あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾 2022年度 ⑵

2022-04-03 10:47:43 | あすかの会 2020(令和2)年度


1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」4月)   


◎ 野木桃花主宰句(「梅二月」より・「あすか」二〇二二年三月号)
立春の光の中へ六○○号
よき夢に目覚め初音を遠く聴く
白梅の風を呼び込む躙口
さへづりや能楽堂の照り翳り
墨痕の滲む書届く夕桜

【鑑賞例】
 一句目、「あすか」誌の記念号への主宰としての寿ぎの句ですね。継承と継続の感慨を同人・句友と分かち合う気持ちが溢れていますね。二句目は鶯の初音という早春の象徴と、目覚めの気分を取合せ、爽やかな朝が詠み込まれました。三句目、「躙口」は草庵茶室における客の出入り口で、その狭い所から白梅の香りを含む風がさわやかに吹き込んでくるのを「呼び込む」と能動的に表現されていますね。四句目、各地にたくさんありますが、この句では横浜の能楽堂でしょうか。大きな急勾配の屋根を持つ独特の美しい建物ですね。広い敷地の緑に囲まれて建っています。その「照り翳り」と「さえずり」の音響が厳かですね。五句目、親交のある方の中に毛筆で書状をくださる方がいらっしゃるようです。達筆の「墨痕」鮮やかな書面なのでしょう。下五に添えられた「夕桜」にはその書状を受け取った作者の心が表れていますね。

〇 武良竜彦の一月詠(参考)
新巻や空也のあばら骨の色
地は揺れて黒煙一月十七日

(自解)(参考)
一句目 空也(くうや)は、平安時代中期の僧。ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏を初めて実践したとされ、浄土教・念仏信仰の先駆者。世俗の者に念仏信仰を弘めた上人です。東京国立博物館で、口から六体の阿弥陀仏が出ている空也上人像が公開されます。その痩身から新巻鮭の骨を連想して、その苦行を偲ぶ句にしました。二句目、一月十七日は阪神・淡路大震災が起った日で、湾岸戦争の開戦日。戦後日本人の災害や戦争観に大きな変化を与えた大事件でした。 

2「あすか塾」38  2022年4月
  
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」三月号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。  
   
                      
確かなる沖の一線冬鴎                高橋みどり
 普通の言葉で水平線と言ってしまわず、「確かなる沖の一線」と、噛みしめるような言葉で表現することで、特別な詩情が立ち上がりますね。その近景上空に描いた「冬鴎」も効いていますね。

雲ありて天地人まで初茜                              服部一燈子
 上五の上向きの視線から「天地人」と地上におりてくる順番の表現が効果的ですね。視界全域が茜色に染まっている壮大な景が浮かびます。

初句会ここは私の指定席                              本多やすな
 同じ心境で作句に向かい合っている方も多く、共感を呼ぶ句でしょう。「指定席」ということばに暖かみを感じますね。

凍蝶を胸に飼ふ夜のしじまかな                          丸笠芙美子
 一見、写生句のように見えますが、芙美子さん流の心象造形表現の句で、心に沁みますね。                     

枯枝の触れあう姿気兼ねして                           三須 民恵   
枯枝どうしが乱暴に触れ合うと相手を傷つけるのでは、と案じている擬人化表現ですね。作者の他者に向きあう優しい姿勢がうかがえる句ですね。 

佇めばわれも一木枯木立                              宮坂 市子
 市子さんのずしんとくるような「存在感の表現俳句」は益々深みを増してきていますね。

富士を背に青首大根ひとならび                          村上チヨ子
 高い富士山の遠景と、畑の大根という近景。青首の色彩、一並びという形状が効果的ですね。 

冬うらら弥生の美女のイヤリング                         柳沢 初子
 弥生時代の美女のリアルな容姿は、本当はわかりません。でも土偶のおおらかな表現に、何か心身が解放されるような心象を受けた表現であることが伝わりますね。

去年今年青年僧のスニーカー                           矢野 忠男
裸木を風に梳かせてうつた姫                            〃

 一句目、今時だなー、という共感する人が多い句だと思います。二句目、「うつた姫」は冬をつかさどる姫。春の「佐保姫」、夏の「つつ姫」秋の「龍田姫」、「あすか」の同人の方は。この季節を司る季語を上手に使って句を詠まれている方が多くて感心しています。。

