あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾  2020年度 Ⅰ 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会

2020-01-25 10:47:05 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
あすか塾  2020年度 Ⅰ 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会

「あすか塾」13  (2020年 令和2年)2月
         
◎ 「風韻集」2020年2月号掲載句より 

〇 野木桃花主宰句

一灯にこもり推敲の冬の雷
一部屋に時計が二つ初仕事


 二句とも数詞が効果的に使われた句ですね。一句目、「一灯にこもり」という集中している緊張感と、作者の心の中が「冬の雷」で象徴的に表現されていますね。火花を散らして一語一語と格闘しているかのようです。二句目、同時進行で別々の時の計測が不可欠な「初仕事」をしているのでしょう。どんな仕事だろうと読者に考えさせますね。  

〇 同人句

心身に浮力を得たり柿日和                     白石文男
 柿が色づきはじめる秋のさわやかな空気感を「心身に浮力を得たり」と、あえて物理学的用語で表現したところが斬新ですね。

だれか吹く口笛芒の風となる                    摂待信子
 誰が吹いているのかわからない口笛という表現にしたことで、その幻聴かとも思わせる音色が芒を揺らす風になっている表現が、鮮やかに心に迫ります。

クリスマス音符混み合ふ街の角                  高橋みどり
 通常は車の音、警笛、横断歩道の誘導音、有線放送のコマーシャルや音楽など雑然とした音に溢れている街角が、イブの少し前の日々から、弾むようなクリスマスソングが割り込んできて、主導権を取ってしまう音風景に一変します。その雰囲気を「音符混み合ふ」と的確に描き出した詩的表現力ですね。

散り際のさらりと早き冬紅葉                  長谷川嘉代子
「早き」ですから、「速さ」=スピード感ではなく、時の流れの表現ですね。それを形容するのに「さらりと」としたのが新鮮ですね。人事とは無関係に淡々と過行く時、大自然はそれに従って変容してゆきます。はらはらと淀みも感じさせない「散り際」に、人の心を動かす力がありますね。飯田蛇笏の「折り取りてはらりと重き芒かな」の「はらりと重き」という表現に匹敵する技です。

刈り取りを終へて残るや藪虱                   服部一燈子
 誰が「藪虱」なんていう呼称をこの花に付けたのでしょうね。小さな可憐な花を咲かせるのに。小さな実になったとき、楕円球体の表面にびっしりつく棘のせいで、人の衣服に纏いつくのが嫌がられて「虱」に譬えられてしまったのでしょうか。作者の視線には厭うている感じはなく、その場所にその可憐な花を発見したという気持ちが感じられます。畑の端や道端に咲く花へのわけへだてなき慈愛すら感じます。   

百年はいのちの時間大花野                     星 利生
 星利生さんはいつも、複雑で抽象的な心情、観念を具象化して表現するのが上手ですね。「百年はいのちの時間」という表現は、時空を投網にかけたような表現です。しっかり下五の「大花野」という具象で受けて、その主題に読者を誘います。人間だけではないあらゆる地上の命たちの「百年」は、まさに生存の在り様へと誘う表現です。この星の百年後は…、命たちに明日はあるのか…というような命題が立ち上がってきます。
   
高原の日色おどりぬ草紅葉                    本多やすな
「草紅葉」の草原全体をそめる鮮やかな色。それを「高原の日色」と表現して、特別な感慨を引き起こす句ですね。

星飛んで荒野に一つ灯をともす                  丸笠芙美子
 実景と解しても構わない句でしょうが、丸笠芙美子さんはいつも文学的な表現をする人ですから、「星」と「荒野」は、作者の心情の比喩、または心象描写と解する方が、深みが増しますね。とするとこの「灯」は希望の微かな指標でしょうか。
 
素朴なる言葉変わらず忘年会                    三須民恵
 変わらないでいることに、嬉しさ、懐かしさを感じている句と解するのが自然な句でしょうね。常に交流のある人たちとの「忘年会」では、あまり起こらない特別な感慨ではないでしょうか。自分は今、まったく違う境遇にあることを感じますから、遠く離れた出身地の同窓会的な雰囲気を感じます。

月仰ぐ記憶まざまざ母の膝                     宮坂市子
 特別な匂が過去の思い出を鮮烈に蘇らせることがあります。特定の場所だったり、過去に自分がした行為と、偶然同じことをしたときなどにも、ふっと記憶が蘇ることがあります。この句の場合は「月」と「母の膝」だったのですね。「母の膝」に頭を預けて月を見上げている構図が浮かびます。

神の里白を舞いきる秋の蝶                     矢野忠男
「神の里」と呼ばれる神聖な地で白い蝶を見かけた場面ですね。「白を舞いきる」が、その地の神聖さを体現しているような表現ですね。

参道をぽんと照らして花八ツ手                 山尾かづひろ
この一月号の「あすか」誌の表2のページに、偶然ですが野木桃花主宰の「花八ツ手ぽんぽんぽんと晴れ渡る」という句が掲載されて、小倉さんの切絵、高橋さんの「余韻のつぶやき」という詩とコラボされています。山尾かづひろさんの「花八ツ手」も、光のさまを「ぽん」というオノマトペで表現して、まるで、そのコラボに参加しているようです。野木主宰の「ぽんぽんぽん」は擬態語ふうで、山尾さんの「ぽん」は擬音語ふうで、それぞれ面白いですね。

鬼の子と故山の風に吹かれ居り                   渡辺秀雄
「鬼の子」は蓑虫のことで、「枕草子」に「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ」とあることがこの呼称の起点だと言われています。「故山」とは故郷の山、または故郷を指す言葉ですね。この二つの古語的表現でしみじみとした趣がでますね。
 
