あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾 67 2024年 平成6年 11月

2024-11-13 16:20:26 | あすか塾 2024年

                                                                  あすか塾 67 

《野木メソッド》による鑑賞・批評              

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰十一月号「福島へ」から

  ふり返るひとすぢの道野辺の秋

 実際の未踏の草原に分け入ってついた自分の足跡とも、人生の比喩として「ひとすじの道」とも解釈できる句で味わいがありますね。

  人の世の群れて縺れて葛の花

 繁茂期の葛の蔦は幾重にも重なり合っていますね。そのさまを人の世に喩えた表現ですね。でも可愛らしい葛の花が下五に置かれたことで、それを厭世的に詠んだのではなく、大らかに肯定している句意が立ち上りますね。

  祈るとは目を瞑ること秋の声

 祈りの姿勢の自然なさまを、そのまま詠んだ句ですが、こうして句にすると深い内省的な思いの表現になりますね。

     星 利生様を悼む

  意のままの生涯十月桜かな 

 「あすか」の古くからの同人で、後輩の指導などで会を牽引してくださった方への追悼句ですね。その泰然自若とした生き様への敬意溢れる表現ですね。

 

 「風韻集」十一月号から 感銘秀句

昼寝覚あつと言ふ間に老いてをり       山尾かづひろ  

 「邯鄲の夢」という故事を踏まえた句ですね。「邯鄲(かんたん)の夢」は中国の故事『枕中記(ちんちゅうき)』の一つで、「邯鄲」とは戦国時代の趙の都市のこと。盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で成功することを夢見て旅にでます。そこで道士呂翁(りょおう)と会い、栄華が思いのままになるという不思議な枕を借りました。そしてうたた寝をする間に、五十余年の富貴を極めた一生の夢を見ます。しかし、目が覚めてみると宿の主人が炊いていた粟もまだ煮え切らないほどの僅かな時間だったということです。この『枕中記』の伝説より「邯鄲の夢」ということわざができました。人の世や、人生の栄枯盛衰(えいこせいすい)ははかないというたとえです。

  噴水や胸の秘め事吐き出して         吉野糸子

 垂直に噴き上げる爽快な水のさまに、自分のうちに溜まった「秘め事」を吐き出したい気持ちを投影した表現ですね。あんなふうに、なんのわだかまりもなく出来たらなーと。

  台風が逸れてゆきさう岸に鷺         安齋文則

 上五中七で、台風の進路予想の話かと思って読んでいると、下五で「岸の鷺」とあり、生きものたちが嵐に翻弄されなくて、よかったねという優しい思いの表現になっています。「技あり」の句ですね。

  老鶯の声にトースト跳ね上る         磯部のり子

 トーストはサーモスタットの仕組みで、パンが焼けると自動的に跳ね上がります。老鶯の声がまるでその合図だったかのような表現がユーモラスで効果的ですね。

  鳳仙花知覧に残る日記かな          大木典子    

 知覧は戦時中、特攻機の出撃基地があった場所で有名です。記念館には特攻兵たちの遺品が数多く展示されています。涙なしでは見られない展示ですね。鳳仙花のはかなく散るさまと取合せたのが効果的ですね。

  百年へ新たな闘志百日紅           大澤游子

 「百年へ」といえば、一世紀。次の一世紀への「新たな闘志」という表現から、個人的なことではなく、ある程度の大きさの共同体のことのようです。それを我が事として受け止めている表現のようです。「百日紅」はその名の通り非常に開花期が長く、真夏の暑い中でも休むことなく開花し続けますね。

  カラメルを煮詰めたやうな溽暑かな      大本 尚    

 ストレートな直喩表現ですが、溽暑をいかにも濃縮されたような色の比喩で表現した「技あり」か「一本」の切れがありますね。

  ギランバレーと闘ふ友や晩夏光        風見照夫

ギランバレー」とは、「ギラン・バレー症候群」の略語で、急性・多発性の根神経炎の一つだそうです。主に筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる病気で、重症の場合、呼吸不全を起し、一時的に気管切開や人工呼吸器が必要になります。日本では厚生労働省の難治性疾患克服研究事業の対象となっているそうです。それに罹患した友人への想いの句ですね。

  西瓜買ふ水平線の見ゆる丘          金井玲子    

 水平線が遠望できる高台の町に住んでいらっしゃるようですね。坂道を重い西瓜を抱えて登り切って、立ち止まり、視線を海のほうに投げた瞬間の気持ちが伝わります。

  草笛の音色はみどり牛寄り来         近藤悦子    

 音色までみどり色に染まっているようだという表現に詩がありますね。牛を飼っている広い牧場の景が浮かびます。

  箱庭の一村一寺医師不足           坂本美千子

 上五の「箱庭」は、人口も少なく、面積も広くない田舎町の比喩のようですね。そう詠むことで俯瞰的な視点が生まれ、医師不足という過疎地ならではの切実さが伝わりますね。

  人逝くや昨日のままの蝸牛          鴫原さき子   

 いくら遅い蝸牛の歩みの速度とはいえ、一日も不動ということは現実にはないでしょう。でもこう詠むことで、亡くなった方への哀悼の想いの深さが伝わりますね。

  休耕や日をいつばいに赤のまま        摂待信子

 休耕地で「赤のまま」などの雑草が生い茂った、荒れた状態の耕作地のさまを詠んだ句ですが、「日をいつばいに」と描写表現し、花にズームアップすることで、その荒涼感が和らぎますね。

  痛風のミャンマー人に空心菜         高橋光友

「空芯菜」の旬は六月下旬辺りから九月頃まで。高温多湿の中国南部や東南アジアが原産であるため、暑さに強い野菜です。作者が日本語指導をしている生徒の「痛風」を心配してのもてなしの料理でしょうか。さつまいもの葉茎に似ていて、中が空洞になっているのがその名の由来です。葉にはぬめりがあり茎はシャキシャキとした食感のクセのない味わいで、炒め物やおひたし、和え物などさまざまな料理に向いています。

  挿してまた母の忌来る吾亦紅         高橋みどり   

 上五の「挿して」は、一輪挿しの花瓶などに飾っている表現だと解しました。吾亦紅の花を亡き母上が好まれていたのでしょうか。根はうがい薬などの生薬にもなりますから、そんな様々な思い出が詰まっているのかもしれません。

  十六夜や猫の目やけに光らせて        服部一燈子

 満月の翌日の月で、まだ明るい月光下の景ですね。「やけに」という一言の挿入で、何か特別な雰囲気を醸し出しているような空気感が生まれている表現ですね。

  汗流し胸の透くまで玻璃戸拭く        宮坂市子

 「胸がすく」の「すく」は、もともとある空間を満たしていたものが少なくなり空きができたり、まばらになることですね。それをこの句では「透く」として、胸が透けるほど軽やかになるというような意味合いを持たせ、下五の「瑠璃戸拭く」の仕上がりの透明感の方にかかる、巧みな表現ですね。

  赤を噴く「沖縄戦の図」流燈会        村田ひとみ   

「沖縄戦の図」は丸木位里・丸木俊共同制作の《沖縄戦の図》全一四部のことですね。その代表となる大きな絵には二か所、血のように吹き出す炎の赤色の塊の表現があります。この句の「赤を噴く」はまさにそのことですね。下五に「流燈会」という魂鎮めの言葉を置いたのがいいですね。丸木夫妻には広島の図、水俣の図、アウシュビッツの図などもあります。

  朝採りの胡瓜のとげをいとほしむ       柳沢初子

 刺がしっかり立っているものほど、新鮮だといいます。鮮度を失うと刺がなくなってしまいます。この句も「朝採りの胡瓜のとげ」の新鮮さを愛おしんでいるのですね。

  天高しゆすり込みして大神輿          矢野忠男

「ゆすり込み」とは、神輿を舟に見立てて、左右に大きく揺らすことですね。ダイナミックな見せ場です。その景を詠むのに、上五に「天高し」を置くのが、俳人の感性ですね。

 

 「あすか集」十一月号から 感銘好句

  緋目高や早く下さい朝御飯             斉藤 勲

「緋目高」はメダカの突然変異品種の一つで、飼育が容易であることから観賞魚として飼育されていますね。この句の中七、下五は、その「緋目高」が朝御飯の催促をしているようで、ユーモラスですね。

       遠き日の潮風を呼ぶ貝風鈴                斎藤保子

 貝殻で作られた風鈴の音色に、潮騒のような風を感じたという表現が詩的ですね。上五の「遠き日」ので、その貝が生きていた海を回想しているような趣がありますね。

           丁寧に提灯たたみ祭り果つ             笹原孝子    

付けの作業をしたという、時間の経過が感じられますね。祭などの共同体の行事が大切にされている文化の歴史まで感じさせる表現ですね。

   在祭畑年々様子変え             須賀美代子

「在祭」は秋季に行われる、その土地伝統の祭ですね。その変らぬさまと、畑の作物の種類や農法は変化し続けていることを対比した、たくみな表現で独得の詩情がありますね。

   九十の我を見守る北斗星           須貝一青

北斗星に自分が見守られているようだ、という表現は深みのある表現ですね。やはりこれは九十歳という卒寿にならなければ解らない境地ではないでしょうか。

   秋雷や健診結果の封を切る          鈴木 稔

やはり健康診断結果通知の封書であることに意味がありますね。開封する前のドキドキ感。その結果が「秋雷」で予告されているかのようです。

   旅立ちし孫も寄り来る霊送り         砂川ハルエ

  誤読かもしれませんが、上五の「旅立ちし」は、先に亡くなっている方の表現でしょうか。霊送りの灯に、その御魂も寄り添っているように感じられたのですね。

   気候変動稔田常の風渡る           関澤満喜枝

  立派に実った稲田の健在ぶりを讃えている表現のようですね。この厳しい気候変動にも、よく耐えてくれたね、と。

   祭り終ふ今日満員の一輌車          高野静子

  一輌車といえば、単線の田舎とその停車駅のある鄙びた町を想像しますね。人口が少なく、普段はガラ空ぎみの車内が、祭の終わった後、人でいっぱいに賑わっている景でしょう。来る時は一斉ではないですから、終わった後の景ですね。

   送り火の「大」の彼方に妣の笑み       高橋富佐子

  大の字の送り火といえば、京都の五山の送り火の一つ、「大文字の送り火」を想い浮かべますね。その火の揺れる彼方に「妣の笑み」を感じたという、詩的な俳句ですね。

   はかなさを電柱に来て鳴く夜蝉        滝浦幹一

  上五の「はかなさを」の「を」が効いている表現ですね。「はきなさや」で切れる表現や、「はかなきは」と主語的に立ててしまうと説明になります。蝉がそのはかなさを悲しんでいるように鳴いている、という詩情が立ち上りますね。

   水やりの庭の私に法師蟬           立澤 楓

  「庭の私に」という逆ズームの表現が効果的ですね。光のスポットライトではなく、音のスポットですね。秋遅くまで鳴く法師蝉について、このような自分へ引き付けた表現は初めて読みました。独創的ですね。

   鈴虫の眠りを忘れ一夜鳴く          千田アヤメ  

  昆虫も眠るのですね。夜行性の昆虫は昼間に、昼行性の昆虫は夜に眠るそうです。昆虫は瞼がないので女を開けたまま眠るそうで、静かに動かないときが睡眠のようです。作者も「寝ないで」一晩、その音色を聴いていたのでしょう。

   自販機の悲鳴をあげる炎天下         坪井久美子

  たぶん機械的な唸り音がしているのでしょう。耳を澄ますと確かにそんな音が聞こえますね。炎天下でその音が一際高く「悲鳴」のように聞こえたという表現に、作者の猛暑に耐えている気持ちが投影されていて、効果的な表現ですね。

   真夜中のジリと一声蝉の夢          中坪さち子

  下五を「蝉の声」ではなく、「蝉の夢」にしたのがいいですね。ただの鳴き声ではなく、この暑さで蝉までが悪夢うなされているようで、独創的な表現になっていますね。

   蔦紅葉丸吞された空屋敷           成田眞啓

  蔦紅葉の繁殖力はすさまじく、どんな荒れた壁面にも貼りついて枝を伸ばしてゆきますね。この句では大きな空屋敷が呑みこまれてしまった景のようです。圧巻ですね。

   カマキリの迷い込んだるビルの中       西島しず子

  野性のカマキリを、都会のビルの中で発見したようですね。その違和感というよりも、カマキリの方に気持ちが寄せてある読み方で、その戸惑いに同情しているのでしょう。

   遠き日のお化け屋敷や筵囲ひ         沼倉新二

  お化け屋敷も筵囲も季語にはありませんから、この句は無季俳句ということになりますが、粗末な筵で囲っただけの、俄造りのお化け屋敷というと夏のお祭りを思い浮かべますね。肝試しで遊んだ懐かしい記憶なのでしょう。