いまさらに出世稲荷や寒詣                           山尾かづひろ
 日本各地にある出世稲荷は、その神社ごとに由来が異なるようですが、ご利益は開運出世・商売繁昌・営業繁栄・農耕開拓・身体安全・病気平癒・子授安産・漁業安全・受験合格・縁談成就など共通しているようです。この句はどこのものでしょうか。上五の「いまさらに」がユーモラスですね。          

初笑児のなでている爺頭                             吉野 糸子
 家中が明るくなるような表現ですね。無邪気な子供が遠慮もなく爺の禿頭を撫でて面白がっているようすが目に浮かびます。                        

赤門に銀杏散る夜反戦歌                             渡辺 秀雄
 これは60年代から70年代の作者の青春時代の回想句でしょうか。今のキャンパスではこういう景が見られなくなって久しいですね。どこか白けムード漂う今の世相が逆に怖いですね。

纏いたる銀杏黄葉や陶土小屋                           磯部のりこ
肋骨のごと洗いたる障子かな                             〃

 一句目、上五の擬人的な「纏たる」が効いていますね。窯変によって彩が顕れる陶器を予告しているような表現ですね。二句目、上五の「肋骨のごと」という擬人的な表現が体感的で効果的ですね。

青の香に弾む牧草ロール捲き                           伊藤ユキ子
 上五の「青の香」という簡潔な表現が、その後の弾むような牧草ロールの景にぴったりですね。

合掌の翅小刻みに冬の蝶                             稲葉 晶子
 小さな命への祈りのような眼差しを感じる表現の句ですね。

着膨れて二言三言ききもらす                           大木 典子
 他人の言葉を聞き洩らしたのにはいろいろな原因があるはずですね。それを「着膨れて」いたのが原因だと、俳諧的に断言するとユーモラスな表現になりますね。                         

暮れ初めし風を研ぎ出す冬木立                          大澤 游子
 中七の「風を研ぎ出す」が秀逸ですね。厳しい冬の景が体感的に迫ってきます。

悴むや最終バスの赤ランプ                            大本  尚
 バスの紅いテールランプには、どこか寂し気な詩情がありますね。詩人がこうして表現することで、初めて読者と共有できる普遍的な詩情となる、というお手本のような句ですね。 

重きもの脱ぎたる一樹風花す                           奥村 安代
榾ほろと崩れてよりの本音かな                            〃

 一句目、枯木のようになった冬の樹のさびし気な景を、解放感へと鮮やかに転換する表現が見事ですね。二句目、焚火を複数の人が囲んでいる景でしょうか。その熱の温まり加減に、心の状態を投影した効果的な表現ですね。
 
干支七度横浜(はま)に暮して初御空                            加藤  健
 掛け算すると84回目の自分の干支の年ということですね。そう表現することで、一年一年を噛みしめるようにして生きてきた、というような感慨の表現になりますね。場所の横浜(はま)が効いています。

楷の木の大地を抱え冬に入る                             金井 玲子
照り翳る武士の墓冬の鵙                               〃
一句目、「楷の木」はウルシ科カイノキ属の落葉高木。別名カイジュ、ランシンボク(爛心木)、トネリバハゼノキ、ナンバンハゼ(南蛮櫨)、クシノキ(孔子の木)ともいいます。直角に枝分かれすることや小葉がきれいに揃っていることから、楷書にちなんで名付けられたとされています。雌雄異株で樹高は二十、三十メートトル、幹の直径は一六メートルの大樹になります。夏には大きな木陰を提供し、秋には美しく紅葉することから、街路樹、公園や庭園などに植えられます。この句は落葉後の姿を詠み「大地を抱え」とスケールの大きな表現にしましたね。二句目、武士の生き様の陰影を「照り翳る」墓石の姿に託して詠んだのが効果的ですね。ギシギシという物を叩くような音とピヨピヨという小鳥らしい声の混ざる鵙の声を、冬の季語として下五に置いたのも効いていますね。