あかとんぼ一才と指立てし子に                  磯部のり子
 二つの行為の微妙な「目的」とのずれが読み込まれて、楽しく微笑ましい句ですね。一歳児はまだ数の概念はなく、「おいくつ」という大人の問いに反射的に指を一本立てることを覚えたばかりに過ぎないでしょう。その指に竿や枝先と同じような「休憩」場所を見出して「あかとんぼ」が止まろうとしています。

枯れいそぐ鷺の孤独は立ちしまま                 伊藤ユキ子
 冬枯れを急ぐような荒涼とした景のただ中に、ぽつんと佇む鷺の姿が目に浮かびます。孤独に一羽佇んでいるとは言わず、「鷺の孤独は立ちしまま」と詠んだところが、文学的で俳句的な切れ味のいい表現になっていますね。

考えに考え抜いて榠樝の実                     稲葉晶子
「なぜ」という問いには答えない句ですね。伝統俳句だったら不完全な句として指導されてしまうでしょう。「あすか」は新傾向系の会派の流れを汲む会派ですから、こういう表現も尊重されています。「榠樝」自身が「考え抜いた挙句、この実となった」と解釈すると面白い読みになりますが、もちろん別の解釈もあるでしょう。生食には向かず加工して薬用的な使われ方をする実ですから、それに添った解釈をするのが無難ではありますが。

横須賀が母港の空母鰯雲                      大木典子
 軍港、横須賀港を吟行されたときの句でしょうか。掲載五句とも軍艦の五様態を多角的に詠まれています。批判的な眼差しを感じる表現をされている句もありますが、掲句がもっとも訴求力がありました。寄港ではなく、ここを「母港」としているのだという思いの表現に深みがありますね。

晩秋の風が磨きぬ鬼瓦                       大澤游子
「風が磨きぬ」という表現で、長い間、そこにあったという時の厚みが感じられる表現ですね。

コンビナート闇に夜寒の灯を放つ                  大本 尚
 海上から見るコンビナートは光の城のような、一種、息をのむ美しさです。人工的な美ですので、人間的な温かみが排除されたような美です。「夜寒の灯を放つ」という言葉で、それを見事に表現されていますね。

黄落や灯りの溶ける石畳                      奥村安代
「石畳」のある景ですから城下町のような古都か、歴史ある港町などの景でしょう。アスコン舗装の道は光を吸い込むか、反射するだけで、この句のような味わいはないでしょう。「黄落」期の黄色い銀杏の葉が路上を染める時期ならではの夜の景ですね。

停泊の灯りの揺るる野分後                     加藤和夫
「停泊」ですから港の舟の灯りでしょう。下五の「野分後」という言葉で、この景がただの描写ではなく、その季節の中の佇まいが浮かび上がってきますね。台風の余波で停泊中の船体と灯りが揺れているのでしょう。

星飛んで波の音聴く裏通り                     加藤 健
 先ず流星をたまたま目撃して、感覚が研ぎ澄まされたのでしょう。今度は聴覚に波の音が迫り、下五で場所が「裏通り」であることが明かされます。読者がその順番にそって自分の感覚を蘇らせる効果がありますね。

川の名をたびたび聞けり台風裡                  坂本美千子
 何故、川の名を念を押すように訊ねているのかと思っていると、「台風裡」と明かされます。子規の「いくたびも雪の深さをたずねけり」の念押しより、切迫感があります。たぶん、警戒限度を上回る水量の地区の放送を聞いているのでしょう。

こおろぎの余命の一夜かもしれぬ                 鴫原さき子
 こんな主題を詠ませたら、鴫原さき子さんの右に出る人はいないでしょう。秋の夜の冷え込みの深まりを、人間中心的な観点からの詠嘆表現はあっても、「こおろぎの余命」という、汎生命的視野で思いを寄せた句には初めて出会いました。


第9回 あすかの会 令和2年1月24日  
《 兼題 なし/○主宰選 ◇武良選 》

○ 主宰特選
群青の空あるかぎりゆりかもめ                 奥山安代 
「あるかぎり」は二通りに解せますね。空の広さを全部という意味合いと、この空が在る限りという限界の意味合いです。前者はのびのびとした自由感を伴う読みになり、後者は失われつつ大切なものという思いが背後に滲みます。後者の読みをすると上五の「群青」という音韻が「今生の」という切ない祈りの響きも連想させて、見事な表現ですね。描写的で心情表現でもある「あすか会」らしい句です。                 

◇ 武良特選
冬の濤老いは正面より来る                  鴫原さき子
 冬の波濤の荒々しさ、避けがたさが「正面より」という表現にぴったりで、しっかりした描写的表現にもなっていますね。「老い」も避けがたく万人に訪れるもの。主題と表現に隙のないみごとな表現ですね。
     
☆彡 ☆彡 ☆彡

奥村安代
〇◇うすうすと身ぬちの風を聞く寒夜                
◇ 裸木の影を濃く濃く地動説 

 一句目、隙間風のオノマトペだったら「スース―する」ですが、そこはかとない心の隙間感だと「うすうすと」がぴったりですね。「身ぬちの風を」の「見ぬち」という言葉もぴったりですね。「の」ではなく「身ぬちに」にしてみたら、元からあったのではなく、今、それに気づいたという感じがもっと出るのではないでしょうか。
二句目は下五の「地動説」が新鮮ですね。「天動説」が信じられていた時代、人間は直接的な感覚に忠実に生きていました。落葉した冬木の寒々感、その影の「濃さ」、太陽の動きに添って地を移動する影。どう見ても「天動説」の方が感覚にぴったりくる情況です。それを敢えて「地動説」と表現して、地球の自転感覚を大地と一体化して、自分の中に呼び覚ましている表現ですね。                  