   あかときの光をまとふ古代蓮         乗松トシ子

「明時 (あかとき) 」は「あかつき」の古語的な言い方で、風情がありますね。夜半から明け方までの時刻、または夜明け方のことですが、その薄明の光をまとって古代蓮が開いているという景ですね。何か神々しさを感じますね。

   埋立地木々の育ちて蝉時雨          浜野 杏

  蝉時雨になるほどですから、原野を開拓してできた住宅造成地に設けられた、新しい造園的な木々の成長の速さに、ある種の感慨をいだいている句でしょう。

   敬老日花よりだんごと妣の言う        林 和子

「妣」ですからもう亡くなっている母のことですね。だんごをいただくとき母が言っていた口癖のような言葉を、自分もそっくり言っているのでしょうか。

   虫垂も胆のうも無く新走           平野信士

  「虫垂」も「胆のう」も炎症を起こして手術で切除されることが多い器官ですね。この句はその略称で「無く」という言葉で、切除された状態ということでしょう。その痛みから解放されて「新走」のお酒を呑まれているようです。健康のため、ほどほどに。

   ホームステイ土産に縫ひし藍浴衣       曲尾初生

  ホームステイの人の、帰国のお土産に、藍の浴衣を縫ってあげたのですね。なんと優雅な心尽くしでしょう。

   盆提灯あの世の空はこんな色         幕田涼代

  仏教的な「あの世」とは極楽・浄土または地獄のうちの、極楽と浄土のことを通常指していますね。この句も極楽浄土をイメージしていると思いますが、その空を盆提灯の色だろうと想像しているのですね。盆提灯は大きく分けて「吊り型」と「置き型」の二種類があり、新盆用盆提灯、盆提灯(御所提灯)、回転行灯、大内行灯、回転霊前灯の五大種の他に、切子灯籠、御殿丸提灯、住吉提灯などもあります。昔は蝋燭で灯を点しましたが、今は電球式が多く、一般的にほの赤い黄昏色が多いでしょうか。

    色涼し工事シートの隣家かな         増田綾子

  災害によって屋根が破損し、工事期間中、ブルーシートが掛けられている光景を見かけますが、この句は被害修理ではなく、定期的な家の修理のように感じますね。あの青色は涼し気ですね。因みに、ブルーシートの正式名称はポリエチレン製防水ラミネートシートで、その色が青色なので、通称「ブルーシート」と呼ばれているのですね。

   敬老会一際高く澄んだ声           水村礼子     

  人声の賑わう「敬老会」の催しの会場のざわめきの中でも、はっきり聴き取れる音色の声だったようです。そこだけ切り取る俳句的な表現で、その場の華やいだ雰囲気が伝わります。

   山の径今日は二匹目瑠璃とかげ        緑川みどり

  美しい「瑠璃とかげ」。肌はぬれて光沢があり、青や緑の縞模様があります。蜥蜴を好きではない人が多い傾向がありますが、この句ではその出会いを喜んでいるようですね。山道の疲れを束の間、癒してくれているようです。

   台風裡手足広げて骨休め           望月都子     

  台風の直撃コースで被害を受けそうではない場所のようですね。台風のせいで、実害はないが、仕事や用事がなくなり、束の間の休養時間がもたらされたようですね。

   蔓引けば袋三つの大仕事           保田 栄

  芋づる式という言葉がありますが、この句の蔓はカズラ系の、生命力の強い雑草のようですね。植栽を守るために定期的に除草しているのでしょう。袋三つほどの大仕事だったようです。

   闇といふやはらかき檻螢とぶ         安蔵けい子

  この句の独創性は、闇を「やはらかき檻」と表現したことにありますね。捉えて籠に閉じ込めなくても、自分もその中に囚われている、という小さな命への共感という詩情が立ち上りますね。

   またしても友の影かな夏の夢         内城邦彦

  友の影が「またしても」現れたのは夢の中のことでしょう。句全体の味わいから、この友はもう故人のように感じられます。夢に現れるくらいですから、思い出をたくさん共有した親友だったようですね。

   一村を占拠するがに竹の春          大谷 巖 

「竹の春」。成長した若竹も、秋には立派な竹となり、親竹も青さを取り戻すため、「竹の春」と呼び、秋の季語になっていますね。それを「一村を占拠するがに」と表現したのが効果的ですね。その生命力を感じます。

西瓜買ふ先づは叩いて音を買ふ                  大竹久子

  下五の「音を買ふ」の表現が、独創的ですね。食べごろの西瓜のいい音が聞こえます。楽しい雰囲気も伝わりますね。

   知覧茶をひとくち含む敗戦日         小澤民枝

  知覧はお茶の名産地でもあり、戦時中、特攻機の出撃基地でもありました。今は記念館も建ち、さまざまな遺品が展示されています。知覧茶は濃厚なタイプのお茶で、その苦味と戦争の悲劇の記憶が響き合いますね。

   猛暑なりプール教室休みます         柏木喜代子

  猛暑で屋外プールの使用ができなかった、というニュースを今年、初めて耳にしました。そんなことはこれまでありませんでしたよね。そこに注目して詠んだのがいいですね。

   七夕竹ゆさゆさ軽トラ園に着く        金子きよ

  あの竹の枝のボリューム感を「ゆさゆさ」とオノマトペで表現し、それを載せてきたのが「軽トラ」という庶民的な自動車にしたのが効果的ですね。業者から買ったのかもしれませんが、親が無償で竹を運んでくれたようにも感じます。

   白シャツや沸騰列島目にまぶし        神尾優子

  猛暑の表現に白シャツの反射光の眩しさをもって詠んだ句は初めて読みました。独創的な視点ですね。

   妖艶な死者の手招き夏芝居          木佐美照子

  プロの歌舞伎でも、同好会の芝居でも、伝統のある田舎歌舞伎の侮れない水準の芝居でも、夏の出し物に欠かせないのが、幽霊ものですね。大方が男尊女卑の犠牲になった女性の怨霊であることが多く、その姿が美しいほど怖いですね。

   夏草の命尽して繁りをり           城戸妙子

  この句のポイントは「命尽して」ですね。夏草の中には生命力の強い雑草も含まれているでしょう。その命のさまのすべてを寿ぐまなざしを感じる句ですね。

   台風禍流るる雲は切れ間なく         久住よね子

  台風通過時の空模様をしっかり観察した表現ですね。分厚く切れ目なく、黒々とした塊がひとつになって動いてゆくさまは不気味ですね。

   永らへし吾が影映し水澄めり         紺野英子    

  澄んだ秋の水面に映じた吾が影。微風にかすかに揺れるそのさま。そこに自分の来し方への想いの揺らぎを投影して、詩情がありますね。

 

                          ※

 

講話

あすか塾67  宮沢賢治童話「風の又三郎」と俳句作品

 

    もがり笛風の又三郎やーい    上田五千石

 

「鷗座」主宰の松田ひろむ氏が、俳誌十一月号の連載「新名句入門 名句のための俳辞苑30」で、童話「風の又三郎」と俳句について取り上げ、上田五千石の句の「もがり笛」と風の又三郎を取合せていることの、認識の間違いを指摘している。

「風の又三郎」の物語としての時間は九月一日から十二日。主人公の謎の転校生「高田三郎」が山の学校に滞在したのは九月一日から十一日の十一日間である。

 新暦でいうこの時期は、歳時記的には、二百十日から二百二十日に該当する。

「風の又三郎」の登場人物の一人、「嘉助」も「二百十日」の風に言及しているシーンがある。

 この季節風と、風変りな転校生の謎が背景になっている童話である。

 歳時記的には「二百十日」は仲秋の季語で、立春から数えて二百十日目をいう。

 新暦九月一日ころにあたる。

 台風シーズンの到来が、稲の開花時に当るため特に警戒したものである。二百二十日とともに稲作農家にとっては厄日とする。

 二十四節気は太陽暦に基づいて一年を二十四に分けたもので、旧暦と違って季節のずれがなく、農作業の目安となる。

 新暦の二月四日ころにあたる立春は、ちょうど旧暦の正月のころと重なる。

 正月も年のはじめなら、「立春」もまた年のはじめ。立春を年のはじめと定めることで、「八十八夜」「二百十日」というような季節点をおき、農事の目安や自然災害に対する備えとした。

虎落笛(もがりぶえ)は三冬の季語で、厳寒の夜空を、風がヒューヒューと音を立てて渡ること、またはその音のこと。「虎落」とは竹を立て並べて作った柵や竹垣のこと。

 それが烈風に吹かれて、笛のように音を立てることに由来する。

 だからこれを「殯」の「笛」と解するのは深読み過ぎ。

 松田ひろむ氏の指摘の通り、上田五千石の句の「もがり笛」と「風の又三郎」は季節が合っていない。

 また誤解されやすい「風」に、 仲秋の季語「やまじ」「やまぜ」と、三夏の季語の「やませ」がある。

「やまじ」は二百十日から二百二十日頃にかけて吹く強風。漁船の遭難や、収穫前の稲に打撃を与える原因ともなるため、農民に恐れられる。

「やませ」は山を越えて吹いてくる風。北海道や東北の夏に、冷湿の北東風ないしは東風として吹く冷害の誘因になる風である。

 

            



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あすか塾 66 2024年10月

2024-10-18 14:38:06 | あすか塾 2024年

   あすか塾 66 

《野木メソッド》による鑑賞・批評              

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰十月号「新涼」から

 

この影はステゴサウルス夏木立

 繁った樹木の影が、恐竜のステゴサウルスに見えたのですね。子供心を失わない、しなやかな俳人ならではですね。

 

花火師の潮の匂ひをもち帰る

「花火師の」の「の」は散文では「が」に当りますが、俳句独得の助詞の使い方で韻律を生み出します。花火を打ち上げた場所まで目に見えて、火薬と潮の香が匂い立つ句ですね。

 

やはらかき日差し鬼の子顔を出す

「鬼の子」は蓑虫の異名で、「枕草子」の「43蓑虫いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心地あらんとて」とあることに基づいています。俳句では三秋の季語の子季語ですね。他に鬼の捨子、父乞虫、みなし子、親無子、蓑虫鳴く、木樵虫があります。

 この句では暖かくなって蓑から顔を出している表現で、可愛らしいですね。

 参考までに、蓑虫の名句に次があります。

    蓑虫の音を聞に来よ草の庵      芭蕉「続虚栗」

    みのむしや秋ひだるしと鳴くなめり  蕪村「夜半叟句集」

    蓑蟲や足袋穿けば子もはきたがり   渡辺水巴「水巴句集」

 

 「風韻集」十月号から 感銘秀句

 

鮮血の走る静脈秋思かな        矢野忠男

 自分の体内を巡る血流を普段は意識しませんが、病気をしたときなど、ベッドに横になっているとき、それを生きていることの証のように、確かに感じます。

 

自然洞つかふ村バス蝸牛        山尾かづひろ

自然にできたトンネルを整備してバス道にしている、珍しい景の句ですね。鄙びた田舎を感じる表現で、下五を「蝸牛」にしたことで、そのゆったりとした速度も感じますね。

 

父の日や納屋に掛けある菅の笠     吉野糸子

 俳句全体から立ち上がるノスタルジーを感じる表現ですね。菅の笠は昔ながらの労働の景によく合いますね。

 

川石を文鎮として餓鬼忌かな      安齋文則

「餓鬼忌」は七月二四日の芥川龍之介の忌日「河童忌」の子季語ですね。河童忌とすると上五の「川石」と近すぎるので避けたのでしょうか。拾ってきた川石を文鎮にして書をしたためている、という景に詩情がありますね。

 

川音の膨らむ朝雨蛙          磯部のり子

 「川音」が「膨らむ」とした表現が詩的ですね、雨蛙の声がそれに一層、趣を添えています。

 

子に譲る夏の箸置き涼しげに      大木典子

 作者の愛用の箸置きを子供に譲ったというだけの表現ですが、下五の「涼しげに」で、特別な仕様の高価なもので、使わずに大切にとってあった物だということが伝わりますね。

 

青田風課外授業の小学生        大澤游子

 田植が終ったばかりの田を吹き渡るすがすがすがしい景が浮かびます。課外授業の内容は色々想像されますが、最初に思いつくのは、みんなで田植をした景ですね。手足、顔に泥をつけた元気な姿も浮かびます。