噛み合はぬ会話長引く根深汁                            坂本美千子
 根深汁の「根深」の言葉のイメージから「根深い心の行き違い」のようなものを連想させます。千住葱や下仁田葱のように、土を盛り上げて根を白軟化させた白葱のぶつ切りを煮て、味噌を溶き入れて作る冬の味覚です。この味の連想から意見が対立ほどの「くいちがい」ではなく、とりとめのない会話を、互いに好きなだけしている仲の良い雰囲気が感じられますね。

整列を吸いこむ車両今朝の冬                           鴫原さき子
 「ただごと俳句」の秀句の見本のようなみごとな句ですね。朝の通勤電車のホームの、緊張感の中にも、どこかまだ眠気を抱え込んでいるような人々の表情まで浮かんでくるようです。

ジョギングや野面耀ふ今朝の霜                          攝待 信子 
 中七の「野面耀ふ」がいいですね。視線が足元に促されて、そこに朝の霜が閃いています。早朝の空気と走る人の息遣いまで感じる句ですね。

朝市の上座にでんと大南瓜                             白石 文男 
 南瓜の存在感を朝市の棚で表現したのが効果的ですね。売り手の間に流れる空気を感じます。
 こうして文男さんの句を取り上げ鑑賞するのも最後となりました。ご冥福をお祈りします。


〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」三月号から)  

寒月や地中どこかに水の漏れ                           村田ひとみ
 自然の地下水のことではなく、目に見えない地中、しかもその上に建物や施設などがある人の営みの真下に、何か不気味な災害の予兆のように感じられる気配を詠んだ句だと解しました。その不安感がよく表れていますね。                   

三日はや人形忘れ孫帰る                             望月 都子
 「三日」はただの日付ではなく正月の季語の「三日」ですね。正月に遊びに来ていた可愛い孫が帰る日になってしまったのですね。愛用の人形という忘れ物をして。詩情がありますね。

暮れ泥む軒先低く干大根                             稲塚のりを
 中七の「軒先低く」がいいですね。昔ながらの農家造りの軒先の風情を感じます。

喪帰りや夜露にさはと裾濡れて                          近藤 悦子
中七と下五に悼む心が十分に表現されていますね。「さはと」がいいですね。

小春日や児童保育の箱車                             須貝 一青
 保育園児を乗せて町なかを回遊しているあの車は「箱車」というのですね。平和の象徴のような車ですね。「小春日や」が効いていますね。

⑵ 「あすか集」(「あすか」三月号作品から) 

万両の実の冴え冴えと庫裏に声                          坪井久美
 庫裏(くり)は仏教寺院における伽藍のひとつで、寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の食を調える台所も兼ねる場所で、現代では僧侶の居住する場所をいうことが多いようです。万両の赤い実の鮮やかさと、寺院の冬の一景が浮かびますね。

体操は翁指導や冬の朝                              西島しず子
 現代の景かもしれませんが、私はテレビドラマの昭和の景のように感じました。地方だとまだ町の年長者が前に立って町内会の早朝ラジオ体操が健在かも知れませんね。

木曜は燃えるごみの日寒烏                            丹羽口憲夫
 これも「ただごと俳句」の秀作ですね。自分の地区のゴミの日という、なんでもないことを詠んだだけですが、下五に「寒烏」を置くことで、人が出すゴミとそれを漁りにくる烏の集団問題という現代都市の一面が背景になっていることがわかります。                         

キャプテンの腕に喪章の狗日かな                         沼倉 新二
 中国では一月の一日から七日まで毎日占いをしていました。一日から六日までは動物で、七日に人間を占っていました。一日には、鶏を占っていたので、「鶏日(けいじつ)」、その朝を「鶏旦(けいたん)」と呼んでいました。二日は狗(いぬ)を占うので「狗日(くじつ)」、三日は猪で「猪日(ちょじつ)」、四日は羊(ひつじ)で「羊日(ようじつ)」、五日は牛(うし)で「牛日(ぎゅうじつ)」、六日は馬で「馬日(ばじつ)」。七日が人を占う「人日」というわけです。この句の一月二日のスポーツといえば箱根駅伝を思い浮かべますが、仲間か関係者の喪の期間中のようです。詩情がありますね。