鴫原さき子
◇ 絶筆の賀状に余白なかりけり                 
  寒夕焼忘我の一瞬ありにけり

 一句目。似た主題の、私の「存命を報せる賀状の墨黒く」と比べて遥かにいい句ですね。この賀状をくれた人はその後亡くなったということが読み取れる表現ですね。その訃報を胸に改めて見ると「余白」のない書面と息遣いが、しみじみと感じられたよ、という感慨が込み上げたのでしょう。読者もその感慨に道連れにされます。二句目。夕焼がいちばん美しい季節は大気が乾燥した冬です。あの黄色い光から濃く暗い赤へのグラデーションの美しさは人工では出せない、本物の自然のものです。それを真の辺りにすると、本当に言葉と我を失います。都会暮らしの人間はそんな無我の時間を無くして暮らしています。一日に一回、無理なら週に一回でもいい、そんな思いをして命を洗濯して、自然感覚を取り戻した方がいいですね。
                  
高橋みどり
◇ 凍星や生あるものに在る余命                 
花の種どれも欲しくて春隣                  
枯芝を大きく使ひ兄妹

 一句目。描写造形俳句ではなく、発見的な真理と向き合う箴言俳句ですね。文句なし「そうだよねー」と共感できる強度を獲得する詠法です。そう簡単にできる句ではありませんね。二句目、春咲きの花の種を撒く準備をしているのでしょう。種選びに来てどれにしようか迷っています。そういわずに「どれも欲しくて」としたのがこの句の命ですね。三句目、「大きく使ひ」がいいですね。育ち盛りの子供の動きがしだいに大きくなってきているさまを慈愛溢れることばで表現しました。                    

宮坂市子 
〇 寒風に身の腑抜かれしごと帰る                 
初雪や無垢なる光踏み惑ふ               
湯舟ごと寒夕焼の大玻璃戸

一句目、「身の腑抜かれしごと」の比喩が斬新で強度がありますね。二句目、「無垢なる光」と改めて表現されると初雪の混じり気のない美しさが際立ちますね。上五が「や」で切れて、光で体現止めになっていますから、「や」を「の」にして続けた方が、調べが整うのではないでしょうか。三句目、最初は屋外の野天風呂の景かと思っていると、夕焼にキラキラ輝く玻璃戸の中に誘われて、お湯ごと体も煌めいているような景に一変して楽しい句ですね。 
                  
大木典子
釣舟の舳先揃へし北風(きた)の中                   
都鳥鷗の群れと交わらず                   
寒紅や母の一字の墨滲む

 一句目、しっかりした観察眼が光る句ですね。ただ表現が伝統俳句派の「写生」的になっているのが惜しいですね。「釣船は舳先を揃え北風の中」とすると描写的になり、典子さんの感動のポイントも強調できるのではないでしょうか。二句目、これも観察眼が光る句ですね。「交わらず」という表現で句の主題が明確に立ち上がっています。読者がいろんな思いに駆られる、いい表現ですね。三句目、「母の一字」の解釈を巡って、句会ではいろいろな読み方が出ました。字のことなら「母という字の」とすると分かり易いですね。                   

金井玲子
〇 図書室の熱き静寂や受験生                   
  室咲の葉先に朝の一雫                     
稜線を落ち行く夕日枯木立

 一句目、図書室に来て受験勉強をしている子供たちの、集中力でヒートアップしている頭脳の熱気と、張りつめた静けさを見事に表現した句ですね。二句目、路地栽培ではなく温室や、自宅の静かな室内の植物のようすを「葉先に朝の一雫」と的確に表現してあります。この語順が成功している句ですね。三句目、最初に「稜線を」とあるので水平に近いシルエットが浮かびます。「落ち行く夕日」で垂直の動きに誘われ、最後の「枯木立」で、点景としてピタリと留める表現がみごとです。                   
  
近藤悦子
空っ風いぶりがっこの皺よぢれ
冬の暮静寂かたまる楽屋裏                   
疲れゐし列島こぞりて初明り

 一句目、「いぶりがっこ」とは、漬物として使う干し大根が凍ってしまうのを防ぐために、大根を囲炉裏の上に吊るして燻し、米ぬかで漬け込んだ雪国秋田の伝統的な漬物ですね。秋田の方言で漬物のことを「がっこ」と呼ぶことからその名がつけられたそうです。上五の「空っ風」と下五の「皺よぢれ」で挟み込んだ表現で、それを作る労働の集積の分厚さも感じる句ですね。二句目、最初は「楽屋裏のかたまる静寂冬の暮」という少し説明調でしたが、みなさんの的確な評で、この形に整いました。会の添削力も上達してきていますね。三句目、上五の「疲れゐし」が説明的ですね。中七と下五はいい表現なので推敲されるといいと思います。
                  
砂川ハルエ
まる窓は悟りの窓や春近し                    
蠟梅は福を呼ぶ色里辿る                   
庭の実ののこり少なや春を待つ

 一句目、「まる窓」の円の形に「悟り」という解脱や成就感を感じる詩情が素敵ですね。中七はストレートに「悟りの形」と言ってしまった方がいいのではないでしょうか。二句目、「呼ぶ」「辿る」と二つの動詞がせめぎ合って窮屈になっていますので、下五を「里の色」と名詞止めリフレイン詠法にするか、「蠟梅や福を呼びゐる里の色」としたらでどうでしょうか。三句目は「庭の実」を具体的な木の実の名前にした方が、残り少なくなっている情況もはっきりするのではないでしょうか。三句とも独自の着眼点と詩情がありますので、もう一工夫されるといいですね。

丸笠芙美子               
〇 冬の星闇の隙間を埋めてゆく
しぐるるや海と陸との分岐点                 
寒晴や空に飛び立つモノレール

 一句目、冬の夜の深まりゆく星空をうまく捉えた句ですね。闇が深くなるほど星の数と輝きが増してゆくのですね。二句目、下五が「分岐線」だと説明的ですが、「点」に凝縮させたことで、作者の思いが立ち上がり、主題が明確になっていますね。三句目、俳句の比喩は「ように」とか「ごと」というより、その比喩を現実のように詠む方が効果的だというセオリー通りの表現で成功していますね。