 

三々五々渡御の出を待つ男衆      大木 尚

 しっかり昔ながらの祭の意義と伝統を大切にしてる人達の姿が浮かびます。「渡御」とは神輿渡御、「神輿で練り歩くこと」で、神さまが神輿にのって街を練り歩き、大きな力を振りまいて人々の「災い」を清めるという意味があり、だから神輿を激しく揺さぶり、神さまの力を高めて豊作や大漁を願う理由があるのですね。この句では男衆が神輿担ぎの出番を待っている場面で、そんな伝統を守っている町の雰囲気も伝わりますね。

 

占ひは信ぜず七夕祭かな        風見照夫

 一見、占いと七夕祭は無関係のようですが、双方とも人間が考え出した非現実的なものである、という共通点がありますね。その一方はあまりいいことではなく、一方には抵抗がないという違いの不思議を詠んだ句ですね。 

 

藁屋根に一叢の草南風(みなみ)吹く       金井玲子

 藁葺屋根に生きている草が生えるまでには、それなりの時間の経過を必要とするでしょう。その落ち着いた風情を「南風」と季節感の中で表現して詩情がありますね。

 

夢の世や茅花流しの只中に       近藤悦子

 「茅花流し」は初夏の季語で、茅花の花穂を吹き渡る、雨の気配を含んだ南風ですね。自分の人生という夢のような時間を、その風の只中に置いた詩的な表現ですね。

 

研ぎ味をトマトに試す朝曇       坂本美千子

 刃物の具合を日本語では「味」という言葉で表現しますね。この句の「研ぎ味」そしてその「切れ味」というふうに。それをトマトで試している景ですね。下五の「朝曇」で、刃物の鋭利さが少し曇って感じられているという繊細な表現ですね。

 

青嵐石の天使の翼しなう        鴫原さき子

 石の天使の彫像の翼まで、風に撓っているようだ、という表現ですね。とはいっても、青嵐は初夏の、青葉を揺すって吹き渡るやや強め風という程度の強さですから、翼がまるで飛翔しているようだ、という句意に主眼がある表現ですね。

 

潮騒の中なるランチ冷し蕎麦      摂待信子

 海の香のするレストランのランチといえば、洋食を思い浮かべますが、「冷し蕎麦」だという表現ですね。冷し中華のことかとも思いますが、やはりここは和の蕎麦の意外性がいいですね。

 

春蟬とワーグナー聴く庭テラス     高橋光友

 ワーグナーと言えば壮大な交響曲の響を思い浮かべてしまいますが、春蟬との響演ならば、室内楽ほどの心地よい小曲かもしれませんね。

 

積石に秋重ねゆく生家かな       高橋みどり

 積石には和風建築の分厚い塀、または建物の柱の下に置く土台、礎があります。この句は後者の方を思い浮かべますね。その「重ね」と季節を重ねて、詩情がある表現の句ですね。間接的に両親と、そこで育った自分の過去の歴史に対する慈しみが感じられますね。

 

何気なく腰を弄る芝の栗        服部一燈子

 普通名詞的には「芝栗」という品種を指す言葉を、「芝の栗」と、間に「の」を入れて山野に自生する野性の栗であることを表現した句ですね。野性の目立たないようすを「何気なく腰を弄る」としたのが効果的ですね。

ひと粒づつ物種を蒔く胸に母      宮坂市子

「物種(ものだね)」は穀物・野菜・草花などの種のことですね。「ものざね」とも読み、他に「ものごとの、おおもとになるもの」という意味もあります。その語感を踏まえて、種蒔きをしているとき、母の代からもそうしてきた、という思いを抱きしめる表現にして味わい深いですね。

 

もう起きて歩いてみるか熱帯夜     村田ひとみ

 熱帯夜で眠れない思いをした方は、今年の猛暑では誰もがした経験でしょう。作者はついに起き上がって、少しは涼しい外気の中を歩こう、と決心したようです。

 

歌舞伎座の列に香水並びくる      柳沢初子

 誤読かもしれませんが、わたしはそこに一つの迷惑行為的なことを感じて暗に批判しているような作者の思いを感じました。そんな人が隣りの席にいたら、気が散って、観劇どころの気分ではなくなりますよね。

 

 「あすか集」十月号から 感銘好句

うらうらと紅葉かつ散る日の床几    紺野英子

 「床几」は移動用の折り畳み式簡易腰掛けで、脚をⅩ状に組み合わせ、上端に革や布を張ったものですね。これに座って屋外の紅葉を鑑賞している景が浮かびますね。

 

紅花の刺まだ柔きひと抱へ       齋藤保子

 紅花の茎の刺は早朝は柔らかいですが、日中は固くなって刺されると痛いようです。そのことを知っている栽培家のような実感のこもる表現ですね。

 

異論などある筈もなく西瓜食ぶ     笹原孝子

もちろん、西瓜を食べることに誰も異論はないでしょう。その言い切りのユーモラスなことに加えて、他の議論まで断ち切ってしまうような爽快さがありますね。

 

  猫じゃらし午後は品薄直売所      須賀美代子

 上五の路傍の草「猫じゃらし」で、その直売所がある場所まで想像できますね。農作物は朝出しが普通ですから、午後、何か残っていたら幸運ですね。売れ残りものですが。

 

煮炊きして命の伸びる梅雨晴間     須貝一青

 作者は愛妻を亡くされ、独り暮らしで、自炊が億劫に感じられている日々なのでしよう。だからこの句は「久ぶりに」が省略されたものと読むと、共感される人が多いのではないでしょうか。

 

  踊の輪くの字の爺のしなやかに     鈴木 稔

 賑やかな祭の踊りの中で、一際目を引くご高齢の方のようです。腰は曲がっていても、年期の入った所作が見事だったのですね。高齢者への敬意とやさしさを感じる句ですね。

  早々に雨戸繰る庭五月闇        砂川ハルエ

「五月闇」は陰暦五月の、梅雨時の夜の暗さのことですね。この句で、未明に雨戸を開けたのは、おりからの猛暑のせいだということが想像されますね。

  窓広き路面電車の街涼し        関澤満喜枝

最近の電車は冷暖房完備で窓は開けないことが多いですね。この句ではそんな路面電車の大きい窓の車内を涼しい、といわず、「街涼し」としたのがいいですね。

 

手はどこと探すや葛が蔓伸ばす     高野静子

 誰が誰の手の在処を問うているのか不明の表現ですね。わたしは旺盛に蔓を伸ばす蔦が、まるで触手のように何かを弄っているようすを読み取りました。

 

風鈴の風なき夜にチリと鳴る      高橋富佐子

 無風の蒸し暑い夜の景が浮かびますね。風鈴の音色はふつう涼を感じるものですが、「チリ」とだけ一音聞こえたという表現で、暑さが際立つ効果をあげていますね。

 

屋根上に気位高き花南瓜        滝浦幹一

瓜はふつう露地や棚がけ栽培ですが、この句では蔓が屋根まで延びて花を咲かせているようです。それを「気位高き」と表現して詩情がありますね。

 

猛暑日や猫は尾っぽで生返事      立澤 楓

飼猫の横着なまでの、ちょっとしたしぐさを切り取って、この暑さだもの、と笑っている作者のやさしいまなざしを感じる表現ですね。

 

風船の夏空めざし塔を越ゆ       千田アヤメ

 ただ風船が空へ上っていくと表現せず、目に見えるような「塔を越ゆ」としたのが効果的ですね。塔のある街並みも見えますね。

 

引越すも表札そのまま梅雨湿り     坪井久美子

 梅雨湿りの最中、引っ越し作業が終わったばかりでしょうか。取り急ぎ、旧居から持ってきた表札を玄関に掛けたのでしょう。当座の間に合わせか、愛着あるものだったのでしょうか。

尾根道を点す紫葛の花         中坪さち子

 まるで紫色の葛の花が、道先案内のように「点」っているという表現に詩情がありますね。尾根道、とありますから、登山の場面が想像されます。

 

大花火遠音にひびく宵の風       成田眞啓

 下五を「宵の風」としたのが効果的ですね。その風に乗って、遠花火の音が運ばれてきたかのようです。

 

父の日やモールス符号打つてたネ    西島しず子

 いろんな場面が想像される句ですね。父上が昔、無線士だったので、居間にいても無意識に家族の前で、モールス符号のリズムを刻んでいた、というような景を思い浮かべました。この符号を音や光で信号にするのがモールス信号なのてすね。モールスは発明者の名ですね。

 

家ごもりごろりごろごろ大暑かな    沼倉新二

 大胆に擬態語の畳句で一句を成立させ、そのようすまで目に見えるような表現で、おもわず笑ってしまいました。

 

一幅の幽霊の絵や夏の寺        乗松トシ子

 たぶん高名な日本画家の筆になる幽霊画なのでしょう。少し黄ばんでいるでしょうが、その鬼気迫る雰囲気が伝わりますね。

 

山百合の咲けど香れど人の無き     浜野 杏

咲けど香れど」のたたみかけが効果的ですね。こんなに綺麗に咲き、香り立っているのに、という作者の思いが溢れる表現ですね。

 

蟬さえも声をひそめて夕を待つ     林 和子

 今年は猛暑のせいか蟬の声をあまり耳にしませんでした。ニュースでもそのようなことが報道されていましたね。このまま異常気象が続けば、季語の「蝉時雨」が絶滅遺産になるかもしれませんね。

 

貝殻を砕きて鶏に秋の朝        平野信士

 自家製の餌で鶏を育てている方でなけれぱ詠めない句ですね。定期的にそんなカルシウム分を含んだ餌を与えないと、外殻のない甘皮だけの卵が生まれるそうです。

 

今年また魔除け風鈴軒先に       曲尾初生

この風船は涼を呼ぶための澄んだ高音を立てるものではなく、古代の風鐸の流れを汲む「魔除け」的なものでしょうか。毎年、玄関先に吊るされているようです。

 

痛み出す腰椎側弯梅雨湿り       幕田涼代

 「腰椎側弯」とは「腰椎変性側弯症」の略語で、脊柱が側方や後方に曲がってくる症状ですね。罹患経験のない人には馴染みのない医学専門語です。加齢によって激しい神経系の痛みを伴う、脊椎、手足の骨の病気にかかりやすくなるので辛いですね。

 

遠雷の転がる音や歯科帰り       増田綾子

 雷鳴が転がるように鳴り響いて感じられたのでしょう。治療したばかりの歯の神経に響いたのかもしれません。

盆灯籠五百羅漢に嘆き顔        水村礼子

 五百羅漢像はたくさんあり過ぎて、普段は一体一体の表情に気をとめたりしませんが、盆灯籠の灯の真下になった一つの像が、まるでスポットライトを浴びたかのように見えたのでしょうか。しかも作者の心情を反映してか「嘆き顔」に見えたのですね。

 

あの山のあのあたりかな秋茜      緑川みどり

 「秋茜」は初夏に山地へ行き、秋になると平地に群れて帰る習性があるそうです。その「帰り」を待ちわびているような表現ですね。

 

酷暑なり出口の見えないことばかり   望月都子

 俳句はストレートな感情表出をすると、奥行きのない、それだけの狭い表現になってしまうおそれがありますが、この句は、今年の猛暑という異常体験で、そんなこと、構ってられないほどだった、という共感させる力がありますね。

 

玄関の主となりて棕櫚の花       保田 栄

 玄関先に植えられた棕櫚がある家なのですね。見事な花が咲き、今では主のようだ、という感慨表現ですね。他の植物ではこうはいかないですね。

 

幸せを詰めて赤らむさくらんぼ     安蔵けい子

 上五の「幸せを詰めて」が、元気な赤ちゃんの艶々とした、膨らんでいる頬っぺたのような表現ですね。

 

パリ五輪壁に大判世界地図       内城邦彦

 五輪に限らず、スポーツ・イベントの世界大会になると、活躍する参加選手の国の場所を知りたくなりますね。この句では大判の世界地図を用意したようすですね。ただ、五輪だけでは季語にならないので、有季俳句にするのなら、「夏季五輪」と書くべきですが、「パリ五輪」と言いたかったのでしょう。あのパリの熱気に季節感を感じましたよね。

 

砂浜に足跡残し夏惜しむ        大谷 巌

 波が寄せる浜辺の足跡は、すぐ消えてしまう、はかないものですね。それが下五の「夏惜しむ」の季語とぴったりの表現ですね。

 