マンタ飛ぶ飽かず眺むる毛糸帽                          乗松トシ子
冬の水族館の大きな水槽の前の景ですね。「毛糸帽」で大きな鰭を広げて悠然と泳ぐ「マンタ」を見上げている児童の表情まで浮かびます。

寒空や双胎仏に供花なし                             浜野  杏
「双胎仏」は「道祖神」の一種で、サエノカミ(塞の神),ドウロクジン(道陸神),フナドガミ(岐神)などとも呼ばれ,村の境域に置かれて、外部から侵入する邪霊,悪鬼,疫神などを遮ったり,跳ね返そうとする民俗神ですね。陰陽石や丸石などの自然石を祀ったものから,男女二神の睦み合う姿が彫られたものもあります。そういう民間信仰が見向きもされなくなった、一抹の寂しさの表現ですね。

羽子板市纏姿も彩うすれ                             林  和子
 羽子板市は羽子板を売る市。東京では現在、十二月十五日の深川不動の市が初めで、十七~十九日の浅草、ついで神田明神、芝愛宕、湯島天神、薬研堀の市、最後にあちこちの通りに立つのをベタ市とよぶそうです。火災の多かった江戸時代、一度火災が起これば命をかけて町や人々を守った町火消し。中でも纏持ちは屋根に登って纏を振りかざし「ここで火の勢いを食い止めろ!」という目印として活躍しました。その伝統も下火になってきていることの表現ですね。

去年今年病んで夫呼びありがとう                         福野 福男
 自分への感謝の言葉を述べる妻の気持ちに成り代わって詠まれた句でしょうか。互いに気遣う労りの心を感じる句ですね。

煩悩を浴みこぼして初湯かな                           星  瑞枝
 煩悩という心のしこりを、湯浴みして流している表現がユーモラスですね。初湯ですから、その前の除夜の鐘の「煩悩」の数も踏まえて詠んだ句ですね。 

冬至粥疫病払ふと伝はりぬ                            曲尾 初生
古い言い伝えが、昨今のように疫病が蔓延すると、ことさらのように思い出されますね。切実な庶民の思いは不変ですね。

初雪や両手に余る里心                              幕田 涼代
 古里を懐かしむ思いは無形の心の作用ですが、それを手でふる雪を受けているような比喩として詠み、詩情がありますね。 

葉の下に守られながら初椿                            増田 綾子
 椿は光沢と厚みのある葉がしげっている植物で、花はその濃い緑の間に鮮やかな赤色を覘かせるように咲きますね。「守られながら」と表現する作者の心根のやさしさが伝わる句ですね。

寒林の径はいつしか獣道                             増田  伸
 寒林に実際に分け入っているような臨場感のある句ですね。入ったことのない奥の方まで行ったのかもしれません。「いつしか獣道」がぐっと迫ってくるような表現ですね。 

晩秋や朱色薄れし二つ橋                             緑川みどり
「二つ橋」という言葉から有名な由緒ある橋なのかなと推測されますね。欄干や手すりのある木製で、朱塗りの太鼓橋のような中央が盛り上がった橋が二連になっているのかもしれません。「晩秋」「朱色薄れし」で、古都のような雰囲気が漂いますね。                        

お出かけは友の手作り冬帽子                           宮崎 和子                        
 上五の「お出かけは」が可愛らしいですね。自分の外出のことを言っているのかもしれませんが、子供のようすかもしれません。「友の手作り」、人との交流の暖かさまで感じせる句ですね。               

無垢の雪病める日本を埋めて行く                         安蔵けい子
 このような思い(観念)優先の詠み方はあまり評価されにくいのですが、折々の人の深い想いを季語との作用の中で詠む方法も現代俳句のひとつの在り方ですね。普遍的な想いですね。

スノーボード北京の空に飛び出して                        阿波  椿
 躍動的な表現の句ですね。五輪開催中、一時的にきれいになった中国の空が見えるようてす。

冬蜂に庇を貸して討ちとらず                           飯塚 昭子
 ことわざの「庇を貸して母屋を取られる」は、一部を貸したばっかりに、すべてを奪い取られること、つまり恩を仇で返されることですが、この句は庇を占領した蜂に「母屋」をとられる心配などしないで、もちろん殺したりもしないで、見守っている作者の優しい眼差しが感じられますね。