山尾かづひろ
◇ 死に下手の病上手で鏡餅                  
あとがきは奪衣婆預け返り花                
すぐ消える雪けつまつ言はぬ予告編

 一句目、諧謔味のある表現がいいですね。「死に上手」が先にきてインパクトがありますが、それを中七が一気に緩和して、本当は深刻かも知れない情況を明るく笑っているような雰囲気に誘われます。二句目、「奪衣婆」(だつえば)は、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼のことですね。葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言います。
多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれています。こういう普段あまり使われなくなった歴史ある言葉を、果敢に俳句にとりこもうとする山尾さんの創作熱意には脱帽です。ただ「あとがき」と「預け」の意味が曖昧で、どういう主題なのか、合評会で解釈が多様に別れましたので、工夫の余地がありますね。三句目、主題は明確で、みなさんが納得した句でしたが、もっと短く機知に富んだ表現にできるのではという意見がでました。例えば次のようにするのはどうでしょう。「予告編結末かくして雪溶けて」、一案です。            

稲塚のりを 
探梅や駅弁のカラ持ち帰る                  
調剤はジェネリックと決め懐手                
真っ白のマフラーの鼻赤くして

 一句目、団塊世代以上の年齢の人には自然に身についているマナー行動でしょうか。観梅ではなく「探梅」で、まだ訪れる人が少ない時期のゴミ籠などの迎える方の体制が整っていない早い時期の梅見ですね。二句目、常に療養中の身である人の感慨ですね。ジェネリックの意味を知らない人はいないかと思いますが、元々の語義は「一般的であること」「共通していること」「一般名」「総称」という意味ですか、医療分野で、新薬の特許期間の切れた後に、他社が製造する新薬と同一成分の薬のことを指します。効能、用法、用量も新薬と同じで開発費がかからないため価格が安い薬のことです。三句目、意味的には「マフラー」で切れて、「鼻赤くして」と別の意味文節に移るわけですが、それを「マフラーの鼻」と「の」で繋ぐことで、すらりと全身のようすが立ち上がる表現になっていますね。厳しい寒さが見えます。
                
大本 尚
たちまちに日の道通る初景色                  
雪しんしん無心になりきれぬ窓辺                
悴むやキーンと歯科のドリル音

 大本尚さんは敢えて常套句的な言い回しを使った表現をしています。句会でも「たちまちに」「しんしん」「キーン」という語を巡って常套句的でありきたり過ぎないかという感想が寄せられました。尚さんは「自分の実感ではどうしてもそうなんです」と応えて泰然としています。浮ついた言葉を丁寧に排除して、自分の心身の底から実感的に立ち上がるものに言葉を与えようとする作句姿勢が、その言葉に表れています。試しにこの三つの言葉を他の言葉に入れ替えてみましょう。すると、どんな言葉も浮ついてしまうことが解ります。そこで私たちはこの言葉が熟思黙考の上、選択されたことに思い至り、初めてこの句たちの「良さ」に気が付くのです。              
   
白石文男
日脚伸ぶ象の鼻てふ船着き場                  
船どうし挨拶交はす四温晴                   
茶柱を浮かべる湯呑春隣

 海の諸相を詠ませたら白石文男さんに敵う人はいません。「象の鼻」という場所を「日脚伸ぶ」という季語で表現したり、軽い汽笛を交わし合ってすれ違う船どうしの姿を「四温晴」という温かみのある季語で表現したり、三句目などは偶然立った「茶柱」を「湯呑」が暖かく包んでいるようすを「春隣」という季語で表現しています。さりげない句に仕上がっていますが、並みの技でできる表現ではないですね。                    

石坂晴夫
〇 寒明忌大和行脚に三千里                    
寒暁に舫解く海人沖が呼ぶ                  
寒月や狼吼えて兎追ふ

 一句目、「寒明忌」とは河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の忌日ですね。一八七三年二月二六日生、一九三七年二月一日没。寒い二月に生まれて亡くなっているんですね。愛媛県松山出身で高濱虚子と共に正岡子規に入門、やがて子規門の双璧となりますが、のちに虚子と対立し袂を分かちます。新傾向俳句や自由律など様々な表現に挑み、表現の可能性を果敢に広げてゆきました。当時は多くの共感者、賛同者が全国的に広がり、俳句界を席巻する勢いでしたが、それを虚子のように巧に組織して門弟を広げることには無頓着でしたので、安定した有季定型を基本とする慣習的作句法提唱の虚子の勢力に逆転されてしまいます。どんな時代も先進派は多数派になることはない運命にありますが、そういう進取の志のないところに、俳句の発展も覚束ないのではないでしょうか。代表作と言われる句を揚げます。

赤い椿白い椿と落ちにけり     (有季定型)「写生」ではなく動的描写
蕎麦白き道すがらなり観音寺      〃
春寒し水田の上の根なし雲       〃
牡蠣殻や磯に久しき岩一つ       〃
ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く  (自由律)
ひるの酒さめて戻る土筆のあれば土筆つむ      〃
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ     (「我」以外の視点の導入)
網から投げ出された太刀魚が躍つて砂を噛んだ    〃


 さて、石坂晴夫さんの「寒明忌大和行脚に三千里」。新傾向俳句の流れを汲む「あすか」の主宰の野木主宰がこれを採らないわけにはゆきません。野木先生は「大和」では奈良京都の古都に引き付けられて狭くなりますね」と評されました。
  寒明忌全国行脚の三千里
 こうしたらどうでしょう。「に」は説明的ですから、「の」で繋げた方がいいように思います二句目と三句目は両方とも動詞を二つ使って混み合った表現になっていますので、どちらかを体言にして一つの動詞に焦点を絞ると、もっといい句になると思います。推敲例をあげておきます。これもまだ推敲の余地がありそうですが。
  舫解く海人に寒暁沖の色
  寒月の狼声獲物を追ふ森に
                   
