンナ                           千田アヤメ
 互いに信頼関係のある先生と生徒の間で交わされる、明るく元気な挨拶の声と姿勢は清々しいものがありますね。下五の「黄のカンナ」がそれに相応しいですね。

大切なことは小声でふかしいも                          丹羽口憲夫
端座して笑わぬ男きぬかづき                           丹羽口憲夫

 一句目、ふかしいもを挟んでの親しげな距離の近さ、秘密めく大切なことを共有する間柄まで感じさせる句ですね。二句目、見かけはゴツゴツしているような「きぬかづき」の句ですが、昭和の男に違いないと想像される武骨で無口なさまがユーモラスですね。作者の温かい眼差しも感じますね。 

野良猫の心閉ざして鬼胡桃                            沼倉 新二                
 犬もそうですが、野性の野良猫や、一度人間に捨てられたことのある猫などは、人間に対して警戒感が強くなり、なかなか懐かないそうです。下五の「鬼胡桃」の硬くゴツゴツした感じで象徴的に表現したのが効果的ですね。  
                      
秋ともし古書店奥の大和綴                            乗松トシ子                       
 大和綴(やまととじ)は和書の製本の一様式ですね。だからこの古書店は日本の古書専門店のようです。古びた和紙の匂いがするような風情のある句ですね。
            
夏足袋を裏返し干す祖母の顔                           林  和子
 和装の機会が減って、夏足袋自身があまり履かれなくなっていますね。裏返すとき指先の部分の細い棒使っていました。その動作をしている祖母の姿が浮かびます。 

ビル街を飛ぶとんぼうに空遠し                          幕田 涼代
 ビル街で蜻蛉を見かけることも少なくなりましたが、たまに見かけると飛べる空間が狭くて窮屈そうに見えます。それを「空遠し」のひとことで見事に表現していますね。

喧嘩後に笑みて林檎を喰ふ母娘                          増田  伸
 緊張と緩和。それも母娘の他愛のない口喧嘩の後のようです。喧嘩するほど仲が良いともいいますが、その雰囲気を林檎の紅さが象徴していますね。 

盂蘭盆会小花飾りて姉を待つ                           緑川みどり
 この姉は故人なのでしょう。お盆でその魂迎えをしているようです。「小花飾りて」という言い回しに、亡き姉への敬慕の思いが滲んでいますね。

古書店の奥に小さき扇風機                            村上チヨ子
 昭和の古書店の風景ですね。まだ冷暖房設備が気軽に使えなかった時代でしょう。それも古びた小型の扇風機が、古書棚と通路にやさくし風を送っている景が目に浮かびます。

新涼や手相ゆるりと拡大鏡                            望月 都子
「手相ゆるりと」という表現が、ゆったりとした感じでいいですね。占い師の動作は威厳を保つためにスローモーションですね。

海越える恋は一途に秋の虹                            阿波  椿
 国際恋愛でしょうか。国と国の間に架かる壮大な虹の表現がいいですね。 

衣被笑ひの絶えぬ子沢山                             安蔵けい子
 衣被は初秋の季語で里芋の子芋を皮のまま茹でたものですね。熱いうちに指で芋をつまみ、つるんと中身を取り出して、塩をふって食べます。旧暦八月の十五夜に団子などと一緒に供えます。女性が外出の際、頭から小袖をかむっていた姿を想像させるところからこの名がついたそうです。地方によっては安産や多産の象徴とするところもあります。この句はその雰囲気を踏まえた表現ですね。

剛力にきしむ木道秋高し                             飯塚 昭子
 剛力は強力とも書き「ごうりき」と読みます。荷物を負って運搬する人のことですが、現在は登山者の荷物を運びながら道案内をする人を指すようです。昔は修験者が各地を回る際、その供をして荷物を担いでいく者のことを言いました。この句は現代ですから、登山案内人の荷の重さで木道が軋んでいるようです。尾瀬などの長い木道と澄んだ空が目に浮かびますね。
 
終電の後は伸び伸び鳴くちちろ                          小澤 民枝
 駅近くの草叢が目に浮かびます。電車が発着するたびにその音でちちろ虫たちの声が途絶えて、また鳴き始め、それを繰り返しているのですね。のどかな秋の風物ですね。 
                     
食べ尽し身をさらけだす青毛虫                          風見 照夫
 食欲旺盛な青虫が、自分がいる周りの葉をみるみる間に食べ尽し、自分の姿が間丸見えになった、という景で、どこかユーモラスです。その食べっぷりは見ていて飽きません。

ごん狐生れし里に曼殊沙華                            金井 和子 
 新実南吉の童話「ごんぎつね」のことを詠んだ句ですね。人間と心やさしいごんぎつねの、哀しい心のすれ違いのお話です。土手に咲く曼殊沙華の赤が悲しい色に見えます。
  
敗戦忌歩道の我に水しぶき                            金子 きよ 
 歩道を歩いていて、車が跳ねた水しぶきをかけられる体験なら、だれもがしたことがあるでしょう。戦争自身が一般の人には、そんな迷惑なことに巻き込まれたという感覚だったのが本音でしょう。その思いが巧な比喩で表現されていますね。
                 
あるなしの風をひろひて桐一葉                          城戸 妙子
 あるかなしかの微風を「ひろひて」という表現で、桐の葉の大きさ、面的な広さを巧に表現してありますね。

占領下台風の名はアメリカ人                           斎藤  勲
名月や雲の回しで土俵入り                            斎藤  勲

 一句目、戦中は英語が敵性語として言い換えが行われましたが、戦後の占領政策の中では、逆のことがいろいろ起こりました。台風の名がたとえばキャサリーン台風というように呼ばれた時代がありました。二句目、まるで名月が雲模様の回しで土俵入りをしているようだという、見立て詠みが楽しいですね。

山眠る鍵屋は商品入替中                            佐々木千恵子
 鍵もいろいろ進化して、防犯対策が強化された、なかなか破りにくいものが増えてきていますね。鍵屋さんもそのような時代の要請で、古い鍵を処分して新しい鍵を仕入れ直しているのでしょう。それと「山眠る」という季節の変り目の季語と取り合わせたのが効果的ですね。 

中天を睨みて蟇の動かざる                            杉崎 弘明
 蟇の動きは超スモーションです。体つきの角度でまるで天を睨んで、何か思案しているように見えます。その様を捉えた句ですね。 

手をつなぎ測る大樹や秋の草                           鈴木  稔
 大樹の幹の大きさを測るとき、複数の人間が両手を広げて手を繋ぎます。計測器などを持っていない、登山の途中で見つけた大樹の大きさを、みんなで確かめているようです。
 
闇市となりし参道終戦日                             砂川ハルエ
空蟬のいのちあるごと見つめおり                         砂川ハルエ
風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ                            砂川ハルエ
白桃をあます掌一人の居                             砂川ハルエ

 今月のハルエさんは頑張りました。みんな秀句ですね。一句目、神聖な参道が闇市となった戦後の混乱期、二句目、まるで抜け殻自身に命があるような蝉の佇まい、三句目、リーンリーンという巡礼者の鈴のような音に、在りし日の夫に思いを寄せています。四句目、孤独をもてあます気持ちを白桃に象徴させて巧みに表現しました。

パソコンの操作に大汗オンライン                         高橋 光友
 パソコンの普及が始まったのが、中年になってからの時期にあたる年代は、なかなか電子機器を若者たちのようには使いこなせません。「大汗オンライン」と韻を踏んだ表現で、その悪戦苦闘ぶりをユーモラスに表現しました。


                ☆                         ☆


「あすか塾」11月)

1 今月の鑑賞・批評の参考   

◎ 野木桃花主宰句(「暮の秋」より・「あすか」2021年10月号)
かなかなの声のかぶさる勝手口
言の葉のルーツを探る流れ星
里山に孤高の差羽風を切る
団塊の耳聡くをり暮の秋
たわたわと熟柿のゆらぎ夕間暮れ


【鑑賞例】
一句目、朝夕に甲高い声で「カナカナ」と鳴く蜩の声を勝手口で聴いているという表現ですね。暮しの一コマが夏らしい音響を伴って表現されていますね。二句目、「流れ星」に言葉のルーツを思うという表現は独特ですね。他に縁切り星(えんきりぼし)落ち星(おちぼし)飛び星(とびぼし)流れ星(ながれぼし)抜け星(ぬけぼし=岡山方言。流星が消えないうちに唱えると幸福になれるというまじない言葉)走り星(はしりぼし)星降り(ほしくだり=下方へ流れていく流星)星の嫁入り(ほしのよめいり)奔星(ほんせい)夜這い星(よばいぼし)婚星(よばいぼし)などがあります。そんな日本語の豊かさに一時思いを巡らせている句ですね。三句目、「差羽=さしば」は鷹の仲間で絶滅危惧種に指定されている渡り鳥。木や電線など高い所に止まり獲物を狙っている姿が見られます。その姿を「孤高」と表現されています。秋の澄んだ空気感も感じますね。四句目、七十歳半ばになろうとしている団塊の世代。肉体的に衰えてきて難聴ぎみになっている人も多いはずですが、この「耳聡く」は心の「聴力」というもので、いろんなものごとに関心を失わず心を生き生きと働かせて暮している、という自負の表現でしょう。五句目、揺れ、ではなく「ゆらぎ」という言葉でひらがな表現されているのが効果的ですね。明暗のゆらぎのひと時を全身で感じ取っている表現ですね。
 
〇 武良竜彦の八月詠
TOKYOという熱源の秋暑かな
万巻の書の黙として秋暑かな
糧秣と呼べば兵士の残暑なお


(自解)(参考)
 一句目、この夏の首都圏の暑苦しさはコロナ禍の中で強行された五輪の影響でもあったでしょう。二句目、たくさんの叡智の詰まった書を読もうとする人が減っています。読書という慣習すらない人が多数派を占めて……。三句目、同じ食べ物なのに呼び方で意味が違ってしまいます。「糧秣」とはどこか軍事用語めいていて、飢えに苦しんだ大戦下の兵士の労苦を思い浮かべてしまいます。 

2「あすか塾」33  2021年11月  

⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。   


  
老鶯と言はれてからの艶やかさ                            加藤 健

 「老鶯」は春が過ぎてから鳴く鶯。季節外れとか、老いたという意味で使う人がいますが、実は鳴き方がこなれて巧みな鶯というのが本来の意味。この句では、それが暗喩的に使われて、作者の境涯的心情が伝わりますね。 

旗立てて葦簀賑はふ路地の奥                             金井 玲子
昔は町の路地では見かけた風景ですが、今も残存しているのなら貴重な昭和的風情ですね。「旗」は紺地に白で「氷」と染め抜いた夏場かぎりの氷屋さんの旗でしょうか。

診察の触れて五分や夕立雲                             坂本美千子
 診察室でパソコンの画面ばかり見て、患者を見ないで会話する医者がいますね。そして診察時間も短くて「二・三分」程度。何かもやもやした気分になります。それを「触れて五分」と、ささやかな抗議の思いを込めて表現されているように感じました。 

早立ちの逸る車窓に虹立ちぬ                            鴫原さき子
「逸る」という言葉で、何処かへ急いで車で出かけようとしている情況かもしれないと想像されますね。それをまるで、虹が諫めるかのように「落ち着いて、深呼吸して、空でも見上げてごらんなさい。いいお天気ですよ」と言っているかのようです。 

舌代の筆鮮やかに初秋刀魚                             白石 文男
「舌代」は「ぜつだい」と読み、口上のかわりに文書に簡単に書いたもの。「申し上げます」の意で、挨拶や値段表などのはじめに書く語。「しただい」とも言います。その古風な言い回しを使って「初秋刀魚」の季節感を受けとめている作者の心が伝わりますね。

初生りの西瓜にそつと藁を敷く                           摂待 信子
 家庭菜園の域を超えて、しっかり西瓜を栽培している人の細やかな視点の句ですね。西瓜、南瓜、瓜などの大玉で地面の上で育つ作物は、下に藁敷をしたり、日焼け防止の被せモノをしたりします。
人の訃や色無き風を身の内に                           高橋みどり
単純な命がここに秋澄めり 高橋みどり
 一句目、みどりさんは「喪の仕事=モーニングワーク」を俳句で詠むことに取り組まれているようです。季語の「色無き風」が効果的に使われていますね。二句目、反対にこれから育ってゆく命のさまの、ありのままの姿が眩しく感じられているようです。


長雨や頭を垂れる出穂の波                             服部一燈子
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があるように普通は結実後のことですが、この句は「長雨」でそうなっているのですね。被害を案じる心が、そうは言わなくても伝わるのが俳句ですね。

心の荷風がほどいて夕涼み                            本多やすな
「風がほどいて」が巧みで効果的な表現ですね。日が暮れて涼しい風に包まれている安堵感ですね。
荷が重いという言い方はしますが、その荷をほどくと表現して独創的ですね。

紅薔薇散りて己をときはなつ                            丸笠芙美子
蝉時雨近くて遠き向う岸 丸笠芙美子

 一句目、「紅薔薇」が心の中の拘りのようなものの象徴として、二句目、「向こう岸」が届かぬ願い、夢、ここではないどこかという希望の地などの象徴として表現されています。俳句を象徴詩のように表現する点では、「あすか」同人では芙美子さんの右に出る人はいないでしょう。

羽村堰ポツンと一人秋の風                            三須 民恵
「羽村堰」は多摩川の河口から上流約五四キロメートルに位置し、玉川上水と同時に建設されました。江戸の人口が増えたため幕府が多摩川の水を江戸に引く計画を立て、最終的には現在の羽村地点が取水口になった歴史ある堰です。この句は、その堰を眺めている「私」が「ぽつんと一人」とも読めますが、歴史に晒された「羽村堰」に孤独の陰を感じて詠んでいるようにも感じられます。 

案内状手に白南風に身をまかす                            宮坂 市子
「案内状」の内容が書かれていなくても、「白南風に身をまかせる」ように、その場所へ赴こうとしている心の様が伝わります。「案内状」が個人的であることから普遍性をもったものに跳躍していますね。

翡翠の一閃池を目覚めさす                            柳沢 初子
境内に千の風鈴千の風 柳沢 初子

 一句目は鳥という野性の命の営みの一瞬を捉え、二句目は鳴り物とそれを揺らす風を「千」という数で表現し、その音響ゆえの境内の空間的な広がりと普段の静けさを見事に捉えた表現ですね。

魚信なき竿先じっと蝉時雨                             矢野 忠男
「魚信」とは、釣りで魚が餌をくわえたことが、竿や糸などから伝わってくること、「あたり」ともいいますね。一定の音量で響いている「蝉時雨」。その中で竿の先に意識を全集中させている緊張感が伝わりますね。

サーカスに売らると昔夕焼雲                          山尾かづひろ
 昭和の伝聞、言い伝えを回想している表現ですね。実際に江戸時代から、人攫いと人身売買が横行していたのです。その末期が昭和という時代でもありました。今の若い人には想像もつかない世界でしょう。下五の「夕焼雲」が哀愁を帯びて、効果的ですね。

蜘蛛の囲にオゾンホールの話かな                         渡辺 秀雄
「蜘蛛の囲」と「オゾンホール」の取り合わせが見事ですね。「蜘蛛の囲」は酸性雨で穴が空き、「オゾンホール」は大気中の二酸化炭素の増加によるものです。危機感が身近になる表現ですね。
 
スカートを撥ね上げ銀輪夏燕                            磯部のり子
 青春映画の一コマのように爽やかですね。夏燕のスピード感との取り合わせが効果的です。
 
看護師と目と目の会話さやけくて                         伊藤ユキ子
 先月に続いてユキ子さんはご闘病中のようです。声を出せない状態のようですから、病状は重く辛いようですが、それをこのように爽やかな一コマとして詠まれて、胸にしみます。

そら豆の一つにひとつづつ個室                           稲葉 晶子
 蚕豆の内側は真綿を敷き詰めたように、ふかふかです。列車か客船の豪華特別室のようですね。個室に見立てて「ひとつづつ」とひらがな表記にしたのが効果的ですね。