老い愉し塩分控へ梅漬けて       大竹久子

 上五で「老い愉し」と断言されていて、どうして、と思ったら、その後が、気持ちの表明ではなく、具体的に塩分控えめにして梅を漬けている表現になっているのが、効果的で読者も元気をもらいます。

 

夏草や目高の墓をつつむかに      小澤民枝

「つつむかに」という下五の表現で、目高の墓まで作ってあげる作者の気持ちという「心の手」で、包んでいるようなやさしさが立ち上る表現になっていますね。

 

汗流し厨は主婦の戦場よ        柏木喜代子

 孤独な「戦場」ですよね。共感される方が多い句でしょう。いろんな境遇も想像されます。

 

消灯の病室照らす梅雨の月       金子きよ

 明りが付いているときは気づかなかったのでしょう。消灯と同時に、蛍光灯の市内の光とは違う、やさしい月光が病室を満たしたのですね。梅雨の時期の雲間から差す月光ですね。

 

白南風同じ時代を走りぬけ       神尾優子

 時代を同じくして生きたのが、誰または何かということが略された、俳句的表現なので、まるで上五の白南風という季語と共に、というようにも解釈できる句ですね。変わらぬ季節の風だけど、このときの、この風は特別だったいう感慨が立ち上りますね。

 

曼珠沙華昔々は土饅頭         木佐美照子

 今のように死後、火葬にされて整備された墓地の墓に埋葬されるようになる前、日本全国「土葬」で墓印も粗末な時代の方が永かったのでしょうね。曼珠沙華はそんな昔の景に相応しいですね。

 

父の日に贈りしシャツの着惜しみて   城戸妙子

 わたしたちの父母の時代は倹約質素の文化が根付いていました。物を大切にする亡き父の面影がうかびます。と同時に、娘から貰った贈りものが嬉しくて、着ないで大切にとっておかれたのかもしれません。

 

マリネして振舞うさっぱ釣り三昧    久住よね子 

 マリネは、肉・魚・野菜等を酢やレモン汁などの漬け汁に漬け込む料理ですね。サッパ(この句ではひらがな書きされています)はニシン目に分類される汽水域に生息します。共通の釣りという趣味で楽しげな雰囲気が伝わる句ですね。

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あすか塾 65  2024年・令和6年9月

2024-09-17 14:38:38 | あすか塾 2024年

   あすか塾 65 

       《野木メソッド》による鑑賞・批評              

        「ドッキリ(感性)」=感動の中心

        「ハッキリ(知性)」=独自の視点

        「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 野木桃花主宰九月号「古書漁る」から

古書漁る初老の背中西日濃し

 

 古書と初老の背中の取り合わせに詩がありますね。落ち着いた古書店内の雰囲気まで伝わります。そこに西日が射しています。本の種類まで想像されます。

小鰡(おぼこ)いま海に帰るよ列なして

「おぼこ」という呼称は鰡にかぎらず幼いものへの愛称のひとつですね。鰡は群れをなして回遊する魚で、基本的には海水魚ですが、幼魚のうちは河口や内湾の汽水域に生息します。しばしば大群を成して淡水域に遡上します。産卵期には外洋へ出て南方へ回遊します。この句の「小鰡(おぼこ)」はその時期になったのでしょう。

新涼や早世の母の小引出し

 中七の「早世の母」ということばで、母の遺品に対する作者の慕情が伝わりますね。新涼の和室に置かれた文机の「小引出し」、風情がありますね。

秋雷や耳聡くゐる真夜の窓

 中七の「耳聡くゐる」のやや古風な言い回しに、しっとりとした情感がありますね。雷鳴と、今いる場所との距離という、音響的空間の広がりを感じ取っていることが伝わりますね。

苦瓜に力授かる影法師

 苦いのを好んで食べるのは大人になってからです。子どもたちは多少の暑さなんか平気で、苦いものは毒の味がして敬遠するのでしょうが、大人はあの「苦味」に力を貰っているのですね。下五の「影法師」は夏負けぎみの人影でしょうか。

 

白鷺の一足毎を見て飽かず       柳沢初子

川の浅瀬をゆっくり歩く白鷺の姿。涼し気で、そのスローモーションのような動きはたしかに、見飽きませんね。

祭笛袖に残りし仕付糸         矢野忠男

小さな子どもの祭浴衣が浮かびますね。母が急いで支度してくれた、祭の陽気な気分も伝わります。

田植終え水の匂ひや村寝落       山尾かづひろ

田一面に水が張られて、その匂いが村いっぱいに広がっているような、清々しい田園の風景が浮かびます。夜、そんな空気に包まれて村全体が眠っているようです。

みどり児の笑みやはらかく柿若葉    吉野糸子

「笑みやはらかく」が、嬰児の表現としてすばらしいですね。季語の「柿若葉」の早緑も爽やかですね。

バスしばし女を待てり青田風      安齋文則

「客を待つ」ではなく「女を待てり」。いろんな場面が想像されますね。作者が男性なので、恋人を待っている気持ちを、停車しているバスに投影しているのか、女同士の一人がバスに乗り込もうとしていて、なかなか別れの挨拶が終らないでいる景を表現しているのか、読者、それぞれに想像するでしょう。

大ぶりの形見の壺に雪柳        磯部のり子

元の所有者の愛用の大壺だったのでしょう。綺麗な焼き模様のついた壺を想像します。「雪柳」というあの細やかな花に、譲り受けた作者が、壺を大事にしている気持ちまで伝わります。

源流の始まりはここ苔の花       大木典子

大河の一滴、とよく言いますが、その始まりは山奥の岩場の苔から滴る一滴が、その始まり、ということもあるでしょう。想像するだけて清々しい気持ちになります。「ここ」と指し示している表現がいいですね。

父の日や土間に槌音藁のおと      大澤游子

雪深い東北地方における、農家の冬仕事を思いかべますね。「今」の景ではなく、作者の心の原風景のように感じました。藁仕事をしているのは父でしょうか。

紫陽花の一毬点る朝の卓        大木 尚

尚さんは、句の中心にきらりと光ることばが置かれているような表現をされます。この句の命は、「一毬点る」ですね。他の言い方に替えることのできない冴え渡る表現の技です。朝の「卓」に添える爽やかな彩りです。

甦る亡妻の笑顔やさくら草       風見照夫

さくら草の可憐な佇まいに、亡妻の笑みを思った、という愛妻句ですね。死別されてもなお深まる愛情が伝わりますね。

隠り沼に微かな流れ浮巣かな      金井玲子

ふつう隠り沼というと、鬱蒼とした藪の中に埋没しているような沼地をイメージしますが、ときには思いがけないほど澄んだ水を湛えている小さな池のような沼もあるようです。そこに鳥の浮巣を発見したという句ですね。鳥がそこでひっそりと子育てをしてるような雰囲気ですね。

屋形船小唄流るる川開         近藤悦子

大型の屋形船はふつう内部が和室形式のものが多いですね。その「和」の感じと「小唄流るる」がぴったりの句ですね。あの切れのいい弾む音が聞こえます。

聖五月菓子鋪を継ぐと三女決め     坂本美千子

聖五月はカトリックのマリアの月のことですから洋風のことばですね。この句の「菓子鋪」は和菓子の店を想像します。その和洋折衷の表現と、その後継者たらんと表明した「三女」の取り合わせに味わいがありますね。

解体のビルに宙吊り春の月       鴫原さき子

まるで工事現場の大型クレーンで、「春の月」が吊り上げられているような意表をつく表現ですね。稲垣足穂の幻想短編小説のような世界ですね。俳句はこんな世界も表現できるところが愉しいですね。

掘りて来し筍ほいと呉れにけり     摂待信子

筍が豊作だったのでしょうか。気前よく分けて貰えたことを「ほいと」の擬態語で表現したのがいいですね。筍掘りをした方の視点でいうと、その楽しさを人と分かち合いたくなったのかもしれません。

残雪の大山火口空の旅         高橋光友

 鳥取の名峰、「大山」の景でしょうか。それがまだ残雪に覆われているのですね。空撮のような爽快さを感じる表現ですね。

白靴を片手に提げて由比ヶ浜      高橋みどり

素足になって由比ヶ浜を歩いている、爽やかな景が浮かびますね。「白靴」は三夏の季語ですが、それを浜辺歩きの表現にしたのがいいですね。足裏の砂地の感覚、足首を濡らす海水の冷たさが伝わります。

夕暮れの白靴ばかり目立ちけり     服部一燈子

夕暮れの薄闇せまる景の中では、ものが青っぽく見える現象をプリキニェ現象といいます。その中で明度を保つ白靴の白は一際目を引くことでしょう。その感覚を敏感に捉えた表現ですね。

葱坊主太りて列をはみ出して      宮坂市子

実際に農作物を愛情をこめて育てている人の眼差しを感じる表現ですね。まるでワンパク少年を見ているような優しさを感じます。

外階段ジグザグのビル雲の峰      村田ひとみ

現代俳句は「自然」よりも、「環境」を詠む、という方が相応しく、視点が深くなるような気がします。ひとみさんはそんな都会の一コマを切り取って詠むのが得意ですね。「雲の峰」とビルの外階段のジグザグが取り合わせられた表現は、はじめて読みました。

 「あすか集」九月号から 感銘好句

マスカットさくっと歯ざわり誕生日   久住よね子 

「さくっと」という擬音語はふつう、硬さのある梨か林檎のような果物を連想しますが、この句はなんと「マスカット」です。品種改良された大粒のものでしょうか。下五が「誕生日」。前向きの気分で迎えていることが伝わります。

掛香や露地の小暗き潜り門       紺野英子

掛香(カケゴウ)は匂い袋で、夏の季語ですね。調合した香(こう)を絹の小袋に入れて室内にかけたり、紐をつけて首にかけたり、懐中にしたりします。碧梧桐に「掛香や派手な浴衣の京模様」があります。掛香を懐中にした和服の女性が「露地の小暗き門」を潜っている和風の景が浮かびますね。

結界の向かう色濃く花菖蒲       齋藤保子

結界は聖なる領域と俗なる領域を分ける境ですね。神社仏閣にはそのような立ち入り禁止の場所があります。この句はその結界に花菖蒲がひっそりと咲いているのを見た感慨の表現ですね。「色濃く」で一際鮮やかに目に飛び込んできたのでしょう。

万緑の底に一村ひそとあり       笹原孝子

 昔ながらの落ち着いた村落の景でしょうか。「ひそとあり」に作者の感銘が込められていますね。

師は僧侶徒然草の夏期講座       須賀美代子

「徒然草」は兼好法師が書いた当時は注目されず、百年後、僧侶たちが無常観の随筆として評価し広めたものですね。その何百年後の現在、僧侶からその講義を受けているのですね。それが特別な「夏期講習」で、作者の向学心が窺がえますね。

開発史苔むす石碑観音堂        須貝一青

 代表的なのは北海道ですが、日本の各地に、この句のような開拓史の記念碑を見かけます。当事者、関係者はもう亡くなっていて、直接、その苦難の体験談を聞くことはできず、ただ苔むす石碑だけが佇んでいます。深い詩情がありますね。

明易し煎餅布団の旅枕         鈴木 稔

 現代の新しいホテルではなく、地方にある昔ながらの鄙びた旅館の景ですね。ホテルなら「トラベル気分」ですが、「旅枕」という「旅情」には、そんな宿の煎餅布団、というのが似合いますね。

嗄れて何かありさう梅雨鴉       砂川ハルエ

自然の生きものの声をよく聞いている俳人ならではの視点の句ですね。一羽一羽違う声をしていますね。その中に一際、嗄れ声の鴉がいたのでしょう。人間なら「風邪ひいたの」と問うところでしょうか。その心配そうな表現に温かさがありますね。

大いなる象のひづめや暑を洗う     関澤満喜枝

下五の「暑を洗う」という、大きな生きものを介して、その風景全体を丸洗いしているようなイメージが喚起されて、とても独創的ですね。

振り向けば友みな遠し半夏生      高野静子

上五の「振り向けば」は、俳句には向かない説明的な表現になりがちですが、この句は例外的に心理描写として成功していますね。距離的な遠さではなく、時間的な距離感も詠みこんだ感慨の表現になっていますね。ちなみに、下五の「半夏生」は季節を指す季語のことばで、その名の由来は、半夏と呼ばれる烏柄杓という植物が生え始める時季だからといわれています。だから「半夏生」を植物の方として詠むのは正確ではないのですね。「半夏」という植物に由来する季節の名なのですね。

待合室の番号点滅梅雨の雷       高橋富佐子

特定はできませんが、大きな病院での診察か薬の処方か、最後の清算窓口の順番を、待っているような景が浮かびますね。その番号表示の点滅と、雷鳴の閃光が室内でも感じられ、二つがシンクロしているのでしょうか。迫力がありますね。

