あすか塾 61
野木メソッドによる「あすか」誌五月号作品の鑑賞と批評
◎ 野木桃花主宰 五月号「福島」から
鶯の半音狂ふ花見山
まだ巧く鳴けないことを「半音狂ふ」と具体的な音程の表現にしたのがいいですね。
健気さを力となして嶺桜
群生している場所から少し高いところに離れて咲いている桜に「健気さ」を感じたことを、「健気さを力となして」と表現されたのが、独創的ですね。
木の芽晴大地の気負ひ吸ひ上げて
「大地」から水分を吸い上げているのは樹ですが、上五に「木の芽晴」置いて、その切れの働きで、春全体の自然の活力の目覚めが表現されていますね。
春塵の纏ひつく墓手で拭ふ
春の墓参の景ですが、こう表現されると、春塵に霞みがちな空気感の中の墓域と、墓石を洗う前に、思わず「塵」を「手で拭って」しまう、心のちょっとした動きの表現で、父母への想いも立ち上りますね。
◎ 「風韻集」四月号から 感銘秀句
鳥埋めし土のふくらみ春の雨 高橋みどり
中七、下五の表現の柔らかな温みから、家で飼っていた鳥の死を、人間と同じように悼む作者のやさしい心が伝わりますね。
農夫来る春のにおいを纏わせて 一燈子
上五の「農夫来る」という、きっぱりとした言い切りの響が春の到来を予感させ、「春のにおいを纏わせて」に繋いだ表現がすばらしいですね。
冬銀河けして眠らぬ港の灯 芙美子
一晩中灯っている港の灯の孤愁を、「けして眠らぬ」と表現して詩情がありますね。
霙くる鳩一列に軒占むる 市 子
「霙降る」ではなく、「霙くる」が寒気の厳しい暮らしを想起させますね。鳩たちが軒の竿などに避難して一列になっている様の描写も秀逸ですね。
大根引く夕日やわらぐ岬かな チヨ子
大根引きと夕暮れの気温とは、本来なら無関係ですが、俳句でこのように詠むと詩情がありますね。下五の「岬」の景で収めたのも見事ですね。
寒椿活けて一間の鎮もれり 初 子
冬の和室の一角、床の間でしょうか、そこに寒椿が活けて置かれている景ですね。その一点の赤味で、華やかさではなく、部屋が「鎮もれり」とした表現がいいですね。
四十雀(から)のきて小雀五ッ零れけり 忠 男
四十雀の大きさは、全長は約一四・五センチメートルで、雀とあまり変わりませんが、「小雀」にとっては、自分たちと色も違い、一回り大きい鳥の出現にびっくりしたのでしょうか。「五ッ零れけり」がユーモラスですね。
透析の空は小さし雁渡る かづひろ
透析治療を受けている処置室の、小さな窓。見えているのか、想像しているのか、下五に「雁渡る」の季語が置かれていて、心に沁みる表現ですね。
春小袖くるりと廻し二十歳の子 糸 子
機敏な仕草で体を回転させている二十歳の娘さんの清々しい姿が浮かびます。
餅の数聞いて厨の水仕事 のりこ
日常の時間、空間の趣を、俳句でなければできない詩情豊かな表現で、見事に詠みこまれましたね。
心地よき距離のあるらし鴨の池 晶 子
鴨たちが互いに絶妙の距離感を保って動いている景に、作者も人間関係もかくありたしという想いを投影しているのでしょうか。巧みな表現ですね。
先生の前に後ろにうららなり 典 子
無邪気な子供達の無意識の行動に、生徒と先生の間にある温かい信頼関係のようなものを感じさせる表現ですね。
空つ風戦ふ駅伝太鼓の音 游 子
駅伝に太鼓の音という取合せは、実景では見た経験はありませんが、この太鼓の音を下五に置いたことで、戦いというより、どこかお祭りのようなムードが立ち上ってきますね。
うすら日を集め蠟梅艶めけり 尚
蠟梅のあのつやつやした温みのある色合いは、きっと「うすら日を集めた」からなのかも知れない、という表現に詩情がありますね。
凍蝶の哀しみだけを掌に包む 安 代
もう凍え死んでしまった蝶なのでしょうか。それをそっと掌に包んでいる景ですが、それを「哀しみだけを掌に包む」と表現して深みがありますね。
蕗の薹限界と言ふ言葉尻 照 夫