日の丸とアメリカ国旗と浜木綿と                          大木 典子
 日章旗、星条旗、浜木綿。三つの名詞だけで詠んで、それ以上を語らない。読者はあれこれ推理を働かせて「語り」たくなります。それぞれの思いが交錯した五輪でした。

せせらぎの育む大樹秋気澄む                          大澤 游子
「せせらぎの」の「の」が柔らかくていいですね。地球の万物は水の流れが育んでいる、というのは真理ですね。下五の「秋気澄む」も爽やかです。

現世をかくんと留守にして昼寝                          大本  尚
「かくんと」という擬態語が独創的ですね。脱力感から解放感へと「場」の空気が一変しているような効果がありますね。

夏草に寝て底抜けの雲の峰                            奥村 安代
夕さりの風の連れゆく糸とんぼ                          奥村 安代

 一句目、寝転んでいる背中側の「底」が抜けてゆくような開放感の表現であると同時に、入道雲が青空にぐんぐん伸び上っているような「空の底抜け感」の双方を取り込んだような表現が巧みですね。二句目、上五の「夕さりの」という表現が適切で効果的ですね。風に流されていると言わずに「風の連れゆく」という表現も見事ですね。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十月号から)  

打水や今日の憂ひは今日のこと                          村田ひとみ
死に化粧母の微笑み月涼し                            村田ひとみ

 一句目、この今のモヤモヤとした鬱な気分を、明日に持ち越さないようにしよう、という決心が感じられますね。二句目、昨日か今日の体験ではなく、おそらく回想の「母」でしょう。その最期の母の表情の穏やかだったことに、救われた思いをしたのでしょうか。下五の季語「月涼し」がそう思わせる表現ですね。 

全集の小さき文字や夜の蟬                            近藤 悦子
 寡作だった作家の全集なら、一段組で文字も大きく、全集も数冊というところでしょう。二段組の小さな文字で編集され、全何巻にも及ぶ著作を遺した大家の全集を、読破しようと挑んでいるのでしょうか。その厖大さに圧倒されて、ふと目を上げて蟬の声に耳を澄ませているのでしょう。

笑こぼすじゃがいもの花町中に                          須貝 一青
 下五が「畑中に」にだったら普通ですが、「町中」なので、読者はどういう情景かと思いを巡らせる表現になっています。「町中に」は「町じゅうに」ではなく、「町なかに」で、その一角にある菜園に植えてあるジャガイモの花なのだと思い至ります。そういう菜園のある落ち着いた町の雰囲気が浮かんできますね。                 

⑵ 「あすか集」(「あすか」十月号作品から) 

夏休み遠慮しないで来たらどう                          高橋 光友
 新型コロナ感染症が猛威をふるっている最中の句でしょうね。孫たちが祖父母の所に行くのをためらっている世相が背景にある表現でしょう。

日傘雨傘雲にもありし裏表                            滝浦 幹一
 傘には晴天用の日傘と、雨天用の雨傘というものがありますね。同じように雲にも表裏という二面性があるという表現でしょう。では、地上から見て表なのは下の方なのか、上の方なのか、考えさせられて、おもしろい句ですね。

風薫る良き友良き師読書通                            忠内真須美
 上五中七までは類型句がありそうな言い回しです。でも下五に「読書通」とあって、作者の親交の質がぐんとあがりますね。俳句を嗜む人は師も友も知的ですね。

秋暁や草木はめざめ水求め                            千田アヤメ
 下五に「水求め」という言葉を置いています。朝、草木がめざめるという表現はよくありますが、生きものとして草木の命の手応えに直接触れたような、はっとする表現ですね。

力込め雨戸を開けぬ梅雨湿り                           坪井久美子
 雨戸を開けるのに、殊更なぜ力を込めなければならないのだろうと、考えてハッと気が付きます。軽く開閉できる現代的なサッシ戸ではなく、木製の引き戸式の雨戸かも知れない、と。昭和の風情の歴史ある家屋の暮しぶりが浮かんできますね。

産土の茅の輪くぐりに並びおり                          西島しず子
茅の輪くぐりとは、茅で編んだ人が潜れるほどの直径の輪を潜り、心身を清めて厄災を払い、無病息災を祈願する夏越の祓を象徴する行事ですね。「産土の」ですから生れ育った地の景ですね。そのようなゆかしい行事に行列ができる町の雰囲気も伝わります。
 
案山子みな口をへの字に空見上げ                          丹羽口憲夫
 案山子には「へのへのもへじ」という顔文字が書かれていることが多いですね。「へ」のところが口なので、怒っているような、思案しているような感じです。作物の鳥などの食害を防ぐのが案山子の役目ですが、この時勢、世相を案じているようにも見えて愉快です。

長崎忌ボーイソプラノ澄み渡る                          沼倉 新二
青空へシーツ一枚原爆忌                             沼倉 新二

 二句とも原爆禍を詠んだ句ですね。一句目、「ボーイソプラノ」で聖歌隊の美しい声の和声が響き、壊れた協会が象徴的な「長崎忌」に相応しい取合せですね。二句目は広島長崎の双方を含む句ですが、夏空に翻る白いシーツ一枚が、平和を象徴して目に沁みます。

源流の生れ出る音秋澄めり                            乗松トシ子
 実際に源流めぐりの登山をして聞いた音かもしれませんが、澄んだ秋の空気感の中で想起しているだけの表現と解しても、その爽やかさが伝わりますね。

桐の実の乾き伝わる青き空                            浜野  杏
 桐の実は十月頃熟し、二つに裂けて小さな翼のある種子をたくさん散らします。地面に散ったその種子が乾燥してきている感じと、大気も乾いて澄んできた空を対比して効果的ですね。

動と静翔平聡太夏の宴                              林  和子
 これは文句なしにみなさんが共感する表現でしょう。優れた野球選手の大谷翔平を「動」、将棋の逸材の藤井聡太を「静」として「夏の宴」で締めくくりました。

大夕立街を丸ごと洗ひけり                            曲尾 初生
 大俯瞰的な視座の表現と、きっぱりとした言い切りの表現が効果的ですね。

夫逝けり妻も覚悟の墓洗ふ                            幕田 涼代
 墓を洗う行為にも、ある種の「覚悟」がいる、とはどんな深い想いでしょうか。読者はその一点に思いを巡らせるでしょう。 

コロナ禍の空白を埋め蟬の声                           増田 綾子
 社会的には経済的損失、個人的には健康不安と実害、そのように表現されているコロナ禍ですが、綾子さんはそれを「空白」と呼び、それを埋めているのは「蝉の声」だけだと結びました。ずばり要点をついた効果的な表現ですね。

人出無く鴉が数多秋の浜                             増田  伸
 普段は人出の多い人気の浜なのでしょう。コロナ禍の時勢、浜にいるのは鴉ばかり、という詠嘆の表現ですね。「数多=あまた」と、人の数のように表現したのが効果的ですね。

沖縄忌白い朝顔一つ咲く                             緑川みどり
 下五の「一つ咲く」に鎮魂の思いが込められている表現ですね。「沖縄忌」は仲夏の季語で、沖縄だけに設けられている六月二十三日の沖縄県慰霊の日のことですね。太平洋戦争の終わりの頃、沖縄は日米の最後の決戦地になり、多くの民間人が犠牲になりました。六月二十三日は沖縄の日本軍が壊滅した日です。国民的な記念日にはなっていません。「朝顔」は初秋の季語ですから、季重なりの句ということになりますが、作者は意図的にこの「ズレ」を詠み込んでいるのでしょう。

遠き代を伝えし朝の大賀蓮                            宮崎 和子
「大賀ハス」は古代のハスの実から発芽開花したハスで、一九五一年(昭和二六年)、千葉県の検見川厚生農場(今は東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で発掘され、千葉県の天然記念物に指定されています。それを「遠き代を伝えし」と表現しました。「朝」ですからその開花を見たのでしょう。

大夕立介助犬連れ軒借りる                            村上チヨ子
 自分自身の体験なのか、そういう様子を目撃したのかは不明ですが、人に寄り添う介助犬と共に雨宿りをしている、ほのぼのとした様子が伝わりますね。
                           
ボロボロのおもちゃお供に夏帽子                         望月 都子
 親に連れられた夏帽子姿の少女か少年の姿が浮かびますね。愛用して手放せないおもちゃ「お供に」という表現が効果的ですね。   
        
夕焼や巡回バスのベルが鳴る                           吉野 糸子
 巡回バスですから、その町で、ほぼ定刻に繰り返されている一コマの景でしょう。「ベルが鳴る」という下五で切り取るように表現して、かけがえのないの日常を言葉に焼き付けました。

花芒海の彼方に佐渡島                              阿波  椿
 海岸に臨む小高い場所に揺れる芒の穂波。それを近景として、遠景に「佐渡島」。芭蕉の「天の川」景よりは近い遠近感ですが、この方が逆に「遠さ」を実感しますね。

稲光通し損なふ針の糸                              安蔵けい子
 繕いものをしようとして、針に糸を通そうとした瞬間、稲光で部屋が明るくなり、大音響のせいもあって、手元が狂って失敗したのですね。稲光という大きなものと、針という小さな手元を取合せたのが効果的ですね。 

ゴム長に母の履き癖大根蒔く                           小澤 民枝
今朝の秋干し物真白雲真白                            小澤 民枝

 一句目、母の代から引き継いだ農作業、「ゴム長」も引き継がれて、その一切の記憶を「履き癖」に象徴させた表現が見事ですね。二句目、「真白」の繰り返しのリズムが爽やかですね。

仏前にメロン大いなる心かな                           風見 照夫 
 仏前に供えられた「メロン」がどっしりと鎮座しているようで、何か大いなる心のようなものを感受している表現ですね。具象から、心という抽象表現への転換が鮮やかですね。 

結界の中に苔むす泉涌く                             金井 きよ 
「結界」とは俗なる世界と聖なる世界を分ける境界のことですが、目に見える境界線のようなものはありません。「苔むす泉」の涌くさまで、それを美しく可視化した表現ですね。

向日葵のみな小ぶりなる坂の道                          城戸 妙子
「みな小ぶりなる」で、その坂道の雰囲気が伝わる表現になっていますね。狭くて急な坂で、町なかにある小さな坂が目に浮かびます。

封筒にセロハンの窓敬老日                           佐々木千恵子
 宛名の部分だけが透けて見える切り窓式の封筒、といえば市役所などの公的な機関から来る通知でよく見かけますね。たぶん表敬通知か何かでしょう。自分が年齢で表敬される歳になったのか、というような思いまで、その「セロハンの窓」で象徴して、効果的ですね。

足元に富士の影ある田植ゑかな                          杉崎 弘明
 田植作業の足元に逆さ富士が映り込んでいる景ですね。田植をしている人には見えていないはずですから、作者はそれを見ている位置にいて、いつまでもあって欲しい美しさを感じているのですね。

真ん中に父祖の墓地らし大青田                          鈴木  稔
 広大な田圃の真ん中に墓地のようなものがある景ですね。それだけで古くから代々、田を守ってきた農家の景だということが伝わります。このような景も少なくなって来ているのではないでしょうか。

風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ                            砂川ハルエ 
 先だった夫を偲ぶ表現に、風鈴の音をもって詠まれたのは珍しいのではないでしょうか。その涼を誘う美しい音色で、哀しみを新たにするというのは、その境遇の人にしか解らないものでしょうね。         
 
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あすか塾 2021年(令和3)年度 3

2021-08-24 11:52:36 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
あすか塾 2021年(令和3)年度 3

【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。

     ※     ※      ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」10月)

◎ 野木桃花主宰句(「涼新た」より・「あすか」2021年9月号)

黙禱を捧げ始まる夏季講座
高層の窓の沈黙灼けてをり
ほろ苦きコーヒー猛暑の五輪かな
炎天下影まで消えてしまひけり
存分に伸びる名木影涼し
まつすぐに海を目指して秋燕


【鑑賞例】
 一句目、戦後の日本の夏は戦没者への祈りの季節であることが定着してきました。自分が担当する夏季講座で生徒たちと黙禱をしつつ、全国的に同じことをしているのだろうなという思いが詠まれているのでしょう。二句目、夏のビル群の壁面の焦げるような暑さの描写ですが、背景にコロナ禍によって都会の職場のおかれている厳しさが感じられます。三句目、感染症拡大下での五輪開催、さまざまな意見で民意が分断され、主催側の問題も噴出したりした「苦い苦い」五輪でした。四句目、灼熱で大気がゆらゆら揺らぎ、影までゆらぎ消えるような猛暑の表現ですね。五句目、光を浴びて伸びる名木の清々しさが「影涼し」と短く鮮やかに表現されていますね。六句目、秋燕、つまり帰燕は仲秋の季語になっています。春に渡って来た燕は夏の間に雛をかえし、秋に南方へ帰ってゆきます。その知識があるので詠める句ですね。海に近い横浜市の辺りでは普通に目にする光景でしょうか。

〇 武良竜彦の七月詠

七月の川に少年を置いて来る
除草剤この過剰なる夏の果て


【自解】(参考)
 一句目、現実に少年を川に置き去りにしたのではなく、もう自分は少年のように無邪気に川遊びをすることはないな、という老境の比喩的境涯句です。二句目、丹念に草むしりなどをせず、機械や薬に頼ってしまう現代、猛暑も含めて、なにもかもが過剰であるように感じます。

2「あすか塾」33  2021年10月  

⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。     

思い出を拾ふ貝殻夕薄暑                             奥村安代 
「思い出を拾ふ」という心情抽象表現を「貝殻」という具象で受けるという文学的な表現に詩情がありますね。こういう表現が力まずにできるようになると表現のステージが一段あがりますね。 

枇杷たわわ海夕焼に鎮もりぬ                            加藤 健
 近景に枇杷、遠景に夕焼の海。場面構成が巧みで鮮やかですね。そのどちらかに作者の心情が込められていることを読者は受け止めます。 

十薬の雨に触れつつ九十九折                             金井玲子
「つづらおり」は坂道が180度に近い角度で曲り延々と続く様を表したことばで、この句のように「九十九折」と書いたり「葛折」とも書きます。これは葛籠の元々の原料であるツヅラフジの蔓が曲がりくねっていることにたとえたもの。類義語に「七曲り」「羊腸」などがあります。「羊腸」は腸管の曲がりくねった様子から来た言葉で、鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の『箱根八里』の歌詞2番に「羊腸小径」という歌詞がありますね。熊野古道の一つであるツヅラ峠越えの古道、日光の「いろは坂」などが有名ですね。鞍馬の九十九坂には与謝野晶子の歌があります。この句はどの坂でしょうか。その道際の十薬が雨に濡れている様を詠んだだけですが旅情豊ですね。「濡れつつ」ではなく、「触れつつ」としたのが効果的ですね。

日時計の南南西を蟻の列                             坂本美千子
 日時計の原理は太陽が真南に来て、影が真北に伸びているところを「正午」にする仕組みで時を計るものですね。この句では「南南西」が影の位置のことかどうかは解りませんが、雰囲気としては真昼の、太陽が真南に近い時間に、働いている蟻の姿を詠んでいるような感じです。白昼の労働を労わっているような眼差しを感じますね。

暗号を受信中なり蝸牛                              鴫原さき子
 蝸牛の角をアンテナと見立てて電波を受信しているようだという表現だったら、類型的かも知れませんが、この句はもう一歩踏み込んで「暗号を受信中」と表現しました。それで何もかもが暗号化されていっている現代世相を、見事に捉えた句になっていますね。

荒梅雨の傷跡覆ふ荒筵                               白石文男
「あすかの会」句会で高得点だった句です。二つの「荒」で土砂崩れなどに災害痕の痛ましさが表現されていますね。

子雀の巣翔ち見てゐる屋根鴉                            摂待信子
 親心のように温かい眼差しなのか、獲物として虎視眈々と狙っているのか、読者の心の有り様で解釈が二通りに分れるでしょう。作者はその二つの思いのあいだで揺れる心を詠んだのでは。