夏木立透けて遥かに南部富士      滝浦幹一

「透けて」ですから、あまり植生の密度の高くない、その向こうが見えるほどの立木の列でしょうか。その遥か向こうに南部富士が見えているのですね。清々しさを感じる句ですね。

りんどうや槍・穂高より上高地     忠内真須美

上高地からや槍ヶ岳、穂高岳が見えている景の逆で、山の方から上高地を見下ろしているのでしょうか。上五の竜胆(りんどう)は作者の眼前にあり、その大きな遠近感が清々しいですね。実際に登山されたのでしょうか。

とれたての茄子ラタトゥイユ大き鍋   立澤 楓

ラタトゥイユは、フランスのニースの郷土料理で夏野菜の煮込み料理。食材は茄子、玉葱、パプリカ、ズッキーニとトマト。オリーブ油で炒めローリエ、オレガノ、バジル、タイムなどの香草とワインで煮込みます。夏らしい大鍋料理ですね。

何時もここに風を集めて木下闇     千田アヤメ

温度差があるところに風が生まれます。それは気象物理学の知識ですが、この句で風が生まれているのが「木下闇」。それが人格化されて「風を集めて」いるというのが詩的ですね。身近なところに、そんなほっとする場所があるのでしょう。

戦場のやうにぎしぎし総倒れ      坪井久美子

「ぎしぎし」(羊蹄)は市街地周辺から山地の、やや湿ったところに群生していますね。その「ぎしぎし」という名が、物の擦れあう擬音を連想させます。戦場と、兵士たちの倒れる姿への想像の飛ばし方が冴えていますね。

軽暖やチチチと空へ番鳥        中坪さち子

軽暖は初夏の季語の薄暑の子季語ですね。日常語ではなく改まった書状などの季節の挨拶文などに使われています。この句は初夏のやや汗ばむほどの暑さの中、つがいの鳥が空に舞い上がっている景を詠んで、爽やかですね。

向日葵や日焼けを嫌う君といて     成田眞啓

この句の「君」はいろいろ想像させられますが、作者の愛する大切な人であることは、「日焼けを嫌う」という表現で推測されますね。

椅子を足す大道芸や春の空       西島しず子

ちょっとした屋外の広場、または大きなショッピングモールのイベント用の空間が想像されます。人が集まるほどの人気のショーになって、関係者が椅子を増やしているのでしょう。その場にいるような臨場感のあるたのしい句ですね。

白南風や翆嶺筑波凛と座す       沼倉新二

梅雨が明けるころ吹く明るい白南風、青々とした翆嶺・筑波山の姿を「凛と座す」と、趣のあることばで表現した句ですね。目に浮かびます。

驟雨去り目元すずやか笑み仏      乗松トシ子

驟雨が去ったばかりですから、まだ濡れているのでしょう。多分、路上の地蔵菩薩でしょうか、その姿が涼し気に感じられたのですね。それを「目元すずやか」とひらがな表記で表現したのがいいですね。

夏燕駅の構内賑わせり         浜野 杏

燕は人間が保護してくれることを学んでいるのか、家はもちろん、施設によく巣をかけて子育てをします。この句は人の行き交う駅構内を賑わせているのですね。作者のまなざしに温かさを感じますね。

のうぜんの花百咲いて百落ちて     林 和子

実数ではなく、俳句的な表現で「百」を重ねて詠んで趣がありますね。のうぜん (凌霄)はオレンジ色で漏斗状。樹木や塀に絡まって咲きます。咲いた先から次々に散るので周りが華やかになりますね。ひらがな書きにしたのが効果的ですね。  

目覚むれば右手に団扇持ちてをり    平野信士

作者はもちろん右利きでしょうか。昼寝で団扇を使っていたことすら忘れて熟睡したのかもしませんし、ちょっと仮眠だったのかもしれません。こう表現すると大らかなユーモアが感じられますね。満ち足りた睡眠だったようです。

梅雨近し薬も効かぬ天気痛       曲尾初生

飲んでもその効果のない、鎮痛剤をむやみに服用したくない症状であるだけに、作者の我慢のほどが伝わる表現ですね。

植田波雲およがせて青々と       幕田涼代

水の張られた植田の水面に映った白い雲が、空の青、稲の緑の中を流れてゆくように見えている景ですね。それを人格的に表現して、爽やかですね。

蝋引きて雨戸するする矢車草      増田綾子

今どきのアルミサッシ戸ではなく、古民家ふうの木造の雨戸が想像される句ですね。その庭先に「矢車草」を配して、夏らしい一コマの表現にされました。

法螺を吹く学友と居て大花火      水村礼子

下五の「大花火」の「大」が上五の「法螺」に引火して「大法螺吹き」に感じられる、大らかなユーモアのある表現ですね。作者はそれを許し、楽しんでいるようですね。

梅雨明けや悪しき名めげず悪茄子    緑川みどり

悪茄子(ワルナスビ)は悪い茄子ではなく、別の帰化外来種ですね。俳句誌でこの語を使った句を「悪い茄子」と誤読して、面白がっている評を読んだことがあります。地下茎を張ってよく繁茂し、地下茎のひとつひとつから芽が出て増殖します。一度生えると完全に駆除するのは難しいやっかいな植物ですね。

万緑や連なるバスは南へと       望月都子

行く先をただ「南へと」と、句の結びにして、余韻がありますね。「北へ」だと、探索の旅のような雰囲気になり、「南へ」は明るく楽しい雰囲気になりますね。俳句的なことばの魔術ですね。修学旅行を想像しました。

清流の青苔織部思ほゆる        保田 栄

この句の「織部」はもちろん、織部焼のことでしょうね。清流の岩の苔の色に、その焼物の味わいを見出している表現ですね。滋味のある句になりました。

保線員音聞いて行く五月晴       安蔵けい子

爽やかな五月晴れのもと、電車の線路の保線員が「打音検査」という熟練技で点検をしている景ですね。その音の響と空気感まで伝わる句ですね。

烏の子アワアワアワとねだりをり    内城邦彦

「アワアワアワ」という擬音表現から、鳥の種類をいろいろ想像させますね。小鳥系ではなく、烏のような体も嘴も大きい鳥のようです。下五の「ねだりをり」という幼児的なようすの表現で、作者のやさしいまなざしを感じる句ですね。

蝉時雨俗世の音を奪い取り       大谷 巌

「俗世の音」を消すほどの大音響の蝉時雨が想像される句ですね。高温の続く真夏日、猛暑日の異常気象で、蟬時雨をあまり聞かなくなりました。それが聞けなくなる「静けさ」は、逆に心配ではありますが。

句作りは生きる杖なり百日紅      大竹久子

生きる杖という表現に味わいがありますね。一行書きの俳句は、まるで一本棒の杖のようでもありますね。作者には心の杖なのですね。花の時期の長い百日紅との取り合わせもいいですね。

夏草や約束通り共白髪         小澤民枝

口に出してした約束ではなく、以心伝心の、心の通い合うご夫婦の、心の約束なのですね。そんな思いも包みこむ「共白髪」という慣用句もいいですね。それを夏草という生命力のある季語と取合せて「約束」と表現したのがいいですね。

姿変えたコロナ猛暑の収まらず     柏木喜代子

姿を変えて感染を拡大するウイルスと、地球温暖化という猛暑、酷暑と被害の拡大を取合せて、読んでいて、その危機感に汗が滲む表現ですね。

残照に際立つ新緑能登瓦        金子きよ

これは被災地への励ましの句でもありますね。震災時に木造建築の屋根瓦は、その重さで被害を大きくするという報道がありますが、能登瓦は光沢のある黒色が特徴で、通常の陶器瓦は表面のみ釉薬を塗りますが、能登瓦は裏面まで釉薬が塗られています。理由は耐寒性、耐塩害性の向上で、その景観は美しく能登のほこりなのですね。この句はそれを際立つ新緑と取合せて、心の声援を送っているかのようです。

小半日無心で洗う辣韮かな       神尾優子

小半日もかけて辣韭を洗っているのですから、それを栽培している農家を想像する句ですね。その無口で直向きな姿に趣がありますね。

ぬったりと風串差しの岩魚の眼     木佐美照子

上五の「ぬったりと」が意表をつく質感のある表現ですね。岩魚の身を貫いているのが串ではなく、風という表現が独得ですね。最後は岩魚の眼へのクローズアップ。観念しているような雰囲気ですね。

惜春や名所となりし無人駅       城戸妙子

名所になったことの中に潜む、過去の栄華の記憶を持つが故の一抹の寂しさ哀しみを繊細に詠みこんだ表現ですね。俳枕になって有名になった場所を訪れると、そんな気持ちになることがあります。上五の「惜春」が効いていますね。

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あすか塾 64 2024年8月

2024-08-16 14:34:06 | あすか塾 2024年

 あすか塾 64 

《野木メソッド》による鑑賞・批評   

     

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 

野木桃花主宰八月号「青梅雨」から

 

待ちわびし友垣薔薇の十重二十重

祝宴のシャンパングラス緑さす

 この二句は今年の「あすか年度大会」のことを詠まれた句ですね。「待ちわびし友垣」に続いて、その一人ひとりを「薔薇の十重二十重」と表現して、いつもは誌上でしか交流がない同人、句友と直接触れ合えるひと時は愉しく、主宰の立場としては、その一人ひとりの句を毎月、選考している身ですから、ひとしおの思いがあるでしょう。乾杯の音頭で共に高く掲げたシャンパングラスに新緑の色が映えています。

青梅雨や青の時間をひとりじめ

下五の「ひとりじめ」に、その静謐な時間をしみじみと抱きしめているような思いが溢れていますね。

しんがりに校長先生早苗束

 いろんな田植の景が浮かびますが、わたしは幼稚園か小学校の行事としての田植経験の景が浮かびました。みんなのようすを最後尾で見守りながら、自分も早苗束を分けて植えている、微笑ましい景ですね。

 

 「風韻集」八月号から 感銘秀句

 

来し方は短くもあり虹仰ぐ      村田ひとみ

 「来し方は短くもあり」という感慨はよくありますが、下五に「虹仰ぐ」としたのは独創的ですね。あのように輝く未来を遠望したこともあったよね、という思いが立ち上りますね。

お隣は三味線のある花筵       柳沢 初子

 筵敷きの花見の席で、中には大音量の音楽を傍若無人に流している迷惑行為をよく見かけますが、この句は「三味線」の音。花の景がぐっと和の色合いになって乙ですね。

文化の日鉄道連隊後架跡       矢野 忠男

「後架(こうか)」の元の意味は、禅寺で僧堂の後ろに架け渡して設けた洗面所、寺の後ろにあるので「ごか」ともいい、つまり便所のことですね。この句では「鉄道連隊」とありますから、戦争遺跡のことか、作者の実体験の回想の景でしょうか。それを「文化の日」の季語と取合せたことに、作者の批評意識を感じる句ですね。

雪解水を気罐車に入れ峠駅      山尾かづひろ

 見過ごしそうですが、今では「機関車」と書きますが、それを「気罐車」という昔風の表記にして、蒸気機関車の給水ポイント駅の定位置「峠駅」の景を、懐かしく表現しているのですね。

春日影穏やかなりし父母の墓     吉野 糸子

 墓石は無機物の石でできていますから、表情というものはありません。墓参に来た家族の心を投影した「穏やかなりし」という俳句的表現なのですね。

薫風や木樽の底を日に晒し      安齋 文則

 近くに味噌の造成所があるのでしょうか。味噌を使い切った後、丁寧に洗い清めて干してある光景でしょう。都会の真ん中ではない、環境のいい地方の町並みまで見える句ですね。

木の芽雨纏い庭木のきらきらし    磯部のり子

 下五は「キラキラす」などとしてしまいがちですが、ひらがなで柔らかく、また余韻のある「し」止めにした表現が効果的ですね。

緑濃し古地図のままの武家屋敷    大木 典子

 古地図を手に古都の散策を楽しんでいる景が浮びますね。町並みも道も昔のままだ、という発見には、一気にタイムスリップしたような一種の感慨がありますね。

たかんなの祠突きあぐ底力      大澤 游子

 昔はお堂や民家の庇を突き破って伸びる竹を見かけましたが、近年は稀ですね。この句は昔ながら「祠」の景で、町で大切にされている場所のようです。

開墾地いま馬鈴薯の花盛り      大本  尚

 北海道の見霽かす(みはるかす)広大な馬鈴薯畑の、白い花の景が見えます。その壮大さと同時に、その開墾にあたった人たちの苦難の歴史も偲ばれますね

とにかくに一個丸ごと西瓜買ふ    風見 照夫

 俳句では「とにかくに」という心象の直接表明的な表現は避ける傾向がありますが、この句はそれを冒頭にもってきて、何事かと思わせた結果が、西瓜買いの話だった、というユーモラスな効果を上げていますね。

石仏の百面相や青葉闇        金井 玲子

 大小さまざまのたくさんの石仏、同じように見えて、よく見ると一体一体、表情が違い、見ていて飽きませんね。

ポケットにバスの半券花疲れ     近藤 悦子

 「花疲れ」は花が咲き疲れているのではなく、花見をした人間の疲れですね。「バスの半券」へのクローズアップの表現が効果的で、その心地よい疲れ具合が伝わりますね。

飛鳥山都電の纏ふ飛花落花      坂本美千子

 東京都北区にある区立「飛鳥山公園」は桜の名所の一つですね。江戸時代享保年間に行楽地として整備され、明治六年(一八七三年)三月には日本最初の公園の一つに指定されました。旧渋沢家飛鳥山邸が位置しており、晩香廬と青淵文庫の建物は国の重要文化財に指定されています。今年の十月に「あすか俳句会」では吟行が計画されています。この句に詠まれている都電は、都電荒川線(東京さくらトラム)のことでしょう。公園には王子駅前停留場または飛鳥山停留場から下車徒歩三分の距離です。この句は「飛花落花」ですから、桜の季節の景ですね。 

戦塵の紛れ降るやも霾ぐもり     鴫原さき子

 ロシアのウクライナ侵攻の戦塵が、そのすぐ西南の砂漠の黄塵に混じっているかもしれない、そう詠んだだけの句ですが、そこに俳句的な「もの言わぬ批評性」が立ち上る表現ですね。

まづ座る亡夫が植えたる花の下    摂待 信子

 木蔭に椅子などを置いて座れるのですから、もう木蔭を作るほどの大きさになった花の樹でしょう。いっしょにそうして座り、亡き夫と花を見上げたことにまつわる、さまざまな思いがこみ上げていることでしょう。

船頭の白秋の童歌(うた)糸柳     高橋 国友

 「どんこ舟(柳川市の水路を巡る際に使用される舟)で長い竹ざおを操って進む景でしょうか。城跡の石垣や煉瓦の並倉(ならびぐら。)。船頭が歌った童謡は何でしょうか。柳川、船頭などの言葉が出てくる童謡は知りませんが、「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」などが思い浮かびます。柳川のことを短歌では「「色にして老木の柳のうちしだる 我が柳河の水の豊けさ」と詠んでいますね。

流行に距離置く暮し半夏生草     高橋みどり

 人によると思いますが、一般的に壮年期、老年期に入ると流行に疎くなる傾向がありますが、この句は意思をもってそのような「はやりもの」と距離をおく、静かで、地に足の着いた生き方をしようと決意している気持ちを感じますね。

更衣白また白の登校日        服部一燈子

 衣替えの制服が紺色系の冬服の色から、白の成分の多い制服に変わったのですね。その集団としての登校姿には、季節の変わり目を実感させる感慨がありますね。

畝たつる一ト鍬ごとに土匂ふ     宮坂 市子

 「あすかの会」俳句会で野木主宰特選になった句です。土とともにある暮らしの景が、実感を込めて詠まれていて、命の手応えが伝わりますね。

 

 「あすか集」八月号から 感銘好句

 

密やかに春ほどきたる蕗の薹     城戸 妙子

 「春ほどきたる」が秀逸ですね。他の言い方に換言できない独創性がありますね。

 

走り梅雨「ライトライン」の宇都宮  久住よね子

「ライトライン」は、宇都宮芳賀ライトレール線のことですね。下部が鮮やかな黄色で窓に続くボティ部は半透明でおしゃれなデザインの車体です。雨の中を颯爽と走っている姿が浮かびます。

茶香炉の感触すでに夏兆す      紺野 英子

 「茶香炉」はお茶を焚いて香りを楽しむ香炉ですね。素材は陶器・磁器・ ガラス製で、香りが立ち昇る小窓のデザインが多様で、それを観るのも楽しみの一つでしょう。

カーネーション母の居場所に飾り置く 齋藤 保子 

 この「母」はすでに他界されているようですね。「居場所」には、具体的な場所と、心の安住できる抽象的な「心の場」も含めて詠んだ句のようです。この句を鑑賞した読者がそれぞれにその「場」に思いを巡らせることでしょう。

卯の花やときをり動く猫の鼻     笹原 孝子

 飼猫をよく観察してできた句ですね。その切り取り方に愛情を感じる表現ですね。「卯の花」の和名の「空木 ウツギ」は、幹(茎)が中空であることからの命名といいます。花は卯月(旧暦四月)に咲くことから「卯の花」と呼ばれています。その小さな可憐な花を上五に置いたの効果的ですね。

軒に干す紅花高気圧来たる      須賀美代子

 紅造りをする農家か民家がある景ですね。「高気圧来たる」に、花弁がよく乾くことを願う気持ちが込められていますね。

権太坂に投込塚あり風五月      須貝 一青

 「権太坂」は横浜市 保土ケ谷区 にある旧東海道 の坂の名称で、 町名 の一つですね。「投込塚」は 難所のひとつと云われた権太坂で行き倒れた人々の亡骸が投げ込まれた井戸の跡に建立された「投込塚之跡」の石碑ことですね。人だけでなく、馬などの動物の遺骨も発掘されたそうです。

鮮やかや大志ある如夏の雲      鈴木  稔

 夏の雲といったら高く力強くみるみる盛り上がって、高く聳える入道雲、つまり積乱雲でしょう。そこに大志を抱く思いを投影した表現ですね。

日傘にもドレミの柄や港町      砂川ハルエ

 上五が「日傘にも」と「も」がついていますから、五線や音符マークが、他にも溢れている景がうかびますね。下五が「港町」ですから、楽隊と踊りで行進する港まつりの景が浮かびました。

ビニールハウス雨雨雨や青トマト   関澤満喜枝

 ビニールハウスの外は雨が降りしきっているようです。日照が足りず、トマトがなかなか赤く色づかないことを、案じているのでしょう。旱続きの雨不足も困りものですね。

中蔭の空を照らせよ沙羅の花     高野 静子

「中蔭」は仏教において生と死を繰り返し流転する過程を四有(四種の生存)に分けて、その前世の死の瞬間から次の世に生を受ける刹那までの時期までの幽体とでもいうべきもの、またはそのような状態である期間を指す仏教語ですね。この句ではその「空を照らせ」と、まるで現世が「中蔭」の最中であるような表現がされています。下五の「沙羅の花」は、釈迦入寂の「沙羅双樹」とは別の木の花ですが、そのイメージを喚起する言葉ですね。何か深い祈りのようなものを感じる句ですね。

一夜明け筍見上ぐる幼かな      高橋富佐子

 一夜のうちに、自分の背丈より遥かに高く伸びた筍を、幼児が驚いて見上げている表現にしたのが、効果的ですね。

シャボン玉悪心吐息つめこんで    滝浦 幹一

 シャボン玉の見た目の表現を詠む句はたくさんありますが、「悪心、吐息をつめこんで」とした表現には初めて出会い、新鮮に感じました。自分の中に積もりに積もった思いが籠った表現ですね。

車椅子の機嫌のままに日向ぼこ    忠内真須美

 自分の体調や気分ではなく「車椅子の機嫌」と、客観的な視座で詠んで、視野が広がりユーモラスな句調になりましたね。

慟哭かバリトンの声牛蛙       立澤  楓

 牛蛙の低音を男性の音域名で、中間の「バリトン」にして、まるでイタリアン・カンツォーネで、悲劇を歌っているように表現したのが独創的ですね。後の二つのテナーやバスはそぐわないですね。

蝸牛今日は誰に会いに行く      千田アヤメ

 蝸牛の、あの鈍(のろ)い歩みに、「誰に会いに行く」のと問いかけている表現がユーモラスですね。自問の言葉を鈍行の蝸牛に投影しているのでしょう。

通るたび茉莉花の香のそこにあり   坪井久美子

 茉莉花はマツリカまたアラビアジャスミンのことで、花は香りが強く、ジャスミン茶(茉莉花茶)などに使われていますね。ジャスミン茶は、マツリカの花冠で茶葉を着香します。またハーブオイルやお香などにも使われています。作者はこの香が好きのようです。 

命名の書を立て掛けて武者人形    中坪さち子

 武者人形と墨書の命名書は、男子の節句の二大セットですね。みなさん知っていることですが、それを句に詠んで、切り取るのが歌心ですね。

父の日に画く自画像祖父似かな    成田 眞啓

「あすか」誌上では「自像」となっていましたが、誤植だと思いますので「自画像」に改めて転記しました。祖父似は隔世遺伝でそれを誇らしく思っているのですね。この句の作者は自分で自画像を描ける絵心のある方のようです。

朗朗と詩吟の響き暖かし       西島しず子

「音吐朗朗」といって音声の明るく澄んでいるさまを表現することばがありますが、その「朗朗」ですね。そこに季節、気温、肉声の「暖かさ」を感じたのですね。

雨乞の三囲神社梅雨に入る      沼倉 新二

 三囲(みめぐり)神社は、東京都墨田区向島に在る神社ですね。宝井其角の句碑があり、宝井其角が雨乞いをする人に代わって詠んだとされる句で、翌日に雨が降ったことから、雨乞いの句と呼ばれています。「遊(ふ)た地やを見めくりのならば」と、五・七・五の冒頭に「ゆたか」の三字を織り込み豊作の祈りが込められています。この句はそれを踏まえて、下五の「梅雨に入る」を恵みの雨のように表現したのでしょう。

番傘を老僧いとしむ牡丹かな     乗松トシ子

 日常生活で使用される和傘には三種類ありますね。

シンプルで丈夫な雨傘の「番傘」。細身で装飾性のある雨傘の「蛇の目傘」。そして「日傘」。そんな日常使いの丈夫な「番傘」を「いとしんで」いるのが、僧侶だと詠んで、雨季の一つの景を表現した句ですね。牡丹の花が美しい傘のように感じる句ですね。

動物園私も見てと夏鴉        浜野  杏

 野性の鴉が動物園で飼われている動物たちのことを「見られる」ことを楽しんでいるかのように感じて、羨ましがっているかのような表現で、意表を突かれる句ですね。もちろん動物たちの真意は判りませんが、作者の思いの巧みな表現ですね。北海道の開拓地を題材にした他の三句も好句でした。

大銀杏結えぬ力士の五月場所     林  和子

 新入りの力士は髪がまだ伸びていなくて、大銀杏が結えないでいるのですね。その若々しくもまだ技も未熟な力士に、心から声援を送っているのでしょう。 

大柄な模様三つのあっぱっば     平野 信士

 通常「アッパッパ」とカタカナ表記しますが、この句では柔らかなひらがな書きにしたのが優雅な感じがしていいですね。大きめでゆったりとしたデザインが特徴で、一九二〇年代から一九三〇年代にかけて流行しました。一九二九年(昭和四年)の東京は、まるで今年のように猛暑であり、清涼着と名づけて売りに出されたアッパッパが流行しました。気候もがこの服の流行の原因になっているのですね。まだ和装の女性が多い時代です。佐藤愛子の著書『今は昔のこんなこと』の紹介で「女性解放の第一歩『アッパッパ』」と表現しています。元々は「くいだおれ」創業者の山田六郎の考案で、歩くと裾がパッパと広がることからついたという説があり、元は近畿地方での俗語だったのですね。この句では、「大柄な模様三つ」と表現して、清涼感がありますね

五月病Z世代の孤独感        曲尾 初生

 初生さんには、他に「少年のやさしき言葉若葉風」の句もあるように、この世代は心根が優しい傾向があるようで、それは今の世相と相容れない思いを抱いていることの裏返しではないか、という評を読んだことがあります。そのことをしっかり感じて句にしてあげる作者の心根はもっと優しいですね。

ほたるいか能登に光をはなちけり   幕田 涼代

 これは「光をはなちけり」という表現に、能登半島震災への励ましの句のように感じました。

難儀せし鳩の巣作り放り出す     増田 綾子

 下五の「放り出す」を読んで、えっ、ついに巣作りを諦めてしまったの? とびっくりしました。まるで人間の所作のように表現してユーモラスですね。

ねぢれ花モデルハウスの庭先に    水村 礼子

この句の「ねぢれ花(旧仮名遣い)」は漢字では、「捩花(ネジバナ)」と書き、別名にモジズリ(綟摺、盤龍参)があります。湿っていて日当たりの良い、背の低い草地に良く生育し、周りの草より高く伸びあがっているように咲いていますね。花色は通常桃色で、小さな花を多数細長い花茎に密着させるようにつけますが、その花が花茎の周りに螺旋状に並んで咲く「ねじれた花序」が和名の由来ですね。それが「モデルハウス」の、整地されたばかりの所にもう侵入して咲いていることに、逞しさを感じている句ですね。礼子さんの別の句「初夏の風一本道行く郵便夫」も好句でした。

背くらべ負けて見あげる立葵     緑川みどり

 人間同士の「背くらべ」かと思って読んでいたら、下五が季語の「立葵」と表現されていて新鮮でした。背の高いまっすぐに伸びた茎とひらひらとした薄い花びらの大きな花が美しく梅雨時から夏にかけて赤やピンクなど色とりどりの花を咲かせ、観賞用や薬として昔から親しまれてきました。

天道虫君の眼に写るもの       望月 都子

 天道虫の習性をよく観察した表現ですね。高いところを目指し、その頂上から飛翔します。その描写に加えて「君の眼に写るもの」と表現して、そのミクロの視界に写る広い世界へと読者を誘いますね。

薫風に乗りて嬰児生れ来る      保田  栄

 「薫風」は若葉繁る木々の香りを爽やかに運ぶ初夏のですね。思わず深呼吸したくなる香りに満ち南風で、新緑の間を通り抜けて吹く初夏の風ですね。その空気感の中での、新しい命を寿いでいる、すばらしい句ですね。 

競ひ合ひ空に万才白木蓮       安蔵けい子

 白木蓮の花が競い合ってバンザイをしているという表現は、童話的で微笑ましいですね。

難聴や妻より冴えて遠花火      内城 邦彦

 難聴は身体的な困難さのひとつですが、この句ではまるで、利点のように「冴えて」と表現して、気持ちまで明るくなりますね。下五の「遠花火」という、音の遠さの表現で結んだのも効果的ですね。 他の「父の日や座って居られぬ父の性」も好句でした。
旅の宿山椒味噌の懐かしき      大谷  巖

 今は余り自宅では食べなくなっていた山椒味噌が旅先の宿で出されて、記憶が蘇えったのでしょう。味覚や嗅覚には過去の記憶が宿っていますね。

菓子紙の万葉仮名や風薫る      大竹 久子

 和菓子の包装紙のデザインとして、万葉仮名が使われていることで、「風薫る」季節感を表現した巧みな句ですね。きっと万葉集の一首かもしれませんね。

青き時間始まつてゐる実梅かな    小川たか子

 思い切り冒頭で「青き時間」という抽象表現で、作者の実感の表明で始めて、まだ青い実梅の具象表現で結んだのが効果的ですね。他の「校庭は光の器夏燕」も好句でした。この二句でもうかがえるように、たか子さんは比喩の技が冴えていますね。

未だ見ぬ化粧せし母紅の花      小澤 民枝

 あまり外出もせず、お出掛けのおめかしもしない、質実であることを良しとされていたような、母親の心象表現でしょうか。そこに深い慕情がありますね。

ゆったりと一人厨に梅仕事      柏木喜代子

 日々の暮しの「しごと」の一つ、「梅仕事」ということばがいいですね。わたしの母も食事の準備のことを「食べごしらえ」などと言っていました。毎季節ごと、各家庭では梅を付けたり、味噌つくりの仕込みをしました。「ゆったりと一人厨に」という表現に、丁寧な日々の暮しぶりがうかがえる句ですね。

ランナーの後を追ふかに柳の芽    金子 きよ

 集団で傍を通過したランナー集団が起こした風に、しだれ柳が靡いている景が浮かびます。まさに一陣の風、という清涼感のある表現ですね。

聖五月ラ・カンパネラの鳴り止まず  神尾 優子

 カトリックでこの月を「聖母月」と呼ぶことから、「聖五月」という言葉が俳句でも使われるようになってきました。神聖な雰囲気を纏うことばですね。『ラ・カンパネラ』はフランツ・リストのピアノ曲で、パガニーニのバイオリン協奏曲第二番第三楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲した曲です。イタリア語で「鐘」という意味ですね。この句はまるでその鐘が鳴り響いているような表現ですね。

草叢ゆれ小さき空ゆれ夏来たる    木佐美照子

 草叢が風にそよいでいます。次の「小さき空」が謎めいていて、読者に想像を委ねて多様な読みへ誘っている表現ですね。草叢の潜む小さな生き物の目線で、草叢の隙間から覗いている空と解することもできるでしょう。あなたはどんな空を想像しますか。

 

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あすか塾 63      《野木メソッド》による鑑賞・批評 

2024-07-19 16:00:33 | あすか塾 2024年

         あすか塾 63             

                                                    《野木メソッド》による鑑賞・批評   

     

「ドッキリ(感性)」=感動の中心

「ハッキリ(知性)」=独自の視点

「スッキリ(悟性)」=普遍的な感慨へ

 

 

野木桃花主宰七月号「洗ひ髪」から

 

掌の貝にしんと暑さの鎮まれり

 この掌の中の貝は、生きている貝か、もう中身のない貝殻か、どちらに解してもいいでしょう。暑い夏の浜にあっても、生きている貝の手触りは、どこかひんやりしていますね。海の命の温度ですね。それを「しんと暑さの鎮まれり」とされた表現が素晴らしいですね。中身のない貝殻だと解した場合でも、その白化した貝殻にはかつて生きていたことの尊厳(鎮もり)のようなものを感じますね。

隠沼に生くもののこゑ牛蛙

隠沼(こもりぬ)は堤や人の立ち入らない茂みなどに囲まれている沼で、沼という字のせいで泥状の印象がありますが、意外に澄んだ水が幽かに流れていたりします。体の大きい牛蛙の鳴き声は「ブオー、ブオー」という牛に似たもので、和名の由来にもなっています。その声は数キロメートル離れていても聞こえることもあるといいます。隠沼と牛蛙を「生くもののこゑ」という中七で結んで詠んだ句で、ひっそりと、しかし強かに生きている証しを響かせている命のさまを捉えた表現ですね。

高みへと声振り絞り巣立鳥

 巣立ったばかりの小鳥が空の方を見上げるようにして高い声で鳴くさまを見ていると、これから自分の行動世界となる広い空への、憧憬と決意のようなものを感じてしまいます。それは人間の勝手な感情移入ですが、この句では、その様子を遠くから見守って応援しているような味わいがありますね。

この白き終の一花や牡丹寺

 寺の名前の通り、牡丹がたくさん植えられているようです。その花の盛りを詠まず、盛りを過ぎて最後に咲いた一輪にスポットを当てて詠まれていて詩情がありますね。

 

 「風韻集」七月号から 感銘秀句

 

春田道土にふれてはこゑをきく     宮坂市子

 農業を生業とする人ならではの日常的なしぐさでしょうが、土と生きる深い感慨のある句ですね。

 

ふる里の大地に足を黄水仙      村上チヨ子

 しっかり故郷の大地に根付いて生きている黄水仙に注ぐ作者の気持ちに、都会暮らしの自分は根無し草のようだなあ、という思いが感じられる句ですね。

 

霾ぐもり青きペンキで塗る扉     村田ひとみ

 黄砂によって視界が茶色っぽく霞んでいる中で、一際鮮やかなペンキ塗りの洋館風の青が、とても印象深く、そこだけ爽やかな空気が流れているようですね。

 

ひとつづつ暮しの窓の灯の朧      柳沢初子

 遠景で人家の窓のたくさんの灯を見たとき、その一つひとつに暮しがあるのだなーという感慨を湧くことがありますね。

 

鯉のぼりブルカをまとう母と子と    矢野忠男

 ブルカは伝統的にイスラム世界で用いられる女性用のヴェールの一種ですね。その異文化と鯉のぼりという和風の景の取り合わせに心が動きますね。

 

揺り椅子に岳父イニシャル百千鳥  山尾かづひろ

 岳父という古来のことばの響と、ローマ字のイニシャルの取り合わせが絶妙ですね。明治大正生まれの開化的なお舅様だったのでしょう

 

入所する姉と揃ひの春セーター     吉野糸子

 介護施設に入所される姉に寄り添うような表現がいいですね。

 

横浜や薔薇は離るる時匂ひ       安齋文則

 安齋さんは福島の方で、あすか賞を受賞されて横浜でのあすか年度大会に参加されました。そのときの句でしょうか、繊細な感性が冴えていますね。

 

春遅遅と少し傾く五輪塔       磯部のり子

 五輪塔の僅かな傾きと「春遅遅と」の上五の季語が、みごとに融和した表現ですね。

 

万歳のややこ春光握りしめ       稲葉晶子

 嬰児の掌は指がまだ真直ぐには伸びず、いつも軽く握ったような形をしています。それを「万歳」「春光握りしめ」と詠みました。愛情あふれる句ですね。

 

霾や詰襟の首こそばゆし        大木典子

 この感覚、実感として首すじに蘇りました。子供か孫の詰襟姿でしょうか。作者の愛情を感じる句ですね。

 

二人居て一人問答蜆汁         大澤游子

 夫婦間の景でしょか。自分の言葉に相手が反応する前に、自分で応えてしまったのでしょう。たまにあるそんな場面を切り取って、ユーモラスですね。無口な夫君の様子も想像されます。

 

蟠りさらりと乗せて花筏        大本 尚

 わだかまりを難しい漢字「蟠り」として、心の中にこだわりとなっている重苦しくいやな気分の塊のような感覚を表現。それを「さらり」と「流す」のではなく、花筏に乗せるという、どこか手の込んだ、意外に屈折した表現の技が冴えていますね。花筏は順調には流れないで、あちこちに澱みながら流れてゆきますから、逡巡しているような雰囲気がありますね。

 

山吹や亡妻との対話軽やかに      風見照夫

 すでに他界されている妻との会話は、つまり独り言ということになりますが、それを「軽やかに」と表現されると、作者が呑みこんでいる思いの深さが、逆に読者の胸に迫りますね。

 

海光を集めてひらく黄水仙       加藤 健

 海の色を集めて咲いた、という表現が独創的でいいですね。

 

観音の御手に夕映え初桜        金井玲子

 観音様の、上げた方の手だけに、夕陽が消え残っている瞬間を表現して、それを初桜と取合せて、何か神々しさを感じる句ですね。

 

蓄音機に波打つ声や春暖炉       近藤悦子

 レコードの声の波の表現で、春暖炉の暖かい空気感を捉えた句だと解せます。同時に年月の経ったレコード盤が少し歪んでいて、その年月の声の揺れとも解せる句ですね。

 

官女雛夜の帳に筆を執る       坂本美千子

 雛飾りのある部屋か、それが見える自分の机がある部屋でしょうか。俳句の構想を練っているのでしょう。官女の役目の一つに書の読み聞かせや代筆がありました。その雰囲気も立ち上る表現ですね。

 

太郎冠者余寒の板を踏み鳴らす    鴫原さき子

 狂言の舞台のまだ余寒の残る練習風景のようですね。板の独特の響と「余寒」の取り合わせが冴えていますね。太郎冠者は狂言の役柄の一つで、大名または主に対し従者として登場します。一般に主人より才気があり、知恵、行動力などにおいて主人をしのぐ者として演じられることもあります。従者が二人または三人の場合、中心となる者を太郎冠者、二番目を次郎冠者、三番目を三郎冠者といいます。慣用句として太郎冠者みたいというと、滑稽な、また、まぬけな様子をした者をさす意味で使われます。この句にはそんなユーモラスな雰囲気もありますね。

 

山畑の雨水溜りは蝌蚪の国       摂待信子

 こんな小さな水溜りに蝌蚪が、という発見と感嘆の句ですね。「山畑の雨水」という自然の中の小さな命たちに寄り添う表現ですね。

 

卒業証書サリーの裾を翻し       高橋光友

 留学生の指導者である作者の、やさしい眼差しを感じる句ですね。サリーは世界で最も美しい民族衣装と言われ、鮮やかな色彩の長い布を巧みに巻きつけて、美しいシルエットを作り出す衣装ですね。場が華やいだことでしょう。

 

初夏やひかりにことば見失ふ     高橋みどり

 初夏の若緑の光溢れる景の美しさに、ことばを失ったのですね。ことばは無力だという失望感ではなく、その圧倒的な感動の方に気持ちがある表現ですね。

 