坂本美千子
嚏して噂話の過去となり                   
考ふる人となりたる七日かな                  
綿虫の来て門を閉づ児童館    
              
一句目、最初は「噂話」を「女人の噂」としていて、「女人」にいろんな読みが出ましたが、こう直せば主題が明確になりますね。二句目は「人日」の正月の季語を意識した句だそうです。もっとロダンの彫刻の形へ寄せた表現をするか、「考えてばかり」を強調するのならリフレイン詠法で「考へる考ふる人の七日かな」としたらどうでしょうか。(注 活用形は連体形だけが「ふ」で、後は「へ」ですね)三句目、このままだと、「綿虫」が室内に入るのを嫌がって門を閉めたような読後感を与えますので、お母さんが「綿虫」ごと、あるいは「綿虫」を引き連れて子供を迎えに来たというような景にした方がいいのではないでしょうか。美千子さんもその場面を詠んだつもりだったそうです。


   ※   ※

〇野木桃花主宰の句

てのひらに一粒の種春を待つ
風花やのそりと伸びる象の鼻
着ぶくれて夕凪の沖見つめをり

 一句目、「春待ち」感のあるいい句ですね。作者が春を待っていると同時に、種自身が春を待っているような表現ですね。二句目、この「象の鼻」は横浜の船着き場のことですね。それを本物の象のように「のそり」と伸びていると表現されています。「風花」の舞う中の景色です。三句目、「夕凪」の景に足を止めているさまを詠み、そこで沸き起こる感慨は読者各自に委ねた句ですね。「着ぶくれて」の季語がその助けになっています。私は初めて見る景色ではない歴史の厚みを思いました。

□武良竜彦の句

別れとは胸に棲むこと除夜の鐘
存命を報せる賀状の墨黒く
書初の令和の和の字みないびつ

 一句目と二句目には票が入り、共感してくださった方がいたようです。でも、先にも書きましたが、二句目は鴫原さんの「絶筆の賀状に余白なかりけり」には及びません。三句目は実体験を詠んで、言外に「和」とは程遠い世相批判を滲ませたのですが、「書初」が付き過ぎでは、という評がありました。その通りですね。
 
※      ※


「あすか塾」12  (2020年 令和2年)1月
         
◎ 「風韻集」2019年12月号掲載句より 

〇 野木桃花主宰句

  小春日やひと日の空を使ひきる

「ひと日の空を使ひきる」。あまさず使い尽くす。この表現で一時も無駄にせず充実した生活をおくる人の矜持のようなものまで感じられる句ですね。「時間を」としたら理屈、説明になってしまいます。それを「ひと日の空」と、空間的な広大さの表現にしているところが、この句の命ですね。

〇 同人句

  学名はカムイサウルス星月夜                 鴫原さき子

「カムイサウルス」とは、日本の北海道むかわ町穂別地区の白亜紀後期のかつては海だった地層で発見されたハドロサウルス科ハドロサウルス亜科エドモントサウルス族の恐竜のこと。発掘された化石自体はむかわ竜(むかわりゅう)の名で親しまれていたが、新種の恐竜だと認定されて「カムイサウルス・ジャポニクス」と言う学名が付けられた。「カムイ」はアイヌ語で「神」。「カムイサウルス・ジャポニクス」は「神のトカゲ」という意味になる。太古の「蜥蜴」も時が経てば神になる。

  稲光海の巖松立ち上がる                    白石文男

「巖松」は大きな岩の上に根を張って生えている松。天から海に向かって枝別れするように走る雷光に対して、その光に「巖松」が島の岩場から天に向かって枝を広げる姿が浮かびあがる。天と地の一瞬の交歓のダイナミックな姿ですね。

  草紅葉リフトの影を曳きずれり                 摂待信子

 一面の草紅葉の斜面にリフトの動く影を詠んだ句ですが、こう表現することで、場面が生き生きと立ち上がってきて、作者の気持ちが滲みますね。まるで一本一本は小さな「草紅葉」たちが、手渡しで小さなリフトを上へ上へとバトンを渡すように曳きずり上げているかのようです。

  初霜に命失う畑かな                     服部一燈子   
 
 冷害のうちの霜の被害にあった畑の作物の姿を詠んだ句でしょうか。ずばり「命失う」と言い切った表現に、訴求力があり、はっとさせられますね。

  呼応して夕蜩の持ち時間                    星 利生

 都市化が進んだ町界隈の蟬は、夜も鳴くようになったそうですが、蟬は普通、夜は鳴きません。まず「夕蜩」と表現されているので、日没までの短い時間のことを思い浮かべます。蟬自身の地上生活の短さも想起されます。しかし上五の「呼応して」が何との「呼応」だろうと思い始めると、やはり作者が自分の人生感と「呼応」しているように感じているように読めて、味わい深くなりますね。

  きざはしの先は紅葉の中に消ゆ                本多やすな

「きざはし」は「階」と書き、高床の屋内と外を繋ぐ短い階段のことですから、この句はそんな建物の中から外を見ている景だと思われます。ですから本当は短い距離ですが「紅葉の中に消ゆ」という表現で、空間的な長さより時間の長さ、つまりゆったりとした季節の移り変わりまで感じさせますね。

  星飛ぶや海の向かうに戦火あり                丸笠芙美子

 流れ星のことを上五で「星飛ぶや」として、吉兆ではなく凶兆の予感を漂わせているのが見事ですね。世界のいたるところで戦争は続いている。それもそう遠くはない近さに迫っているような緊迫感があり、平和ぼけ日本を揺さぶる表現ですね。