亡き父を正客として鮎料理                            高橋みどり
「正客」は客の中でいちばん主な客、主賓、茶会における最上位の客のことですね。改まった心で亡父の霊を主賓として、遺された家族が鮎料理の席に着いているという景ですね。この心のおもてなしは、深い追悼、追憶の心によってなされることですね。

一雨に葉の先伸びる茄子かな                           服部一燈子
 植物の成長は一雨ごとに進展する速さといいますが、それを「葉の先伸びる」と一点をクローズアップして可視化表現したのが効果的ですね。

川ほそる所にとうすみとんぼかな                         本多やすな
「とうすみとんぼ」という美しい和語で詠んだのが効果的ですね。それと上流の方角と場所を「川ほそる所」とし、ひらがなで共鳴させています。漢字では「灯心蜻蛉」でイトトンボの別名ですね。
「灯心・灯芯」は行灯 (あんどん) ・ランプなどの芯のことで、細さの表現ですね。

海を向く背に夏の日の影重し                           丸笠芙美子
 下五が「影の濃し」だったら予定調和の普通の景の表現ですが、この句は「影重し」と結んでいてインパクトがありますね。何かの屈託を抱いた人の背の哀愁が感じられます。

捨て猫の目の奥素直ソーダ―水                           三須民恵
 「捨て猫」ですから不遇の存在ですが、作者はその目の奥の邪気のなさに心が揺さぶられているようですね。下五が「ソーダ水」なので、どこか「泡立つ」思いも暗示されています。

筆りんどう隠れ心地の草のなか                           宮坂市子
 フデリンドウは紫色の花を茎の上部に一~十数個、上向きにつけます。花は日が当っている時だけ開き、曇天や雨天では筆先の形をした蕾状態になって閉じています。だからこの句は曇天雨天の草叢に、隠れるように筆状になっている状態を詠んだ句でしょう。「隠れ心地」とした表現が効果的ですね。部屋に籠って俳句の筆をとっている自分の姿の投影のようにも感じますね。

初生りのほてりし茄子を供へけり                          柳沢初子
 中七の「ほてりし茄子」の措辞が効果的で、初物の特別感が巧みに表現されていますね。

蝉しきり廃止とありしバス路線                           矢野忠男
 にぎやかで、時にはうるさいと感じる蝉しぐれも、廃線のバス停の景と共に表現されると哀愁が漂いますね。

いたどりやダム放流の宣伝カー                         山尾かづひろ
和名イタドリの語源は、傷薬として若葉を揉んでつけると血が止まって痛みを和らげるのに役立つことから、「痛み取り」が転訛して名付けられたといいます。そんな背景を持つことばを上五に置いて、増水による緊急放流を告げるダムの宣伝カーの、緊張感のある表現が効果的ですね。

逃走のいのちに重さごきかぶり                           渡辺秀雄
 ゴキブリにはあまり質量感がなく薄い体をしていますね。しかしこの句は、その必死に逃げ惑う姿に、わたしたち人間と同等の「いのちの重さ」を感じている表現ですね。

指太きオカリナ奏者夏の杜                             磯部のり子
 オカリナのどこか懐かしいような響きを持つ演奏に聴き入りつつ、演奏者の指を目に止めて、音からは想像できない意外に太さに、ある感慨をもよおしている句ですね。ピアノのなどもそうですが、熟練者ほど、その練習量に比例して逞しい筋力の指をしている人が多いですね。その発見ですね。

点滴や鯖雲我が家の方へ行く                           伊藤ユキ子
 作者はベッドで点滴治療を受けているようです。時間がかかりますね。窓の外に鯖雲がゆっくり流れているのが見えているのでしょう。「我が家の方へ」という言葉に一言では言えない思いが込められていますね。ゆっくりしか動かない雲の流れを感じ取っている繊細な表現ですね。

噴水の一日をたたむ夕間暮れ                             稲葉晶子
「一日をたたむ」という表現が独特で効果的ですね。止まった、という言葉と比較すると、その詩情の違いが判りますね。

消しゴムの減りの早さよ梅雨明けぬ                          大木典子
 手書きの鉛筆でものを書いている場面が浮かびますね。俳句手帳でしょうか。なんども推敲を重ねているのだということも伝わりますね。梅雨のことを苦心して表現しようと推敲している間に、梅雨が明けてしまった……というような感慨も感じられますね。 

古利根の水嵩増えて桜桃忌                            大澤游子
 太宰治が入水したのは玉川上水(東京都三鷹市近)ですね。「古利根」は利根川から分流する埼玉県東部の中川の上流のことをいいます。場所は離れていますが、「桜桃忌」は川の水量が増える夏の季語ですから、距離を越えた通じ合う思いを詠んだ句ですね。

纏ひ付くやうな闇なり蛍縫ふ                            大本 尚 
 闇というのは暗さという状態のことですから、質量感をともなう実体的なものではないですね。それを「纏い付くやうな」と質量感の表現にして、同時に蛍が飛ぶ、舞うとは言わず「縫う」としたのが効果的ですね。 
 

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」九月号から)  

籠るとふ革命もあり巴里祭                            村田ひとみ
籠城戦にもなった巴里革命記念でもある「巴里祭」の「籠る」イメージを、コロナ禍での「籠り」を背景にして詠んだのが、独特で効果的ですね。 

捨寺に鎮座の仏梅雨の月                              石坂晴夫
 管理するものがいなくなった廃屋のような寺でしょうか。仏像もそのまま放置されている様に、複雑な思いを抱いた句ですね。下五の季語が効いていますね。
         ※ 晴夫さんのご冥福をお祈りいたします。この投句が最後となられました。

手も足も艶めき揃ふ阿波踊                            稲塚のりを
 ただ所作が揃っている美しさだけでなく、そこに「艶」のある美を感じ取っている句ですね。見ている景をワンステージ上げているような効果がありますね。 

黄菖蒲や湯気流れくる無双窓                            近藤悦子
「無双窓」は竪板を連子(れんじ=一定の間隔を置いて取り付けたもの)にして、外側を固定して左右に移動可能とした窓のことですね。そこからの湯気ですから台所か風呂場の外に黄菖蒲が咲いている景でしょうか。湯気にけむる花の色が見えます。

晩節に免状用なし蝸牛                               須貝一青
 ものごとに取り扱い説明書とか、免許とか資格とかが必要な、なにかと生きるのが面倒な世の中にあって、作者は自分の老境をまっすぐ見つめて、これからは「免状」なんて要らないよ、と自分の歩を進める蝸牛のように生きる覚悟を噛みしめているようです。                     

⑵ 同人句「あすか集」(九月号作品から) 
 ※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
その観点から選出した句です。同じように合評してみましょう。

青芒原抜けてゆく子は反抗期                          砂川ハルエ 
 思春期の反抗的な態度は成長の証と見守っている眼差しの句ですね。その成長の姿を上五中七で象徴的に詠んで効果的ですね。

烏瓜好き放題にさせる庭                              立澤 楓
 荒れ放題と言えば、無精さを思わせますが、生命力溢れる烏瓜の「好き放題にさせ」ていると、視点をがらりと変えた表現が効果的ですね。


不器用な私するりとところてん                          千田アヤメ
 まるで作者が全身、ところてんになって滑っていっているようなユーモラスで爽快感のある句ですね。上五の前置きの「不器用な」が効いていますね。
リモートの孫にもメロン切り分ける                        西島しず子
 普段なら出勤していて、家にいるものだけのお八つの時間を、孫と共有できている、ささやかな歓びを感じる句ですね。重苦しくなりがちなコロナ禍の背景を明るく詠みました。メロンにしたのがいいですね。

夏めくや昔豆腐は水の中                             丹羽口憲夫
 昭和的な落ち着いた暮らしぶりと感性までが表現されていますね。大きな水槽の中に泳いでいるような豆腐の姿と、店の雰囲気まで感じます。

翁媼のカップルつなぎ風渡る                            沼倉新二
 カップル、とカタカナ語でモダンに言い表して、逆に二人の間に流れた時間の暖かな重層性の表現に成功している句ですね。

海霧の空へとつなぐ汽笛かな                            浜野 杏
 「つなぐ」がいい表現ですね。響く、鳴るに置き換えてみると、その縦に広がる空間性の違いがよくわかります。

雲の峰水平線に見る地球                              浜野 杏
 高く盛り上がる入道雲のてっぺんの高度、その視界を引き寄せたダイナミックな表現が効果的ですね。地球の丸さを感じる水平線が視界に入るには、ある程度の高度が必要ですね。
花樗太子も駆けし奈良古道                             林 和子
 太子といったら聖徳太子のことですね。しかもその発育盛りの少年時代の、賢そうな太子像を幻視している句ですね。初夏、淡い紫色をした小花が穂状になり咲く栴檀の古称「花樗」も効いていて、奈良古道が鮮やかに輝きます。

富士山にぶつかり割れる雲の峰                           増田 伸
 瞬時のことではなく、天空の気象のゆっくりとしたダイナミックな動きの表現ですね。それを見届けている作者が過ごした充実した気分の時間を読者も共有します。 

向日葵の顔になれないまあいいか                          松永弘子
 下五を口語表現の「まあいいか」がユーモラスで、微かな諦念を感じました。「私はひまわりみたいな笑顔にはなれないよ」という作者の呟きと読むのが普通ですが、ひまわり自身の悩みと解しても面白いですね。

沖縄忌白き朝顔一つ咲く                             緑川みどり
 本土から差別的な扱いを受けてきた、その集合体としての沖縄の人びとの思い、それを「白き朝顔一つ咲く」と象徴的に表現し、しっかり思いを寄せた句ですね。

炎帝や敷かれしレール五輪へと                           望月都子
 レールという言葉が、動き出したら止められないことの象徴のように詠まれているのが効果的ですね。上五の炎帝も効いていますね。            

かなかなや厨に妣の声のごと                            吉野糸子
 「ごと」で切って、「今も妣の声が響いているかのようだ」という思いが、凝縮的に表現されて、余韻を生んでいる句ですね。

山彦や大つり橋のハンモック                           安蔵けい子
 大つり橋を「山彦」の「ハンモック」だと見立てた、爽快でダイナミックな表現ですね。

別行動土産は同じ水羊羹                              飯塚昭子
 やはり夏ですからねーというみんなの声が聞こえるような句ですね。

蓮池やのぞけば弥生人の影                             内城邦彦
 水面に映った自分の顔に「弥生人」を感じたのか、蓮を栽培した弥生人を幻視したのか、いずれにしろ「蓮池」の雰囲気に相応しい表現ですね。

梅漬くる無駄なる時間何もなし                           風見照夫 
 家庭味噌や家庭梅干しを作るのは、趣味などではなく、かつては季節毎におこなった、暮らしの時間の中の行為だったのですね。そこには無駄とは無縁の時間が流れていますね。

じやが芋の花野末まで一直線                            金井きよ
「野末まで一直線」で清々しい空間の広がりを感じる句ですね。畝を作って栽培する作物は、確かに一直線を形成します。その視点がいいですね。

選別の叔母の手捌き枇杷熟れて                           城戸妙子
 叔母という血縁者の熟達の手捌きをクローズアップした表現で、そこに一つの感慨を抱いている句になりました。叔母が故人となっても、きっと、記憶の中で生き続けることでしょう。

朝顔の蔓を手繰りて種袋                            佐々木千恵子 
 種袋は仲春の季語で春蒔きの種の入った袋のことですが、この句では違うようです。上五の「朝顔」という初秋の季語を主たる季語とした句ですから、この種袋は球形の袋状に種をつけている朝顔の種のことを言っているようです。それを手繰り寄せているという句でしょう。「蔓を手繰りて」の中七が効いていている句ですね。              
 

     ※     ※      ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」9 月)

◎ 野木桃花主宰句(「蔵の街」より・「あすか」2021年8月号)

メビウスの輪となる蜷の跡たどる
移ろひの世をすり抜けて夏燕
つりしのぶ日々を自在の暮し向き
涼し気な濡れ縁に坐し父母のこと
涼しげな沓脱ぎ石や留守の家

【鑑賞例】

一句目、「メビウスの輪」は、帯状の長方形の片方の端を一八〇度ひねり、他方の端に貼り合わせた形のもので「メービウスの帯」ともいいます。発見したドイツの数学者アウグスト・フェルディナント・メビウスの名に由来する言葉です。普通の輪状の帯なら裏と表面は明確に分かれていますが、「メビウスの輪」では、片面を指で辿っていくと、裏だった筈の所が表になりまた裏になって繋がりあってしまいます。掲句は「蜷」が這った軌跡にそのような果てしなさを感じている句ですね。二句目は「燕」の迷いのない切れのある飛翔の姿から逆に、この移ろいやすい世相に思いを巡らせた句ですね。三句目、「釣忍」は軒下に吊られているだけなのに、風にそよぐその姿にゆとりある自由さを感じますね。細かいことに拘らないで日々を、ゆとりを持って生きようという思いが投影された句ですね。四句目と五句目は「涼し気」「涼しげ」の句で、「涼し気」の方は作者自身の心の、回想している父母の姿への投影表現ですね。「涼しげ」の句は、訪ねた家が留守で、帰ろうとして泳がせた視線がふと捉えた景の表現ですね。「沓脱ぎ石」は縁側などの前に置いて、履物をそこで脱いだり踏み台にしたりする石のことですね。 縁側がある和風の旧家で、それが丸見えなっている。そのおおらかさとしっとりとした暮らしぶりに心を動かされている句ですね。

〇 武良竜彦の六月詠

ウイルスの波状攻撃はたた神
六月の俘囚に絵具差し入れて
水無月や賢治の貝の火も消えて


【自解】(参考)
 一句目、新型コロナ・ウイルスの感染状況のグラフは波型になって、時間の経過とともに、その波の山がどんどん高くなっていくのが不気味です。それを「波状攻撃」と表現し、それを激しい雷である夏の季語の「霹靂神(はたたがみ)」と取り合せました。二句目の俘囚は例えば第二次世界大戦時のような現実の「俘囚」ではなく、私たちの閉塞感という心の捉われ状態の比喩として表現しました。「絵具差し入れて」は、夏の空でも描いて、そこからの脱出を勧める表現にしました。三句目は宮沢賢治の「貝の火」という童話の主題を借用した表現です。「悪」と知りつつ、それを止められず自分も染まってしまう結末を描いた童話です。今の世相への批判を暗に込めたつもりです。

2「あすか塾」32  2021年9月  

⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」8月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。 
    ※印は「あすかの会」参加会員

何もせぬという手もあり余花の雨                       ※ 大本 尚  
 「余花の雨」は山の高いところなどで、夏になっても咲き残っている桜花をぬらす雨で、風情のある美しいことばですね。「何もせぬという手もあり」という表現は、文字通り「何もできないで手持無沙汰になっている」という意味と、こんな季節には「何もしないで、ゆったりと過ごすのもいいな」と思っている心の状態の意味にも解せますね。

ひと呼吸して薔薇の香の角曲がる                        ※ 奥村安代 
 初夏らしい場面と作者の心持ちが、この一句に凝縮されているような無駄のない見事な表現ですね。
深呼吸、薔薇の香、町角、作者のいつも通う道の、季節の変化に伴う空気感。作者が季節感を肌で感じながら、地に足をつけた丁寧な生き方をしている人であることも伝わりますね。

新緑の時ゆるやかに切通し                             加藤 健
 新緑の切通しという場面の切り取り。「時ゆるやかに」という心情を投影した言葉を挟んで、初夏の空気感が表現されていますね。

鎮魂の淵に迷える花筏                            ※  金井玲子 
上五の「鎮魂の淵」は大胆な象徴的な抽象表現ですね。現実は流れの淵に少し淀んでいる状態の「花筏」ですが、作者の内面の「迷い」の表現になっていますね。最近増えている災害などの犠牲者や、作者の身近な人を喪った「鎮魂」の思いが籠められているのでしょう。

