あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

あすか塾  講義  【俳句の精神文化の背景―「やまとことば」とそれを支える「やまとごころ」】

2024-02-10 11:37:02 | あすか塾講義 俳句の精神文化の背景ー「やまとことば」とそれを支える「まとごころ」

               

        あすか塾  講義  Ⅰ

 

  俳句の精神文化の背景―「やまとことば」とそれを支える「やまとごころ」

 

〇「わ」のクニの「やまとごころ」 

 

「いくさ」―戦争と平和のやまとごころ 

 

 いくさの「いく」は、矢を「射る」ことです。いくさの「」は、「矢」のことです。だから、いくさの語源は「矢を射る」「矢を射交わす」ことです。このいくさに後年、漢字の「戦」や「軍」を当てるようになりました。

 では「いくさ」の反対語はなんでしょうか。


 正確には対応する「やまとことば」はありません。漢字を使うようになって「和平」ということばが使われています。

 これは戦争状態だったものがお互いに仲直りして平静な状況が訪れるという意味で、つまり元々のやまとことばでいうと、和して心が平らかな状態になるということですね。

 「平和」が現代では戦争の反対語とされていますが、明治時代に戦争warの反対語としてpeaceが伝わり、これを翻訳するとき、該当する言葉がありませんでした。そこで、もともとあった「和平」が候補になりますが、意味がずれているようだということで、語順をひっくり返して「平和」という広い意味に対応する新訳語が作られました。

 だから漢字の「平和」という言葉は、元来の日本人の実感的な、身体と魂と結びついた「ことだま」とは異質な概念語、つまり実体のないスローガン的言葉なのです。元々あったやまとことばの「わ」にして「たいら」な「やまとごころ」は、身体と魂に結びついている「ことだま」なのですが「平和」は記号的な言葉です。

 奈良盆地を中心に栄えていった「やまと」というクニの単位が、国になってゆく過程で、自分の国の名に、漢字の「大和」というを当てて「やまと」と読むようになりました。元々「わ・和」は「なごむ・和む」とか「やわらげる・和らげる」という意味の、人間が集団で生きるときの「やまとこころ」の言葉なのです。

やまと」というのは、大和政権が最初に発祥した奈良盆地の「やまと・山門」のことで、そこが和して平らかな心と地の里であるいう意味で使っていたようですが、漢字が入ってきてから、「大和」の字を当てて「やまと」と呼ぶようになったのです。俳句はその「やまとごころ」を大切にする文芸の一つですね。

 

〇 国名 ヤマト 大和

 ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことです。初期の王権の本拠が奈良盆地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったのです。

 ヤマトは「山の門」

 奈良盆地から大阪側を見ると笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわしたのです。門は一定の閉じた空間です。

 ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良の時代が栄え、国の名をヤマトにしました。

 奈良時代の次は平安時代の山城国です。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のこと。平安京からすると、元の奈良の山々が背に当るという認識があったのです。この地域以外の者に対して、広い意味で国全体を表わすことばとして、「ヤマト」に大和の漢字を当てるようになります。

「和」は「和む」とか「和する」「和らげる」事態や様子を和らげるというのが本義で、その「大いなる和」の意味の漢字を当てて「大和」の字を用いるようになりました。

 

参考 「日本」の語源は?

 ひのもと にほん にっぽん

 記紀神話では最初、日本のことを「葦原中国」(あしはらのなかつくに)とか「豊葦原」(とよあしはら)と記しています。水辺に葦が生い繁っている豊かな国という意味です。その他に「瑞穂国」(みずほのくに=稲穂が稔っている国)という呼称もあります。

 他に「大日本豊秋津島」(おほひのもとのとよあきつしま)」という表記もあります。「秋津」のアキツは蜻蛉のことで、神武天皇が国土を一望してアキツのようだと言ったことが由来とされています。この「大日本」(おおひのもと)の「日の本」が、後の「日本」の語源になっています。

 本州だけを指したこれらの呼称から、本州・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・淡路島・佐渡をまとめて呼ぶとき「大八島」「大八州」(おおやしま)と呼びました。

〇 和の憲法の「やまとごころ」=「和 やわらぎ」の心

 日本書紀に記載されている聖徳太子の十七条憲法の第一条。

  一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

国学者たちがこれをどう読むか研究して、次のような「やまとことば」の書き下し文にして、日本古代の精神が解るようになりました。


  一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 以来、日本の歴史はこの「和 やわらぎ」の心を大いに薫陶させてきました。