代掻きや眩しき水面追いかけて    服部一燈子

 水面を追いかけているのは、もちろん、代掻きをしている人ですが、句の言葉としては書いていない「光」が見えます。光同士が追いかけっこをしているような煌めきを感じる句ですね。

 

 「あすか集」七月号から 感銘好句

 

たんぽぽや色はいろいろランドセル  木佐美照子

 たんぽぽは白一色ですが、軽やかに空に舞う軽快さを感じますね。その感覚を色とりどりの、跳ねるようなランドセル姿の子どもたちに負わせた巧みな表現ですね。

 

春コート車内の空気軽やかに      城戸妙子

 春コートの纏う軽やかな雰囲気、重い冬のコートとの対比を読者に想起させる巧みな表現ですね。

 

葉桜の中の青空豊かなり       久住よね子
 
写真のフレーム効果のように、緑の葉桜の重なりによって切り取られた空の青が煌めくようですね。

 

陽のぬくみ土のぬくみの竹落葉     紺野英子

 同語反復のリズムで、そこを歩いているような、暖かみのある表現ですね。

 

山吹や武士に差し出す花一輪      斉藤 勲

「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」(兼明親王)の和歌を踏まえた句ですね。

その和歌に因む太田道灌のエピソードで、道灌が鷹狩りの折、雨に降られ、蓑を借りようと民家に立ち寄ったところ、少女に山吹の花を手渡されて、その意を汲めず道灌は立腹して雨の中を帰ってしまいます。少女の真意は、山吹の花は七重八重と開くが、実はひとつとしてなることがないという和歌の知識を踏まえて、その「実の」を「蓑」にかけて、すみませんがお貸しできる蓑がないので、とても悲しいです、という言外の意味を込めた応答だったのですね。後日、近臣にその意を諭され、己の不勉強を恥じ、歌に目覚めたといいます。その逸話を踏まえた句ですね。

 

今年また桜詠みたしバスの旅      齋藤保子

 毎年、家族や友人とバス旅行で桜を観にゆくのが慣例になっているのでしょうか。そういう物心ともにゆとりがあることが貴重な日々であることを、改めて噛みしめている句ですね。

 

子の文字の「入室禁止」青嵐      笹原孝子

 成長期の、自我の目覚めた頃の、子供たちの行為としてよくあることですが、親としては拒絶されたような気持ちにもなりますね。下五の「青嵐」が成長の証のような効果がありますね。

 

この庭のどこが住処か青蜥蜴     須賀美代子

 確かにその営巣の場所はわが庭には違いなのだが、それを突き止めるのは困難ですね。それを大らかにゆるしているような句ですね。

 

薄味の母の作りし木の芽和え      須貝一青

 母も妻もない今、市販のものか、自分で作ってみたものの味との比較で、つくづく、その絶妙な「薄味」の美味しさが恋しく感じられているのですね。

 

新品の白靴で行く陶器市        鈴木 稔

 自分の行為のようでもあり、愛妻の行為のことのようでもありますが、何か改まった気持ちで、陶器を見に行こうとしているのでしょう。

 

宍道湖の大粒そろふ蜆汁       砂川ハルエ

 島根旅行で本場の蜆汁を味わった感動を詠んだ句ですね。どうか環境汚染の影響を受けず、その貴重な蜆がいつまでも採れますように。

 

窓閉めてなお夜蛙の沸騰す      関澤満喜枝

 下五の「沸騰す」がいいですね。私の姉がかつて住んでいた所が田の近くで、夜、眠れないほどの大合唱を聞いたことがあり、まさに「沸騰す」でした。

 

子午線を日のわたりゆく仏生会     高野静子

 人工衛星から俯瞰したような景の大きい句ですね。子午線をお日様が跨いでいくという表現ですね。

仏生会は釈迦が誕生したといわれる四月八日、すべての仏寺で行われる法会で、日本では花御堂の中央におく水盤の中で、小さい金銅の誕生仏の像の頭上に甘茶を灌ぐ祭り。元来はインド仏教徒の言い伝えで、釈迦は四方に周行すること七歩、左手をあげて天を指し、右手を下げて地を指し、天上天下唯我独尊と叫んだという,いわゆる八相成道(はちそうじようどう)の説があり、これを仏教徒共同の祭りとしたことに由来するそうです。子午線、仏生会を取合せて神秘的で壮大な句に仕立てましたね。

 

菜の花に埋もれて蝶と化す朝     高橋富佐子

 自然と一体化したような気持ちを比喩的に詠んだすばらしい句ですね。

 

剪定やおもひの違ふ人と木と      滝浦幹一

 剪定する人間と、される側の「おもひの違ふ」という視点に、植物の方の痛みに思いを寄せた、作者の優しさが顕われている句ですね。

 

花冷えやこわれそうなる昼の月    忠内真須美

 花冷えを、消えてしまいそうな昼の月の薄さに喩えたのが、独創的ですね。

 

どの人もスマホかざして薔薇公園    立澤 楓

 人々の行為に少し批判的なまなざしを感じる句ですね。撮ることと、鑑賞することは本質的に違う行為のように感じているようで、同感です。

 

春泥のしがみつきたる靴の底     千田アヤメ

 春泥の擬人化の表現は、初めて読みました。跳ねて裾を汚す泥が、なにやら可愛らしく感じられます。

 

花見頃洗濯物のよく乾き       坪井久美子

 空が晴れて、空気がからっと乾いた爽やかな花見どきの爽快感が素直に表現された句ですね。

 

だぶだぶの制服見せ来入学児     中坪さち子

「だぶだぶの制服」だけだったら、大人の目線でながめているだけになりますが、それを「見せ来」という行為の表現にして、作者のやさしい眼差しが前面に出る表現になりましたね。

 

ひとり居やかざらぬ庭の著我の花    成田眞啓

 著我の花は、人里近くで見かけることのできるありふれた花の一つですね。素朴な可憐さがあり、和風の庭によく合う雰囲気を持っています。この句はそれを「かざらぬ」と一言で表現しました。一人居を慰めてくれる花ですね。

 

朧夜や座敷童の話聞く        西島しず子

 座敷童伝承のある屋敷か町で、その伝承話を聞いたのでしょうか。「朧夜」がその雰囲気にぴったりですね。

 

外つ人の捩り鉢巻三社祭        沼倉新二

 わたしも一度だけ三社祭を見に行ったことがありますが、外国人が多く見物していて、人気があることがよく解りました。この句は見ているだけでなく参加している景ですね。

 

をさなごのひしやくあやふし花まつり 乗松トシ子

 大人の真似をしてか、勧められてなのか、子どもには大きすぎる柄杓で甘茶を小さな仏像に注ごうとしている手つきを、はらはらしながら温かい眼差しで見守っている景が浮かびますね。因みに「花まつり」は祖先神で農事神でもある山の神を祀る際、花が一種の依代として用いられることから、花で神や祖先を祀る民間習俗に仏教行事の灌仏会が習合して「花まつり」になったものですね。

 

高齢化手足切られし桜かな       浜野 杏

 老木の桜の大きい枝が剪定されているのを見かけますね。高齢になって手足が不自由になってきた自分と重ねて感情移入している句で、胸に沁みますね。

 

余呉の湖羽衣伝説緑濃く        林 和子

 余呉湖(よごのうみ)は、滋賀県長浜市にある湖。「大江」(琵琶湖)に対して「伊香小江(いかごのおえ)と称されたほか、湖面が穏やかなことから「鏡湖」とも呼ばれていますね。羽衣伝説の像が湖畔にありますが、こんな伝承があります。昔、近江国余呉の湖に、織女が降りて水浴びをしていると、土地の男が通りかかり、脱いであった天の衣を隠してしまった。織女は天に帰れず、やがて男の妻になった。織女は子供を産んだのちも、天に帰りたい気持ちは失せず、声を忍んで泣いていた。男が出掛けている間に、子どもが父の隠した天の衣を母に渡したので、織女は喜び、衣をまとって飛んでいった。「私はこういう身だから、簡単には遭えないが七月七日はこの湖で水遊びをしましょう。その日なら会えますよ。」そう母は子どもに泣きながら約束したという話ですね。織女、すなわち織姫が水浴びを行っていたのが余呉湖だったわけです。余呉湖の羽衣伝説と銀河の織女伝説は、この地でこのように繋がっていたのですね。

 

粋で売り粋で買うなり夜店かな     平野信士

 夜店はお祭り気分の特別な雰囲気がありますね。その楽しげな景が浮かぶ句ですね。

 

カラフルなランドセル背に入学児    曲尾初生

 昔は赤と黒しかなかったランドセルですが、最近は色も形も多用なランドセルを見かけるようになりました。それが朝の登校時に勢ぞろいしているさまは華やかですね。

 

ざぶざぶと朝の洗濯水温む       幕田涼代

 洗濯機は年中稼働していますが、「水温む」季節にはその音まで違って聞こえます。この句はまるで手洗いをしているような音を感じますね。

 

花重し風に踏ん張る八重桜       増田綾子

 一重ではなく、花弁が多重に重なって咲く八重桜の枝は、その重みで少し垂れて見えます。「風に踏ん張る」と擬人化したような表現で、その質量感が伝わりますね。

 

園児らは豆画伯なり薔薇公園      水村礼子

 園児たちが薔薇公園で写生をしているようです。中には大人顔まけの技量の子がいたりして、思わず足を止めて見入ったのでしょうか。

 

桃色の月見草とやあどけなし     緑川みどり

 桃色の月見草もあるのでしょうか。見たことはありませんが、「あどけない」と作者は感じたようです。見てみたいですね。

 

馬酔木の花白き鈴の音響きあふ     望月都子

 馬酔木の花は白い鈴が、まさに「鈴生り」状態で咲きますね。余談ですが、その可憐さとは裏腹に「馬酔木」と書き、葉に有毒成分が含まれることから、馬が葉を食べると毒に当たって苦しみ、酔ってふらつくようになる木というところから「馬酔木」と書くようになったそうです。酔うのは鈴の音だけにしておきましょう。

 

芽吹かんと光あつめて老大樹     安蔵けい子

 もう枯れたのか、と思わせる様子の老大樹が、思いがけず芽吹いていたのですね。それを寿ぐように「光あつめて」と表現したのがいいですね。まるで陽光が声援を送っているかのようです。

 

母乳飲むやうに縋りて岩清水      内城邦彦

 手をかける取っ掛かりの凹凸がある岩の、その岩肌を流れる岩清水なのでしょう。まるで嬰児が母乳を飲むような気持ちで喉を潤したという感慨の句ですね。

 

陽炎や火の見櫓のねじれおり      大谷 巌

 垂直のものがゆらゆら揺れて歪んで見えるほどの、熱気の中の陽炎ですね。熱気が伝わります。

 

木洩れ日を煌めかしつつ若楓      大竹久子

 若楓ですから葉の茂りがまだ密ではなく、木洩れ日の面積が大きいのでしょう。それを「煌めかしつつ」と表現したのがいいですね。※「煌めかしつつ」は「煌めかせつつ」が正しい言い方ですね。

 

点綴の早苗そよぐをまだ知らず    小川たか子

 「点綴」は「てんてつ」また「てんせつ」と読み、

一つ一つを綴り合わせること、または物がほどよく散らばっているさまを表わす言葉ですね。早苗の状態をこういう言葉で表現して、教養がありますね。苗がまだ小さくと風にもそよがないでいる愛らしさが見えます。

 

母の日や児らの持ち寄る貯金箱     小澤民枝

 仲の良い母子の姿が浮かぶ句ですね。兄弟姉妹が多いと結構な額になるでしょうが、さて、どんなものを贈って祝ってくれたのでしょう。

 

休ませていた糠味噌にまず胡瓜    柏木喜代子

 糠味噌は生きていますので、酷使すると疲れるので休ませよう、という擬人化した表現がいいですね。

 

師の筆の「敬天愛人」卒業す       金子きよ

 書道の漢字の四字熟語の手本はたくさんありますが、作者は師の書くその「啓天愛人」が、師の人柄が滲み出ているようで大好きだったのですね。

この言葉は漢詩や箴言ではなく、明治時代の啓蒙思想家、中村正直の造語で、キリスト教の「神」を儒教の「天」によって理解しようと試みた言葉だそうです。西郷隆盛の「南洲翁遺訓」にも出てくる言葉です。次はその抜粋です。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

(現代語訳)

「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」

さみどりや祝いの膳に初蕨        神尾優子

 初蕨を「さみどり」と、その色合いで愛でているような表現がいいですね。

 

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