言ひ訳を手で制したる鉄線花                           坂本美千子
 「制したる」で切れている表現だと解すると、「鉄線花」は独立した季語表現ということになりますね。「制したる鉄線花」と修飾的に花にかかっていると解すると、掌をいっぱいに広げているような花の形状を借りた、心象表現ということになりますね。自分の言い訳がそんな鉄線花か他の人に制止されたのか、自分が誰かのそれを制止したのか。その比喩的心象表現が効いていますね。

引き算のように人逝く夏椿                          ※ 鴫原さき子 
 はっとするような独自の視点の句ですね。報道で感染症の増加という足し算を見慣れていて、実はその数字は重症者数、死者数というこの世から「引き算」のように「逝く」人の数であると言う事実に向き合わされる表現ですね。

鉈彫の口もと涼し微笑仏                            ※ 白石文男 
 文男さんの鮮やかな具象表現とその的確さにはいつも感心します。粗削りの、作者の呼吸まで感じるような鉈遣いの素朴な円空仏のことでしょうか。それを「口もと涼し」とズームアップで表現する、同じように鮮やかな「鉈使い」のような言葉づかいの表現ですね。

筍に小糠を添へて宅急便                              摂待信子
 宅配便が届いた。故郷からの初夏の贈りものでしょうか。煮て灰汁をとるための小糠まで同封されている心遣い。父母からのものだったら、しみじみと。知人友人からのものだったら、その心遣いに感じ入っている句ですね。あるいは作者がそんな心といっしょに誰かに送っているのかもしれません。

思ひ出すことも供養か鳳仙花                           高橋みどり
 大切な人を亡くす喪失感の伴う体験や、それに伴って生じる諸事の多忙な日々を過ぎて、しみじみとその喪失の思いを噛みしめているという時間経過も感じる句ですね。供養は物品でするものだけではなく、その人に纏わることを思い出すという心の行為こそが供養になるのだと、そう思うことができるようになった自分を見つめ直している表現ですね。

震災の使えぬ堆肥梅実る                             服部一燈子
 折角つくっておいた堆肥が使えなくなってしまった。読者には津波の塩害や、原発事故の放射能汚染など、さまざまな被害を想像させる句ですね。でも作者の表現の主眼はそのことだけでなく、下五の「梅実る」という季語に投影した、明日への希望を繋ぐ思いの方ではないでしょうか。

水槽の目高ふえてる町役場                            本多やすな
 下五の「町役場」が効いていている表現ですね。目高は絶滅危惧種に指定されています。それを町中の人が大切に守ろうとしていることが、この一言で伝わります。

揚羽蝶湖の碧さを連れてゆく                           丸笠芙美子
 芙美子さんの象徴詩的な具象表現も、毎月、冴えていますね。くっきりと眼に浮かぶような具象表現ですが、作者の心を投影した心象表現であり、読者の心にも鮮やかに刻まれる表現ですね。

夏木蔭一人帰れば一人来る                             三須民恵
夏木陰のキャパシティが小さくて、一人分しかない様をユーモラスに詠んだ句とも解せますね。それだけではなく、作者がその人たちを相手に楽しく会話を交わし合っている雰囲気も伝わる表現ですね。

日の匂ふ毛布小鳥のごと寝落つ                        ※  宮坂市子 
 市子さんの季節感と風土を噛みしめるようにして生きていることを表現する句も、円熟の域に達してきたようですね。掲句は、その日の日中、快晴で干した毛布が遠赤外線をたっぷり蓄えたことが解ります。それを「小鳥のごと寝落つ」と、野生の感覚に引き付けて、その毛布にくるまれて眠ることの至福感を見事に表現してありますね。

日にゆるる影まろやかに八重椿                           柳沢初子
「まろやか」という言葉は、形が「円い」という形容表現から派生して、口あたりが柔らかいさまというような、味覚表現に転用されてきた言葉ですね。視覚的な色合いなどにも転用するようになりました。この句はさらに深化させて「影」の色合いではなく、その「影」が日差しの中で揺れているさまが「まろやかに」と表現しました。この「まろやかに」がこの句の命ですね。

かきつばた句友句仇無き静寂                            矢野忠男
「かきつばた (杜若)」は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物。開花時期は夏の気配がしてくる初夏。まさに「夏が来れば思い出す」という花であり、また深い友愛のような紫色ですね。懐かしい友もみんな幽界に旅立って久しい。身辺の静寂にひときわ寂寥感が募ります。

廃山とてをんな神輿にひとだかり                        山尾かづひろ
 日本の主たるエネルギーが石炭から石油に替わっていった時代、全国の炭鉱が廃業になりました。「廃山」とはそのことを指すのでしょう。そこで働いていた人たちは転職して炭鉱町を出て行き、町はすっかり寂れました。「をんな神輿」というのは町の人口が減って祭の「神輿」の担ぎ手がなくなり、残った女性がその役を担ったのです。「ひとだかり」は残った町びとたちの心からの応援の姿ですね。

勤勉の姿かたちに植田かな                             渡辺秀雄
 米農家の仕事は怠惰な人には勤まりません。そのことへの尊敬のまなざしが「勤勉の姿かたち」という表現によく表れていますね。何枚もの田に整然と植えられた稲苗の姿が目に浮かびます。下五が「田植えかな」ではなく「植田かな」となっているのも、単に田植え姿のことを指しているのではなく、その仕事にいそしむ人への、全的な尊敬の念の表現だからですね。

二畝はじやがいももつそり芽吹くなり                       磯部のり子
 専業農家ではなく、多種の野菜を栽培している家庭菜園でしょうか。その中の二畝だけに「じやがいも」が植えられているのでしょう。いっせいに芽吹いて、そこだけ緑色に盛り上がっている姿が目に浮かびます。「もつそり」という音韻的な表現が効果的ですね。

ねむた木の花やカヌーは滑り漕ぐ                         伊藤ユキ子
 合歓木の方言的な呼称で「ねむた木」という言葉を上五に置いて、味わい深いですね。その向こうに見えるやや川幅のある水面をカヌーが滑るように過っていく光景です。まるで扇型の合歓木の花が、その樹上に揺らいで、声援を送っているかのようです。

ぴかぴかの銀輪確と春を漕ぐ                            稲葉晶子
 自転車の車輪を漢音の「銀輪」と表現しているのが、金属のぴかぴかした光に相応しいですね。下五は普通「漕ぎゆけり」というふうにしてしまいがちですが、季節を鷲掴みにするかのように「春を漕ぐ」としたのも効果的ですね。そんなふうに鑑賞すると、これは自転車ではなく車椅子マラソンなどの競技用の練習風景にも感じられてきます。

竹皮を脱ぐ昭和の男皿洗ふ                           ※ 大木典子 
 典子さんは最近、体調を悪くされて、家事を夫である尚さんがカバーされているそうです。その姿を「昭和の男皿洗ふ」と少しユーモラスに、温かい眼差しで表現されています。上五の「竹皮を脱ぐ」という季語が、家事を習得して今までとは違う自分に脱皮しようとしている男性の姿に見えてきます。

筍の十二単衣を解く厨                              大澤游子
 筍の重なりあっている皮を剥いているだけの景ですが、その皮を「十二単衣」に喩えた表現ですね。普通、その比喩だけで句を詠んでしまいがちですが、「解く」と短く表現して解放感やテキパキとした捌きぶりまで目に浮かぶ表現にしたのが効果的ですね。最後を「厨」という場所にしたのも効果的ですね。


⑵「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」八月号)  

風涼し柱状節理の岩に向き                            村田ひとみ
 下五を「岩の元」とか「岩聳え」というように、場面の説明にしないで「岩に向き」と自分の眼差しの表現にしたのが効果的ですね。人の眼差しと体温をそこに感じますから、上五の「風涼し」がより実感として迫ってきます。涼やかな景に包まれているような感覚になる句ですね。

バードデー雀起きよと窓叩く                            石坂晴夫
 窓を叩いているのは作者ではなく、擬人化した雀でしょう。人間が窓を叩いて、眠りこけている雀を起こしているという状態は考えにくいですね。そのことが解ると、この句の面白さをより深く味わうことができます。「バードデー」というのは人間が勝手に作った記念日ですから、鳥たちは知らないことです。よりもよってその「バードデー」に、雀に起こされたよ、と微笑んでいる句ですね。

 ※石坂さんはご闘病中でしたが、この九月に逝去されました。残念です。謹んでお悔み申し上げます。

その奥にをみなの影や青すだれ                          稲塚のりを
 美しい日本画のような景の句ですね。筆頭に「その」が日本的な暮らし全般を総括しているような効果があります。淡い色調の「青すだれ」の向こうに人影が……。それを古風に「をみな」と表現したのも効果的ですね。日本女性の凛とした美しさまで表現されています。もしかしたら亡き御母堂の幻影なのかも知れない、と深読みしたくなる句です。

大屋根や孤独まとひし朴の花                            近藤悦子
 「大屋根」と「朴の花」、一見、なんの関連も無く意味的には結びつかないような二語が取合された句ですね。でも俳句的に中七で「孤独まとひし」と表現されると、屋根の下の家の中がどんなに賑わっていても、ただ空に向かって広がっている大屋根はどこか寂し気であり、朴の葉と花の、幹や枝とは釣り合わない大きさも寂し気だと一点で心の中で繋がります。俳句の妙ですね。

はつ夏や旧街道にしるべ立つ                            須貝一青
 上五の初夏をひらがなで「はつ夏」として、道路標識もひらがなで「しるべ」と表現して、懐かしい想いを高める効果をあげていますね。旧街道に残る標識は目立たないものが多いですね。徒歩の速さでないと目に留まらないような標識です。昔の旅は徒歩でした。そのことも感じさせる句ですね。初夏の、どこかへ旅をしてみたくなる気持ちも表現できていますね。                      

⑶ 同人句「あすか集」八月号作品から 
 
沈黙のワクチン会場薄暑かな                            高橋光友
 ※会場の緊張感も伝わる表現ですね。

茄子咲くや多産の母のこと憶ふ                           滝浦幹一
 ※懐かしさを感じる紫色の、ふっくらとした肉付きの茄子のかたちに響き合う表現ですね。

狭庭にはひしめき合って夏野菜                           立澤 楓
 ※「我が庭」といわず「狭庭」と短く言い切って、そこに多種の夏野菜を植え、その芽吹きを期待している作者の気持ちが伝わります。

香を内にずしりと重きメロンかな                         葛籠貫正子
 ※メロンの質量感を、香りを閉じ込めている表現にしたのが斬新ですね。

夏蝶の戯れ合ふは通学路                             坪井久美子
 ※蝶はただ二羽がひらひら舞っているだけですね。そこが通学路であることも、自分たちが戯れているように見えているとも知りません。作者がそう表現したことで、そこを通る子供たちの生き生きとした姿が浮かび上がるという俳句の力ですね。
走り過ぎる少年の手にカーネーション                       西島しず子
 ※あっという間のできごとだったでしょう。見逃してしまうような景ですね。その場面を捉えて句にした作者の心が、いい光景を見た、と輝いたであろうことを、読者も感じる句ですね。もちろん少年は母のために購って帰路を急いでいるのですね。

天道虫背ナのメダルの重々し                            沼倉新二
※まだ今年のオリンピック開催がどうなるか解らない時期に詠まれている句ですね。その戸惑い感を天道虫の星模様に託して表現しましたね。

わつさわつさ風と遊びし栗の花                          乗松トシ子
※房状に咲く栗の花の質量感を「わつさわつさ」という音韻で見事に捉えた句ですね、「遊びし」も効果的で、もう散って地面に落ちているのでしょう。回想の句なのですね。

夏燕駅構内を物色中                                浜野 杏
※燕の懸命の巣造りの姿に温かい眼差しを投げている句ですね。人が絶えず往来する場所の方が、天敵に襲われず安全であることを、燕たちは知っているのですね。

子供の日ワクチン予約の電話前                           林 和子
 ※ワクチンの予約をしようとしているのが「子供の日」という表現が効果的ですね。気遣っている家族の眼差しを感じる表現になりました。

夕虹に近づきたくて転びけり                            幕田涼代
 ※何かに憧憬を抱いては、その都度挫折してきた人生の暗喩のような響きのある表現ですね。それをユーモラスに表現していて、読者の心に沁みます。

薔薇の花描けば紙上に咲き続く                           増田綾子
 ※芸術というものの真髄を捉えたような表現ですね。俳句もそうですね。そのときの一瞬の感慨が永遠化されます。

夏の恋0番線の夜汽車から                             松永弘子
※「0番線」「夜汽車」が、「夏の恋」という青春の象徴性をより深めて、うまく響き合い、心にジンときました。「0番線」というまだ存在しない可能性の象徴、「夜汽車」という若者特有の空想的な響き。巧みな表現の句ですね。

ばれいしょの白き花見て直売所                          緑川みどり
 ※たとえばこんな鑑賞ができる句ですね。この「直売所」では花をつけた茎ごと売られていて、作者は初めてその花を見、その色を知ったのかもしれない。または近くに畑があって偶然、目にしたのかもしれない。その足で「直売所」に立ち寄りたくなった……というように。まるで何かいいことがあったよ、というような雰囲気の句ですね。

県境の向こうもこちらも青田風                           宮崎和子
 ※何かと「違い」ばかりが強調されて、反目しあっているような世相の中で、もともとこの地上のものは同じだよ、と爽やかに感じることができた歓びのようなものを感じる表現ですね。

春の暮前垂れ換える六地蔵                            村上チヨ子
 ※「換える」となっているので、作者が「六地蔵の前垂れを換える」行為をしているようにも読めます。「六地蔵巡り」という言葉もあるので、一か所ではなくそれぞれが離れた場所にある場合も想像されます。いずれにしろ「六地蔵」に「前垂れ」を付けてあげて、それを定期的に交換している町に作者が暮していることが解ります。落ち着いた暮らしぶりが伝わります。ちなみに「六地蔵」は地蔵菩薩の六分身で、仏教では人間は生前の行いによって死後,地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道の境涯を輪廻転生するといわれ、そのそれぞれに衆生救済のために配されているのが、檀陀・宝印・宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵であるとされています。

点火せし白百合慕う雨の中                             村山 誠 
 ※まるで真白な蝋燭に灯を点したかのように、白百合の花が花粉の淡い黄色をちらちらと見え隠れさせつつ、雨の中で揺れているという景ですね。それを「点火せし白百合」と大胆に効果的に表現してありますね。その凝視の眼差しを「慕う」と短いことばで添えています。

夏燕かならず雲を置いてゆく                            吉野糸子
 ※巧みな表現の句ですね。燕の素早い飛翔の軌跡を目で追っても、追いつきません。燕の姿は線状の彼方に去ってしまいます。取り残された視線の先には、ただ夏の白い雲だけが……という作者の思いが見事に刻まれていますね。

黒南風や大師の水を山襞に                             飯塚昭子
※「大師の水」は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として名高い高野山麓の清冽な伏流水ですね。その水が山襞から滲み出して、滾々と湧き出しているという景でしょうか。上五の「黒南風」は暗くどんよりとした梅雨の長雨が続く時期に吹く湿った南風のことで、このころの空や雲の色と憂鬱な心持ちを重ねて「黒」とされました。それと「大師の水」の透明で白い飛沫を飛ばして流れる爽やかさを対比して効果を上げていますね。 

大空へ吹つ切りにけり巣立鳥                            内城邦彦
 ※中七を「吹っ切りにけり」とだけ表現して、「大空」と「巣立鳥」を繋げた表現が効果的ですね。閉塞感漂う世相の中、作者の祈るような思いが投影された句ですね。

雲形の兎痩せゆく吾妻嶺                              大谷 巖
 ※夏の雲は姿をめまぐるしく変え続けますね。作者が一日の中でふと吾妻嶺を遠望した、つかの間の時間の表現ですね。「あの雲、まるまると太った兎みたいな形だな」と思っている間に、みるみる細って形を変えたのでしょう。作者の別の句に「にわたずみ木くずに蟻の流れゆく」がありますが、これも移ろいやすい自然の中の命たちに投げる優しい眼差しを感じる句ですね。

荒梅雨や掛け声高く自彊術                             小澤民枝
 ※「自彊術」は中井房五郎という技療法士治療法が創った健身術で、按摩、指圧、整体、カイロプラクティック、マッサージ等をミックスした数百種に及ぶ手技療法で、難病克服に効果があるそうです。この句では「掛け声高く」とありますので、気合をいれる声をあげて行うようです。鬱陶しい「荒梅雨」を吹き飛ばすような力がありますね。

村一面発電パネル揚ひばり                             風見照夫
 ※こう詠まれただけで読者は、原発禍で人の住めなくなった村のことだなと了解します。原発事故が起こる前だったら、この句は生まれなかったでしょうし、生まれてもそのようには受け止めなかったでしょう。俳句表現にもこのようにあの原発禍が刻印されることになったのですね。

露草の朝色夕色ありて閉じる                            金井和子
 ※「露草」は畑の隅や道端で常に見かけますから、朝咲いた花が昼過ぎにはしぼむことを知らない人が多いですね。この句は夕方まで咲いているのを発見して、その色の変化にも心を動かされたことを表現していますね。その形から「蛍草」などの別名もあり種類も色もいろいろありますね。

                  ※         ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」8月)

◎ 野木桃花主宰句(「青葉風」より・「あすか」2021年7月号)
かつと照る夏日朴の葉ひるがへる
蕉翁に兄と姉妹やねぶの花
夏蝶の風を力に国境
懸命に咲いて翳濃き七変化
羽衣の千里を飛んで青葉風

【鑑賞例】
 一句目、他の季節がどこか閉塞感があるのに比べて、明るい日差しの中の夏の視界は広々と開けています。その感覚を広い朴の葉が風にそよぐ景に凝縮して表現してありますね。二句目は相当、俳句に詳しい人ではなくては詠めない句ですね。「蕉翁」芭蕉のイメージは孤高の人という感じですが、死ぬまで方々を旅した身を案じてくれた兄、姉妹がいたのです。「奥の細道」の原本は逝去前に兄に託され、兄が大切に保管してくれていたから、後世に伝わり私たちが読むことができているわけです。下五を「ねぶの花」で結んでいるのも、芭蕉の「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」を踏まえた表現です。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿とさせる、というような句意ですが、西施とは越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことです。芭蕉は「松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地は悲しい境遇の美女が憂いに閉ざされているようだ」と述べています。三句目から五句目は独特の視点と類型に陥らない表現がされていますね。三句目は下五の「国境」という視点、四句目は「懸命」さと「翳濃き」という表現、五句目は千里を飛ぶ「羽衣」の喩で「青葉風」に軽やかさを与える表現ですね。

〇 武良竜彦の五月詠
森に眠る人ゐる起こすなよ若葉
青葉木菟墳墓に隠す偽史のあり
蟾蜍億光年の一歩かな

【自解】(参考)
 一句目は森閑と何もかもが眠りについていたような森が、若葉の季節で明るくにぎやかになってゆく様を比喩的に表現しました。二句目は考古学者による発掘が禁じられている古墳群があることを詠みました。天皇家由来の墳墓で、発掘されて新事実が出てきたら何かまずいことでもあるのではという疑念すら封じ込められている「聖域」が日本にはあるのです。三句目、私たちが今見ていることは、今だけのことではなく、宇宙の始まりから連綿と続いている歴史的一瞬でもありますね。

2「あすか塾」31  2021年8月  ※ 八月の合評会は無く、武良による鑑賞資料のみ

⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例―「風韻集」7月号作品から 
―独自の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍的視座への跳躍。
※印は「あすかの会」参加会員

七色の囀藪をふくらます                              大澤游子
はっとするような新鮮な表現の句ですね。囀りという音が七色で、それが藪をふくらませている。春の植物の成長の勢いまで感じられます。

空の青上枝に残花ゆるぎなし                          ※ 大本 尚 
 澄み切った青空に桜の残花がくっきりと見えている景が浮かびます。「上枝」で作者が見上げていることがわかり、「ゆるぎなし」が花の様であると同時に、作者の心が明確に投影されていることを感じる表現ですね。

飛花落花風の形のままにあり                          ※ 奥村安代
夕桜詩となるまでを佇めり                              〃      
                    
 一句目、見えない風の形が花びらの流れるさまでわかる、という景ですが、それを「形のままにあり」と表現したところが独自の視座ですね。二句目、「詩となるまでを」の「を」でゆったりとした時間経過を表わし、自分の心の中での熟成の時間とした点が独自ですね。

妻の忌や香煙に添ふ花吹雪                             加藤 健
 花びらが「香煙」の流れと同じに流れたという景ですが、それを「添ふ」と表現して、亡き妻に寄り添う想いが表現されていますね。

若布干す海の光を滴らせ                            ※ 金井玲子 
潮水が滴っている景ですが、それを「光」に転換したのが独自の表現ですね。

水口に旅の終りを花筏                              坂本美千子
水口(みなくち、みずぐち)は特に水田における用水の取り入れ口を指す言葉ですね。稲作が産業の中心を占めていた日本ではとても大切なもので、地名や名字としても用いられる言葉です。この句は花筏の「旅」の終点に「水口」を描いて、その歴史的感慨まで詠みこんでいますね。

大空に風の椅子ありいかのぼり                        ※ 鴫原さき子 
 まるで大空に大きな椅子があって、そこに風が憩うているようだという独自の視座があります。

人声の重なるところ噴井あり                          ※ 白石文男
 噴井の周りに人が集まって楽しく会話しているという景ですが、それを「人声の重なるところ」という独自の視座による表現がしてありますね。

屋根ごしに枝垂柳の五十年                             摂待信子
 下五を「五十年」という時間の堆積表現に転換したのが独自の表現ですね。

梅の実や時確かめる朝なりき                           服部一燈子
 機械的な時計ではなく、季節の中で変化を見せる「梅」という植物にした点が独自の視座ですね。自然を体感し噛みしめて生きている姿勢まで感じられます。

さまざまな楓若葉や緑舟忌                            本多やすな
「あすか」の創設者である師への敬意を含めた「挨拶句」ですね。「さまざまな楓若葉」と、その弟子たちの多様な個性の集いまで表現されています。

花万朶風の吐息とたはむれて                           丸笠芙美子
 吐息と戯れる、という表現に独自の視点と言葉選びの技がありますね。

擬宝珠の裏で手を振る師の笑顔                           三須民恵
この擬宝珠は、欄干飾ではなく季語のキジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシでしょう。山間の湿地などに自生する多年草で、食用となり花が美しく、日陰でもよく育つため栽培されています。野生ではなく自宅の庭に咲いているのでしょう。「裏で手を振る師の笑顔」だとすると、背が花の丈より小さい妖精を幻視しているような表現で、亡き師への親しみと敬愛の籠る表現ですね。

鳥の恋一瞬窓辺過去となる                            ※ 宮坂市子 
白木蓮傷つきさうな空の蒼                              〃

 一句目、たった今を一瞬で「過去」にしてしまう、今このときを生きるものたちの命の輝きを、その一瞬の筆さばきで捉えたような表現が独創的ですね。二句目、このうえもない繊細な心の動きを感じますね。

水底に青葉の山を抱く湖                              柳沢初子
 湖に青葉の山が映じている景ですが、それを「水底に抱く」という表現したのが独自の視座ですね。

懐に風を馴染ませ六月来                              矢野忠男
 風を懐に馴染ませる、まるで慈しんで迎えているような視座が独創的ですね。

手掘りの隧道へ村営バスの梅雨ダイヤ                      山尾かづひろ
 雨季の特別ダイヤなのでしょうか。常設ダイヤであっても、こう表現することで、この村のこの手掘りの隧道が特別に愛されていることが伝わる句ですね。

老いてまだ叱る人欲る遍路杖                            渡辺秀雄
高齢者が鬱陶しがられるのは、独善的な傾向が強まるからでしょう。老いてなお自分を叱り、糺し、導いてくれる心の柔軟さの表現に、作者の人柄まで窺える句ですね。

ふらここや向こうの山の艶めきて                          磯部のり子
 向こうの、という丁度いい距離感、艶めくという独特の輝きの表現、この二つにブランコの躍動的なリズムを加えた高度な技の光る表現ですね。

耕しの土に濃淡午前過ぐ                             伊藤ユキ子
 農場の風景の時間経過だけでなく、そこで働く人の丁寧な仕事ぶりまで見えるような表現ですね。
  
花見には花見の歩幅ありにけり                            稲葉晶子
 花見という特別な時間、その独特な祝祭感が巧みに表現されていますね。

囀りや迎へてくれし野面積                           ※ 大木典子 
 野面積という自然石を加工しないで割ったまま積んだ石垣が、そこを訪れた自分たちを迎えてくれたという表現ですね。そう表現することで空気が和らぎ、鳥たちの囀りも優しく響き渡るようです。

〇野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例
―「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」7月号)  


中くらゐの幸せ乗せてボート漕ぐ                         村田ひとみ
 手漕ぎのボートサイズの幸せ感の表現が独自でいいですね。二人が向かい合って座っている景も見えますね。

墨堤の花に入る鳥蜜に酔ふ                             石坂晴夫
 墨堤と言ったら隅田川の堤の異称で、「墨堤遊春の客」という言い回しがあるくらいですね。この句はその土手の花の蜜を吸いに鳥が来ているという優雅な景として描いたのが独創的ですね。

人物画友に似てをり昭和の日                           稲塚のりを
 友に似た人物画に、共に過ごした昭和という時間を感受している表現ですね。街路の似顔絵師の絵を通りがかりに見ているのでもいいですし、美術館で高名な画家の絵をみているのでもいいですね。

花筏流れ流れて浄土かな                              近藤悦子
 花筏の行方は知れません。静かに川底の塵となったり、流れ流れと海の藻屑となることなどが想像されます。それを「浄土」への足袋と見立てたことに、救済感がありますね。花びらの足袋を人間の一生に見立てているような雰囲気もたち現れますね。

花いっぱい妻の手縫いの布の端                           須貝一青
 上五の「花いっぱい」で先ず、屋外の繚乱たる桜の景が浮かびます。そして視点が室内に切り替わり、裁縫をする妻の手元へとズームしてゆきます。そこにも満開の桜模様を発見します。祝祭的な空気感に包まれた表現で、作者の妻への優しい眼差しの溢れる表現ですね。

⑵ 同人句「あすか集」7月号作品から  ※ 評例なし 自分で考えてみましょう。
―特に野木メソッドの「ド」「ハ」「ス」の視点が明確に感じられる句を選びました。
 独特の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍性への跳躍。
   以下の句のどういう表現にそれらが感じられるか考えてみましょう。

リハビリの心の弾む梅雨晴間                            鈴木ヒサ
人影を水面に浮かべ植田かな                            鈴木 稔
コロナ禍の静寂を落花急ぎをり                          砂川ハルエ
花苺花壇のまん中幼き日                              高橋光友
青葉潮百歳までのスケジュール                           滝浦幹一
北鎌倉樹木葬には花木五倍子                           忠内真須美
心電計針の乱れや青嵐                               立澤 楓
こいのぼり尾っぽの先で空なでて                         千田アヤメ
葉桜を飛び出すジェットコースター                        丹羽口憲夫
雀の子喉元見せて水溜り                              沼倉新二
群青を傾ぎてすべるヨットかな                          乗松トシ子
囀を目で追ひかけて地の吐息                            曲尾初生
母の日や園児は笑顔のママを画く                          増田綾子
青春は夜行列車の登山かな                             松永弘子
鶯のおぼつかなくて鳴きかわす                          緑川みどり
梅雨兆す一つの光まとふ庭                             村山 誠
朱の傘の中に白無垢菖蒲園                             吉野糸子
つばめ来ぬ免許返納せし車庫へ                           飯塚昭子
つばくらめ紺碧の空に十字切る                           大谷 巖
横腹に園児の名前鯉のぼり                             小澤民枝
花筏たどりつきたる竜宮城                             金子きよ
顔知らぬ祖父母の話月朧                              城戸妙子
生業を問へど無言や蟻の列                           佐々木千恵子


   ※      ※        ※
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あすか塾 2021年(令和3)年度 2

2021-05-29 15:42:41 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
あすか塾 2021年(令和3)年度 2

【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。

 ※ 以下ドッキリを「ド」、ハッキリを「ハ」、スッキリを「ス」と略記。


         ※     ※      ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」7月)

◎ 野木桃花主宰句(「みどりの日」より・「あすか」2021年6月号)

みどりの日ときめきの森へ扉開く
友の背を軽く払うてえごの花
藪深く黙を深めて今年竹
近江路へふつふつ旅愁夕焼て

【鑑賞例】
 一句目、心象の具象化表現の句ですね。「扉」はこころの扉を表していますが、何もかもが開放的になってきた春の雰囲気の表現になっていますね。二句目、「軽く払ろうて」という言葉で親しみと慈しみが表現されています。そこで句意がいったん切れて、季語の「えごの花」を下五に置く事で、枝先に白い小鈴のような五弁花が群れ咲くさまに繋げて詩情豊かに締めくくられています。三句目、「黙を深めて」の「黙」は深刻な悩みごとの様ではなく、この後すくすくと伸びる前の、力をためているような生命力の「黙」の表現ですね。四句目、「ふつふつ旅愁」の擬態語と旅心を結びつけた表現が斬新ですね。俳人の多くが魅了される近江路への思いなら、なおさらで、下五の「夕焼て」も効いていますね。

〇 武良竜彦の四月詠

西行の死後のしら雲弥生尽
傷みし帆広げて船がゆく晩春

【自解(参考)】
 一句目、すべてを捨てて漂泊の旅に出た歌人として、伝説的なエピソードが多い西行ですが、そういうことからも無縁の流れる「しら雲」のように旅に生き、旅に死にたかったのでは、という想いを詠みました。西行が死にたいと歌に詠んだ如月の翌月、つまり弥生の終りに。二句目、マストや帆は傷だらけになりつつも、まだ航海を続ける人間の命の喩として詠んだつもりです。 

2 「あすか塾」30  2021年7月 

⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による合評会

〇「あすかの会」会員の作品から (「あすか」6月号)  

人恋しマスクに隠す春愁                              大木典子
「ド」誰にも告げられぬ心の愁いを、時節柄の「マスク」で詠みましたね。
「ハ」マスクという、他から自分を隔絶するもので、その疎外感を強調した表現ですね。
「ス」隔絶されることで余計に募る想いを巧に表現しました。

さくら散り蕊降り今年の宴了ふ                           大本 尚
「ド」花見は宴ですが、この句は桜の開花と落化こそが一つの宴であり、それが終わったな、という感慨の句ですね。
「ハ」花びらが散るさまだけではなく、蕊が降るところまで見届けている表現ですね。「散り」「降り」の繰り返しでリズム感が生まれています。
「ス」終わりを完了の「了」にしたのも効果的ですね。

沖を見るだけの鎮魂花の冷え                            奥村安代
「ド」災害の犠牲者に対して何もできない自分、という内省的な想いの表現ですね。
「ハ」鎮魂の思いの「形」の表現には手を合わせる合掌、天を仰ぐ祈りなどあることを前提とした表現ですね。私はただ「沖を見るだけ」だったいう表現に切なさが滲みます。
「ス」下五の「花の冷え」がその心象にぴったりです。

せせらぎの水音集めて蝌蚪の池                           金井玲子
「ド」きれいな小川の流れを感じさせる表現ですね。
「ハ」「集めて」という擬人化した表現ですが、「集めて」いるのは自然の力ですね。
「ス」結びは「池」ですが流れに繋がる流水のある池ですね。「蝌蚪」の生命感に繋がります。

陸奥に空ある限り揚雲雀                             鴫原さき子
「ド」大胆な省略表現が詩情を豊にしている句ですね。
「ハ」地は壊滅的に被災しても「空ある限り」という中七までの句意で切れて、上昇感のある「揚雲雀」で結んでいます。
「ス」散文のように完結しなくても、その思いに読者は共振します。