 

 参考 古語「わ あ か」

=わたし われ※和することと、わたしであることが同じことば
わこく=私の国 古代中国の表記では国・卑字を自分の国以外に宛てた。日本人はそれを「和」の字に替えた。和を大切にする国ということ)

あが=わたしの 

あなた=「あ」の近くにいる人

かなた=「か」は離れている所や人。   かの・かれ=彼の・彼
たそかれ・誰ぞ彼 黄昏(たそがれ)の語源。暗くなってきて、良く見えない所に居るのは、「誰(た)ぞ彼(かれ)」つまり、かのひとはだれぞ、と問うことばが元になっていることば。

 このように、私である「あ」との距離感で、近いのが「あなた」、遠いのが「かなた」で、人だと「かれ」「かのひと」となります。

 何気なく私たちが使っている黄昏のようなことばの語源は、やまとごころとやまとことばが元になっているのです。

     ※     ※

◎ 和して平らかなる心と、おもかげ、なぞらえの歌心

(ナカニシ先生の万葉こども塾から)

仲よく共生する姿、平和への願い

 

 春雨に

 萌えし楊か

 梅の花

 友に後(おく)れぬ

 常の物かも

    巻一七 三九〇三 大伴書持(おおとものふみもち)

     

春雨によって芽ぶいたヤナギかな。親友のウメの花に後れない、約束どおりの姿なのだなあ

 *

作者は大伴家持(おおとものやかもち)の弟です。この時二〇歳すこし前でしょうか、父旅人(たびと)が十年前に開いた梅の歌会をしのんで、いま六首の歌を作りました。

ふと目にしたヤナギの芽ぶきは、天からの雨の贈り物だと思えます。ヤナギはウメの親友。だから早ばやと花を咲かせたウメに遅れをとってはいけません。「常の物」には、変わらない友情の尊さを、強く感じている口ぶりがありますね。

ではなぜ彼はこんなに変わらない生き方にこだわるのでしょう。じつは三か月前の九月に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州で反乱を起こし、十一月に朝廷から死をあたえられました。書持(ふみもち)がこの歌を作ったのはその翌月です。

人間どうしの醜い争い合い。

反対に、天は雨を降らせて生命をはぐくみ、その中で自然の生き物がいつも変わることなく、仲よく共生していきます。

書持(ふみもち)のしみじみとした「常の物かも」という平和への願いを、この歌から見逃してはいけません。

 ―朝日新聞三月一日夕刊より転載

        ※     ※

中西氏がこのように指摘するように、植物という自然現象の摂理に託したなぞらえ(比喩表現)の歌を、すでに万葉の時代から日本人はしてきたのです。

ここに、和して平らかなる心の在り方、人との交わり方、そして、それを自然現象に託した歌い方の、日本的な原点があります。

その流れの中に俳句というものを置き直してみることには、現代的な意義があるでしょう。

 

○『古事記』の生命観

 

  • 天地の初め(天地開闢―神代七代

《古事記の冒頭の現代語訳》

天と地とが初めて分かれて開闢(かいびゃく)の時に、高天原(たかまのはら)に現れ出でた神の名は、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)である。

この三柱の神は、すべて単独の神として出現した神であり、姿形を現わされなかった。

次に、国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、クラゲのように漂っていた時、葦あしの芽が泥沼の中から萌え出るように、萌え上がる力がやがて神と成った。

それが宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)であり、次に、天之常立神(あめのとこたちのかみ)である。(略 以下多数の神々の誕生の記述)(次が国生みの神)

次いで伊邪那岐命(いざなきのみこと)。

次に女神の伊邪那美命(いざなみのみこと)である。

上に述べた国之常立神(くにのとこたちのかみ)から伊邪那美命(いざなみのみこと)までを合わせて神世七代という。

  ※      ※

以下は、伊邪那岐命と伊邪那美命による国生み神話から、人間の世界に関与する地上の物語が展開します。

このような古事記の表現から、この世界というものは、「高天原(たかまのはら)に現れ出でた神」というように、自然の現象によって神のような力が発生し、以下の万物の象徴ある天地と神々という力は、「葦あしの芽が泥沼の中から萌え出るように、萌え上がる力がやがて神と成った」と考えられていることが判ります。