  新米のむすびむすんで幸は手に                 三須民恵

 下五の「幸は手に」が効いていますね。身体感覚に引き寄せた幸福感、喜びが直に伝わります。わらべうたのように「むすびむすんで」としたリズムもいいですね。

  蟋蟀のこゑうち外の闇つなぐ                  宮坂市子

「こゑ」「うち外」「つなぐ」のひらがなの使い方が秀逸。恐怖の「闇」ではなく、しんとした秋の深まりゆく「闇」の雰囲気が、まるごと捉えられていますね。

  どんぐりの艶をくらべて乙女の瞳                矢野忠男

 過疎化とは無縁の充実した村里の、秋の空気感漂う五句が並んでいる中の一句です。どの句を取り上げてもよかったのですが、団栗の可愛らしい丸い艶と、それを比べっこしている女児の円らな瞳で、それを象徴した句を選出しました。

  焼玉の秋を上りし小名木川                 山尾かづひろ

語義的には「焼玉」と言えば二つあって、一つは銅製の球に火薬を込め、火をつけて敵中に投じるもので、炮録火矢 (ほうろくびや) の類、つまり武器ですね、もう一つは「焼き玉機関」、またそれが生み出す動力で動くもののことで、一時代、舟に多く用いられました。そのことを知る人はもう少ないでしょう。下五が「小名木川」で、江東区を横断するように東西一直線に伸びた運河ですから、やはりここは舟に積まれた「焼き玉機関」のことでしょう。「秋を上りし」という言葉で運河を進む舟の音と姿が浮かびます。

無住寺の闇に闇呼ぶ鉦叩                    渡辺秀雄

 鴫原さき子さんは「鉦叩星を数えているらしき」と詠みましたが、この句では無人の寺の闇を濃くする表現がされています。「無住寺」とは単に「無人」であることだけを意味せず、人口減少問題が背景にある重い言葉ですね。日本全国には七万七千の寺院があり、そのうちの二万以上が無住寺化しているそうです。「地方消滅」の危機が話題に上る世相を思えば、この句の「闇」の深さは深刻です。

  十六夜や客三人の一輌車                   磯部のり子

 五句中、四句が数字を使った巧みな表現がされていて、この句はその中でも特に冴えています。「十六夜」はいざよいの月といって、満月の翌晩の月の出がやや遅くなるのを、月が「いさよう」、つまりためらっていると見立てたもの。客の「三人」も絶妙な人数で、二人以下だと寂寥感が増してしまいます。その三人が載っているのが一輌だけの電車という、地方でしか見られない趣。

  赤とんぼ子供は棒で空叩く                  伊藤ユキ子

 拾った棒切れを意味なく振り回してしまう子供の無心の動作。男の子によく見かける景。それを「空叩く」と空間の広がりの表現にしたのが見事ですね。

  炎天の歩み不確か原爆忌                    稲葉晶子

 いろんな「読み」が可能な句ですね。実景だとする解釈の一つは、広島を訪れている人を照らす真夏の強い日差しの景、もう一つは、場所は関係なく、強い日差しに原爆禍に思いを馳せていると読む場合。もう一つは「歩み」を暗喩だと解して、その後の核軍縮の進まない情況を憂えている句だとも読めますね。このように言葉の一義的な意味だけで完結しない、多様な含意のある句もいいですね、

  禅林に入るを拒まぬ蝉の声                   大木典子
   
「禅林」は禅定(ぜんじょう)を修する寺、または古くは寺の呼称でもあり、またはその寺にすむ僧のことも指します。禅定は思いを静め、心を明らかにして真正の理を悟るための修行法で、精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること。六波羅蜜の一つです。そのことを踏まえると、ただ観光で禅寺を訪れている以上の意味が立ち上がる句ですね。発心して禅の道に入ろうとしている人を、「蝉の声」が励ますように降ってきているように感じます。

  大花野人生午後の洗濯日                    大澤游子

 「大花野」の景にこころが洗われる思いがしたのでしょう、そのように言ってしまえば、ただの感慨の説明になります。「人生午後の洗濯日」とすれば文学表現になります。「人生の洗濯」の間に「午後」を入れたのがこの句の命ですね。

  一陣の風の色足す櫨もみぢ                   大本 尚

 櫨は鮮やかな朱色に紅葉して、秋を実感させてくれる代表的な樹ですね。大本尚さんは一瞬の空気感の変化を捉えるのがうまいですね。一陣の風で少し色が濃くなった気がするというようには、なかなか表現できません。「雨あがり木犀の香の真直ぐに」という句もありますが、同じ高感度の感性ですね。

  鯔飛んで船腹聳り立つ空母                   奥村安代

 実際に「鯔」が跳ねたのを見た実景かどうかは問題にならない、表現の強度がありますね。空母の理不尽さを感じさせる巨大さが際立つ表現です。そんなものが港に鎮座していることに、複雑な思いが滲みます。

  小鳥来る軍港巡りの観光船                   加藤和夫

 上五の「小鳥来る」は、季語として読むだけでもいいですが、巨大な軍艦の係留する「軍港」をめぐる「観光船」の小ささに意識が向かう句ですね。渡り鳥の小鳥の飛来を意味する季語ですが、平和の象徴のような意味合いも帯びますから、戦争のための船との対比感も、自ずと察してしまう句ですね。作者は「横須賀は日本の夜明け水澄めり」とも詠んでいますので、もともとは「軍港」としての役目だけの港ではなかったのだ、という思いもあるのでしょう。

  原子炉をかかへし空母秋深む                  加藤 健

横須賀港に係留されている空母は、実は原子力発電所でもあるという認識は、一般の人にはあまりないでしょう。あまりそれへの批判意識などにじませず、こうさらりと詠むことで、逆に複雑な思いが立ち上がります。