差向ふ暮し幾とせ春ともし                             白石文男
「ド」誰と誰がと言わなくても老夫婦の姿が見える表現ですね。
「ハ」「差向ふ」という近距離感のある「場」から、「暮し幾とせ」という時間の積み重ねへの転換が効果的ですね。
「ス」下五の「春ともし」のひらがな書きの柔らかさで、心温まる景に収斂されています。

春夕焼縁どる峰の新たなり                             宮坂市子
「ド」古いものこそ常に新しく、変わらないからこそ日々同じ景はない、という感慨の句ですね。
「ハ」歴史ある土地に根差す暮らしを包むのは、変わらない自然の姿です。だが見慣れた峰の夕焼の色合いは、一度として同じ景はなく変化に富んでいます。
「ス」そのことを下五で「新たなり」と言い切った表現が効果的ですね。

久々にメモ取る手帳日脚伸ぶ                            須貝一青
「ド」上五の「久々に」でこれまで、心に余裕がなかったことが表現されています。
「ハ」中七の「メモ取る」で俳句手帳かもしれないと推測されます。
「ス」下五の季語の春の到来を感じさせる語で、屋外の視野が開けます。直な語順の展開で、平凡な景が、平凡ゆえの貴重なひとときに変わります。

連結の貨車大揺れに山笑ふ                            村田ひと
「ド」貨車の連結は大音響を伴い、目が覚めるような表現です。
「ハ」作者の性別を超越したような視座にも爽快感があり、力強い表現ですね。
「ス」その音響感が「山笑ふ」の季語に相応しいですね。

冴返る骨董市の欠け茶碗                              石坂晴夫
「ド」屋外で行われている骨董市の寒気が伝わる表現ですね。
「ハ」「欠け茶碗」へのズームアップが効果的ですね。
「ス」春さき、暖かくなりかけたかと思うとまた寒さが戻ってきて、より冴え冴えとしたものを感じるのが「冴え返る」ですね。欠け茶碗の尖った角に寒気を感じます。

つちふるやゴビの砂漠のもの混じる                        稲塚のりを
「ド」土埃といっしょに視野が砂漠まで広がる表現ですね。
「ハ」「ゴビの」「砂漠の」と、噛みしめるような語調ですが、逆に心は外に広がってゆきます。
「ス」ゴビ砂漠から飛来した黄砂が関東平野の春ホコリと、混ざりあうという表現が効果的ですね。

五線譜を飛びだす音符揚雲雀                            近藤悦子
「ド」大胆な空想表現ですが、沸き上がるような高揚感がありますね。
「ハ」空想なのに音符の形状が想像されて、不思議なリアリティを生み出しています。
「ス」下五の揚雲雀からの発想ですが、それを語順的に逆転させて効果を上げていますね。

〇「風韻集」6月号作品から 

水温むたゆたふ帯のひつじ雲                            大澤游子
「ド」寒気の緊張がほぐれてゆくような季節感を詠んだ句ですね。
「ハ」それを「ひつじ雲」の帯状に「たゆたふ」さまで表現しました。ひらがな書きが効果的ですね。
「ス」地の水温む、と春の空の雲を共鳴させて句に広がりがありますね。

鳥帰る入江の波の乱れなし                             加藤 健
「ド」季節のめぐりの規則正しさへの感慨の句ですね。
「ハ」「入江の波の乱れなし」という言い切りが効果的ですね。
「ス」穏やかな春の海の景が浮かびます。

雪解けの重き道のり郵便車                            坂本美千子
「ド」雪解けの時節のぬかるみ感を表現した句ですね。
「ハ」それを定期的に運行する「郵便車」にしたのが効果的ですね。
「ス」ぬかるみ、と言わず、「重き道のり」と表現に詩情がありますね。

前山の一本だけの花盛り                              摂待信子
「ド」おそらく一本だけの早咲桜に対する感慨の句でしょうね。
「ハ」「前山の」で指呼の間にある山で、いつも眺めている山であることが解ります。
「ス」全山、桜という景ではなく、一本だけ桜が混じる里山ふうの雑木林が近くにある暮らしの一コマですね。

たかんなや見つけ上手な小学生                          服部一燈子
「ド」子供たちが筍掘りをするような暮らしを感じる句ですね。
「ハ」慣れないと芽を出したばかりの「たかんな」を発見するのはなかなか難しいものですね。
「ス」それを得意とする学童がいる景として表現したのが効果的ですね。
       
口中に言葉あたため竹の秋                            本多やすな
「ド」周囲とは違う想いを抱いて「口中に言葉あたため」ている自分の、言葉にならない思いの表現の句でしょうか。
「ハ」広葉樹一般とは真逆の季節のめぐりを持つ「竹の秋」との取り合わせが効果的ですね。
「ス」筍に栄養分を費やすために、竹が春に葉を黄変させることを晩春の季語で「竹の秋」といい、竹落葉は初夏の季語になります。

海鳴りの身に迫り来て春の闇                           丸笠芙美子
「ド」夜のしじまの中で、一際、海鳴りという自然の音を身近に感じている表現ですね。
「ハ」「聞こえ来る」とか「音がする」ではなく「身に迫り来て」と引き寄せた表現が効果的ですね。
「ス」作者が下五の「春の闇」に特別な思いを込めていることが伝わります。

天国の父降りて来よ翁草                              三須民恵
「ド」願望を命令形で強く表現した表現ですね。
「ハ」その強調が作者の思慕する思いをいっそう強めていますね。
「ス」「翁草」の名の由来は、実が長い白毛状になって老人の白髪に似ることからですね。釣鐘形の赤紫色の六弁花も全体が白毛に覆われています。花が能楽の「善界」で天狗の被る赤熊(しゃぐま)に似ていることから「善界草」ともいいます。薬用にもなる花ですね。それを亡き父への思慕の表現に寄り添わせました。

天空に濯ぎて白き花辛夷                              柳沢初子
「ド」爽やかな春の空気感を白い花辛夷で表現した句ですね。
「ハ」まるで清らかな水で洗い清めるように「濯ぎて」としたのが効果的ですね。
「ス」上五も「青空に」という近すぎる言葉を避けて、広がりのある「天空に」としたのも効果的ですね。

行間に詩樹間に余る花こぶし                            矢野忠男
「ド」すぐれた詩が「行間」に豊かな詩情を滲ませていることを喩として表現した句ですね。
「ハ」清楚な「花こぶし」が「樹間に余る」と表現して春の空気感を表現しました。
「ス」「行間」「樹間」という対句的な対比表現が効果的ですね。

発破師に仕出しの届く麦湯かな                         山尾かづひろ
「ド」爆破などを伴う荒々しい工事現場のお昼の、ほっとするような一ときを表現した句ですね。 
「ハ」下五を「麦湯」という季語で閉めているのが効果的ですね。
「ス」「発破師」正しくは「発破技士 」は、労働安全衛生法 に規定された免許(国家資格)の一つで、免許試験に合格して、 都道府県労働局長から免許を交付されます。採石現場や建設現場などで発破を行う際に穿孔、装填、結線、点火、または不発の際の残薬点検と処理などの業務に従事することができる資格を持つ人のことです。その火薬の匂いのする現場とお昼の「仕出し」の取り合わせが斬新ですね。

ルオーの絵に出会ひてからか春愁                          渡辺秀雄
「ド」ちょっとした切っ掛けで、内なる愁いが始まることを表現した句ですね。
「ハ」前衛的でインパクトのある画風に作者は特別な思いを抱いたようです。
「ス」「ジョルジュ・ルオー」は、フォーヴィスム(写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現)に分類される十九~二十世紀のフランスの画家で、「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した画家。売春婦やピエロや道化者たちを表現し、一方でキリストの肖像画やその他の精神的象徴を崇拝するように描いた。掲句は自分の「春愁」をその絵画世界を喩として表現しました。

蕗味噌や味それぞれの句合宿                           磯部のり子
「ド」十人十色の俳句の内容の違いの面白さを「蕗味噌」の味わいに引き付けて表現した句ですね。
「ハ」「蕗味噌」はまだ開ききらない蕗の薹を摘んで湯がくか油でいためて刻み、味噌や酒、みりん、砂糖などで調味したもの。ほろ苦さに味わいがあります。新型コロナウイルス感染症の終息しない今、こういう「合宿」が行えることの愉しさまで伝わる表現です。
「ス」「蕗味噌」は地方や家々で作り方が違っているものです。その味わいの差を作風の違いに引き付けて表現しましたね。

ペン立てに尖る鉛筆地虫出づ                           伊藤ユキ子  
「ド」砥ぎたての鉛筆の芯の先のように、新たな創作に向かう心の表現の句ですね。
「ハ」新たな季節の始まりでもある季語の「地虫出づ」も効果的ですね。
「ス」鉛筆がペン立てで先を尖らせて待機している景に、ある決意を感じますね。ワープロではなく、手書き派の俳人らしい景ですね。

冴返る森切り刻むチェーンソー                           稲葉晶子
「ド」木の伐採の音を自然破壊のように聞いている表現の句ですね。
「ハ」上五の「冴え返る」で、そこに底冷えのするものを感じ取っていることも伝わります。
「ス」「切り刻む」にその暴力的な破壊力が感じられますね。

⑵ 要点を的確に一言で寸評する練習  ☆同人句「あすか集」6月号作品から 

時刻む秒針既に春の音                               杉崎弘明
寸評 小さな時計の秒針の、音の変化に春の気配を感じ取っている句ですね。

潦ひかりて春の雨静か                               鈴木 稔
寸評 小さな水溜り、ということは、周りは全部土か道路ならアスファルトですね。そこだけ光を宿している景に、静かな春の雨を添えたのがいいですね。
 
この黄砂ジンギスカンの大地より                         砂川ハルエ
寸評 黄砂の発生地点を歴史上の人物がいた大地と表現して距離と時間を表現した句てすね。

砂吐きて待つはかなしき浅利かな                          滝浦幹一
寸評 食べ物になる生物にとってその「待ち時間」は死と向かう時間だという感慨を詠んだ句ですね。

啓蟄や地下の駅から人溢れ                            忠内眞須美
寸評 季語の「啓蟄」は虫が地中から這い出してくることに由来します。それを地下鉄から地上に上がる人間の営みへと広げた表現ですね。その転化が効果的ですね。
 
縁台に子猫みつける昼下り                            立川多恵子
寸評 午後のちょっとした発見と、小動物のふれあいのひと時。心なごむ句ですね。
 
今年こそ等間隔で菊の苗                             千田アヤメ
寸評 園芸に慣れず、例年は苗植えが下手だったことが推測されてユーモラスな句ですね。

切株の上で踊る児山笑う                             西島しず子
寸評 児童が乗って踊れるくらいですから、結構大きな切株のようです。そこを踊り場にしてしまう児のはじけるような笑顔まで浮かぶ句ですね。下五の「山笑う」が効いています。

水切りの波紋は五つ春の川                            乗松トシ子
寸評 自分が投げた石かもしれませんが、たぶん近しい児童が投げたのでしょう。五つの同心円の波紋ができるように投げるのは、案外難しいものです。それを見守っている作者の眼差しを感じる句ですね。

この道も花びら敷いて歓迎す                            浜野 杏
寸評 両脇に花が植えてある道が、花咲く春を歓迎しているようだという感慨の句ですね。
 
空を吹き野を吹き青田の風となる                          星 瑞枝
寸評 「空を吹き野を吹き」のリフレインと、空から野、そして最後は田への視点移動で春風と春田を表現した句ですね。

神の池独り占めして残る鴨                             曲尾初生
寸評 「神の池」と呼んで大切にされているその土地の池がある。昔の地方にはそんな場所が必ずありました。その伝統を残している所の句だということが解ります。「独り占めして」が効いていますね。

暖かや排水溝に稚魚生る                              増田綾子
寸評 こんな小さくて狭い「排水溝」に、小さな命が生まれているという発見と感慨の句ですね。

しやぼん玉愛犬の背に漂ひぬ                            増田 伸
寸評 「しやぼん玉」といえば、その地点が上への動きを予想してしまいますが、掲句は「愛犬の背」に留まらせました。楽し気な雰囲気と愛犬に注ぐ優しい眼差しも感じる句ですね。

落ちてなお青空仰ぐ紅椿                             緑川みどり
寸評 擬人法が効果的な句ですね。落ち椿に対する、ふつうの感じ方を逆転する表現が斬新ですね。

夏めきて両手にあまる日差しかな                          村山 誠
寸評 初夏に向かうたっぷりとした明るい光量を「両手にあまる」と、効果的に表現した句ですね。

白蝶は空の青さをまだ知らず                           安蔵けい子
寸評 下五の「まだ知らず」で、生まれたての命の初々しさを効果的に表現した句ですね。

連凧のひとひらづつを風に置く                           飯塚昭子
寸評 「ひとひらづつを」が効果的ですね。丁寧で繊細な心の在り方を感じさせる句ですね。

下駄箱に不安を脱いで入学す                            内城邦彦
寸評 こんなふうに新入生たちの、不安に揺れる心を表現できた句は、ほかにないでしょう。

春を待つ研ぎし農具の光かな                            大谷 巖
寸評 春を待っているのは人ですが、人が研いだ「農具の光」と転換した表現が効果的ですね。

ふらここを漕げば心は無限大                            小澤民枝
寸評 ブランコは吊り点を中心に往復の有限運動をするものですが、それを漕いでいる「心は無限大」と言い切った表現が効果的ですね。

初蝶来朝の日差しをきらめかせ                           金子きよ
寸評 初蝶を主語にした擬人化表現が効果的ですね。春の日差しのきらめきを感じる句ですね。

たんぽぽや総身に浴ぶる陽の温み                          城戸妙子
寸評 「陽の温み」を浴びているのは人ですが、たんぽぽといっしょに日差しを浴びている場の、暖かな空気感まで表現されていますね。

用水にゆったり流れ花筏                              斉藤 勲
寸評 「用水」は古くは江戸時代の農業灌漑事業で造成された歴史的起源を持つ、大きい川の支流になっていることが多い川ですね。その両岸は桜並木になっていることも多いですね。「ゆったり」が「花筏」の流れの様だけでなく、用水の歴史的な時間まで表現されているようです。

リハビリや金魚は朱く回転す                          佐々木千恵子
寸評 自分はリハビリに取り組んでいる身なのでしょう。小さな金魚たちの機敏な動きに目を奪われて、飽かず眺めているようです。あんなふうに動けるようになりたい・・という心まで伝わります。 

※      ※


1 今月の鑑賞・批評の参考 6月

◎ 野木桃花主宰句(「影法師」より・「あすか」2021年5月号)
思ひ出は横顔ばかり古都の春
影法師連れて野毛坂花の坂
北山の杉を磨きて緑雨かな

【鑑賞例】
 一句目、亡き人への想いの句だと鑑賞しました。現在のまだ真新しい「記憶」ではなく、思い出と化して、日に日に「横顔」のように遠くなりゆくことへの哀感が滲みます。
 二句目、野毛坂は横浜市の中区・西区の坂道で、敷き詰められた石畳が創り出す波紋状の模様が美しい坂道。横浜市民には野毛山動物園へ至る坂道としても親しまれています。石畳が野毛山公園に沿って緩やかにカーブしながら続いてゆく姿は横浜らしい歴史風情のある味わい深い景観でした。しかし、平成時代の終りにアスファルト舗装に改修されてしまいました。掲句にはその情緒の余韻の残る風情が感じられますね。
三句目、北山杉は京都市北部から産するブランド杉。磨き丸太として室町時代から茶室や数寄屋に重用されました。現代では高級建築材として床柱などに用いられています。掲句は下五の「緑雨かな」で、北山に植わっている杉の景ともとれますが、以上の由来から自宅の床柱を磨いている様子と解することもできます。すると和風建築の歴史ある古民家的な佇まいが感じられますね。余談ですが私は一句目の句と合わせて、川端康成の『古都』という小説を思い出しました。幼い頃、別れ別れになっていた美しい双子の姉妹が成人した後に出会い、交流を深めていく中で、北山杉の山中でいっしょに落雷を避けるシーンが印象的でした。一卵性双生児の姉妹の交わりがたい運命を古都、京都の風土を交えて描いています。

〇 武良竜彦の三月詠(参考)
悲しみの根を踏みしめて陸奥残雪
我に余生富士に残雪の光あり
廃船は永遠に海向き鳥曇

【自解】
 一句目、東日本大震災の被災地の十年目の春に黙祷を捧げた句です。二句目、残雪でも輝く富士の光を、自分の余生の力にもらいました。三句目、人生の比喩句で一線を退いても未だ…という余韻を表現しました。

2 「あすか塾」29  2021年6月 


⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による合評会


〇「あすかの会」会員の作品から (「あすか」5月号)  
つぶやきはマスクの中に鳥曇                            大木典子

「ド」人との触れ合いが制限される時勢の閉塞感の句ですね。
「ハ」独り言の「つぶやき」を、更にマスクで遮断されている表現が効果的ですね。
「ス」下五に置いた「鳥曇」で、鳥も飛び立つ季節の変り目だというのに、という想いが強調されていますね。

恋猫に乱され闇の匂ひけり                             大本 尚
「ド」恋猫たちのけたたましい声で、春の闇に匂いたつような濃密さを感じている句ですね。
「ハ」「乱され闇の」を中七にして、下五を「匂ひけり」としたことが効果的ですね。
「ス」普通なら「喧しいなあ」という音への反応で終わるところを、生きものたちの息遣いを「闇の匂」にしたのが効果的ですね。

鳥語聴く光あふるる春障子                             奥村安代
「ド」障子に春の光と鳥たちの声が乱反射しているような明るい句ですね。
「ハ」屋外で直接、鳥の声を聴いているのではなく、「春障子」を隔てた描写が効果的ですね。
「ス」囀りを人声のように聴いているような「鳥語」という言葉で効果を上げていますね。

寒禽や空の深みへ声放つ                              金井玲子
「ド」冬鳥のよく透る声への感慨の句ですね。
「ハ」「空の深みへ」でよく晴れて澄んだ冬空へと、音響的な奥ゆきを表現しました。
「ス」「寒禽」とは、冬に訪れる渡り鳥だけではなく、留鳥、漂鳥、そして種類を問わず目にする小さめの冬鳥です。だから甲高いくっきりとした輪郭の響で、どこにいても聞こえてくる声ですね。

手を振らぬさよならもあり鳥雲に                         鴫原さき子
「ド」再会することない永訣の悼みの感慨の句ですね。
「ハ」「手を振らぬ」と表現したことで、読者にどんな別れなのかという想いに誘う効果がありますね。
「ス」渡り鳥が去る「鳥曇に」の季語が余韻を深めていますね。

初蝶や影を重しと置き去りに                            白石文男
「ド」初蝶の軽やかさの感慨の句ですね。
「ハ」質量のない筈の影を「重い」と、対照的に表現したのが効果的ですね。
「ス」下五の「置き去りに」で、その直後の飛翔感を鮮やかに表現しました。

細石玉と拾ひて涸れ川原                              宮坂市子
「ド」何もない寂しい冬の川原で輝くものを発見したときめきの句ですね。
「ハ」なんでもない「細石」を「玉(ぎょく)=宝石」のように拾ったという表現が効果的ですね。
「ス」日々の中の、ちょっとした発見に心を動かす感受性が生きていますね。

裏庭の水仙呱呱の声あげる                             須貝一青
「ド」水仙のそよぎに、生まれたての嬰児のような「声」を幻聴したような感慨の句ですね。
「ハ」実際にはしていない音を作者が想像していることを示して、その感慨を表現しました。
「ス」呱呱の「呱(こ)」は赤ん坊の泣く声のこと。つまり水仙の姿を生まれたての嬰児のような眼差しで観ている作者の心まで伝わります。

花の冷虎の剥製傷二つ                              村田ひとみ
「ド」命を剥製にして飾ることへの違和感を詠んだ句ですね。
「ハ」「花の冷」という季語と「傷二つ」という具象表現に違和感を凝縮して効果を上げていますね。
「ス」博物館などではなく家庭内に飾っている人がいます。その「文化」にも違和感を感じているようですね。

狐火に野良猫戯れ墓域かな                             石坂晴夫
「ド」墓域の雰囲気を巧に表現した句ですね。
「ハ」野良猫が狐火と戯れている景としたのが効果的ですね。
「ス」「狐火」は火の気のないところに提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうそうです。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいそうです。この句は墓域の雰囲気として表現しました。

耕しの二人は夫婦影重ね                             稲塚のりを
「ド」春耕のほのぼのした景を詠んだ句ですね。
「ハ」下五の「影重ね」で夫婦の仲睦まじさを表現したのが効果的ですね。
「ス」農業界で高齢化が問題になっているようです。このような心温まる光景が失われて欲しくないですね。

桜東風コーラスの声はづれさす                           近藤悦子
「ド」コーラスの音程が微妙に狂ったことを桜東風のせいにしたというユーモラスな句ですね。
「ハ」自分もコーラスの一員なら「音を外した」というところですが、それを東風を主語にして「はづれさす」と言う使役表現にしたのが効果的ですね。
「ス」「東風」は冬型の西高東低の気圧配置が崩れ、太平洋から大陸へ吹く温かい風で、雪を解かし、梅の花を咲かせますが、ときに、強風となって時化を呼ぶ風でもあります。その強さをコーラスの音程の狂いで表現したのが効果的ですね。

〇「風韻集」5月号作品から 

春寒やペンのつまづく日記帳                            稲葉晶子
「ド」「つまづく」でペンの動きだけでなく作者の心の表現をしている句ですね。
「ハ」心が淀んだのは、何か書きあぐねるようなことがあったのだなと推測される句ですね。
「ス」寒暖の乱れを含む季語の「春寒」で効果を上げていますね。

渓谷の瀬音耀ふ猫柳                                大澤游子
「ド」「輝く」より深い趣のある「耀ふ」という言葉で春の光を詠んだ句ですね。
「ハ」「渓谷の瀬音」という音と「猫柳」の銀色を「耀ふ」で効果を上げましたね。
「ス」「耀ふ」という言葉は「輝く」より光に柔らかさや移ろいを感じる言葉ですね。

それぞれに声を捨てゆく春の鳥                           加藤 健
「ド」作者がある一か所にして「春の鳥」の声に耳を傾けている句ですね。
「ハ」「捨てゆく」で、作者がそこに置き去りにされているような動的な表現になりましたね。
「ス」「それぞれに」で多種の鳥たちの声を楽しく聴いている作者の姿が浮かびます。

道草のことには触れず蕗の薹                           坂本美千子
「ド」「道草」という言葉に含まれる微妙な気持ちを詠んだ句ですね。
「ハ」ちょっとした所用か、あるいは必要不可欠の「道草」だったのかもしれませんが、そのことを話題にする雰囲気ではなかったか、自分でそのことを人には言うまいと決めていたか、さまざまな思いが込められていることが伝わります。
「ス」下五の「蕗の薹」という季語が、作者の気持ちを自然に向けて開かせてくれているような効果がありますね。

春陽さす雑木林の影淡し                              摂待信子
「ド」春の明るい日差しの中の、新芽の萌えてきた雑木林の柔らかな光を詠んだ句ですね。
「ハ」「影淡し」という言葉で雑木林全体とその周りの景まで見える効果をあげていますね。
「ス」生活の場近くにそのような林のある環境での暮らしまで見えます。

ふらここの童の靴は輝けり                            服部一燈子
「ド」子供の小さく可愛らしい靴へのズームアップ表現が見事ですね。
「ハ」上五の「ふらここ」でスイング感を出した後に靴へのズームが効果的ですね。
「ス」「ふらここ」で「や」など入れて切らないで、「童の靴は」と続けたのが効果的ですね。
             
幸せを吹きこんでいる紙風船                           本多やすな
「ド」溢れる幸せ感を噛みしめているような句ですね。
「ハ」敢えてそう表現していることに、作者の意志を感じる句ですね。
「ス」紙風船という頼りなげな器であることに注目すれば、幸せの願いのささやかさも感じる句ですね。

たをやかな吐息をつれて春の雪                          丸笠芙美子
「ド」春の雪はすぐ解けてしまいます。冬に逆戻りした感じではない、あら、まだ雪が降ったというような感慨ですね。
「ハ」その雪が「たをやかな吐息」をつれてきたという表現が効果的ですね。
「ス」「たをやか」とは動作や雰囲気などがしやなかで美しかったり、やさしい雰囲気であったりすることを表現する言葉ですね。それを「吐息」の表現としたのが効果的ですね。

花筏自由な形喜ぶ目                                三須民恵
「ド」水面に浮かぶ花筏の形の変化を楽しんでいる句ですね。
「ハ」自分が楽しんでいることを「喜ぶ目」として、形の変化を効果的な表現しました。
「ス」花筏が風、水流の加減で形を変えることに絞った表現が効果的ですね。

争うて鴨の散らせる水の綺羅                            柳沢初子
「ド」鴨同士の争いの声に振り向いたが、鴨の動きで飛び散る水しぶきの美しさの方をクローズアップした句ですね。
「ハ」水しぶきと言わず、「水の綺羅」としたのが煌めきを感じて効果的ですね。
「ス」人間にはなんということのない「争い」かもしれないが、鴨同士には深刻な争いかもしれません。その争いで傍に美的光景が生じていることを合わせて詠んで、少し複雑な思いの表現にもなっていますね。

園児等の黄色い桜ふくらんで                            矢野忠男
「ド」園児たちが見上げる、ふくらみ始めた桜。この二つの成長の取り合わせの感慨の句ですね。
「ハ」「園児等の」の「の」で軽く切れて、園庭の広い空間が取り込まれている表現ですね。
「ス」成長盛りの園児と、これから咲こうとしている桜の蕾。人と自然の息吹の表現ですね。

金属の骨體中に花冷えぬ                            山尾かづひろ
「ド」「花冷え」の季節の中で、当事者にしか解らない身体感覚が表現されていますね。
「ハ」骨の字がつく「體」という言葉で、その身体感覚が強調されています。
「ス」人それぞれの感慨で桜を見ているのだということに気付かされます。

朝刊を四角に読みて冬ごもり                            渡辺秀雄
「ド」外出自粛中、自宅で新聞紙をテーブルいっぱいに広げて読む解放感の句ですね。
「ハ」普段は通勤途上で折り曲げた新聞を読んでいるのだということも伝わります。
「ス」「四角に畳み」と言わず「四角に読みて」としたのが効果的ですね。

掃き出しの光透きたる春ぼこり                          磯部のり子
「ド」掃き出したほこりにも春らしさを感じている句ですね。
「ハ」窓が外に面しているか、庭に面した廊下のある部屋に差し込む春の日差しを感じますね。
「ス」「掃き出しの光透きたる」という上五中七の言葉運びがとても効果的ですね。

不揃いの羅漢百体木の根明く                           伊藤ユキ子  
「ド」大樹の根元に鎮座する羅漢像たちにも春の気配を感じている句ですね。
「ハ」「不揃い」で、多様な羅漢像の景が浮かびます。それを下五の季語が春色に包んでいます。
「ス」「羅漢」は「阿羅漢 (arhatの音写)」 の略称。供養と尊敬を受けるに値する人の意。剃髪、袈裟を着た僧形に表わされます。羅漢の彫像では京都南禅寺の十六羅漢像、東京羅漢寺の羅漢像が有名。この句は「百体」とあるので羅漢像を見ての俳句でしょう。

⑵ 要点を的確に一言で寸評する練習  ☆同人句「あすか集」5月号作品から 

料峭や妻ほつそりと退院す                             鈴木 稔

寸評 春とは名のみの寒さの残る中で退院する愛妻への眼差しがやさしいですね。

幼児には幼児のリュック春日和                           滝浦幹一
寸評 小さく可愛らしいリュックが小さい背中で揺れているのが見えます。

歩かねば春の風には出合えない                           立澤 楓
寸評 引きこもっていては、春は来ないよ、と言われているような気がしました。 

花の影盲導犬の鼻の先                              丹羽口憲夫
寸評 花の下で立ち止まり匂を堪能しているご主人に寄り添う、盲導犬の姿が浮かびます。
 
月おぼろ標準木の吐息かな                            乗松トシ子
寸評 開花宣言などの基準に定められた桜の木。その勤めを果たしていることに思いを寄せた句ですね。

紅さしておかめ桜の我を呼ぶ                            浜野 杏
寸評 カンヒザクラとマメザクラを交配した淡い紅色の一重咲きの桜。ソメイヨシノより早くに開花し花が下を向いているのが特徴。「紅さして」と「我を呼ぶ」で挟んだ表現が効果的ですね。

流氷の接岸の報地球の命                              林 和子
寸評 北半球のダイナミックな流氷を「地球の命」と詠んで、感動的ですね。

地球に帰る君三月の別れ雨                             幕田涼代
寸評 小惑星探査から地球に帰還して任務を果たした探査機を優しい地球の雨が労っているようです。

飾られて雛の口元ほころびぬ                            増田綾子
寸評 作者の笑みが雛にもうつったようです。

いぬふぐりここにも小さき青空                          緑川みどり
寸評 地に青空を発見した眼差しがやさしいですね。

鳥曇監視カメラの目と眼合ふ                            望月都子
寸評 季節が巡って去る鳥という自然の現象を感慨深く見上げているのを、人工的な監視カメラが・・・。鮮やかに現代を切り取りました。

根分けして予定のメモを一つ消す                          吉野糸子
寸評 季節のめぐりを肌で感じて、丁寧に生きている姿勢を感じる句ですね。



「あすか塾」2021年5月

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」5月用・「あすか」誌7月号掲載予定分)

◎ 野木桃花主宰句(「鳥帰る」より・「あすか」2021年4月号)
たつぷりと日差したくはへ蝌蚪の紐
蝌蚪の棲む共生の水学校田
こんな日は灯を恋しがる享保雛
動くものこれはひじき藻渡し船

【鑑賞例】
 一句目、「蝌蚪の紐」は孵化を待つオタマジャクシの卵ですね。「日差したくはへ」は命の力の蓄積の表現ですね。二句目、一句目と同じ題材ですがこの句はわたしたちと生きものが「共有する命の水」に焦点を当てた表現ですね。三句目、「日」と「灯」、時間の流れの中の今日という日に置かれた歴史ある享保雛が、今という時の中に灯る光を恋しがっているという味わい深い句ですね。四句目、渡し船から見える海の底の方が黒く、岩かと思っていたら揺れている。「そうか、ひじきが群生していたのか」という臨場感のある発見と感慨の句ですね。自分と船とひじきが共振しています。

〇 武良竜彦の2月詠(参考)
白泉忌明日を語らぬ虹が立つ
銃創を語らぬ父あり兜太の忌

【自解】
一句目、渡辺白泉が詠んだ戦争、だれも明るい未来のことを想像もできませんでした。令和の今、私たちは天空に橋を架ける虹のように未来を語ることができているでしょうか。二句目、父の脛と腕に銃創があったことを憶えています。その銃創について父は「鉄砲の弾の突き抜けた跡ばい」という以上のことを語ろうとしませんでした。兜太忌に改めてその心の瑕の深さを噛みしめました。

2 「あすか塾」28   2021年5月 

⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による合評会

①「あすかの会」会員の作品から (「あすか」4月号)                   

喪の人を訪ふや雨水の昼下がり                           大木典子
「ド」「雨水」の季節、まるで雨までもが喪中の見舞いに来ているようだともとれる句ですね。
「ハ」「訪ふや」で、自分ではなく何かが、と暗示しているかのようです。
「ス」同時にこの「や」は問いの疑問形と感嘆の表現を兼ねていますね。「昼下がり」もいいですね。

満ちてくる日差しの中にある余寒                          大本 尚
「ド」「余寒」が暖かい日差しのぬくもりの中にこそある、ということを発見している感慨句ですね。
「ハ」「日差し」が潮のように「満ちて来る」と、体感に表現されています。
「ス」季節の移り変わりを、体感的な温度の表現で実存的に表現しました。

裸木に濾過されてをり胸の内                            奥村安代
「ド」裸木の枝の密度に濾過器の作用を感じている句ですね。しかも濾されているのは自分の心ですね。
「ハ」裸木の枝の先に見える切れ切れの空に、自分の心を投影した表現ですね。
「ス」胸の内に持て余す思いの詩情豊かな表現ですね。

冷たさも甘さなりけり寒の水                            金井玲子
「ド」日本の伝統文化的慣習を踏まえ、「寒の水」の神秘的な力を「甘さ」という言葉で表現しました。
「ハ」この句の「なりけり」はそう言い伝えられてきたものですよ、という感嘆の表現ですね。
「ス」晩冬の季語「寒水・寒九の水」は冷たさ極まった神秘的な力があり、飲むと身体に良いとされ、特に寒中九日目の水(寒九の水)は効能があるといわれています。その水で餅を搗いたり、酒を造ったり、布を晒したりされました。掲句はそれを踏まえていますね。

少年の目をして独楽の回りけり                          鴫原さき子
「ド」独楽の回転が安定して静止しているように見えるとき、同心円の模様が目のように見える様を、「少年の目」のようだと感受した句ですね。
「ハ」独楽は人間に「回されて」いるのですが、この句はまるで独楽が自分で「回って」いるように表現しました。
「ス」合評会では独楽を回している大人が、そのとき、少年の目に戻っているという句だという評がありました。それも素敵な読みですね。

笏落とす癖の治らぬ古雛                              白石文男
「ド」古雛を擬人化して、「笏」を落とすのが「雛の癖」とユーモラスに表現しました。
「ハ」本当は古くなって「笏」が安定せず落ちるようになってしまったのでしょう。
「ス」擬人化して表現した作者の眼差しのやさしさを感じる句ですね。

注連作母の手擦れの鯨尺                              宮坂市子
「ド」存命かもしれませんが、句の雰囲気では亡き母の形見の「鯨尺」を使って、注連縄の寸法を測っていると想像させる表現ですね。あるいは「注連作」で句は切れているので、注連縄を計っているのではなく、注連縄づくりの季節に裁縫をしている景とも読めます。
「ハ」「手擦れ」と簡潔に表現することで、永く愛用されたことも表現されています。
「ス」鯨尺は古来,和裁用に使われてきた物差しで、かつては鯨の髭でつくられたことに由来するといわれています。一尺は曲尺 (かねじゃく) の一尺二寸五分に相当し、三七・八八㎝。計量法により一九五九年以降は製造・販売・使用が禁止されていました。今は認められています。掲句はその昔から使われていたもので、旧家の歴史性を感じますね。

一片の雲も許さず寒の空                              須貝一青
「ド」冬空の雲一つない快晴を感慨深く表現しました。
「ハ」冬の寒気を擬人化して「許さず」とした表現が効果的ですね。
「ス」寒気には何か「きっぱり」とした切れのようなものを感じます。それが表現されていますね。

後ろから肩包まるる春の風                            村田ひとみ
「ド」春の気配を全身が包み込まれる体感に引き付けて表現しました。
「ハ」「後ろから肩包まるる」は母親が子供をやさしく抱くときのしぐさを想起させますね。
「ス」匂、温度の変化などに注意を向けて、今を噛みしめて生きていることも感じさせます。

渓谷の流れ途切れず去年今年                            石坂晴夫
「ド」去年今年を貫くもの、不変の「渓谷の流れ」で表現しました。
「ハ」人の世の目まぐるしさへと対比させた表現ですね。
「ス」俳人は常に人間を自然の中において捉える感性の持ち主です。そのことも感じます。

長男が先頭を行く春北風                             稲塚のりを
「ド」春先の強い北風の中に兄弟愛を置いた表現ですね。
「ハ」自発的に兄が弟や妹を庇っている様子が浮かびます。
「ス」「絆」は標語的に言うものではなく、この俳句のようにその実(じつ)こそ、ですね。

寒磴に一歩踏み出す宮詣                              近藤悦子
「ド」初詣でしょうか。何か決意のようなものを感じさせる表現ですね。
「ハ」上五によく「寒磴」という言葉を置きました。様子と心根まで見える表現になっています。
「ス」磴(とう)は石坂、石段、石橋のことですが、この句では神社の初詣ですから石段でしょうね。
  
② 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による合評会 (続き) 

◎「風韻集」作品から

吾妻嶺の噴煙直と木の根明く                           伊藤ユキ子  
「ド」「直と」ですから無風で縦に真直ぐ噴煙が上がっているのでしょう。「木の根明く」地にも春の気配が「直と」響き合っていますね。
「ハ」垂直に上がる噴煙と、水平に伸びる「木の根」のイメージの対比表現が効果的ですね。
「ス」吾妻嶺の不変のさまを感じて日々を暮らしている人の視座をかんじますね、

ふくろふの一声闇を動かしぬ                            稲葉晶子
「ド」闇を切り裂くような声の、猛禽類の野生味を感じる句ですね。
「ハ」闇の中で狩りをする梟は羽音すら立てません。これは狩りの後の声でしょう。
「ス」その静寂、その静寂を破る声を「闇を動かす」と効果的に表現しました。

あらたまの駅伝風押し風に乗る                           大澤游子
「ド」枕詞「あらたまの」は普通「年」「春」など時候の言葉にかけて使います。それを「駅伝」という特別感のある行事に使いました。「風押し風に乗る」のリズムが効果的ですね。
「ハ」「あらたまの」の語源には、磨いてない原石、これから真価を発揮することを期待されるものという意味も含みます。ランナーたちへの期待感も包み込む枕詞を効果的に使いました。
「ス」和歌の枕言葉は、短い俳句ではあまり使われません。掲句はまさに「あらたま」というに相応しい景に使い成功していますね。

魁の膨らむ間合ひ春立てり                             加藤 健
「ド」「間合ひ」が剣道などの緊張感のある空気を感じさせて効果的ですね。
「ハ」春を待つ植物たちの冬芽の膨らみを「魁」の一字で表現したもの効果的ですね。
「ス」目にはしかと見えない自然の空気感を普段の呼吸で感じて生きている姿勢を感じさせます。

旧家なる床下に井戸注連飾る                           坂本美千子
「ド」水道という近代設備が普及するまで民家には井戸がありました。そういう由緒のある旧家の正月模様を詠みました。
「ハ」「旧家なる」と古語的に表現して、厳粛な正月の空気感が表現されました。
「ス」「床下に」で、もう使われなくなって久しいという時間の層まで感じます。

さきがけて日溜まる処福寿草                            摂待信子
「ド」日当たりがいい所だからと言えば、理屈の説明になるところを、俳句的に「さきがけて日溜まる処」と効果的に表現ました。
「ハ」「日溜まる処」も、日差しの「暖」から地の温の「温」へと深まる表現になっています。
「ス」「さきがけて」としたことで、他の所はまだ寒々としていることも感じます。

浸し種いだきてをりし命かな                           服部一燈子
「ド」命を抱いているというのは、理屈や説明を超えた共感の表現ですね。
「ハ」「浸し種」は晩春の季語で普通は「種かし/種浸ける/種浸け/種ふせる/籾つける」と動詞形ですが、この句は名詞形で切れる上五に置いて深みのある表現にしていますね。苗代に蒔く籾種を、俵やかますにいれたまま発芽を促すため二週間程水に浸す、稲作の中でも大切な作業なのです。
「ス」命を「ながめて」いるのではなく、深く共振している心を感じます。
                
猫柳うすき夕日に友を待つ                            本多やす
「ド」川辺で友との待ち合わせの約束をしたのでしょうか。「うすき夕日」で少し不安げですが、上五の猫柳の銀色のふわふわした感覚に癒されてもいるようです。
「ハ」どちらとも言い難い、微妙に揺れる心情を感じます。
「ス」猫柳は初春の季語で、水辺に自生して、早春、葉が出る前に銀鼠色の毛におおわれた三~四センチ程の花穂を上向きにつけます。やわらかく、ふっくらとした感じが春を実感させます。

春を待つ絶えて久しきたよりかな                         丸笠芙美子
「ド」春が来たからといって、途絶えた便りが必ず来るという保証はありませんが、春待つ気持ちでそれをまだ待ち望んでいる自分の心を噛みしめている句ですね。
「ハ」「絶えて久しき」でかなりの時間の経過が表現されています。
「ス」「たより」とひらがな書きなので、書状の便りではなく吉報としての報せだと読めますね。

小さき川春の調べを橋に置く                            三須民恵
「ド」下五の「調べを橋に置く」が発見的で創造的な表現ですね。
「ハ」「春の川小さき調べを橋に聞く」と散文的に説明した場合と比べると、その詩情の違いが際立つはずです。
「ス」音を視覚的に造形表現したことで、春の気配が可視化されました。

よみがへる父の抑揚歌かるた                            柳沢初子
「ド」どんな抑揚だったのかと想像させられる表現で、作者の父に対する思慕の念も伝わります。
「ハ」父が読み上げ、母子が絵札取りをしている仲睦まじい家族の姿も浮かびます。
「ス」プロのアナウンサーのような美声でない方が、味わい深く、思い出を彩るでしょう。

鳥総松見知らぬ人の遠会釈                             矢野忠男
「ド」実際に「鳥総松」を門松の後に差している景と解してもいいですが、門松自身が珍しくなっていますので、その伝統的な慣習の「心」を上五に置いて詠んだものと解してもいいですね。
「ハ」「見知らぬ」「遠」と、二重の距離感を表現しつつ、本来日本人はそんなふうに礼節を重んじてきたのだよ、という思いが込められているようです。
「ス」「鳥総松」は新年の季語で、松納めで門松を取り払った後に、松の枝を一本折って挿しておく風習のことです。元々、樵夫が大樹を切り倒した後に、山神を祭るため梢の枝を一本切り株に挿したことに由来するそうです。下五の「遠会釈」の、行きずりの人にも敬意を払う日本人の美しい慣習と響き合いますね。

遠山の影の濃淡百千鳥                            山尾かづひろ
「ド」日差しも弱く曇天が多かった冬から、明るい春の日差しに変化して、遠望する山々の陰影が濃くなったことの実感を詠んだ句ですね。
「ハ」下五の百千鳥の囀りから、より春らしい活力が感じられる表現ですね。
「ス」百千鳥は三春の季語で、いろいろな鳥がひとところに来て囀っているさま、また恋の相手を求めて鳴き交わすさまのことで、春の躍動感を持つ言葉です。この季語の語感にも注目すると、山々の陰影が濃くなることに込めた作者の思いが、より深く伝わります。

濡れタオル吊せる居間に年送る                           渡辺秀雄
「ド」気温が低いと洗濯したものが渇かず、部屋干しが多くなります。その年末の実感を詠んだ句ですね。
「ハ」大掃除のやり残しなど、何かとタオル類を使うことが多かったことまで伝わりますね。
「ス」「年送る」は「行く年」の子季語ですが、押し詰まった年末の忙しい日々の束の間に、過ぎ去ったその年を振り返るというのが本意の季語ですね。この句はそれを「濡れタオル吊せるまま」という景を切り取って象徴的に詠みました。

指先のクリーム多め寒に入る                           磯部のり子
「ド」空気の乾燥する冬期の空気感を指先のクリームの量で繊細に表現しましたね。
「ハ」「多め」で切って、「寒に入る」下五に季語を置くことで余情が生まれました。
「ス」「指先の」と、指のクローズアップから入っているのが効果的ですね。

⑵ 要点を的確に一言で寸評する練習  ☆ 同人句「あすか集」作品から 

紅椿少し癖ある雨戸繰る                            佐々木千恵子
 寸評 雨戸の経年劣化による歪みを詠んで、繰り返す暮らしの厚みを表現していますね。

正月や時を刻まぬ古時計                              杉崎弘明
 寸評 止まったままの古時計の表現で我が家の歴史を慈しんでいる心が伝わりますね。

戸に小さき工事現場の注連飾り                          砂川ハルエ
 寸評 工事現場の簡易の管理棟の戸でしょう。丁寧な仕事をしている人の心意気が伝わります。
 
びつしりと似たる建売春の雪                            滝浦幹
 寸評 小さな林とか藪、または空き地など変化のあった景色が、見分けのつかない単調な景色に変わってしまったことへの感慨が伝わります。

福は内だけ言う父の鬼やらい                            立澤 楓
 寸評 鬼は外とは言わない父の、心根の優しさが伝わります。作者の眼差しも。

春耕や農婦こまめに石をすて                           千田アヤメ
 寸評 普段から日々を丁寧に噛みしめて生きている人の仕草を切り取りました。

条幅の十七文字や筆始め                             西島しず子
 寸評 「条幅」は画仙紙の半切にかかれた書画を軸物にしたものですね。自分が書初として俳句を書いたものか、俳人か名筆の掛け軸を手本にして書こうとしている正月の雰囲気が伝わります。 

麦を踏む大地遥かに貨物船                            丹羽口憲夫
 寸評 「遥かに」で貨物船が往来する湾を遠望できる高台の畑の広々とした雰囲気が伝わります。
 
リス跳ねて芽立ての枝のよく撓ふ                         乗松トシ子
 寸評 三浦半島で増殖中の台湾リスの姿でしょうか。春に向けてしなやかさを増す植物の力を感じます。
 
「ふじさーん」と春風運ぶ子らの声                         浜野 杏
 寸評 近しい、または親しい人を呼ぶような声で和みますね。
 
初鏡おすまし顔の母に会う                             林 和子
 寸評 誤読かもしれませんが、初鏡に映っているのはお化粧した自分でしょうか。そこに母の面影を見ていると解しました。

春風に幟煽れる音の波                               星 瑞枝
 寸評 下五を「音の波」として春風までが波形を成しているような様を表現しました。 

如月や時計の鳩は眠るまま                            増田 綾子
 寸評 先の杉崎弘明さんの句と同様、その家の歴史性の重みを感じる句ですね。 

新しき竹の手水や初詣                              緑川みどり
 寸評 神社の手水などの施設は同じものが永年使われて古びていて当たり前になってします。それが新品に交換されていた、という何か幸運の先触れのような感覚が伝わります。

父の忌や納屋に傾く炭俵                             村上チヨ子
 寸評 「納屋に傾く」で、敬慕する父の記憶を見事に表現しました。「納屋に鎮座の炭俵」では重すぎますし、「納屋に残せし炭俵」では哀感が強まってしまいます。絶妙な表現ですね。

一椀の白粥春の立ちにけり                             村山 誠
 寸評 粥はいまや健康食となっていますが、昔は病中または病あがりのためのものでした。その昔ながらの雰囲気を纏う「一椀の白粥」に、しみじみと春を迎えている心が表現されています。

庭石と引き立て合うて福寿草                            吉野糸子
 寸評 日の射す庭石の傍に咲いた福寿草。互いに「引き立てあっている」と感受する心の柔らかさが伝わります。

白魚漁羽化するごとく帆引き船                          安蔵けい子
 寸評 帆船の帆が開くさまを「羽化するごとく」と生命感溢れる表現で詠みました。「白魚漁」の景に相応しい表現ですね。

グータッチ冬囲解く庭師の手                            阿波 椿
 寸評 複数人いる庭師たち同士の「グータッチ」なのかもしれませんが、冬囲いを解かれた樹の幹に、手袋のまま庭師がしている仕草にも感じられ、共に歓びあっているようにも見えます。

まん丸の実になりたくて梅香る                           小澤民枝
 寸評 春待つ心の浮き立つような感じをみごとに表現しました。「なりたくて」という擬人化表現に微笑ましさ、可愛らしさが感じられますね。


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