自分の何かが「限界」なのか、過疎化の進む村のことをいう「限界集落」のことなのでしょうか。作者はそのことばに何か違和感のようなものを抱いているようですね。それを「言葉尻」と下五で言い留めて味わいがありますね。
春めくや神父衣をひるがへし 健
ユーモラスな描写表現ですね。結婚式に駆けつけるために急いでいるのでしょうね。
能登晴れて雪解雫の瓦屋根 玲 子
災害の厳しい寒さが少しでも和らぐといいのに、という作者の祈る気持ちが伝わります。
しまひ湯を流し晦日の蕎麦の席 悦 子
一年が無事に終わったな、という感慨を共有できる表現ですね。
磴百段小鈴高鳴る春着の子 美千子
春着の衣装か靴についている鈴なのでしょうか。石段を登るたびに響きわたっている、春らしい景がうかびます。
山茶花や今散るのみにある時間 さき子
山茶花の落花のさまは、連続した時間の中にあり、散る瞬間を切り取ると時間は止まります。作者はあえてそう表現することで、命の一瞬一瞬のかけ替えのなさを、巧みに表現していますね。
しばらくは動かぬ冬の雲あやし 信 子
周囲をみるみるうちに暗くして空を覆う雲の分厚い層が見えます。「動かぬ」と言ってから「あやし」と、心情をぶっつけた表現が効果的ですね。
教え子の誤字が気になる年賀状 光 友
先生という役目ゆえでしょうか。他人の文章の誤字脱字が気になるのは常のことですが、教え子の文章となると感慨ひとしおですね。
◎ 「あすか集」四月号から 感銘好句
折紙の鶴が折れない掘炬燵 喜代子
健忘症で折り方を忘れたのが自分だという句意なら、認知症の心配がありますが、下五の「掘炬燵」で家族団欒の景が浮かびます。孫に教えているのでしょうか。
この日差し頂きましようと蒲団干す き よ
口語表現によって、爽やかな晴れの日の、その動作まで浮かぶ表現になりましたね。
冬の月選ばぬ道を思はざる 照 子
下五の「思はざる」は、その前に「何故にか」がつくと「思わずにいられない」と逆の強調の意味になりますね。その雰囲気を背後に漂わせた「思はざる」ですから、ただ「思いはしなかった」という意味とは思いの深さが違ってきますね。人生の岐路で選択しなかった道、それを捨てて、この道を選んできての今がある、という深い感慨ですね。
松明けや幾度も廻す洗濯機 妙 子
洗濯物が溜まってしまって、やれやれという気分ではありますが、こうして「松明けや」という季語で始まる俳句にして詠むと、日々の暮しを慈しんで生きる姿勢が感じられて、味わい深くなりますね。
くつろぎの名残りひととき春炬燵 よね子
「くつろぎの名残り」という余韻のある表現が詩的ですね。下五の「春炬燵」が効いていますね。
箸紙に一句書き込む花便り 英 子
いつも愛用している句帳を持参していなかったのでしょうか。ふと句想が浮かび、忘れたくないと、手元にあった「箸紙」にメモしたのですね。読者もよく経験していて共感する句でしょう。
菜の花や江戸川堤一色に 勲
大きな河の日当りの良い土手に群生する菜の花は、それだけに絵になり、春の到来を感じさせますね。この「江戸川」という固有名詞の使い方は効果的ですね。
予報士の来るぞ来るぞと冬将軍 保 子
桜前線、台風前線、そして寒波などの気象予報。「冬将軍」の到来の予報は、冬支度を急かされて、「来るぞ来るぞ」の口語の繰り返しが、脅されているようで、効果的な表現ですね。
折り雛に白酒二杯ひなまつり 美代子
立派な段飾りの本格ひな人形ではなく、立体的に折った手作りの紙雛人形を飾って、白酒は本物を飾り、それを飲んで祝っている景が浮かびますね。その手作りの感触に温かみがありますね。
買い置きの焼酎きらす余寒かな 一 青
お酒を嗜む方には共感ひとしおの句でしょうね。日々の買物リストからは何故か漏れてしまって、改めて買いに行って補充するのが酒類ですね。
鉄瓶の湯の和らげる寒の明け ヒサ子
鉄瓶の湯の沸く音に、寒気が緩んで春を迎えようとしている季節の変化を感じ取っている表現で、味わいがありますね。
箒売りもう来なくなり春疾風 稔