 

  • 人間のはじまり

─宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)から青人(あおひと)草(くさ)

時代が下って、神の系列ではなく、

「蘆原の中つ国に生きている命ある青人草」としての人間が現れます。

植物のような「青人草」としての命を持つ人間たちは、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)の萌出る力の作用によって、大地に生れたと考えられていることが推測できます。

和歌、俳句の中で、日本人が植物の様態に、自分の命や心の様を託して表現する原点は、ここにあるといえます。

 

『古事記』の世界観

 

『古事記』は三巻からなり その上巻には神々の物語、中巻と 下巻には天皇たちの系譜が語られています。

 上巻では、イザナキ・イザナミによる大地や神の生成譚、アマテラスとスサノヲによる高天の原での対立、スサノヲの地上への追放と出雲でのヲロチ退治とクシナダヒメとの結婚、そして子孫オホナムヂが様々な冒険の後に、地上の王者オホクニヌシ(大国 主神)となって国づくりをすることが語られています。

 その後の、高天の原の神々による地上遠征と、地上に降りてきたアマテラスの子孫による地上支配へと展開し、地上と天空にある高天の原の二つの 世界を中心にして繰り広げられます。

 そして地下にある死者の世界である黄泉の国、水平線の彼方にある根の堅州の国や常世の国、海底にあるとされる綿津見の宮(海の神の住む宮殿)など、いくつもの神々の世界を行き来しながら、物語は語られてゆきます。

 その中心に位置づけられている地上世界は、高天の原からは「葦原の中つ国」 と名づけられ、「国つ神」と呼ばれる地上を本拠とする神々(主に出雲の神)が住んでいます。
 このように、古代日本人は自分たち人間を取り巻く世界が、多重構造でできていると考えていたことが判ります。

 天地、地下世界、海中世界から、死後の世界という時間軸も包括した世界観、死生観がうかがえます。

 

〇「和御魂」(にぎみたま・にぎたま)と「荒御魂」(あらみたま・あらたま

 和御魂には幸御魂(さきみたま)と奇御魂(くしみたま)が併存しています。

 日本神話では伊邪那岐の禊(みそぎ)からアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれたことになっています。このうちのアマテラスとスサノオは姉と弟で、姉が高天原を、弟が海原を治めるように命じられ、そのふるまいによって和御魂と荒御魂のシンボルになりました。ツクヨミは夜を支配する神的力の象徴で人格神ではなく抽象的な力を意味しています。

 神話では、死んだ母のイザナミ恋しさに小さい弟のスサノオが泣き喚いてばかりいたとされています。これでは任務とした海原を治められないと、父のイザナキが怒って根堅州国(根の国)に追放します。そこは夜見国(黄泉)の異称もあるところ。やむなくスサノオは姉にあいさつしてから旅立とうとするが、アマテラスは弟が高天原を奪いにきたのだと思う。そこでスサノオはそんな野心はないことを証すために「うけひ」(誓い)をします。これで疑いが晴れますが、スサノオは慢心しと、高天原を傍若無人に荒らし根の国に追放されます。根の国は出雲。

 日本神話はここで、高天原のストーリーと出雲国のストーリーに分かれます。

 日本国の建設をめぐって日本海沿岸の出雲の勢力と、奈良の大和の勢力が争っていたという史実の反映で、「和するアマテラス」が国土全体を支配し、「荒ぶるスサノオ」の出雲がこれに従ったということになっています。

 出雲神話に登場するスサノオは、人身御供になりそうだったクシナダヒメ(櫛名田比売)を助けてヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治し、オロチの尾から草薙剣を取り出すと、これを姉のアマテラスに献じ、スサノオは地域開発型の英雄になります。スサノオはその後クシナダヒメと結ばれ、その子孫のオオクニヌシ(大国主命)が出雲の国をつくりあげます。大和朝廷は荒ぶるスサノオの系譜でつくられたディベロッパー型の出雲の国のモデルがあったからこそ、これを譲り受けて誕生したのです。

 

※ 参考 スサノオのスサ

ス サノオの「スサ」とは「すさぶ」のスサ。「すさぶ」や「すさび」。「すさぶ」は漢字で「荒ぶ」、または「遊ぶ」。日本の精神文化の根底は「和する系譜」に「荒ぶる系譜」が並立することで成立したわけです。「和」しつつ、「遊び」の精神で暮しを良くしてゆこうという文化なのです。

 

◎ その他の「やまとごころ」と「やまとことば」

 

〇 妣が国  

民俗学者の折口信夫は古代研究を始めた当初から、日本人の心の奥にある玄郷のことを「妣が国」とか「妣なる国」と呼びました。

 

〇 まれびと 客神

 日本の神々は常世から「やってくる神」「迎える神」「送られる神」。この精神的な背景が、のちに漂泊の思想とも繋がってゆきます。

 

〇 「影向」ようごう

 日本は神像をつくることがなく姿が見えません。神々は「代・しろ」に依って、気配のようにやってくるものと考えられています。

 

〇 常世 産土(氏神)「たまふり」(魂振り)

 「妣が国」は、民俗学ではしばしば「常世」と同定されてきました。

 常世は常にそこで存在してくれる産土のことで産土神は土地の力とともにあるものです。

 

〇「たまふり」(魂振り 神聖な土地に向かって祈る気持ち神主が代行している)

 それが祝詞の最初で語る呼びかけであり、また土地に向かって祈ることです。

 

〇「柱をたてる」 

 天に向かう印の中心としての柱をたてることで、神様を「御柱」と呼んだり、神さまの数を「柱」で数えます。

 柱がたつ 身をたてる 村をたてる

 国をたてる

 

〇「むすぶ」

ものごとのはじめ、はじまりのこと。

古事記に「天地 初めて発けし時、高天原に成れませる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神はみな独神と成りまして、身を隠し給ひき。」

とあります。日本の天地開闢のときに、この三神が最初に現れたとされています。これを「造化三神」といいます。

 

※ 「ムスビ」は「産霊」

「ムスビ」は「ムス(産)」と「ヒ(霊)」。

「ムス」は「うむ・そだてる」の意味で「苔のむすまで」「ごはんを蒸す」などと使う。

「ヒ( 霊)」霊力です。

だから「ムスヒ」は「新たな力を生むものをつくる」という意味です。そのプロセスに 「結び」や「 結ぶ」があるという考えです。

例 

ムスコは「 ムス・ヒコ」

ムスメは「ムス・ヒメ」。

相撲「結びの一番」。

婚」はえにしをムスブこと。

納」は「ムスビオサメ」のこと。

握り飯の「おむすび」。

地鎮祭は「柱を立てて」「結び」の界をつくり、地霊の魂鎮める儀式のこと

です。「ゆい」も多用されています。

 このように古代人の自然観から生まれた心とことばが現代にも生きているのです。

 

〇 稲魂の神格化

 日本のコメ信仰には「稲穂の中に何かが稔る」という考え方が脈々と生きています。その何かとは、稲あるいは稲穂に宿っている「稲魂」のことです。

稲に魂の「ムスビ」(前回触れました)を感じるようになりました。

 

〇 ミノリ(稔り・実り)とイノリ(祈り・祷り)の文化・稲作文化

 農産物が育つことを祈って、さまざまな祭りを行います。

 

〇 ウカ ウケ

ウカはウケとも言って、穀物や食物を意味する古語。ウカもウケも「受け」という意味で、古代日本では「受け持つ」といえば「食を司る」という意味。「受け持つ」とは相手が差し山したお米をしっかり食べるという意味がもとになっています。

 

〇 ハレとケ

 ハレとは「晴」のことで、浄化された格別の非日常性のことです。今日では「晴れ」は天候のいい日のことをさすが、もともとは雨模様が長くつづいたあとに、空が晴れたときのことを意味していた言葉。

 これに対してふだんの日々はケ「褒」にあたります。

 このハレとケが対応して一年や一生を律していると考えるのが、日本人のライフスタイルの基本になっています。

 

〇 「サビ」「もののあはれ」「あっぱれ」

 「サビ」は実はスサビから出た言葉。

 もともと「スサビ」の状態をあらわしている言葉で、何か別のことに夢中になっていること、夢中になるほどの趣きがあると思わせる風情を示す言葉。

 現代語の「荒ぶ」「寂びれる」とは意味が違います。

 芭蕉の俳諧のことを「サビの俳諧」というときも、この元々の「何かに夢中になるほどの趣がある」という意味なのです。

 「サビの色」とはスサビの風情がほのかに醸し山されているということ。このようにサビは日本人の美意識をあらわす指標のひとつとなるものです。

 

〇 もののあはれ

 「もののあはれ」は王朝貴族が好んだ美意識や心情のことで、賀茂真淵や本居宣長によって『源氏物語』がその精髄を表現したとされています。「もの」そのものが清冽に哀愁や哀切を帯びていること。

 例 西行の歌

    都にて月をあはれとおもひしは数よりほかのすさびなりけり  

 旅先で月を見て、それまで都で月を「あはれ」だと感じていたけれど、そんなものが物の数にも入らないほどの哀切だ、これこそがスサビだという歌。真淵や宣長はその風情を、紫式部が『源氏』の物語にしてみせたのだと見ました。

 

〇 あつぱれ

「あはれ」は武家社会では「あっぱれ」に変じました。「あっぱれ」は「あはれ」という言葉を武張って発音した言葉このように、王朝感覚の「あはれ」を武家が感じると「あっぱれ」になります。

 武門の幼い子が戦場に出ざるをえなくなり、緋縅の鎧を着て小さな黄金の太刀をもっている姿は、貴族的には「あはれ」だが、武門の美学にすると「あっぱれ」なのだということ。その「あっぱれ」には「あはれ」も漂います。

 

〇 サビとワビ  寂び・侘び・詫び

 茶道の精神、出家し遁世した侘び住まいの者が訪問者をもてなすときの心。「私はろくな調度も茶碗もない。けれどもこんな茶碗でよろしければ、いまお茶をさしあげよう」と言ってもてなす心。不如意を「お詫び」して、数寄の心の一端を差し出す、これが「佗び」。この 「佗び」は「詫び」にも通じます。

 

〇 やつし
「やつれる」という言葉から出た感覚語で、あえてみすぼらしい格好をしたり、わざとほころびた羽織を着ることで、痩せ細ったものや弱々しいものに愛着を寄せる心のことです。

 

〇 「漂泊」から「無常観」へ 

 日本の最初の漂泊者はヒルコとアワシマという、イザナミとイザナギがまぐわって生まれた水子です。(『古事記』)

二神はこの水子を葦の舟に入れて流します。

 ヒルコは流れ着いた先でエビス(恵比寿さま)として崇められ、商売繁盛の神さまになりました。

 アワシマは遊女たちが吉原などの遊郭で「百太夫」や「淡島さま」として祀っている神さまになりました。

 このように、漂泊を宿命づけられた存在が「流転のすえの反転」「漂泊のすえの栄達」がおこりうる物語(貴種流離譚)が伝えられてきました。

 ここに後の「無常観」に繋がる感性のベースがあります。

 次で示す仏教と結びつくまでは、流される漂泊者は尊い価値あるものとみなされていたのです。

 

〇「無常観」

 この漂白の「常ならぬ」という概念が、仏教と結びついた無常観として、中世日本の人生観や価値観を代表するようになります。

例 鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』の無常の文学。

『方丈記』の冒頭

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」

 この無常観に仏教の四諦・四苦観が加わり宗教的な概念になってゆきます。

 四諦は苦諦・集諦・減諦・道諦の四つの「諦め」で、ブッダが最初に説きました。

 苦諦はこの世は苦である二切皆苦)ということ。

 集諦は苦の原因は世の無常と人の驕りと慢心にあるということ。

 減諦は無常の世を見つめ、慢心を抑えれば苦は減するということ。

 道諦はそうなるための方法がある(=正道)ということ。

 四苦とは生・老・病・死のこと。

 

 この仏教的諦念が、古代的な「漂流者」に対する感性に影響を与えて、中世以降の日本的な無常観となっていきました。

 

〇 「みやび」と「ひなび」

「みやび」は「雅び」で、これは「宮ぶる」「都ぶる」から派生した言葉。

「ひなび」は「鄙び」で「鄙ぷる」ことで、趣きのいいものと感じられてきました。

例 佗び茶が草庵っぽく、質素な仕立てを好んだのも、「みやび」

に対する「ひなび」の共存思考があったからです。

 