 万年筆の先は金色太閤記                   坂本美千子 

 面白い句ですね。「太閤忌」は豊臣秀吉の忌日で陰暦八月十八日。金の茶室などなんでも金で飾り立てることが好きだったと伝えられています。権威の発揚意識からでしょう。しかし知的な作業を支える万年筆の「金」はそのしなやかさから得られる書き心地から材質的に選択された結果ですね。その対比が愉快です。
  

第9回 あすかの会 令和1年12月24日  
《 兼題 (零・団)  ○主宰選 ◇武良選 》

○ 主宰特選

受けし恩零さじと抱くシクラメン                  大木典子

 兼題の「零」を使った句ですね。原句では「抱き」でしたが、合評で「抱く」の終止形がいいというアドバイスがあり、典子さんも同意した「抱く」で掲載しました。「抱き」だと動きの先に意識が言ってしまうので、終止形で切った方がご恩をしっかり胸に受けている感じになっていいですね。恩師の人柄が忍ばれる佳句ですね。

◇ 武良特選
  
補助輪を外し木枯迎へ撃つ                    乗松トシ子

「あすかの会」初参加での受賞の快挙です。合評では下五の「迎へ撃つ」が子供の表現にしては少し強すぎないか、という意見もありましたが、私はそのオーバー気味の表現に敢えてして、ユーモラスな雰囲気の中で、幼児の一大チャレンジの瞬間を見守っている人の、視線の温かさが感じられる句になっていると感じて、選ばせていただきました。解説は要らないと思いますが、それまで三輪車に乗っていた子供が、二輪デビューした景ですね。子供にとっては一大冒険だと思いますよ。

【高得点句順】

〇 青白き絶対零度冬の月                    丸笠芙美子

 兼題の「零」を使った句。「絶対零度」という言葉を「冬の月」の凍てつくような光の表現に使って斬新でした。

〇 哭いてゐる午前零時の冬の海                 丸笠芙美子
 

 これも兼題「零」を使った丸笠さんの句で主宰選の句です。今度は時間の「零時」に使っています。中七の具体的な時を示す「午前零時」が効いていますね。上五の「哭いてゐる」は少し説明的ではという評もありますが、いざみんなで推敲してみても、上五のこの言葉が容易には変更できない微妙なところで収まっていて、このままの方がいいという意見になりました。

◇ 行き先を決めぬ鈍行冬帽子                  高橋みどり

 自由題の句ですね。下五「冬帽子」で防寒の身支度していることが伝わりますが、何か決心してのことではなく、上五で「行き先を決めぬ」と詠われていて、自由気儘な時間に身を委ねようとしている旅であることが表現されています。そう思って読み返すと、言葉にはされていない別の心情が立ち上がってくる句ですね。何かと拘束感の付きまとう日々の暮らしからの解放の思いが滲みます。

悴みて零すつり銭朝の市                      宮坂市子

 兼題「零」を使った句ですね。「朝市」の刺すような冷気が伝わる句ですね。合評会では上五の「悴みて」が「零す」の説明になっているので、別の表現にした方がもっといい句になるのではという意見がありました。「つり銭」を渡しているのか、受け取っている側なのか、具体的に感じられたらいいような気がします。

燻製の匂ひ零るる枯野宿                      近藤悦子

 兼題「零」を使った句ですね。「燻製の匂ひ」は具体的でさまざまな景が浮かびますが、「漂う」ではなく「零るる」で豊かな食に纏わる景が浮かびます。下五「枯野宿」で、静かな田舎の一軒宿の風情が漂います。

天翔けて地に零れたる龍の玉                   坂本美千子

兼題の「零」を使った句ですね。蛇の髯の実、または竜の髯の実という植物の実を、その名付けの元となった幻想の動物の「龍の玉」のイメ―ジそのままに、その玉が天を飛んできてここに零れていると詠んだ句ですね。コバルト色の輝きに相応しい表現ですね。

〇 枯蟷螂の眼途方に暮れており                 鴫原さき子

自由題の句ですね。「蟷螂」が「枯れる」のは、秋から初冬にかけて、野山の植物が枯れてゆくに従って枯葉色の保護色に変身するためですね。同時にしだいに生気もなくなりやがて死に至る過程の一様態でもあります。でもそのことを「蟷螂」が自覚しているわけではないですね。人間は自分の死を自覚したとき「途方に暮れて」いますが、自然の命たちは、本当は「途方に暮れたり」はしないと思います。作者の心境の巧みな投影表現ですね。


◇ 団栗に児の手の湿りいとほしむ                 宮坂市子

 兼題の「団」を「団栗」として使った句ですね。合評では下五の「いとほしむ」は言い過ぎていて、もったいないので、別の表現にした方がもっといいのでは、という意見がでました。「いとほしむ」と言わず、その思いを具象的に表現する方が、もちろんいいのですが、私は、ここはもう素朴に、ストレートにこう言い切った方がいいように感じました。「団栗」という具象表現で、つい先ほどまで握りしめていた「手の湿り」が残っている、と上五、中七で間接的に児の存在感を表現していますから、下五の「いとほしむ」の直情表現と、充分釣り合っている表現のように感じました。

◇ わが影に寄り添ふひと日小春空                 奥山安代

 自由題の句ですね。再帰的隠し主語の使い方をして、主語を揺らしている句ですね。普通俳句の主語は省略された「わたし」です。私以外のものが明確に主語になっている表現では、それを見て表現している「わたし」の存在が前提になるのが俳句的表現です。この句では「わが影に寄り添」っているのは、省略された「わたし」ということになりますが、最初から直訳的にそう解すると、かすかな違和感が発生します。そこで読み手は「寄り添」っているのは、「ひと日」という時間の擬人化・主格化されたものと解したくなります。そう解することで、詩情が立ち上がることを感じ取ります。「小春空」の冬の短い昼間という時間が「私の影」(存在)に「寄り添」ってくれたと解して、そこでまた改めて、再帰代名詞(マイセルフ)的に「わたし」の隠し主語へと戻ってゆきます。時間とともに影の方向を変えてめぐるように、「わたし」もその「ひと日」に寄り添ってしみじみ噛みしめてみたことだった…という地点に再帰して落ち着くわけです。みごとな技ですね。