昔は色々な行商がありました。箒売りなどもその一つですね。売り声にも味わいがありました。大型スーパーやホームセンターの全国的販売網が発達して、そういう文化が失われてゆきますね、
白子干薄箱運ぶ浜広し ハルエ
浜の広さと、白子を干す専用の箱の小さな四角形の対比表現がいいですね。
蠟梅や鎮魂の碑の並び立つ 満喜枝
何かの鎮魂の記念碑。それが一つではなくいくつも並び立っているという景。それに蠟梅の花を添えた表現がいいですね。
吾妻嶺の暮るる間ぞ無し冬日没る 静 子
高い嶺はその麓が日没で暗くなってしまっても、夕陽を受けて朱く染まっているのが見えているという景ですね。それを文語で「暮るる間ぞ無し」と詠んで趣がありますね。
薪割を伝授されし子や山笑ふ 富佐子
薪割にはコツがあります。木材の筋目を読み、刃物が垂直にその筋目に当るようにすると、あまり力を込めて振り下ろさなくてもきれいに割れます。そのコツを習得しようと子供が懸命に習っている景ですね。下五の「山笑ふ」が効いてますね。
寒卵語部がゐておもむろに 幹 一
昔ばなしか、その土地伝承に纏わる話を聞いているのですね。その語りのゆったりとした趣のある調べと、上五の「寒卵」が合っていますね。
青空に冬の三日月白々と 真須美
冬の昼間の青い空に細い三日月を発見したのですね。それも思いがけないほどの白々とした光を放って、まるで鋭い刃物のような様が見えます。ちなみに、別の句で「上五」に「ふと気づく」という表現がありましたが、この句のように三日月のことを詠むだけで、そのことに「ふと気づいた」ということは伝わりますので、「ふと気づく」ということばは、俳句ではあまり使わない方がいいですね。
宣言とは難き言葉や桜咲く 楓
柔らかい色の桜が咲くことを、開花宣言という漢音の硬い響きで難しくいう風潮に、作者の繊細な感性は違和感を抱いているようです。共感しますね。
リハビリは輪投げの遊び木の根明く キ ミ
リハビリが「輪投げ」遊びで、しかも屋外でやっているという爽やかな景ですね。春の到来を感じさせる季語「木の根明く」を下五に置いたのが効果的ですね。
春日傘たたみじわだけ光ってる アヤメ
春になって使い始めるまで、仕舞ってあった日傘の「たたみじわ」の先端が、日差しを受けて光っています。その一点を切り取った俳句的描写が効いていますね。
春塵やあふる程に点眼す 久美子
目玉まるごと洗いたい、という気分がよく伝わる表現ですね。
ヒップホップさらふ少女等風光る さち子
「さらう」は誘拐の「さらう」ではなく、お浚いの「さらう」で、稽古をしている様ですね。「等」で複数にして、下五を「風光る」の季語にしたのが効果的ですね。
思い切り足裏を曝す春の芝 眞 啓
履物を脱いで、靴下か足袋類も脱いで、温かい日差しに足裏まで曝すように、芝生の上に投げ出している爽快さが伝わります。
水鳥の素潜り速し空青し しず子
暖かくなって、生き物たちの動きが機敏になっている様を「水鳥の素潜り」に代表させて詠んだのがいいですね。下五を「水温む」などとしないで、その上に広がる「空青し」としたのが見事ですね。
雨戸繰る空限り無し雁帰る 新 二
雨戸を開け広げて、暗い室内に光が溢れます。その爽快感を「空限り無し」と詠み、さらに視線を遠くさせる「雁帰る」の季語を下五に置いたのがいいですね。
古時計五分遅れの余寒かな トシ子
「五分遅れの余寒」という表現で、古時計のある落ち着いた室内の空気感まで伝わりますね。
鳥の来ぬ雨乞いしたき春の土 杏
しばらく晴天が続き、春の土がカラカラに乾いてしまっていたようですね。その乾きを「鳥の来ぬ」という、ものみな枯果てたような、意外な言葉で表現して、「雨乞したき」という想いに繋げたのが見事ですね。
淡雪や淡き恋などあったかも 和 子
淡雪、淡き恋とくると、俳句ではふつう、近すぎる類語の重なりになって、余りいい表現ではないことになりますが、その後を「などあったかも」と、切れ切れのおぼろな記憶の彼方へ導く表現にすると、この類語重なりが独得のリズムの表現に感じられますね。
春畑の何はともあれ雨の事 信 士
春の田起しの一番の関心事を、人々が口々にそういっているような表現にして、とても味わいがありますね。
春の風邪今も富山の置き薬 初 生
風邪にはどんな季節でも罹患しますが、特に「春の風邪」として、昔からあった富山の置き薬へと繋げて、独特の味わいのある表現になりましたね。
ぷかりぷか柚子の輪切の冬至風呂 涼 代
柚子風呂は実をそのまま丸ごと湯に浮かべることの方が普通だろうと思いますが、「輪切の」と表現されると、特に香りが強く立ち上りますね。
春一番ピコピコ急かす青信号 綾 子
このオノマトペの「ピコピコ」音を、急かされているように感じるのは、だれもが素直に共感するでしょう。上五の「春一番」の風の中にした表現も効果的ですね。
青空を背に無心なる土筆摘 礼 子
土筆摘みの「無心な」ようすを、「青空を背に」と俯瞰的に捉えた表現が独創的で効果的ですね。
「私なら咲いてしまうわ」花三分 緑川みどり
開花を待ちきれないでいる気持ちを、ユーモラスな口語で表現したのがいいですね。
日陰にも日陰のちから梅ふふむ ひとみ
下五の結びを古語の「ふふむ」にしたのが効果的ですね。これは花や葉が芽がつぼみのままである状態のことで、万葉集にもこう詠われています。「卯の花の咲く月立ちぬ ほととぎす来鳴きとよめよ ふふみたりとも」〈四〇六六〉「卯の花が咲く季節が巡ってきた。まだ咲いてないが、まさに咲きそうになっているので、早くホトトギスよ来て鳴いて、開花を促してくれよ」という歌意ですね。「とよめよ」は「響もす」の命令形で、響きわたらせよ、ということですね。ひとみさんのこの句では、開花を促しているのは「日陰にもある光の力」と詠まれていて、視点が独創的ですね。
夜の雪静かに積もる外環道 都 子
冬の静かな積雪のさまを、意外な「外環道」という環状線の道路の景にして、都会の夜景を浮かびあがらせたのが独創的ですね。屋根に雪を積もらせながら走る車の群れまで見えます。
耕運機擦れ違う町春動く 栄
耕作地の多い町にお住まいのようですね。春耕の土の匂いを纏った耕運機の活動で、春の到来を感じる。下五の「春動く」がいいですね。
福寿草足湯に並ぶ膝小僧 けい子
上五に「福寿草」の季語を置いてから、足湯に並ぶ膝小僧へのズームアップの表現がいいですね。のどかな春の空気が伝わります。
花巡りカメラを持たぬ気軽さよ 邦 彦
なんでも手軽に写真に記録できるようになって、記憶の方がおろそかになりがちな現代人。それを手放してみると、意外な気軽さに気がついたという発見ですね。周りがよく見えるようになったことでしょう。
雪しまき学童の列黙として 巌
春の到来の遅い地域でしょうか。みんなが俯いて黙々と歩く姿に厳しさを感じる句ですね。
妣好む呉須の絵皿に恵方巻 久 子
「呉須」は磁器の染め付けに用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色または紫青色に発色します。天然に産した中国の地方名から生まれた日本名で、現在では合成呉須が広く用いられています。有田焼に使われていますね。有田での合成呉須の起源は、中国・イスラム圏から天然呉須を輸入していましたが、非常に高価だったので、明治三(一八七〇)年、深海平左衛門が、「呉須」の製法に詳しいゴットフリード・ワグネル氏を有田に招聘して学び、安価で発色の良い合成呉須が有田で使用されたのが始まりだそうです。
この句は亡き母の愛用の皿の柄だったようですね。恵方巻とも馴染んで詩情がありますね。
うすみどりはいのちの色よ雛あられ たか子
この若葉の萌える色は、命のそのもの色なんだと、という発見の感慨ですね。子どもの景と相性のいい「雛あられ」を下五に置いたのも効果的ですね。
来年を約束かはす雛の指 民 枝
雛人形を仕舞っているときの一コマでしょうか。またのお目見えは来年。そんな愛おしむような思いと所作が、「指」の体言止めにした表現で伝わりますね。