〇 「うつろい」に対する肯定感

  • 「跡をつけながら進む」移ろいの心的な慣習がありました
  • 例 頻繁な遷都  

  飛鳥板蓋宮、難波長柄豊碕宮、近江大津宮、飛鳥浄御原宮、

  藤原京、平城京、山背恭仁京、紫香楽宮、難波京、平安京。

  ※この遷都の慣習に終止符を打ったのが江戸の家康。

  •  四季の移り変わりに感情を寄せました

   これが「うつろい」の感覚。

 ・ 歴史や人生や出来事にも「うつろい」を認める心性。

  例「漂泊」「落剝」「無常」「辺境」「巡礼」「道行」

    などに共感する日本人の心性。

   在原業平の『伊勢物語』の「東下り」

   『更級日記』は東から都に東海道を上る旅。

   紀貫之の『土佐日記』

   そして芭蕉の紀行文学シリーズ『奥のほそみち』など。

  ・ 補陀落渡海の霊場巡り=彼岸へのあこがれ。

   旅と人生と謡。

   遍路・辺路、各地の遊女が唄った今様の『梁塵秘抄』

「常なるもの」は常世やニライカナイのように海の彼方にあって、この世は、いろは歌にあるように、「色は匂へど散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ」という観念へ、そして平家物語の諸行無常の響きへとつながってゆきました。

 

〇 型・間・拍子の文化

 「型」一 形木 形のもとになる木型、鋳型

       埴輪の型、建物の部材の型、金型など)

「型」二 体の動作がかかわる型

     芸能や武芸や遊芸の型 

      踊り、生け花、茶の湯の作法、人形浄瑠璃の型

 「間と拍子」

   相手との「間合い」、「打ち合わせ」

   日本の拍子は西洋のリズムと違って、規則的ではなく、伸びたり縮んだりする。

   「間拍子」はワンーツー・スリー・フォーという一定のタイミング

で進まずに、「一と二と三と」というふうに「と」が入る。

   この「と」はその曲その場で合わせていく「と」。

   生身の演奏者や踊り手や武芸者が関与しつつ包まれる「場」を考慮して演じる。

 

〇 「形代 かたしろ」と「物実 ものざね」と「憑座 よりまし」

  • 「形代」とは型そのもののことではなく、形が力をもつようにする代理物。

 神の関与によって形が形をなすためのもの。

 形がそうなるであろうように仕向けている力のこと。

 例「天児 あまがつ」という小さな人形。

 幼児が無事に育つように枕元においておく手作りの人形。

 子供が背負うかもしれない図事や禍事をあらかじめ移し

 負わせる力をもつとされたもの。

  •  「物実(ものざね)」「物の実」=物事のもとになるもの

 物をつくりあげる種になるもの。

 例 『古事記』の「うけひ」の場面のあとに「後に生れし五柱の男子は、物実わが物によりて成れり」などと出てきます。

 アマテラスが、スサノオが差し山した十拳剣(とつかのつるぎ)を噛んで、霧吹きのように吐き山した狭霧や、その狭霧から、五人の男子の神々が生まれたとき、アマテラスが「これらは私の物実にもとづいたものだ、だから私の子だ」と言った。

 アマテラスはのちに三種の神器となる剣や勾玉によって物実を作動させたことになっている。

 私たちの祖先は何かに恵まれるとか、無事に事態が進捗したというときには、往々にしてそこに超越的なものがかかわっていて、うまくいったのだという見方をしていたのです。それが物実

 ※「 十拳剣 」「十束剣 」「 十握剣 」「 十掬剣 」は、 日本神話 に登場する剣の総称。十拳は長さの単位で、拳一つの幅。神話の大男神たちの拳だから今の倍の長さの剣という意味。固有の名称ではなく長剣の一般名詞。

  • 「憑座」よりまし 

 もともとは神霊が宿るシャーマンのような媒介的な存在のこと。

その後、人形でも憑座になるとされた。

神聖なものや怪異なものはその「座」にやってくる。

例 敷童子など。

「座」や「場」にかかわって何かが依ってくる、出現するというものの見方があった。

 日本の古来からの詩歌文化は「」の文芸といわれています。

その「座」に何か人智を越えた歌の精霊が呼びこまれて、人々の精神を豊かにするという「信仰」があるようです。

これらの精神文化が日本の詩歌の根底に流れている。

 俳句もの流れの中にあることを再確認することはとても大切です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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