腰全快煎餅蒲団を干す軽さ                            内城 邦彦
 煎餅蒲団が軽いだけでなく、腰の軽さも感じて、その解放感を味わっている表現ですね。

女正月ゆるめに帯を貝の口                            大竹 久子
 「貝の口」は帯の結びかたの一種で、主に男物でよく行われる方法ですね。体に帯を巻きつけた後、片方の端を折り返して反対側の端と「こま結び」にするので、折り目が二つ重なって二枚貝の口を見るようであることからついた名前だそうです。この句はそれを緩く結んだと表現して「女正月」の雰囲気を表現しました。

釣り人の浮子の動かず春うらら                          大谷  巖
 波も浮子もじっと静止しているようなようすを切り取って、春の日の長閑さを表現しましたね。 

爆笑に釣られて嬰児初笑                             小澤 民枝
 爆笑とはたくさんの人がいっせいに笑うときの言葉ですね。家の中に人が集まっている景でしょうか。その笑声にわけも知らないはずの嬰児がつられて、初笑いをしたのですね。何か祝賀的な雰囲気のある表現ですね。 

庭の木を揺すれば落つる雪の朝                          風見 照夫
 当たり前のことを為し、それを俳句で詠まないではいられないのは、日々を丁寧に噛みしめるように生きている姿勢の表れですね。 

凍つまじと爆音たてて滝は落つ                          金井 和子
 滝には「意志」のようなものはなく、これは擬人化した表現ですが、厳しい寒気に抗うような力強い命の手応えの表現になりましたね。

冬の菊母の指輪の細すぎて                            金子 きよ 
 亡き母の形見に指輪でしょうか。手にとって自分の指に当ててみて、母の指が細かったことに気付いたという感慨の句ですね。その細腕で自分を育ててくれたことへの感謝の思いも滲みますね。 

極月や庭師は子へと代替り                            城戸 妙
 毎年、庭師を呼んで手入れをする広い庭がある家でしょう。庭師の代替わりを詠むことで、その家の営々とした歴史も感じられる表現ですね。 

白といふ彩で始まる初景色                            紺野 英子
きはやかに葉擦れで応ふ初松籟                            〃
若水や透けるつぶらなさざれ石                            〃
おくみじに英訳の付く初詣                              〃
お汁粉に塩味少し小正月                               〃

 どれも野木メソッドに適うお手本のような句ですね。作者の眼差しを同時に感じさせる「景」のクローズアップと切り取り、それを表現するに相応しい繊細なことば使いの表現力。そして個人の感慨を突き抜けてゆく、普遍性のある表現になっていますね。各句のすばらしいポイントは、「白といふ彩」「透けるつぶらな」「おくみじに英訳」「お汁粉に塩味」ですね。

朝早く母の届けし火鉢かな                            斉藤  勲
 子供のころの思い出を詠んだ句でしょうか。自分の部屋で早朝の勉強をしていたのか、着替えをしているかでしょう。その朝の冷え込みを思って、母が火を入れた火鉢を届けてくれたのですね。記憶に温みが感じられる表現になりました。

子の賀状読んでは返す裏表                            斎藤 保子
 独立して他所で暮らしている我が子からの賀状なのでしょう。その親心に素直に共感できますね。

音もなく指輪の抜けて神の留守                         佐々木千恵子
 自分の指が細ってきていることの気づきと、何かの予兆のようなものを感じさせる表現ですね。

枯葉落つ老樹の涙かと思ふ                            杉崎 弘明
 作者の自身の老境の感慨表現でもあり、自然に向ける眼差しのやさしさの表現にもなっていますね。

富士を見て足場解体落ち椿                            鈴木ヒサ子
 富士という遠景の高い視点から、落ち椿の地面への視点移動がなめらかでいいですね。その視線の動きの中間に、解体作業中の足場の骨組みが見えます。 

裏庭のゆがむ地表や寒の内                            鈴木  稔
 不思議な句ですね。自宅の庭だけに起きている地表の歪みでしょうか。視界全体を歪ませるような、大きな寒気を感じます。

ころ柿は山懐に灯りたり                             砂川ハルエ
「ころ柿」は皮をむいた柿を乾燥させる工程で、柿全体に太陽があたるようにと柿の向きをころころと変えたことから、そう呼ばれるようになったそうです。その淡いオレンジの色を、山懐に灯る明りと表現したのがいいですね。 

腰病みて夫の手温し梅三分                            高野 静子
夫が腰痛の箇所をやさしく揉んで癒してくれている景でしょうか。下五の「梅三分」が、何か絶妙な頃合いの表現のようで効果的ですね。                       

枯木星イルミネーション遠くなる                         高橋 光友
 先ず視点は冬空に凛と光る星に向けられていて、それが地表の枯木、そしてそれを飾る電飾へと降りてきています。星の方が遠くにあるのですが、この句は逆に電飾の光りが遠くなると表現しています。人工的な電飾の光りより星の光りに魅せられている作者の心が感じられ句ですね。 

俺といふ男さてはて初昔                             滝浦 幹一
 たくさんのことばをのみ込んで「さてはて」とのみ心で呟き、万感の思いを込めましたね。

救急車出動なくて冬麗                              忠内真須美
 コロナ禍の騒然とした世相の中で、その日は救急車の出動が少なく、珍しく静かな日だったのでしょう。そこで働く人の心によりそった表現ですね。下五の「冬麗」が効いていますね。 

水仙の咲くこの辺り猫の墓                            立澤  楓
 球根の水仙はその年の芽が出るまで、その辺りに地表には何もないように見えますね。何もなかったような場所に、凛とした水仙の花が咲き、それを愛でているとき、ふとそこは愛猫を埋葬した辺りだったことに気が付いたのでしょう。感慨ひとしおの句になりました。

福寿草いのちの限りかたまりて                          千田アヤメ
「いのちの限り咲いてゐる」という植物の生命力を表現した句ではなく、「いのちの限りかたまりて」と、福寿草がまるで励ましあって咲いているような表現へと、下五で読者を別の感慨に誘う、見事な表現ですね。福寿草の花が肩寄せ合うように咲いている景が浮かびます。

                        ※               ※

1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」3月)   


1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」3月)   

◎ 野木桃花主宰句(「女正月」より・「あすか」二〇二二年二月号)
遥かなる天からの使者風花す
迫りくる雪の旋律身ほとりに
灯を点し整ふ句座や女正月
音もなく雪積む井戸や神の庭
大欅しかとありけり大地凍つ

【鑑賞例】
 一句目、風花を天からの使者と見做す詩的境地。風花はその出処が謎のようなところがありますね。二句目、降雪予報の寒冷前線が迫っているという情報的知識ではなく、空が雪雲に覆われてだんだん暗くなり、独特の空気感に包まれたことが下五の「身ほとりに」で実感されますね。三句目、灯した明かりを囲んでの句会という表現が、句会に集う人達の心の繋がりを感じさせる表現ですね。四句目、古井戸があるような、苔蒸した石囲いのあるような、古民家的風情のある庭に積っている雪景色が見えますね。五句目、「しかとありけり」という存在の確かさが、凍てつく大地に立つ大欅で表現されていますね、

〇 武良竜彦の十二月詠(参考)
年の尾や変異するもの力増し

句評して人の世生きて年詰まる
(自解)(参考)
 一句目、コロナウイルスの変異のことが念頭にある句ですが、変化するものが力を増してゆくのは人も社会も同じだな、という感慨を詠みました。二句目、俳句の批評を書くという精読的な鑑賞をしていると、詠んでいる作者の人生観とか感性を共有します。そのことを「人の世生きて」と表現しました。

2「あすか塾」37  2022年3月  

⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例  ―「風韻集」二号作品から 
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。     

白鳥の呼び交うて翔つ今朝の川                          攝待 信子 
 まるで白鳥たちが、これからの「渡り」に声を懸け合い、励ましあっているかのようです。
                        
枯尾花余生きらめく夕日中                             白石 文男
 枯尾花が夕陽に煌めいているのですが、それを自分の余生の予感の喩として詠んでいますね。

亡き母に届く手紙や春隣           高橋みどり
 親を看取った後、このような体験をした人も多いでしょう。改めて深々とした喪失感を噛みしめることになると同時に、母の交友関係者のことばに新鮮な発見があったりもしますね。

風邪だより悔やみ便りとかさなりて                         服部一燈子
 新型コロナ感染症に罹患して亡くなった方のことかもしれませんね。風邪の症状と紛らわしく治療が遅れた結果かもしれない悲劇を句の背景に感じます。

冬日差す崩れそうなる崖の際                           三須 民恵
 日陰になっているときはあまり意識していなかったのに、真横からの低い日差しの冬日で、見慣れていた崖が今にも崩れそうに感じた、という驚きと危機感ですね。普段は気づかないでいることに潜む危機感の普遍性を感じる句ですね。 
                       
星冴えて越えねばならぬ道半ば                           丸笠芙美子
 いつもながら、芙美子さんの深い内省的な表現が冴えていますね。冴え冴えとした決意を感じます。
                        
林檎剥く灯影に浮いてくる昭和                           宮坂 市子
「灯影に浮いてくる」という表現が効果的ですね。もう定かでなく、ゆらゆら揺らめく記憶の向こうの昭和の姿ですね。

運動会子供のつくる万国旗                            村上チヨ子
 校庭いっぱいに放射状に飾られる万国旗は、運動会など学校の定番の光景ですが、それを子供達が手作りしたものであるという、手作り感に暖かみを感じる句ですね。

花芒揺れてここまで来よと云う                          柳沢 初子
 花芒の風に揺れるさまは、何か手招きしているような雰囲気がありますね。その誘いに乗ってここを発ちたいという思いも伝わります。

盆栽の梢の先へ大寒波                              矢野 忠男
 寒波という大きな気象を、盆栽という凝縮された美景の梢の先端へと、繊細に動的に表現したのが効果的ですね。

凍空へ煙突高し亜炭鉱                             山尾かづひろ              
 亜炭は太古の樹木が石炭化の過程でもっとも石炭化が進んでいない石炭ですね。石炭化度の低い亜炭は昔、重要な燃料でした。特に東海地方の美濃炭田と尾張炭田の二つが有名。東海地方は陶磁器の産地であるため、窯の燃料としての需要が大きかったようです。横浜にも亜炭鉱があり、横浜市港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町などに炭層があり、大正時代や戦時中には横穴を掘って亜炭をとっていたそうです。この句はその炭坑の煙突を見上げて歴史に思いを馳せているのですね。

かくれんぼここよここよとかいつぶり                       吉野 糸子
「かいつぶり」は足が尾近くにあるので潜水は得意ですが陸上の歩行の姿はよちよち歩きで、その姿も可愛いですね。翼の色は黒褐色で、嘴は短めでとがり、先端と嘴基部に淡黄色の斑があります。夏季には夏羽として頭部から後頸が黒褐色で、頬から側頸が赤褐色の羽毛で覆われます。冬季には全体として淡色な冬羽となり、頭部から体部にかけての上面は暗褐色で、下面は淡褐色。頬から側頸も黄褐色の羽毛で覆われます。幼鳥は頭部や頸部に黒や白の斑紋が入り、嘴の色彩が赤く可愛らしいですね。この句はその姿を「かんれんぼ」遊びとして詠んだのが効果的ですね。 
                        
黄落の道を彳亍八十路来る                            渡辺 秀雄
「彳亍 てきちょく」は「彳」は左足、「亍」は右足のことで、たたずむこと、また、行きつもどりつすることを表すことばですね。最近このことばにはあまり出会うことはなくなり、古典で見かける程度になりました。この古語を使って、この句は、「八十路」の逡巡を表して、趣がありますね。

詩心の揺らぐ空あり鵙高音                            磯部のりこ
 鵙の鳴き声は「ギチギチギチ」という機械音と、雀のような「チュン」という声が間に入る独特の泣き方をしますね。「詩心が揺らぐ」思いと作者の境涯の喩として表現しましたね。

さくら貝供えてありぬ夭女の碑                          伊藤ユキ子
 病死でしょうか、災害などの死でしょうか。幼くして逝った童女のための碑に供えられたさくら貝の可愛らしさが胸に沁みますね。

日向ぼこ生命線を見せ合うて                           稲葉 晶子
 上五の「日向ぼこ」の季語の働きで高齢者たちの微笑ましい姿が浮かびます。

秋惜しむ許せるものに笑ひ皺                           大木 典子
 最近、世の中は許しがたいものに溢れているけど、親しい人の人柄まで溢れているような「笑ひ皺」を見ると、心が和むという思いの表現ですね。「許せるものに」という限定的な特別感が効果的です。
                         
朝陽を撥ね返しゐる懸大根                            大澤 游子
 光っている、ではなく「撥ね返してゐる」という意志的な表現が効いていますね。

黄落の眩しさに立つ男の背                            大本  尚
 黄落の光を浴びて立つ男のシルエットという絵画的な構図の鮮やかな表現ですね。哀愁よりも孤愁が漂います。人生の厚みも感じますね。

柿落葉音にさすらふ日暮坂                            奥村 安代
 柿の葉の落葉は厚みがあるので乾いた音が際立っている心象がありますね。さすらっているのは作者の思いという表現ですね。下五の「日暮坂」に詩情がありますね。

日射しふと紅一輪の冬椿                              加藤  健
「ふと」が効いていますね。陽が射して「ふと目を向けると」という小さな発見の趣が出ます。そこには鮮やかな紅色の椿が咲いていたのでしょう。この「ふと」は俳句で使うのは難しい言葉です。

秋澄めり入り日の浮かぶ潮溜り                            金井 玲子
 玲子さんには別の「行く秋のブイゆつたりと波のまま」という秀句がありますが、この句は「入り日」が波に浮かんでいるとした表現が光っていますね。玲子さんはいつも表現が端正ですね。玲子さんは第四十一回あすか賞を、その確かな表現力で受賞されました。「あすかの会」の当初からの同人でその力量の毎回触れてきました。おめでとうございます。一層のご発展を期待しています。

晩学の洋書難し小夜時雨                              坂本美千子
 高齢になっても向学心を失わない志の句ですね。「難し」と直接的に言ってしまわないで、「洋書の厚み」と婉曲的に表現しても、その思いは伝わるのではないでしょうか。

積ん読という安らぎや秋灯下                           鴫原さき子
刈株や晩秋という広さあり                              〃

 一句目、「安らぎ」が独特な表現で効果的ですね。「積ん読」という言葉は普通、後回しにしている後ろめたさ、怠惰さのような気持ちが付随する言葉ですが、それを「私には未だこんなに読みたい本があり、まだ人生にも余裕がある」という肯定的、能動的な思いへと転換されています。二句目、「晩秋」という具象ではない季節の言葉を、具象的な「広さ」で表現して効果的ですね。稲刈りの済んだ田の広々としたさま以上の、心の解放感も伝わります。

〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」二月号から)  

水洟をすすり自説を譲らぬ児                           村田ひとみ
 意志の強い子供の顔が浮かびます。頑固というわけではないことが、上五の「水洟をすすり」が児童らしさの表現効果を上げているからですね。 
                   
行く年のでこぼこ道をカート押す                         望月 都子
 平坦ではない道で、押しているカートが揺れて、ある困難さの思いが伝わります。このような具象的表現でもあり、心的な表現にもなっている句が詠めるようになると、表現の幅が広がりますね。

お包みにつつまれし児も早や師走                         稲塚のりを
 生まれたての嬰児も、早や師走の空気に包まれているという感慨の句ですね。命と時を合わせて表現した見事な句ですね。

兄と聴く波うつレコード夜半の冬                         近藤 悦子
 波打っているレコードという表現には、保管されていた長い時間の経過が感じられます。親族の特に「兄と」と限定したことで、読者はその曲のジャンル、種類をあれこれと想像させられます。

菊薫る妻はかっては洋裁師                            須貝 一青
四阿に殻斗を拾う二つ三つ                              〃

一句目、まるで菊を愛妻に捧げたような句ですね。二句目、四阿は東屋の別字で、四本の柱と屋根だけの小休憩所のような建物ですね。公園の中などで見かけます。殻斗(かくと)はナラ・クヌギ・シイ・クリなどブナ科植物の、実の一部または全部を覆う椀(わん)状・まり状のもののこと。団栗などの実自体ではなく、その殻斗を拾ったという表現が、先刻まで児童らがそこで遊んでいた息遣いの感じられる句になりましたね。
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