水底に光る貝殻冬日和                       白石文男

 自由題の句ですね。濁っている水では「水底に光る貝殻」を見つけることはできません。おだやかに澄んだ波の打ち寄せる浜辺、渚の景であることがわかりますね。当然、そうやっていられる「冬日和」の暖かさまで伝わってくる句です。見つめているのが回想や魚ではなく「貝殻」であることにも趣がありますね。

〇 薄ら日の零れて光る龍の玉                   大本 尚

 兼題の「零」を「零れる」という言葉に使った句ですね。今回は「龍の玉」で尚さんと、美千子さんが句を詠んでいます。美千子さんは伝説の「龍」の「玉」のイメージを借りた表現でしたが、尚さんのこの句は繊細な「薄ら日」の日差しの「零れる」中に、そっと「龍の玉」を置く表現をしています。そうすることで「薄ら日」の「零れる」冬という季節感を、みごとに句の中に立ち上げています。静かに定まっている作風なので、一読したときインパクトが少ないので、句会ではあまり点が入りませんが、主宰がよく好んで採っているように、実のある表現とはこういう句のことをいうのだと、いつも思います。

小夜時雨傘を零るる仄明り                     金井玲子

「小夜時雨」で暗い夜道だと分ります。「傘を零」れているのは雨粒ですが、下五に「仄明り」にかかってゆくので、一瞬、「仄明り」が零れているようにも感じさせて、趣がありますね。

無住寺に仄と零るる石蕗あかり                   石坂晴夫

 「無住寺」とは寂れた様子だけを表現するためではなく、人口減と過疎化で田舎の寺に住職がいない所が増えているという、社会問題を背景にした句でもあります。「仄と零」れているのは、お寺の明かりではなくて、路傍の「石蕗明かり」なのです。

◇ 土に惚れ青菜を買うて冬日和                 砂川ハルエ

 上五に「土に惚れ」とあると、その後、耕したり、作物を栽培している表現に続くのかなと予想します。「青菜を買うて」と消費者の立場からの表現だったと、肩透かしにあいますが、上五の余韻があるおかけで、「惚れた土」で採れた「青菜」への好感が乗り移ります。「冬日和」の下五できちっと完結した句ですね。

◇ 湯気を吹く鉄瓶座敷童居るか                 坂本美千子

 南部鉄瓶から湯気が上がっています。松籟のような静寂感のある音がしているのでしょう。「座敷童」という語を中七と下五を跨ぐようにしていることも、下五が字余りでリズムを乱していることも、効果を増していますね。

◇ ルーペ手にのぞく古文書冬館                  近藤悦子

 下五の「冬館」でどっしりと受けて終わっているのがいいですね。「ルーペ」という探求の象徴のような言葉で始めたのも、効果的です。

〇 波の間に聖夜のあの日零れ行く                 金井玲子

 俳句の中で不用意に指示語を使うと説明的になります。また内容が不鮮明になって失敗することが多いのですが、この句の場合は成功している例ですね。その上の「聖夜」が特別な言葉だからですね。年毎にめぐり来る聖なる夜の中の、「あの一度だけの特別な時」が、今は浜辺に佇んでいる「わたし」の前の「波の間」に、甦っては砕けて零れてゆく…。読者はそれぞれの思いをここに寄せるでしょう。





〇 野木桃花主宰の句

煤逃げの一団が来て地酒酌む

 兼題の「団」を使った句ですね。「煤逃げ」という季語は、いまや「煤払い」という暮の行事の実感のない住宅暮しの中で、あまり使う人を見かけなくなりました。説明は要らないと思いますが、「煤籠(すすごもり)」の子季語で、新年を迎えるにため一年の煤を払うとき、その仕事の出来ない老人や子供、病人などが邪魔にならないように、また埃をさけるために別室に籠ることを指す季語です。でも子季語の方の「煤逃げ」の方を使うと、暮のそんな掃除仕事を嫌がって逃げているようなユーモラスな語感が生じます。それを「一団」という団体行動に膨らませてありますから、笑いの度合いが増しますね。そしてこの人たちが何をしているかと言えば、悠々と「地酒」を酌み交わしているのです。(笑)

極月の山ふところに日を零す

 こちらは兼題の「零」を使った句ですね。「零す」の主語はこのまま読めば、「日」ということになりますが、すると「日が日を零す」ということになって、通常「日差しが零れる」という、自然にそうなるという通常の言い方との間に違和感が生じます。それは意図的にされていることで、自然に日差しが零れているのではなく、お日様が能動的に日を零していることを強調する表現ですね。冬の日差しの真直ぐ「山ふところ」に差し込んでくる様を表現するに相応しい詠み方ですね。
また「零す」の主語は「日」ではないと解する読み方もできます。そうすると特定されない何かが「山ふところに日を」零していることになります。大自然がそうしていると解すると趣が深まります。主語を揺らす二重の仕掛けのある句ですね。

□ 武良竜彦の句

零墨の記憶透かして返り花

 兼題の「零」を「零墨」として使った句です。「零墨」とは墨で書いた古文書の切れ端のことで、「透かして」という和紙のイメージを借りた遠い記憶の不鮮明さを表現したつもりですが、その意味が難しかったこともあり、みなさんに伝わる訴求力に欠けていたようで、無得点句に終わりました。(反省)  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あすか」年度大会 告知

2020-01-01 14:55:08 | 年度大会 告知
     「あすか」創刊60周年 記念祝賀会 告知

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする